表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
202/267

この夜、母は秘密を縫い始めた

子どもたちとの夕食を終えた後、シリは静かに自室に戻った。


部屋の片隅、椅子に腰を下ろした彼女を、そばに控えていたエマが目を細めて見つめる。


――何を、考えておられるのかしら。


しばらく黙っていたシリは、やがてスッと立ち上がり、衣装部屋へと向かった。


奥にしまわれていた一着のドレスを取り出す。


淡いピンクの布――かつてグユウが選び、手渡してくれたものだった。


そのドレスを着たときの、彼の表情は今も忘れられない。


口下手で、褒め言葉ひとつ言えない人だった。

けれど、あのときのまなざしには、何百もの「美しい」が込められていた。


別れの日にも着ていたこのドレスには、楽しい思い出と共に、深い悲しみも縫い込まれている。


シリはそっとテーブルにそのドレスを広げ、両手で包み込むように布に触れた。


「懐かしいですね・・・」

エマが思わず口にした。


「・・・私の宝物なの。とても、大事なドレス」

シリは優しく微笑む。


それは高価な生地ではなかった。

けれど、無口な夫が精一杯の気持ちで選んでくれた、世界に一つの贈り物だった。


「・・・残念ながら、今の私には似合う色じゃなくなったわ」

ぽつりと、寂しげに漏らす。


グユウを亡くして、もうすぐ十年。

贈られたのは、それよりもずっと前、十五年も前のことだった。


「ピンクが似合う時期なんて・・・ほんのわずかね」


「ユウ様には・・・丈が短いですよね」

エマがそっと言葉を添える。


シリは長身だったが、ユウはそれよりも高くなっていた。


「そうなの。ウイやレイには、長すぎる」


ため息まじりに言うと、エマが明るく微笑んだ。


「でも、レイ様なら、これから背が伸びるかもしれませんね」


「そうね・・・」

シリの声が、少しだけ掠れていた。


静かな時間が流れる。


シリは、静かにドレスに散らされた薔薇の蕾の刺繍を指でなぞった。


ふたりの視線が、テーブルに広げられたドレスに重なる。


そして、シリは顔を上げた。


「エマ。ハサミを貸してもらえる?」


「ハサミ・・・ですか?」


怪訝そうにしながらも、エマは戸棚から裁縫用のハサミを取り出した。


受け取ったシリは、一切のためらいなく、その美しいドレスに刃を入れた。


「シリ様!! な、何をなさるのですか・・・!!」


エマは、目の前の光景に息を呑んだ。


ーーこのドレス、シリがどれほど大切にしていたか。


エマは誰よりも知っていた。


だからこそ、止めようと思わず手を伸ばす。


慌てて手を伸ばすエマに、シリは微笑む。


「いいのよ、エマ。・・・夜は、裁縫の時間にしたいの」


その笑顔はどこか切なく、しかし凛としていた。




◇ 戦場 ゴロクの本陣


夜明け前に、遠く、山の稜線に、黄色い煙のように押し寄せる旗が見える。


その様子を見て、マナトが息を呑んだ。


今、最も勢いのある男――キヨの軍勢が、間違いなくこちらへ向かっていた。


「ゴロク様、キヨ殿の軍隊がこちらに来ております」

その声は震えもせず、静かな声だった。


「砦は?」

ゴロクは静かに聞く。


「北の砦、抜かれました。ジャック殿の隊、崩れかけております!」

マナトは冷静を失わずに答える。


「くっ・・・」


背中を、何か鋭いもので刺されたような錯覚が走った。


ーー防ぎきれるはずだった。


砦を固め、退路を守り、勝てずとも負けぬ戦を選んだはずだった。


だが、敵は一枚も二枚も上だった。

わずかな隙を衝き幾重にも仕掛けてきた。


「ゴロク様、退かねば、ここで――!」


マナトが叫ぶ。


だが、ゴロクはまだ動かなかった。


目の前に広がる戦場を見つめた。


斜面を駆け下りてくる敵兵の足取り。

鬨の声。

地鳴りのような太鼓。

幕の隙間から見える、味方の軍勢の乱れ。



一つ、また一つ、己の築いた陣が崩れていくのがわかる。


「・・・それでも、もう少し粘る」


「ゴロク様!!」

マナトの声は必死だった。


「ここで、ただ退く訳にはいかんのだ」

声には怒気も悲しみもなかった。


ただ、乱世を生きた一人の男としての、静かな矜持だけが宿っていた。


敵兵の鬨の声が、すぐそこまで迫っていた。

本陣の幕が、風と振動でびりびりと震える。


その瞬間だった。

敵兵が幕を破り、殺到してきた――


「構えろ!!」


ゴロクの咆哮が、地響きのように陣中に響き渡った。

槍が、刀が、飛び交う。

血が跳ね、叫び声が交錯する。


それは、もはや戦ではなく、意地と意地のぶつかり合いだった。


だが、ゴロクは動じなかった。

最後の最後まで、陣の真に立ち、踏みとどまっていた。


黒雲のように押し寄せる敵軍の波。


山肌を染める旗の数は、数えるまでもない。


味方の兵は、もう誰も、声を出していなかった。


いや、声を出す気力すら、もはや残っていなかった。


「・・・やられたな」


呟いた言葉は、風にすら拾われなかった。


「ノアさえ・・・裏切らなければ・・・」

腕を負傷したジャックが悔しそうにつぶやく。


その言葉を聞いて、ゴロクは苦く笑った。


ーー誰よりも信じていた。


だからこそ、その裏切りが、何より効いた。


それでも、腹の底には怒りはなかった。


あるのは、ただ一つ。


己の読みの甘さと、時代の変化に取り残されたという、冷たい実感だった。


鉄砲の音が遠くで鳴った。

だが、それも戦の音ではなく、ただ終わりを告げる鐘のように響いた。


背後から、マナトが駆け寄ってきた。


「ゴロク様、このままでは、本隊が・・・!」


「わかっておる」


ゴロクは、ゆっくりと馬を下り、目の前の土を掬った。


冷たい。湿っている。春の雨の名残か。


だが、今の己の掌とよく似ていた。


重く、湿り、どうしようもなく冷えている。


「リオウを見失いました・・・。消息不明です」

報告したフレッドの顔は、悔しさで歪んでいた。


「戦場の混乱の中、敵兵に囲まれ、背後から斬られたと」

誰かが補足するように言った。


探した。呼んだ。けれど――応えはなかった。


その名を、もう一度呼んでも、返ってくることはなかった。


ーー生まれて初めての敗戦。


フレッドは、悔しさに拳を強く握りしめた。



「・・・皆に伝えよ。退くぞ。ノルド城へ戻る」


家臣の顔に、動揺と安堵が交錯する。


「・・・ここまでだ」


天は、まだ崩れてはいなかった。

だが、ゴロクの中で、静かに、一つの灯が消えたのだった。





次回ーー本日の20時20分


宝物のドレスにハサミを入れ、小袋を縫い始めたシリ。

それは“思い出”か――それとも“遺品”なのか。

一方、中庭ではユウの嫉妬がついに滲み出し、シュリと火花を散らす。

揺れる想いと覚悟の先に、待ち受けるのは――敗戦の影。


「ずるいのね、あなたは」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ