晒された首と許されざる兄
残酷な表現があります。苦手な方はご遠慮ください。
これは、戦で家族を失った母と三人の娘。
愛を捨て、政略結婚と愛なき城から始まる、希望をつなぐ戦いの物語。
そこに横たわっていたのは、年老いた女の遺体だった。
皮膚は紫色に腫れ、肩には縄目の痕が深く刻まれていた。
手はありえない形に折れ曲がり、暴力の痕跡を物語っている。
そして――指が、七本、なかった。
◇
「義母上が・・・殺されたわ」
シリの声は、悲しみと憤りを溶かし込んだかのように震えていた。
手には、羊皮紙の手紙がくしゃりと握られている。
「マコ様が・・・」.
隣にいた乳母のエマがそう口にした後、息を呑んで絶句した。
ここは、ミンスタ領・シュドリー城の一室。
かつて夫と暮らしたワスト領は、半月前に陥落した。
そのとき夫は言った。
『俺の命と引き換えに、妻と娘たち、そして家臣を守ってくれ』
シリは夫を亡くし、三人の娘とともに生家へ戻った。
亡き夫とは、政略結婚だった。
兄ゼンシの命令で嫁ぎ、愛を知らぬまま始まった関係。
だが夫・グユウとは次第に心を通わせ、三人の子を授かった。
・・・けれど、一番上の子の父親は、兄――ゼンシだった。
兄のいるミンスタ領と、夫の治めるワスト領は争い、そしてワスト領は滅んだ。
シリとその子らは、生家であるシュドリー城に保護された。
シリの母は何も言わず、ただ静かにシリを抱きしめた。
弟たち、甥たち、家臣や侍女たちは、傷ついた彼女を思いやり、励まし、気を使ってくれた。
「ゼンシ様は・・・約束を守ってくださいました」
エマの唇が震える。
「ええ、確かに守ったわ」
シリはかすれた声で返す。
「でも・・・夫の首を晒したのよ」
窓の外には、秋の兆しを感じさせる光が差し込んでいた。
けれど、今のシリには、その柔らかさすら残酷に思えた。
「グユウさんだけじゃない。義父のマサキ様も、グユウの友人のトナカも・・・。みんな・・・罪人として首を晒されたわ」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥の傷が裂けるようだった。
「それだけじゃないの・・・」
シリは拳を握りしめた。
「義母上を!兄上は!」
シリの声が震えた。荒くなった呼吸が、胸の奥から漏れる。
「逃げる途中で捕まって、柱に縛られて・・・」
言葉が喉で詰まる。
目の奥が熱くなる。
「毎日、一本ずつ・・・指を切り落とされたの。そんな殺し方って・・・ある?」
沈黙。
エマは何も言えず、ただ目を伏せる。
シリの目に浮かぶのは、黒い瞳を持ち、口数の少なかった義母・マコの姿だった。
その静けさと温かさは、確かに夫グユウに似ていた。
「義母上は、何も悪くなかった。ただ・・・グユウさんの母だったってだけで・・・!」
涙がこぼれ落ちる。
シリは、エマの胸に顔を押し当てた。
「どうして・・・どうして、あんなことができるの・・・あの人は・・・私の兄なのに」
◇
部屋の扉――わずかに開いた隙間から、二つの影がじっと様子をうかがっていた。
気づかれることなく、息を潜めて。
金色の髪に青い瞳をもつ少女、ユウ。
シリの長女だ。
そしてその隣には、乳母の子供であるシュリの姿があった。
「おばばさまが・・・死んじゃったの?」
ユウの目が真ん丸くなり、声がふるえた。
「指・・・切られるって・・・そんなの、ひどいよ・・・!」
ユウは顔をくしゃっとゆがめて、乳母子のシュリの袖をぎゅっと握った。
ユウの小さな声が、喉の奥で震える。
想像すらしたくなかった言葉だった。
シュリは答えず、そっとユウの手を取った。
「行きましょう」
その一言で、二人は音を立てないようにその場を離れる。
廊下の突き当たり。陽の当たらない、薄暗いカーテンの裏に身を潜める。
ユウは繰り返し、唇を噛んだ。
その瞳には、涙がにじんでいた。
「指を・・・切られるなんて・・・」
言いかけた言葉が喉で詰まる。
痛みの想像すらできない。
けれど、怖いほど鮮やかに、想像してしまう。
祖母・マコのやさしい声、あの温かい手。
父と同じ黒い瞳で「あなたは美人になるわね」と笑ってくれた顔。
その人が、縛られ、苦しみ、泣いていたかもしれない――。
ユウの体が小刻みに震える。
「シュリ・・・どうして…?」
泣き声混じりに尋ねるユウに、シュリは何も言えなかった。
ーー何が正しくて、何が間違いだったのか。
子供の自分にだって、それは分からない。
「ユウ様、こわいの、だいじょうぶ」
シュリは、小さな声でそう言って、ユウの手をぎゅっと握った。
それでも、ユウは泣きやまない。
ユウの涙を見たシュリは、唇を固く結んだ。
「・・・ユウ様、泣かないで。僕が守ります」
まだ小さな体で、精一杯胸を張る。
その声は幼いのに、不思議と頼もしく響いた。
ユウは涙をこぼしながら、うなずいた。
◇
その頃、謁見の間では――
「逃げた子供を探せ。グユウの長男だ。五歳のシンを――見つけ出して処刑しろ」
ゼンシの低い声が響きわたった。
その声音は冷えきっており、感情の欠片すらなかった。
ざわり、と空気が揺れる。
重臣たちが互いの顔を見合わせる中、ひとりの男が声を上げた。
「お、お待ちを、ゼンシ様!」
重臣の一人、ゴロクが進み出て、深々と頭を下げた。
老齢の彼の肩が震えているのが、遠目にも分かる。
「確かにセン家の血を引くとはいえ、まだ五歳の子でございます。シリ様のお気持ちを・・・お察しになられては・・・」
ゼンシの青い瞳が、氷のように冷たく光った。
「お気持ち?」
ゆっくりと繰り返したその声には、怒気ではなく、静かな侮蔑がにじんでいた。
「ゴロク、領主の命に私情を差し挟むのか?」
ゴロクは思わず口を噤んだ。
口の中の唾が鉄の味に変わる。
「父上・・・」
今度はもうひとりの声が上がった。ゼンシの息子、タダシだった。
「シリ姉は・・・もうこれ以上、失えないはずです。夫も、義母も、義父も・・・。今度は子供まで・・・」
タダシの声も震えていた。
彼とて、セン家の血筋を脅威と捉えることは理解していた。だが――。
「その子は、シリの子ではない」
ゼンシはそう言い切った。
背もたれに身を預け、まるで退屈なことでも話しているように続けた。
「グユウと、その前妻の子だ。モザ家の血は一滴も流れていない。だが、奴はセン家の後継者だ。生かせば、火種になる」
その瞳に浮かぶのは、領主としての冷徹な計算だけだった。
「キヨ」
ゼンシは奥の席に座る男を呼んだ。
「はっ」
頭を下げたのは、鼠のように細く痩せた男――重臣キヨ。
その目は光を失い、まるで命令を疑う余地すらなかった。
「シンを探せ。草の根を分けてもだ。そして見つけ次第、処刑しろ」
「承知しました」
キヨは一度も顔を上げないまま、静かに退室していった。
ゼンシが一度手を振ると、家臣たちは次々に命令を受け、動き出した。
どこかで誰かが息を呑む音がした。
あまりに静かで、寒々しい命令だった。
会議の場に残ったのは、ただ凍りつくような空気だけだった。
半月ほど、手を尽くしても、シンの居場所はどこにもわからなかった。
「息子の居場所をシリに聞く」
ゼンシは独り言をつぶやき、シリの部屋に足を運んだ。
よろしくお願いします。
次回ーー
亡き夫の母を失い、哀しみに暮れるシリのもとに現れたのは、かつて彼女の人生を翻弄した兄・ゼンシだった。かつての記憶と、今なお続く支配の影。シンの命を狙う兄の冷酷な思惑を前に、シリとユウ、シュリはどう動くのか——。
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前作のご案内
この物語は、完結済『秘密を抱えた政略結婚』の続編です。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
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