夫を失って7年、私はまだ誰も愛せない
ミンスタ領の勝利から数日――
「シリ姉、相変わらず上手いな」
馬上でタダシが声をかけた。
隣には、金色の長い髪をひとつに結び、颯爽と馬を操るシリの姿がある。
「現役の戦士には敵わないわ」
そう叫ぶシリはどこか嬉しそうで、さらに馬に鞭を入れた。
グユウが亡くなって、七年が経つ。
三十二歳となったシリは、今もシュドリー城で静かに暮らしている。
愛する人との別れは容易に癒えるものではなかった。
じっと悲しみに耐え、ただ、時が流れるのを待ち続けてきた。
今ようやく、ほんの少しだけ前を向けるようになってきたのだ。
乗馬を終えた後、シリはタダシとマサシとともに、いつものバルコニーでお茶を楽しむ。
幼いころからともに育った三人は、深い結びつきがあった。
「タダシ、マサシ。勝利、おめでとう」
シリが柔らかく微笑む。
ミンスタ領は、また一つの勝利を手にした。
「俺たちは、争いの駒に過ぎない」
ゼンシの次男・マサシがぼそりとつぶやく。
「あぁ。父上がいなければ勝てなかった」
長男・タダシは、重たいため息を落とした。
今回の戦もまた、苛烈なものだった。
ゼンシは敗戦領の領主とその家族を、火攻めに処した。
泣き叫ぶ幼い子どもたちの姿が脳裏をよぎり、タダシは目を伏せる。
――立派な領主になって、死んだ母上に会うんだ。
七年前、タダシはシリにそう誓っていた。
理想と現実の間で、彼はいまだ揺れている。
立派な領主とは、果たしてどんな存在なのか。
父ゼンシは、強く、豊かな領地を築き、領民の暮らしを支えている。
誰もが尊敬する偉大な領主だ。
けれど――その陰で、多くの命を奪っているのも事実だった。
争いのない平和な世を築きたい。
亡き母に胸を張って会えるような自分になりたい。
そう願っているのに、現実は残酷な日々ばかり。
タダシはふたたび、深いため息を吐いた。
「兄上は強いよ」
そんな空気を読んだかのように、弟のマサシが口を開く。
「強くなんか、ないさ」
タダシは首を横に振った。
「争いになると、俺は自分を抑えられなくなる。
兄上が『落ち着け』って止めなかったら、俺はもう・・・」
マサシはティーカップをタダシに差し出す。
「タダシは、きっと良い領主になる」
シリがしっかりと頷いて、断言した。
その言葉が、タダシの胸に少しだけ温もりを灯す。
「シリ姉、ユウやウイにも乗馬を教えてるの?」
マサシが、興味深げに話しかけた。
「ええ。女の子でも、乗馬くらいはできなきゃ」
シリは誇らしげに胸を張る。
「姫に乗馬なんて聞いたことないよ」
マサシは笑い、タダシもつられて微笑んだ。
「奇抜ではないわ。西領のジュン殿も褒めてくださったの。素晴らしい取り組みだって」
シリはきっぱりと言った。
「ジュン殿と文通してるのか?」
タダシが驚いたように目を見開く。
「ええ、一年ほど前からね。西領の事情も知っておきたかったから。ジュン殿、筆まめなのよ」
シリがマフィンを口に運ぶと、マサシがにやりと笑ってタダシの肩に手を置いた。
「ジュン殿には第一夫人がいないよな」
「ああ。ジュン殿なら、僕も賛成だな」
マフィンを慌てて飲み込んだシリが、咽せそうになる。
「ジュン殿とは、そういう関係じゃないの」
紅茶を飲みながら、必死に否定する。
「ほんとに?」
「本当よ…今さら恋愛だなんて…」
シリの指が、無意識に左手の薬指に触れる。
七年経った今でも、寂しさが募る夜はある。
「シリ・・・」
黒く澄んだ瞳、甘く掠れた声、あの香り。
思い出すたび、いまだに胸が締めつけられる。
心は元気になった。
けれど、決して忘れたわけではない。
生傷が、ただ薄く瘡蓋を張っただけ。
ふと、シリの表情に影がさした。
その顔を見て、タダシはゼンシの言葉を思い出す。
――領主が負けたらこうなる。妻や子供を泣かせぬようにするのだ。
領主の選択は、多くの命に影響を与える。
もう、シリに悲しみを背負わせたくない。
「シリ姉が、平和に暮らせるように。僕、頑張るよ」
タダシは静かに、けれど強い意志を込めて言った。
家族を守るために。
もう二度と、涙を流させぬように――
だがその願いは、この先容赦なく打ち砕かれることになる。
◇◇
「叔父上が帰ってきたのね!」
ユウの明るい声が部屋に響く。
「そうですよ。ユウ様、さあ、語学のお勉強の時間です」
乳母のヨシノが促す。
「わかってるわ」
ユウは返事をしながら、シュリをちらりと見た。
ヨシノの目を盗み、ユウは部屋を抜け出す。
すぐにシュリが後を追った。
十一歳になったユウは、まるで光をまとったような少女に育っていた。
金色の髪、透き通る青い瞳、整った顔立ち。
彼女自身も、それをよく理解している。
自然と、誇らしげに顎を上げるその姿は、
まさに若き日のシリを思わせた。
軽やかな足取りで階段を上がり、慣れた調子で扉を叩く。
「入れ」
中から聞こえた声は、いつもより柔らかかった。
椅子を回したゼンシが、ユウを見て微笑んだ。
「叔父上、勝利おめでとうございます」
「ユウか。来たのか」
「争いの話を聞かせてください」
ユウの瞳は、夜空に輝く星のように、強く、まっすぐだった。
ゼンシはしばし沈黙した後、低くつぶやいた。
「・・・お前の父に似てきたな」
その言葉の真意を、ユウはまだ知らなかった
次回ーー
ユウが姿を消した先は、やはりゼンシの部屋だった。
父と娘のように並ぶ二人を前に、シリの胸をかすめるのは――抑えきれない恐怖。
◇登場人物◇
シリ
ミンスタ領の元妃。夫グユウを亡くして七年、
ようやく心の傷を抱えながらも前を向こうとしている。
今は三十二歳。娘たちの教育にも力を注いでいる。
タダシ
ゼンシの長男。誠実で心優しい青年。
父の非情な戦を見て苦悩しながらも、
「平和な世を築きたい」と願いを胸に抱く。
マサシ
ゼンシの次男。兄とは対照的に、気さくで快活。
時に場を和ませながらも、争いの現実に苦味を抱いている。
ゼンシ
ミンスタ領の領主。冷徹な戦略家であり、
勝利のためなら手段を選ばぬ男。
姪のユウに特別な視線を向け始める。
ユウ
十一歳。シリの長女。母に瓜二つの美貌と聡明さを持つ。
叔父ゼンシの部屋を訪れ、
その一言が、後の運命を静かに動かし始める。
シュリ
ユウの乳母子。彼女を陰から見守り、
その一挙一動に影のように寄り添う青年。
ヨシノ
ユウの乳母であり、シュリの母。




