夢路の花と
天正十一(一五八三)年四月二十三日――
高欄からの景色を彼方まで見渡し、柴田勝家は薄く笑った。
「よくぞこれだけ押し寄せたものよの……」
呆れ笑いとも取れる口元の表情とは裏腹の、大鷲の如き鋭い双眸が捉えているのは、城外四方を囲む無数の敵兵である。九層という高さを誇るこの北ノ庄城天守の眺望は広く、かなり遠くの様子までつぶさに見て取る事が出来るのだが、今はいずれの方角に視線を投げても、人馬と軍旗で埋め尽くされている。その数はさていかほどであろうか――恐らく五万にも迫るであろう。
これだけの兵力で一気に押し込まれたならば、多くの味方を失い既に敗色の確実となった今、いかに堅牢な北ノ庄とて落とされるまでいくらもあるまい。されど、これ以上逃れる場所は勝家に無く、またこの厳重な包囲の前では逃れる術もありはしない。そして、囲む軍勢からは明らかな殺意の漲っている事が感じ取れる。
「ふん……そのつもりか」
この光景から何を読み取ったのか、齢六十二となる剛将は、低い呟きと共に再び鼻の先で笑った。
「見え透いた降伏勧告など寄越して来おったが、その実、どうでも儂の首を取らねば気が済まぬようじゃな――あの猿は」
四方を見渡し終えた彼の目は、今はある一点のみを注視している。
険しい視線が射抜く先、大手方向最奥に見える山の中腹に高々と掲げられたそれは、傾き始めた陽の下でも鮮やかに輝く金瓢箪の馬印であった。
* * *
勝家が近江賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れ、自身の居城である越前北ノ庄城へと引き返してきたのは、今日よりほんの二日前。四月二十一日の事である。
双方合わせて八万とも云われる軍勢による戦いは、隣接する余呉湖の水をも朱に染める程に激しいもので、死闘の様は今も勝家の脳裏に鮮明であったが、合戦の因子そのものは、実は一年近くも昔にもう芽生えていたであった。
彼らが共に主と仰いだ人物、織田信長の本能寺での横死――前年の六月二日に起こったこの事件こそが、全ての始まりだったと云って良かろう。これが無ければ、勝家の運命もまた違っていた筈だ。
生前の信長は、苛烈な気性と一切の情を排した所業から天魔と恐れられ、その進む先には敵や騒乱が絶える事は無く、安らかな末期を迎える事は決してあるまいと、側近だった勝家ですら思う程の人物であったが、その死後にさえ、信長は禍根を残していったのである。
あまりにも、突然の死だった。
誰が予想できたであろう。
勝家や秀吉と共に重臣筆頭であった筈の、明智光秀の謀叛による死。それも、後継と定めた嫡男信忠もろともの――突然すぎたこの事件は、弔い合戦や空席となった家督の相続といった問題を併発させ、残された者達を右往左往させる結果となった。
弔い合戦に関しては、それから間もなく果たされている。勝家を始めとする家臣団の多くが各地の抵抗勢力との戦いで身動きの取れぬ中、いち早く畿内へ戻り光秀を討ったのは秀吉であった。己の手で仇を取れなかった口惜しさはあるものの、騒ぎが周辺国に波及する前に迅速な解決を見たという事で、これについてはまだ良かったと云えよう。
より大きな問題となったのが、家督相続の事だ。
織田家の場合、一口に家督と云っても他家のそれとは重みが違う。何しろこの頃の信長は、自国の尾張のみならず京を含む畿内一帯を掌握し、つまり天下に最も近い位置に座していたのだ。故に織田家を継承する事は、天下を継承する事と同義――問題にならぬわけが無い。
幸い信長は十一人もの男児に恵まれていたため、たとえ嫡男を失おうと、次代を担う人物に事欠く恐れは無かったのだが……ではその中の誰を新たな主と仰ぐべきか、候補が多いが故に家中の意見が割れてしまったのである。
この時、勝家が推したのは三男の信孝であった。六月二十七日に清洲で行われた会議の席でも彼はそれを主張し、長年に渡り織田家の重臣であり続けた彼の発言には相応の重みもあった筈なのだが、後継と決まったのは信忠の嫡男三法師だった。
三法師を推したのが、秀吉である。
三男と嫡孫とではどちらの方が血統的な正当性が強いか――それを考えれば、秀吉の主張にも一理ある事は否定しない。平時であれば、或いは三法師が成年に達していれば、勝家もこの案に頷いていた事だろう。
しかしこの時の三法師は、わずか三歳の幼な児だったのだ。天下が宙に浮いたも同然の状態となり、「ならば」と色めく大名も現れるやも知れぬ時期を乗り切るための人物としては、やはり心許なさを否めない。最終的に三法師が後継となるにしても、今は既に成人した人物の中から選ぶべき――そう思って勝家は信孝を推したのであるが、主の仇を取った功を盾に押されては抗じきる事もできず、結局は秀吉の主張の通りに話が決まってしまった。
そしてこの席で、三法師の後見に秀吉が収まる事も決定となる。
勝家と秀吉、織田家に仕える者同士である彼らの対立が避けられないものとなったのは、正にこの瞬間であった。
本来格下である筈の秀吉の意見が通り、家中における勝家の影響力が低下した事に対する焦り――勿論、それも理由として否定しない。だが、それ以上に大きな亀裂となるものが存在していた。
幼君を立て、自身はその後見役となるという秀吉の行動の中に、勝家はある意図を感じ取ったのである。
(この男……もはや織田家の枠に収まるつもりはあるまいな)
――つまり、僭上の意志ありという事だ。
百姓上がりの小身から信長の信任を得て重臣の座まで上り詰めたこの男が、華々しい出世物語の最後に狙っているものは、「織田家家臣団の筆頭」という地位ではあるまい。更にもうひとつ上、即ち自身が信長に成り代わる事が、今の彼の目論見であろう。そうでなくば、いかに正当性があろうとも、この流動的な時期に幼い三法師を立てる必要性など存在しない。彼は操りやすい人物を選んだのだ。
目の前に座す痩せた小男の顔を見据えながら、この時の勝家はそう確信していた。
「これだけの大家を担うお方の後見となると、無論儂ひとりの身で負えるものではござらん。各地の勢力との戦いも残っておる折でござるしな。故に――三法師様の身柄は信孝様にお預けし、岐阜城にてお守り頂くという事で如何であろうか」
会議の終わりに秀吉はそう提案する。自分は名目的な後ろ盾に過ぎず、実際の後見は信孝に任せるのだと云っているわけだが、一度不審なものを感じてしまった以上、もはや勝家にはその言葉を額面通りに受け取る事はできなかった。いかに善意の解釈を試みようとしてみても、裏があると思えてならない。
だが、表面に出された言葉だけ取れば臣下として筋の通ったものであったため、勝家もあからさまには否と云えず、これについてもほぼ秀吉の主張の通りに決まったのであった。
しかし――この時の勝家の直感が単なる杞憂でなかった事は、それから程無く明らかとなる。
翌月行われた信長の葬儀は、後継と決まった三法師でも息子達の誰でもなく、秀吉の名で主催された。さてこれはどういうつもりの事であろうか。
更に彼は、京都奉行職に自らの一門筋の者を据えたのである。長く続いた戦乱で天皇の影響力は薄れ、もはや宮中に国政を担えるような力は残っていなかったが、それでもやはり、京の都は国の中枢であり権威の象徴だ。その地に己の近しい者を据える事が、一体何を意味しているか――もはや疑うまでも無い事だった。
これら一連の秀吉の行動に対し、次は羽柴の時代と予測しなびいた者の多い一方、勝家と同様の懸念を抱いた者もやはり少なくはなく、そうした者達の声はやがて、信長時代の筆頭家臣であった勝家の許へと集まるようになってゆく。そして勝家自身も、これ以上秀吉の台頭を許せば織田家の崩壊は遠くないと確信していたため、彼らと手を結ぶ事に迷いは無かった。
こうして「勝家対秀吉」という構図が、日増しに顕著なものとなってゆく。
秀吉の側でも勝家排除はやはり念頭にあった事らしく、互いに敵意を隠さぬまま年を越えた結果引き起こされたのが、賤ヶ岳での戦いであった。
* * *
そして今、敗れた勝家は崖っ淵へと追い詰められている。眼前に迫るこの状況からの逆転など、いかな手段を用いようと望むべくも無い。
つまり、このまま天下が秀吉の手の中へと転がり込む事を許さねばならぬのは悔しかったが、戦う以上は敗れれば死と、それは最初から覚悟していた事のため、この後の行動に対する迷いは無かった。
(儂は上様の臣、織田家の臣じゃ。主家を乗っ取らんとする者に膝を折り従うなど、どうしてできよう)
胸に抱く決意は固い。
ただひとつ、彼を迷わせるものがあるとすれば……
「――お市」
肩越しに振り返りながら、勝家はそこに立つ者の名を呼ぶ。
「何でございましょう」
返された声音は抑揚を持たずわずかに強張りながらも、楚々とした風情を保ち耳に心地良い。
「支度はできておるのか」
「はい、もう殆ど――皆様広間にお集まり頂いているところにございます」
彼の妻のお市は、城を囲む敵兵の姿などにはまるで興味が無いかの如く、ただじっと勝家を見詰めていた。
「……そうか」
振り返った瞬間まともに目が合う格好となり、何故か勝家は一瞬言葉を詰まらせる。
夢のような、女であった。
すらりとした姿形に新雪を思わせる白い肌、艶やかな黒髪の垂れかかる貌は正にあでやかの一言に尽き、三十七とはとても見えぬ、盛りの花の如き美しさである。
――これが自分の妻であるという事実に、正直勝家は今でも戸惑っていた。何かに化かされ夢でも見ているのではなかろうかと、そう疑った事も数知れない。そして実際、普通であれば彼のものとなる事などありえない女なのだ。
そもそも、お市は亡き主信長の妹である。兄弟に対してさえ厳しい仕打ちを取る事もあった信長だが、同母妹である彼女の事は可愛がっていたらしく、滅多な相手には嫁にやれぬとばかりに、なかなか嫁ぎ先を定めようとはしなかった。秘蔵の妹という事だ。
ようやく縁組が決まったのは、彼女が二十歳となった時。相手は近江の浅井長政である。織田と浅井の同盟の証――つまり政略結婚であったわけだが、二男三女に恵まれ、非常に仲睦まじい夫婦であったと云う。
だが、そんな近江での幸福な生活は、わずか六年で破綻した。
長政が突如として同盟を破棄し、信長の敵に回ったのである。報復の攻撃を受けて浅井は滅亡、お市は三人の娘と共に織田家へ戻る事となった。そしてこの時、男児については殺害或いは出家させられ、彼女は夫ばかりか息子達まで失ったのである。人生の暗転と、そう云って良かろう。
以後、信長の庇護の下に九年間を過ごした彼女が勝家に嫁ぐ事となった理由は、信長亡き後の新たな後ろ盾を求めてである。昨年の清洲での会議の後、信孝を始めとする周囲の仲介により、そういう事で話が決まった。
長政との間にできた娘達と共にお市が越前にやって来たのは、わずか半年前、十月の事だ。
信長没後の織田家の勢力争いが「勝家か、秀吉か」という構図になっている今、勝家を頼る事はある意味自然な流れである。そして彼自身、長く寡の身を続けていたため、妻を娶る事に何ら問題は無い。ましてそれが旧主の妹となれば、臣下として晴れがましい事だ。
それでも勝家は戸惑わずにはいられなかった。
天下第一の生まれの美女と、老いた無骨の将――何と似合わぬ取り合わせであろうと我ながら思う。しかも、親子ほどに歳が離れてもいるのだ。
こうして夫婦として暮らすようにはなったが、実のところどう接していいのかわからない。
戸惑う理由は他にもあった。
一見すれば確かに不自然ではない流れの婚姻だが、ひとつひとつをつぶさに見れば、随所に不審な点が存在するのである。それらに気付いてしまった以上、手放しで状況を受け入れられるものではない。
(これが信孝様のみから持ち込まれた話であれば、儂も疑いはせなんだであろうが……)
主な仲介者がもうひとり居たのだ。むしろそちらからの仲介の方が、時期としては早い。
それは、秀吉であった。
これが解せない。
会議のあった時点で既に、秀吉が織田家を手中に収める意志を持っていたのは明らかな事――いずれは追い落とさねばならぬ存在と、勝家に対してはそういうつもりで居た事だろう。そんな相手にお市を嫁がせれば、己が手にした「三法師の後見」という肩書き程ではないにしても、それなりの箔を勝家に与える事になる。対抗馬潰しがやりにくくなるのではなかろうか。
(それに……お市を欲しておったのは、むしろお主の方ではなかったのか)
金瓢箪の下に居る男に向けて、胸中で問う。
この美しすぎる貴人に対し、秀吉が憧憬を超えた感情をかねてから抱いている事を、勝家は知っていた。浅井との合戦においても、何とかしてお市を助け出さんと自ら奔走していた程だ。そうした事実が加われば、なおさら秀吉の仲介は不審なものとなる。仮に勝家の懐柔を目論み甘い餌を与えようと思ったのだとしても、その対象に己の想い人を選ぶ事はまずあるまい。
そして何より解せぬものは――
(いかに後ろ盾を失うたからと云って、何ゆえ、このような話に頷いたのであろうかの……)
――この縁談を承諾したお市の心だ。
確かに、信長を失った事は大きいかもしれない。
しかしそれならば、信孝なり三法師なり、また新たに身内を頼れば良いだけの事だ。信長の死は「保護者」を求める理由にはなっても、「夫」を求める理由にはならない。お市自身が織田家に留まる事を望めば、信孝にしても秀吉にしても否とは云えぬだろう。
それに勝家の見た限り、秀吉の恋慕とは反対に、お市は彼の事を嫌っているようである。秘蔵の妹姫として育った彼女には、成り上がり者の秀吉は鼻につくだけであるらしい。更には、浅井が敗れお市の嘆願虚しく嫡男の万福丸が殺害された時、実際に手を下したのは秀吉だったのだ。たとえ信長の命によるものだとしても、幼い子供相手に田楽刺しの挙句磔という行為は惨すぎる。嫌うを通り越し、恨んだとしてもおかしくない。
そんな相手の持ち込んだ縁談を、何ゆえ彼女は承諾したのであろうか――
(わからぬ……)
これまで何度と無く浮かんだ疑念に改めて思い悩む勝家の目の前で、お市はわずかに首を傾げながら、静かに夫の顔を見上げている。微かに開いた朱の唇は、どうしたのかと物問いたげであった。
――もしもここで問われたならば、恐らく勝家は答えに窮したであろう。
共に暮らし始めた後も残るこうした疑念と戸惑いを、彼が直接お市に向けて語った事は無かった。云いたいと思った事は、それこそ何度でもある。応じねばならぬわけでもない話に頷いたのは何故か、その心を問うてみたい衝動なら、朝な夕な、顔を見るごとに湧き上がった程だ。
しかし、それは何故か問うてはならない事のような気がした。そして、問いたいと思う気持ちと同時に、明確な答えを知る事が恐ろしいような気持ちも、一方には存在していたのである。
答えを知れば、彼女が勝家という男をどのように思っているか、それも自ずと明らかとなろう。日々接している範囲の中では、お市は常に勝家を立て、妻としてよく尽くしてくれているが……態度と心が同一とは限らないのが人というものだ。たとえ夫婦となろうとも、幾度の夜を共に過ごそうとも、それで心全てを読み取る事は不可能であろう。
その勇猛さから「鬼柴田」と呼ばれる程の武辺者で、更には六十をとうに超えた高齢の自分が彼女と釣り合っているとは、くり返すようにとても思えない。或いは彼女も同じように思い、この新たな夫に対して不満を抱いているのではないか――最も恐れたのは、それが判明する事である。
つまり、ここに至る経緯や彼女の心に解せぬものを感じながらも、彼は確かにお市を愛しているという事だ。後見の役を果たすためだけの夫婦関係であれば、どう思われていようとさほど気にはすまい。
(負け戦の最後に考えるのが女の事とは……らしくないな)
我ながら、笑える話だ。
そんな事を思う間も、お市は勝家を見上げ続けている。この長い沈黙を不審に思っているであろう事は気遣わしげな眼差しが語っていたが、やはり尋ねる言葉は無い。
これ以上無言のままでは、流石に間が持たぬか。
そう思い、勝家が何事か口を開きかけた時――
「母上……」
きゅっとわずかに足元を軋ませながら、下階から上り来た者があった。恐る恐るといったか細い声の呼びかけにお市が軽くそちらを振り返る。
「茶々ですか」
「初と江も一緒でございます」
現れたのは、お市の娘達だった。
茶々と初と江――十五の茶々をかしらに年頃となった三人の娘は、いずれも驚く程にお市と似た面差しをしている。故にこうして母娘四人が同じ場に集うと、そこだけ絢爛と花の咲き誇ったかの如きだ。無論、そんな姿は彼女らがこの越前に来て以来何度となく目にしているのだが、そのあでやかさに今でも勝家はたじろいでしまう。硬い石の瓦を頂いた北国の城にこんな名花が咲き揃うなどとは、一年前には思いもよらなかった事だ。
しかし、今の北ノ庄城は落城の間際にある。城中を満たす重い空気そのままに、少女達の白い貌は、不安と緊張をにじませ硬く張り詰めていた。
「――柴田様」
黒目がちの茶々の瞳が、勝家へと向けられる。
「皆様お揃いになられました。お支度の方も、全て整ってございます」
「そうか――報せに来てくれたのだな」
長政の記憶の残る茶々は、勝家の事を父とは呼ばない。そこはひとつ年下の初も同じで、彼女達が自分に向けて語る言葉にはいつも微妙な距離が感じられたが、勝家の方でも父親面をするつもりなどは無かった。難しい年頃だ。いきなり気持ちの切り替えなどできぬのは当然の事であるのだし、徐々に馴染むのを待つべきであろう。
その点、生まれて間もなく長政と死別した江は、新たな父を受け入れる事に抵抗は無いようであった。
「父上、参りましょう」
片手で包めそうな程に小さく華奢な両の手が、勝家の腕を取りそっと引く。
「父上が御出で下さらなくては、皆様待ちくたびれてしまいます」
甘えた催促とあどけない笑みを差し向けられ、複雑な戸惑いに支配されたままの勝家の顔にも、わずかな笑みが浮かび上がる。
「うむ、参ると致すか」
一瞬お市と視線を見交わし頷き合うと、彼は江の肩に手を置きながら、広間に向かうべく階段へと足を向けた。
「……」
立ち去り際、一度だけ外の景色を振り返る。
いつの間にか陽は山脈の裏側に消え、紫紺の片隅に名残りの朱を薄く留めるだけとなった色の空が、黒々と彼方にそびえる山の稜線をくっきりと描き出していた。
じわじわと視界を包み始める闇に紛れ、金瓢箪の輝きはもう見えない。
――最後の夜の始まりであった。
* * *
広間には、茶道具や太刀など天下の名物の数々が、整然と飾り立てられている。
いずれも目を見張る程の逸品ばかりだが、これらは全て、勝家が戦功を挙げる度に信長から拝領した物だ。
信長の臣となっておよそ二十五年――その年月の長さと積み上げた実績の大きさを示すかのように、並べられた品々の数は膨大である。あまりの多さに広間だけでは全てを飾りきれず、一部は書院を彩っていた。何を何処に並べるか、まるで賓客の座る席を選ぶかの如く、配置についての一切を指示したのは勝家自身である。
そして今、勝家の一族や側近など三十名ばかりの者達が広間に打ち揃い、これらの名物に感嘆の眼差しを向けていた。彼らの前には、名酒の樽や酒肴を並べた膳。更に次々と女達が料理を運んできて、これから宴といった気配である。
お市や娘達を伴い拝領品を背に主座についた勝家は、一同の顔を満足げに見回した後、その内のひとりへと問いを投げた。
「文荷斎よ、櫓の者達にも酒は行き届いておるか」
「は――上も下も、皆存分に楽しむようにと申し伝えてございます」
中村文荷斎は平伏しつつも堂々と答える。つまり準備万端という事らしい。
「ならば良い」
勝家も頷き、威風を備えた動作で鷹揚に盃を取る。
「皆、今日まで良う従うてくれたな」
自身へと集中する満座の視線に対し、心からの感謝と共に語りかけた。
「あの猿冠者のためにこのように成り果てた事は無念なれど、今更何を云うたところで所詮の事――もはや何も申すまい。せめて最期の酒は楽しく飲もうぞ」
高々と掲げられた盃に応じるかのように、参集した一同の手も盃へと伸びる。勝家のみならず、彼らにとってもこれが生涯最後の酒であった。
落城はもはや必至となり、諸卒とその妻子の大半は、既に頼れるところに従って落ち延びた後である。この期に及んでこうして城に残るという事は、勝家に殉じ共に果てんとする覚悟の表れだ。中には、まだ若く将来の望みようもある筈の者も居れば、かつて恩を受けたというだけで、本来殉死の義理など無い市井の者まで居る。生きよと勝家直々の説得があってもなお残る事を選んだのだから、恐らく彼らは並ならぬ決意であろう。
だが、誰の顔にも、死と直面する悲壮感は存在しなかった。共に踏み出す死出の道がむしろ誇らしいものであるかの如く、晴れやかな顔で前を向いている。
「無礼講じゃ、盛り上がってくれ」
こうして宴が始まった。
積まれた樽は次々と干され、満座には談笑の声が絶える事は無い。階下や離れた櫓からも賑やかな歌と笛の音が聞こえ、皆この夜を楽しんでいるようだ。
(それで良い……じたばたしても、見苦しきだけであるからの)
節くれ立った手が掴む盃へと、お市の細い指が何杯目かの酒を注す。笑顔で受け、こちらからも注し返してやりながら、玲瓏なるその白い貌に向け、勝家はひとつの決意を宿した言葉を低く告げた。
「もう良かろう――城を出よ」
「え……」
瞬間、お市の動きが止まる。夫を見返す瞳は大きく見開かれ、突然のこの指示に対する驚きと戸惑いが表情を凍りつかせていた。
「何を仰せに……」
ゆるゆると、そしてようやくといった調子で絞り出された反論を遮るかの如く、勝家は早口で先を続ける。
「そなた達まで道連れとしては、亡き上様に対しても浅井殿に対しても、儂は会わす顔が無うなってしまうのでな……。よもや秀吉も、そなたにまで禍を及ぼしはすまい。良いように計ろうてくれるであろう。故に――今宵のうちに、娘達をつれて城を出よ」
考え抜いた末の、こうするべきと確信しての別れの言葉であったが、それを告げる勝家の胸にはこの時、耐えがたい程の痛みが渦を巻いていた。
手放したくはないと、強くそう思う。
だが、やはりこうするべきなのだ。
それが、後ろ盾として頼られながら守りきる事の出来なかった者の責務なのだ。
彼女がこの城で過ごした時間は、わずか一年にも満たない。そんな、夢の間の如き短い日々を夫婦として暮らしたというだけで、娘もろとも同じ運命をたどらせる事は酷であろう。
このままここで別れてしまえば、勿論彼女の心は永遠にわからぬまま、勝家の戸惑いもそのまま残る事となってしまうが、今更未練というものだ。
未練心で始末を誤ってはなるまい。
「さあ、支度致せ」
促す声音は、まるで決心が鈍るのを恐れるかの如く、硬く抑揚の無いものとなっていた。今の自分がどのような表情をしているか、それは見たくない。
「わたくしは――」
お市が再び口を開くまで、暫しの間があった。
「――ここに残ります」
先程の動揺は跡形も無く姿を消し、微塵も揺らがぬ目で真直ぐ勝家を見返しながら、彼女は静かに、しかしきっぱりとした口調でそう答える。
「されどそれでは……」
今度は勝家の反論が遮られる番であった。
「浅井の城を落ち延び、そして今またここで生き長らえたとあっては、『二度も夫を見捨てた女』と人は笑うでありましょう。こうして殿とまみえた事も前世からの宿業と思えば、たとえどのような結果とて、わたくしは受ける覚悟はできてございます」
身体ごと向き直り、膝を詰め云い募られる。
「一度覚悟を決めたからには、何ゆえここを離れられましょうか……」
やがてその口元が小さく震え、向けられる瞳がじわじわと潤み始めるのを、勝家は意外な心地で見詰めていた。
「お市……」
まさかこのように返されようとは――何と答えれば良いかわからない。
不本意な結末であろう筈なのに、何故、迷わず死を選び取ろうとするのか。
――わからない。
「……」
この瞬間、勝家の思考は完全に停止していた。
刹那、つとお市の視線が横へと逸れる。
「わたくしの事は構いませぬが――あまり我侭ばかりを申しては、殿を困らせる事となりましょうな」
見せた涙を恥じ入るかのように、そして心を鎮めようとするかの如く、胸元を押さえ深く一息吐き出すと、彼女は更に視線を移動させた。今度は勝家とは反対側、並んで座した三人の娘達の方へと……。
「浅井の血を絶やす事は、わたくしも望んではおりませぬ。故に、お許し頂けるならばせめてこの子達だけでも――」
「母上っ」
高い驚きの声を上げたのは茶々だった。茶々だけでなく初も江も、母の言葉に愕然と衝撃を受けている。
「わたくし達も、母上と同じ道へ参りとうございます」
身を乗り出し、声を震わせながら初が懇願するが、既に別離の覚悟を固めたお市は耳を貸そうとしなかった。「聞き分けなさい」と一言返しただけで、後は前を向いて目を合わせようとすらしない。
「柴田様……」
母を説得する事は困難と悟ったのか、茶々の眼差しが勝家を頼る。
「父上……」
大きな瞳に涙を溢れさせた江も、勝家を見ていた。
彼女達が自分に何を期待しているのか、それは勝家も承知の事だ。自身の未練を自覚した身では複雑なれど、己の責務や娘達の気持ちを思えば、やはりお市も共に城を出るのが最善であろう。
「お市よ……」
共に行くが良い。
そう語りかけようとして――
(なんと……)
次の瞬間、勝家は言葉を失ってしまった。
かつて一度として見た事が無い程に鋭い目が、彼を射抜いていたのである。一切の発言を許さぬと云わんばかりの、鋭くそして厳しい意志を宿した目――お市がこんな表情を見せる事があろうとは、この瞬間まで思ってもいなかった。
「……」
ただこちらを見据えるだけで、彼女の口元は固く結ばれたまま、何も云おうとはしていない。だが、たとえ明確な言葉が無かろうとも、逸れる事無く向けられ続ける眼差しの厳しさが、これ以上は云うなと勝家を牽制している。その気迫たるや、たじろがずには居られない程だ。
全てを圧倒せんばかりの断固たる瞳――初めて目にする筈なのに、何故か妙に見覚えのある気がするのは何故だろう。
(ああ……そうか)
直後に、思い当たった。
(これは上様の目だ……)
生前の信長が、今の彼女と全く同じ目をする人物であったのだ。
苛烈な気性そのままの鋭い眼光をした信長には、誰ひとり逆らう事はできなかった。時に激しく、まさに鬼か天魔としか思えぬ過酷な命が下される事も多かったが、異を唱えるなどできなかった。
その理由は、味方に対しても容赦の無い彼の気性を恐れたという面も、勿論多分にある。だがそれ以上に、むしろあの目に魅了されたのだという側面が、少なくとも勝家に限っては大きかった。情はおろか常識や慣習すらも飛び越えたあの目が、この乱世をどのように捉えているのか、そしてくり返される戦いの果てに何を見据えているのか――共にそれを見届けたいと無性に思わせる、そんな目だったのだ。
あの眼光に魅了されたからこそ、彼に成り代わり織田家を切り崩そうとする秀吉の行動を許す事ができず、こうして己を賭して戦う事になったのである。
つまり、あの目が勝家の全てを支配していたのだ。
信長の死によって、もはや二度と見る事は叶わなくなった筈の苛烈の瞳が、今再びここにある。
(やはり兄妹であられるのだな……)
この瞬間のお市を、勝家は「妻」と見る事ができなかった。「主君の妹」という元々の立場を改めて思い出し、反論を封じられてしまう。
(何故そこまでして、儂などと共に逝こうと致すのか……)
この疑問もまた、口には出せぬ事であった。
しかし、このまま沈黙が許される状況ではない。娘達はやはり勝家の口添えを求め、すがるような目をこちらに集中させている。更には、場に集った他の者達も皆盃を干す手を止め、固唾を呑んで成り行きを見守っており、賑やかだった筈の宴席は今や重大な沙汰を待つ評議の場の如く、張り詰めた空気に満たされていた。
(この目を前に、儂に何を云えと申すのじゃ)
静けさがむしろ耳に痛く、正直、いたたまれない。
全ての耳目が一身に集中しているのを感じ取り、じっとりと、額に汗すら浮かんでくる。
その時、つと動いた影があった。
「姫――」
文荷斎だ。
静かに、しかし厳格なまでに素早い動きで立ち上がった彼は、そのまま娘達の前に進み出ると、まずは江の手をそっと取る。
「参りますぞ」
低く硬い声音が何を告げているのかを聞き取った瞬間、江の満面に怯えが走り、その小さな体が傍目にも明らかな程に硬直するが、窮する主の胸中を察し動いた文荷斎は、幼い抵抗にも怯みはしなかった。
「ささ、お早く」
更にもう一方の手で初の手も取り、ふたり共に引き立てる。
「いや……いやじゃ」
母と裂かれる少女達のか細い声は、もはや涙を隠してはいなかった。
「……柴田様」
そんな妹達の姿をちらと見てから、茶々が動く。何事か心を決めるように目を閉じ深く一息吐き出した後、勝家の方を向き直り深く一礼――
「母上の事、宜しくお頼み申します」
これ以上の抵抗は彼を追い詰めるだけと悟ったか、それとも武家の女の宿命と諦めたか。長い睫毛を涙で光らせながらも、彼女は気丈に言葉を振り絞った。ゆっくりと、勝家も頷く。
「うむ――心配には及ばん。功徳の蓮の上に至るまで、しかと導いてみせようぞ」
頷きながら、「済まぬ」と心の中でのみ付け加えた。
「後の事は任せましたよ」
「はい……」
お市からも言葉を与えられ、そして茶々は立ち上がる。もう一度だけ、名残惜しげに母の姿を目に焼き付けると、未だ凍りついたままの妹達の肩にそっと手を置き、「参りますよ」と促した。
こうなっては、もはや初にも江にもできる事は無い。文荷斎に引かれるまま、泣き濡れた顔でよろよろと立ち上がる。
こうして、三人の姫は城を去って行った。
* * *
母娘別離の場面で一時湿った空気とはなったものの、覚悟を決めた者達はその後も陽気に飲み続け、夜半近くなる頃には、用意された樽も全てが空となっていた。
夜の更けゆく事を告げる鐘の音が、殿守の奥まで響いてくる。
宴席に列した諸卒はそれぞれが守る櫓へと引き揚げ始め、勝家もまたお市を伴い寝所に向かう。
途中、文荷斎から報せが入った。
「姫様がたは、無事に秀吉の陣に入られましてございます」
「そうか。憎まれ役を押し付ける事になり済まなんだな――礼を申すぞ」
あそこで彼が動いてくれなければ、さてどういう事になっていたか。意を汲み取ってくれた事に対する感謝の言葉に、文荷斎は「いいえ」と穏やかに笑ってみせた。
「殿やおかた様のご心痛を和らげるのが、我らの役目でございますれば。そのように仰せの必要はございませぬ」
そこまで答えて、直後、何故かその笑みにわずかな変化が生じた。苦笑いのような思い出し笑いのような、何とも云えぬ奇妙な笑いだ。
「どうした。何かあったのか」
「いえ。城をお出になられたのが姫様がただけであった事が、どうやら秀吉めには物足りなんだようでありまして……」
成程、そういう事か。
「さもありなん」
勝家も苦笑となった。
お市に恋慕する秀吉としては、どうせなら彼女こそを手中にしたかった事であろう。こうして城を囲みながら未だ総攻撃を仕掛けてこないのは、彼女が落ちてくるのを待っていたとしか思えない。
茶々達三人から母を取り上げてしまった事に対しては、未だ心苦しさが残っている勝家であったが、秀吉の下心に基づく期待を裏切ってやれた事には、してやったりの心境だった。
見れば、傍らのお市までが小さく笑っている。
「浅井の血を絶やすわけには参りませぬが、されどわたくしまでがあの者の許へ参らねばならぬ理由など、何処にもございますまいに」
小気味良いと、そう云いたげな程の軽やかな笑い声だ。
しかし、こうしてお市が手に入らぬ事が確定した以上、いよいよ秀吉は行動を起こすであろう。攻撃が始まるとすれば夜が明ける頃か――
もう、いくばくも無い。
(その前に始末をつけねばな)
刻限の迫りつつある事を自覚した視線が三対、ひそやかに見交わされた。
「首尾は、良いな」
表情を改め、勝家が文荷斎に問う。
「抜かり無く。後の事は全てそれがしが引き受けます故、殿はどうぞお心のままに」
「ならば――不如帰を待て」
最後の指示を与えると、勝家夫婦の姿は寝所に消えた。
* * *
後ろ手に戸を立てきれば、吹き抜ける夜風の音すら遮られ耳に届く事は無く、夜の静寂が一層深く身を包みこむ。
延べられた夜具の端に座した勝家は、そのまま暫し動かなかった。背を伸ばし、何も云わず、灯火ひとつのほの暗い中でもはっきりと浮かぶ程に白い妻の貌を、ただじっと見据え続ける。
場所は違えど、それは夕刻の場面と似たような構図であった。
あの時のお市は夫の無言を訝りながらも、結局何も問おうとはしなかった。あれには助かったと思ったものであるが、しかし――
「何を、お考えでございますか」
今度ばかりは、はっきりと問われてしまった。刹那、勝家の心がぎくりと冷える。
この時の彼の胸中には、やはりあの時と同じ戸惑いがわだかまっていた。目の前の妻の心が読めぬ事への戸惑い――それは、最期が迫った今この瞬間に至って、むしろ更に強いものとなっている。理由は、共に死ぬ事を選んだお市の決断だ。きっぱりと、迷い無く同じ道を選び取られた事が、却って勝家を悩ませる。
武将の妻であれば、夫や城と命運を共にする事は、確かに不自然な選択ではない。しかし彼らの夫婦生活は、わずか半年のものであったのだ。正に午睡の夢の如き束の間の事である。
前夫の長政とは仲睦まじい暮らしを送ったそうであるが、この半年の日々の中で、勝家がそのように睦まじく彼女と語らった事などない。不可解な縁談の経緯とそれに対する彼女の真意が読めぬ事への当惑で、常にいくばくかの距離を感じながら接していた。踏み込めぬ、或いは踏み込んではならぬ隔たりが、ふたりの間にあるように思えてならなかったのだ。故に、お市には彼の態度がよそよそしいと見えたかも知れぬ。
そんな男と共に死のうとするのは何故なのか。
それも、あれ程に厳しい眼差しを見せてまで。
何故か。
(――わからぬ)
戸惑いを通り越し、もはや混乱と呼んでも良い程だ。
それだけに、ついに差し向けられてしまった問いかけには、全身が強張るのを禁じ得なかった。
追究を逃れるべく今更ながらに目を逸らそうとするが、全身はおろか視線すらも凍り付いてしまったかの如く、全く思うに任せない。何度試みても、視界の中央には白い麗姿がある。
そしてお市も、勝家を見据えたままだ。
(どうしても、云えと申すのか……)
逃れきれぬ状況に、ついに彼は覚悟を決めた。
「やはり、茶々達と共に行くべきではなかったのか」
深い一息の後、ゆっくりと切り出す。
「そなたは女の身なれば、ここで落ちたところで誰も笑いは致すまい。秀吉とて粗略にはせぬ筈じゃ。たかが半年夫としただけの者のために、命を縮め子を悲しませる事も無かろうに」
一度口を開いてしまえば、自分でも意外な程に、言葉は次々と滑らかに続いた。知るのが怖い一方で、やはり知りたい事でもあったのだ。
「――」
お市は何も返さない。これまで通り勝家の顔を見詰めながら、じっと彼の言葉に耳を傾け続けている。
ついに勝家は、戸惑いの核心に触れた。
「そもそも儂との縁組とて、応じる必要など無かったのではあるまいか。そなたはまだ若い。対する儂は、この通りの年寄りじゃ――織田家中に人無しというわけでもなし、後ろ盾を探すなら、他にもあては見付かるであろう。増してこの縁組の仲介は秀吉じゃ。何ゆえあやつがこのような話を持ち込んだかは儂にもわからぬが……その許へ参るのも嫌な相手から持ち込まれた話など、あえて受けずとも良かったであろうに」
最も知りたかった、そして一方で、最も知りたくなかった疑問……それを口にした瞬間は、流石に表情が不自然に引きつったのを自身でも感じ取る。そんな様子を、お市はどう見たであろう。すべやかな頬に、格別の感情の動きは見受けられない。
ややあって、彼女はわずかに首を傾げた。
「子連れ女が転がり込んできた事、殿にはご迷惑でございましたか」
予想していなかった返され方だ。
「迷惑などと……とんでもない」
思いもよらぬ言葉に面食らいながらも、勝家は即座に否定する。
「どのような経緯であれ、主君の妹を妻に迎える事ができるなど、武士としてこれに勝る果報はあるまい。冥利の一言じゃ」
身に余る果報と感じるからこそ、それを手放しに享受できないのだ。こうした男の気持ちは、恐らく彼女にはわからぬであろう。
「冥利と思えば何が何でも守るべきところを、このように二度目の落城を迎えさせる事になってしもうた……。たとえ秀吉の僭上が止めきれぬものであったとしても、黙ってそれを許すは織田家の臣として断じてできぬ事なれば、儂自身はどうなろうと別に構わぬ。上様の臣のまま死ねるのであるから、むしろ誇りとすら思うておる。されど、そなたまで道連れと致すのはやはり……」
男の誇りの犠牲となる事はあるまい。
だがそんな勝家の言葉は、最後まで語らぬうちに途切れる事となった。お市が口を開いたのである。
わずかに身を乗り出し、一段低められた声音で一言――
「――女子とて、誇りがございます」
同時に差し向けられた眼差しは、相手を射竦めんばかりの力を宿していた。
「……」
これに圧倒され怯むように言葉を失った勝家に向け、やはり低い、そして感情を押し殺した声が、女の誇りを静かに語り始める。
「殿方の誇りとは、ご自身や家の名を守るためのものでございましょうが、女の誇りは、夫や我が子を守るためのものにございます。もしここで、夫の名誉と我が子の身を守らず生き延びれば、わたくしの誇りはずたずたとなりましょう――それでなくともわたくしは既に一度、その誇りを貫く事が果たせなんだのでございますから……」
額にかかる髪がさらと揺れ、つと顔が伏せられた。何かを思い出すように俯いたお市の口からは、ややあって苦しげな一息……。
「小谷の城が落ちた時の、長政に対する兄の処遇……覚えておられますか」
「あ……ああ」
頷く勝家の短いいらえは、何故か喉に絡んだものとなる。その脳裏では、九年前のある宴席での光景が思い出されていた。
あれは、天正二年の正月の事だ。
その前年に長政自害によって小谷城が落ち、浅井は滅亡しているのだが、「珍しい肴」と称して信長がこの宴席に持ち出してきたのは、何と長政の首であった。それも、漆塗りに金粉を施すという、箔濃にされた首である。そうして信長は満座の前で、己に逆らった者の末路を嘲笑ったのだ。
主の気性をよく知る筈の勝家でさえ、あの時は一瞬背筋が凍った事をよく覚えている。
膝の上に揃えられていたお市の白い手が、ぐっと固く握られた。
「浅井の女となりながら、あのように夫が辱められる事を、わたくしは止められなんだのでございます……夫を、人の笑いものとしてしまいました」
俯いたまま、細い肩が震えを見せる。いかな兄であろうとも、長政に対するこの仕打ちは許せなかったのであろう。そして、非業の死を遂げたこの夫の事を、彼女がどれ程愛していたかがうかがい知れ、勝家の心にわずかな痛みが走った。
「もしもあの時、わたくしが長政の側を離れず共に自害していたならば、どうなっていた事でしょう。そこに妹の骸までがあったとなれば、兄もあそこまでの行いには出なんだのではないか……甘い考えやも知れませぬが、今でも悔やまれるのでございます」
夜の閨室にひっそりと響いたのは、深く、哀切を含んだ溜息――さてどちらの口から漏れたものであろう。
勝家もお市も、今や痛みを堪える表情を隠してはいなかった。
誇りを砕かれた女の告白は、更に続く。
「夫を守れなんだのであれば、せめて子供達だけでも守り抜いてみせるのが、母としての責務だったのでございましょうが……わたくしはそれすら果たす事ができませなんだ。万福丸の最期、忘れは致しませぬ」
茶々達三人こそ助かったものの、確かに彼女は夫も息子も失っているのだ。女の生涯として、これほどに口惜しき事は無いのであろう。相変わらず低い、しかし明らかに端々の震えた言葉を聞きながら、その胸中いかほどかと思いをめぐらせ、勝家もまた目を伏せた。
節くれ立ち、所々に老斑さえ浮かんだ己の手と、細くみずみずしいままのお市の手が視界に入る。いずれの手も、血の気を失わんばかりに固く結ばれていた。
「――あの時から、わたくしは考えるようになったのでございます」
つと、語る声音にわずかな変化が生じた。
「次こそは、女の誇りを貫いてみせようと。そう思い、夫を失った九年間を生きて参りました――このまま終わってしまっては、長政にも万福丸にも顔向けができませぬ」
ここまでは、過ぎた昔を振り返り悔やむばかりであった声――それがこの瞬間から、何かしら見据えるものを定めたような、意欲にも似たものをにじませるようになる。
「織田へと戻って以降、兄から再嫁の話が幾つか持ち込まれはしましたが、いずれの話も受ける気にはなれませなんだ。次こそはと決めたからには、新たな夫を得る事はわたくしも望むところではございましたが……長政に劣るような男は嫌でございます。優しく堂々と、時に迷う事があろうとも、最後には毅然と決断する男でございました。そして、己を滅ぼす事になるとわかっていても、誇りを貫き通した男――それが、我が夫だったのでございます。このような男でなくば、わたくしも己を賭ける甲斐がございませぬ。故に、どの話にも頷く気にはなれぬうちに本能寺の事があり、兄は世を去りました」
気がつくと、その声音と同様に、お市の目は再び前を見据えていた。深い輝きを放つ瞳が、元の通り勝家へと向けられている。
「兄が居なくなったという事は、次を与えてくれる者が居なくなったという事であると同時に、わたくし自身が自由に相手を探し選んでも良くなった――と、つまりそういう事ではありますまいか」
「それは……」
それはおかしいのではないか。
反射的な否定の言葉が、勝家の喉元まで出かかった。
自らの意思で相手を選べるようになったと、それは確かに間違いではあるまい。だがそれならば尚の事、秀吉の勧めに応じここに来る必要など無いのではないか。
そもそも秀吉がこんな話を持ち込んだ理由も、やはり謎のままである。お市のこの告白によって全てが明らかとなるやもといった期待があったのだが、何もわからぬ事はやはり同じまま、むしろ謎が増えただけのような――今の勝家はそんな心境となっていた。混乱ここに極まれりだ。
唯一はっきりした事があるとすれば、今もお市が長政を忘れておらず、そして、そのように立派な男の後釜に座るには、やはり自分は相応しくない……と、それだけであろう。そんなものは、最初からわかりきっていた事だ。今更改めて念押しのように突きつけてくれなくてもいい。
(やはり訊くべきではなかったか……)
胸の奥が痛む。
何を云う気にも、問う気にもなれない。
向けられる瞳を避けるかのように、部屋の隅にわだかまる闇を見るだけだ。
夜明けまであといくばくも無かろうが、明かりの届かぬそこはやはり暗い。
「……」
暗然とした気持ちが堪えきれぬ溜息となって口を突いたその時、お市がふと不思議な言葉差し向けてきた。
「今更ではございますが……ひとつ種明かしをさせて頂いても宜しいでしょうか」
軽く首を傾げながら、声音の中に小さな笑みを含ませ尋ねてくる。その笑みは何故か照れ隠しのようなばつが悪そうな、そんな印象を与えるもので――
「あなた様との縁談は、実はわたくしの方から羽柴殿に仲介を依頼したのでございます」
――続けられた一言を、勝家は正常に理解する事ができなかった。
「依頼、とな……」
短く返しながらも、頭の中では何を云われたのかまだ呑み込めていない。お市が仲介を依頼した、つまりお市の依頼によって秀吉は仲介に動いた、つまり全ての始めに居たのはお市であり、この縁談はお市の希望によるものであった――不意の事にすっかり停止した思考がそれらを理解するまでに、暫しの間が発生する。
その間、お市は穏やかに微笑みながら勝家を見詰めていた。話を急ごうとはしない。夫が理解に達するのを、黙って待ち続けている。
「あの時は信孝様からも勧めがあったのだが、あれももしや……」
ようやくに、詳細な状況を把握せんと尋ねる声。いらえの代わりにこっくりと眼前の頭が揺れたのを見て、勝家は驚きに目を見開いた。
「そこまで根回しを致せばよもやあなた様が断る事はあるまいと、そう確信しておりました故――二方向より堀を埋めさせて頂きました」
城攻めにたとえられてしまった。己の命運を決める行動という意味では、確かに彼女にとってこれは戦いも同然だったのかも知れない。結果こうして勝家はお市を妻に迎えているのだから、実に見事な戦術である。
誰の云い出した縁談であったのか、それは成程理解ができたが、では何故その対象に選ばれたのが勝家であったのか……。
「他に居なかったからでございます」
さも当然とばかりの、あっさりとした答えであった。
「織田家に人無しというわけではない――殿は先程そのように仰せになられましたが、わたくしの目から見れば、あなた様以外にはおりませなんだ」
次々と明かされる話に対する驚きや戸惑いに振り回され、半ば呆然と思考のままならぬ勝家とは反対に、お市の胸中は平静さを取り戻しているらしい。笑みを湛えた双眸にはある種の落ち着きすら感じられ、口調もきっぱりとはしているが、先程までの悲嘆や口惜しさなどは微塵もうかがえない。冷静かつ平穏なものだ。
しかし、何を云われようと勝家の混乱がおさまる事は無かった。彼女が求めるものを満たす男が自分だけであったと、その言葉をどう受け取れば良いのか頷いて良いのか、それを判断する能力すら、今や完全に失っている。まるで異国の言葉を聞かされているかのように、対処不能といった有様だ。
一言で納得してもらえぬのなら、ひとつひとつ順を追って説明すればいい――どうやらそう考えたらしく、それからお市は、己の選択の理由の詳細を語り始めた。
「清洲でのあの会議以降、織田家はすっかり分断され様変わりしてしまいました。もはや織田家ではなく羽柴家に成り代わってしまったかのような……それが時代の流れとあれば、確かに抗いきれぬのやも知れませぬが、それでも、一度は織田の旗の下に戦った者であれば、主家を乗っ取らんとするあの者の行動に対し、もっと正面から物申し立ち向かっても良いのではありますまいか。長いものには巻かれろとばかりに誰もが羽柴へとなびく中、あなた様だけでございました。織田の臣としての節義を通し、それを貫く事を誇りとされたのは」
語りの中で、一瞬だけ表情が歪んだ箇所がある。秀吉の名を口にする時のお市の顔には、我が子を奪い今度は織田家を奪わんとする者に対する嫌悪の情が、これでもかとばかりの明らかさで浮かんでいた。
「残念ながら、あのように家中の大半が取り込まれたとなれば、あの者の狙いを阻みきる事は困難でございましょう。されど、それはあなた様も始めからわかっておられた筈……それでもあえてお立ちになられたその姿に、わたくしが長政とおなじものを見た事は、さて女の目の愚かさでございましょうか――いえ、わたくしはそうは思いませぬ」
何と正確な分析であろうか。勝家は内心で舌を巻いた。
秀吉と対立した理由も、行動を起こす裏で現実は覆せぬと悟っていた事も、全て彼女には見抜かれていたのだ。
「わたくしの目に狂いはございますまい。これは、自信を持って断言できます」
己の見立てに一片の疑いも抱く事無く、お市は云い切る。
「現にこうして敗色の明らかとなった今も、あなた様は織田家の臣という姿勢を貫き、己の誇りをまっとうされようとしておられます。そのお覚悟……やはりわたくしには、あなた様以外はございませぬ」
自分しか居ない――その言葉を、勝家は不思議な気持ちで聞いていた。彼女が自分を選んでくれた事や、破滅にしかつながらぬ行動の中にある誇りを読み取り認めてくれた事に対する喜びと、そして一種の面映さ、それから奇妙な安堵とが、じわじわと胸を満たしてゆく。
「夫として申し分無し――わたくしはそう思うておりましたのに、殿はわたくしを亡き主の妹と見るばかりで、妻とは見てくれなんだようでございますが……」
彼女が今でも長政を愛していると、それは間違い無かろうが、一方で自分に対しても、また同様の想いを抱いてくれている――残念そうに口を尖らせ俯いた仕草の中にそれを感じ取り、ここでようやく勝家の顔にも笑みが浮かんだ。
「済まぬ」
拗ねた妻を前に、素直に頭を下げる。
「されど仕方あるまい。よもやそなた自身が望んで儂の許に来たなどとは思うておらなんだ故、どう接して良いのかわからなかったのじゃ。くり返すが、こんな年寄りがそなたに釣り合うておるとは、到底思えぬしな……。不相応な幸福を手中に致さば、人は喜びのあまりむしろ不安を抱くもの――つまりそういう事だったのじゃ。許せ」
云いながら、「鬼」と呼ばれどんな戦場も恐れなかった男が何という気の弱さであろうかと、自身でも苦笑を禁じえない。女の心ひとつ読めぬ事にここまでの不安を抱くなど、さぞや滑稽に見えるだろうと思ったが、お市にとってこの告白は、勝家の想像とは違う意味での驚きを含んでいたようであった。「まぁ」と小さく声があがる。
「すると殿はわたくしを妻に迎えた事を、幸福と思うて下さっていたのでございますか」
丸く見開かれた瞳には、驚きと共に、確かな歓喜の情が浮かんでいる。剛将らしからぬ不安に捉われてしまう程、勝家が自分の存在を幸と感じてくれていた――その事実が嬉しかったのであろう。
「無論だ」
勝家は即答する。
「このように老いはしたが、儂とて花を愛でる心はある。夢に思い描いたかの如き天下一の花が傍らに咲き、しかも儂を夫と呼んでくれたのじゃ。それこそ六十余州の全てを練り歩いて、下々にまで自慢して回りたいほど、本心では舞い上がっておったわ」
これまで一度として口にする事の無かった心底の思いを、ついに彼は明らかとした。お市の心が読めなかった頃には、戸惑いや疑念に阻まれ云えなかった心であるが、今ならば正直に告げる事ができる。
「――自慢したところで、老いらくの恋と笑われるだけやも知れぬがな」
しかし秘め続けた恋情を言葉にする事は、やはり少々照れ臭くもあった。顔ばかりか首筋までが火照るように熱く、紅潮しているのが自分でもわかる。
一方のお市は微笑んでいた。やっと聞き出せた夫の本心に満足したかの如く、幾度か小さく頷いた後、安堵と歓喜をにじませた声で静かに告げる。
「そのように仰せ頂けるとは、よもや思うておりませなんだ。ご迷惑ではなかろうかと、不安に思うていたのはわたくしも同じでございます」
成程、彼女の側にも不安があったがために、全ては自分が望んだのだと、これまで明かせずにいたのだろう。
お互いに、要らぬ気苦労で時を潰したものだ。
「勿体無い事をした」
「半年、無駄に致しました」
ようやく心の通い合った視線が、苦笑を含ませながら見交わされる。
「遠回りとはなりましたが、されど、間に合わなんだとは思うておりませぬ。殿のお心を知り得ただけでも、わたくしは満足でございますれば……そのお心と、これまでわたくしを守ろうとして下さった行為に報いるため、今度はわたくしが、あなた様をお守り致しましょう」
幸福に満たされていたお市の表情が、ここで幾度目かの変化を見せた。己の意志を貫かんとする決意が、たおやかな頬を引き締める。
「あなた様の骸には、長政と同じ辱めは受けさせませぬ。殿の傍らにわたくしが共にあれば、いかな羽柴殿とて手出しはできますまい――何しろあの者はわたくしに懸想しているようでございます故、この身から殿を引き離し無体な仕打ちに及べば、さては嫉妬か腹いせかと、笑う者も多い事でございましょう。外聞を考え、何もできぬは間違いありませぬ」
夫の名誉を守らんとする決意がいかに固いものであるか、それが容易にうかがえる、そら恐ろしい程の発言であった。秀吉が自身に寄せる想いを承知した上で、むしろそれを逆手に取ろうというのだ。何と大胆な手段であろう。
「今度こそ、守り抜いてみせまする」
これ程に苛烈な決意を秀吉が打ち破る事は、確かにできるまい。
「娘達の事も、これで心配は要りませぬ。慕いながらついに手に入れる事の叶わなんだ女の忘れ形見となれば、代わりと思うて丁重に扱い、何が何でも守ろうとしてくれる事でしょう。こうして殿を打ち破った以上、もはやあの者の歩みを阻める相手は少なく、いずれは天下すらも手に入れましょうが、必ずや娘達にもその栄華を分け与えてくれる筈――故に心配は要りますまい」
云い終えると、お市はゆっくりと微笑んだ。
妻として、そして母として、今度こそ誇りを貫ける事への喜びに満ちたその笑みは、これまで彼女が見せたどんな姿よりも、はるかに美しいものに勝家には感じられた。
そして同時に、こうも思う。
(女子とは、これ程までに強いものであったのか……)
戦う力を持たず、男の都合により簡単に人生を変えられてしまう儚い存在と、実はさいぜんまでそう思っていた。しかしそんな認識は、今のお市には全く当てはまらない。
「どうやら儂は、とんだ見当違いをしておったようだな」
白髪混じりの髭の立つ頬に、完敗と云いたげな笑みが浮かぶ。
「儂にとって、そなたは夢のような女であった。恐らく夢の中でもなくば、このような女に出逢える事はあるまいと、そうとすら思うておったのだが……」
最後までを語るより早く、すいと差し伸ばされた柔らかな手が、両の頬をそっと包み込んだ。触れられた箇所を通して、じわりと肌の温みが伝わってくる。
「夢ならば、このように触れられは致しませぬ」
笑みは消さぬまま、しかしはっきりとお市は云った。頬を包む感触の優しさと確かさとに酔いしれながら、勝家もその言葉に頷く。
「うむ……確かにそなたは夢ではないな」
夢路に咲く花のような女は、しっかりと現実を生きていたのだ。苛酷な現実を目を逸らす事無くしかと見据え、そして、したたかなまでにきっちりと、現実に立ち向かい続けてもいた――夢などと、そんなあやふやなものではない。
「夢とは、現実を生き抜いた先にあるものでございます」
すると、ここからが夢路の始まりという事か。
(――それも良い)
たとえたどり着く果てが何処であろうとも、ふたりならば恐れは無いというものだ。触れたままの手に己の手を重ねながら、勝家は満足げに頷く。
その時、ふたりの耳に微かに届いた音があった。
本当に微かな、鳥の声である。
その年の初音が「忍び音」と呼ばれ珍重されるそれは、不如帰の声だ。語らううちに夜明けが迫っていたらしい。
(いよいよか……)
ついに刻限を迎えた事を悟ったふたりは、しかし動揺などは微塵もうかがえぬ穏やかな眼差しで、改めて互いを見詰め合った。
「これまでに、ございますな」
「うむ、これまでであるな」
交わす言葉に含まれる響きは、こころなしかどちらも晴れやかである。
程無く、焼かれた木のぱちぱちと爆ぜる音と共に、閉め切った戸の隙間から白煙がじわじわと室内に流れ込んできた。時を告げる声を聞いた文荷斎が、手筈通り主殿に火をかけてくれたのであろう。煙は徐々に周囲を満たし行き、火勢が間近まで迫った事も、熱されてゆく空気が教えてくれる。
「胸を張って、参ろうぞ」
堂々と放たれた一言。
そして勝家の手がゆっくりと動き、枕辺に架けられた刀を掴み取った。
* * *
「勝つには勝ったが……何じゃこう、妙に悔しいのぅ……」
明け初める空を背に炎をまとった城を眺めながら、秀吉は不貞腐れた面持ちであった。苦い溜息すら、その口からは漏れて出る。
この勝利によって織田家の全てが手中におさまった事は間違い無いが、唯一手に入らぬままに終わったもののある事が、彼を憮然とさせているのであろう。夢にまで見た至高の花は、己の望みを果たす片棒を秀吉に担がせただけで、ついに一度として振り返らぬまま逝ってしまった。どれだけ焦がれ求めようと、どれだけ手を伸ばそうと、もはや永遠に届かない。
「――つまり、儂は眼中にも入れてもらえなんだという事じゃな」
ゆるく吹き抜けた風に、ぽつりとぼやきの言葉が乗る。
「まあったく……少しぐらいは見てくれても良かろうに」
悔しい以外の何でもない。
その思いは勝家に対しても同じだ。落ち延びた者達から聞いた最期の様子は、堂々と、そして信長への節義やお市への配慮ばかりで、城を囲む自分達の存在などまるで意識の外といった風情である。いっそ見苦しく無念にまみれてくれたなら、花を持ち去られた悔しさも少しは紛れたであろうに――
「やれやれ……揃いも揃って、随分な態度じゃな」
ふたりながらにこうも見事に無視されると、もはや笑いたくなってくる。
「……また新たな夢を探さねばならんのぅ」
夢路の彼方に消えた花への未練を断ち切らんと首を振る秀吉の目の前で、激しく火の粉を撒き散らしながら、巨大な天守が崩れ始めた。
――焼け落ちた北ノ庄城と運命を共にした者は、勝家夫妻や文荷斎を始め、三十余名にのぼるそうである。だがしかし、戦後の羽柴方による焼け跡の捜索で、勝家とお市の遺体が発見される事は無かった。墓こそ作られはしたものの、骨の一片すら行方は知れぬままである。
城もその後、跡地に新たな城が建てられた事により、当時の姿を見る事は叶わない。
まるで全てが、夢路の彼方へ消え去ってしまったかの如きだ。
今はただ、夏の夜の夢と消えたふたりの辞世が伝わるのみである。
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の
夢路をさそう ほととぎすかな
お市
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を
雲井にあげよ 山ほととぎす
勝家