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第9章:総攻撃前夜 〜獣王と聖槍の誓い〜

 王都フォルカスの北門を朝焼けが染める中、人々の表情にはいつも以上に緊張の色が浮かんでいた。メドラン皇国が総力を挙げて侵攻を開始する――その知らせが伝わったのは昨日の夕刻のこと。国境の砦を陥落させた“銀髪の将軍”アニェスの大軍と、“敬虔な聖騎士”ルシャールの聖騎士団が合流し、さらに補給隊が続々と前線へ投入されているという情報が飛び交う。まさに、フォルカス王国を一気に制圧しようという準備が進んでいるのだ。


 町の露店の一部は既に閉じ、住民の中には避難の準備を進める者も少なくない。どこか沈痛な空気の漂う王都だが、その一方で獣人族の若者や、同盟関係にある諸部族の兵が続々と城壁内に入り、最後の決戦に備えている。甲冑や槍を携えた戦士たちが街道を足早に行き来し、兵士同士が夕闇迫る城下町で声を掛け合う姿には、不安と結束が入り混じっていた。


 ――総攻撃前夜。メドラン皇国の圧倒的な軍勢に対抗すべく、フォルカス王国は王都に残る戦力をかき集め、必死に防衛体制を整えようとしている。獣王フィンブールは砦を失い、身体に深手を負った状態ながらも指揮を執り、徹夜同然で兵力の再配置や武器の補充、各方面への連絡に奔走していた。王宮の中庭には、獣人族だけでなく、かねてから友好関係を築いてきたエルフ族や人間族の義勇兵までもが集い、最後の打合せが行われている。


 ジャンヌはそんな慌ただしい熱気と悲壮感が入り混じる王都を眺めながら、薄闇の回廊を歩いていた。聖槍サン・クレールを呼び出せば、少しばかり胸の鼓動が落ち着くが、それも一時的なものだ。史実のジャンヌ・ダルクが迎えた結末――“焚刑”の悪夢が、総攻撃の話を聞けば聞くほど頭から離れなくなっていた。もしメドラン皇国の攻勢に押し潰されてしまえば、今度こそ自分は再び炎に呑まれるかもしれない。それだけが怖くてたまらない。


 (あの黒騎士、ルシャール、アニェス……みんなそれぞれの思いでわたしを“聖女”だの“魔女”だの呼んでいる。けど、わたしは同じ炎に焼かれたくない。今度は孤独じゃないって信じたい……)


 そう自分に言い聞かせながら、静かに息を整える。夜が深くなるにつれ、街の雑踏は陰をひそめ、王宮の石壁の中にほんのり揺れる灯火だけがそこかしこを照らしている。各部署の兵士たちがせわしなく動き回る足音や、武器の金属音が遠くから響き、その合間に聞こえてくる獣人族の威勢の良い吠え声が不安を掻き消すかのように感じられた。


 しかし、その喧騒の中心にいるはずのフィンブールは、あまり公の場には姿を見せていない。国境の砦での重傷と雷の秘術の乱用による疲労が重なり、表立っての指揮を部下に任せているのだと聞かされていた。もっとも、獣王がそう簡単に寝込むとは思えない。おそらく裏で地図や書簡を広げ、獣人族の長老たちや将校と極限の作戦会議をしているのだろう。


 ジャンヌはそんな王の姿を想像しつつ、自分の足が自然と“王の私室”へ向かっているのを感じた。総攻撃前夜という決定的な夜を迎える前に、どうしても話したいことがある。――先日、黒騎士と一戦を交えた際に感じた不安。ルシャールの潜伏がもたらす脅威。そして何より、史実で焚刑になった自分の前世を、とうとう“本当”だと認めざるを得ないような現実味を帯びてきた事実を。フィンブールが支えてくれると信じていても、それを伝えずにいては自分が飲みこまれてしまう気がしたのだ。


 “王の私室”と呼ばれる小部屋は、王宮の奥深い場所に位置し、かつて歴代の獣王が休息を取るためだけに使ってきたという。公の場ではないが、獣王の護衛や信頼の厚い側近が配置されるため、そうそう入り込める場所ではない。だが、ジャンヌが扉をノックすると、意外なほどあっさりと「入れ」と低い声が返ってきた。中にいるのはフィンブール本人かもしれない。


 ドアを開けて入ると、薄暗い室内には大きな寝台のほかに簡素な机と椅子が置かれている。机の上には地図や書簡が散乱し、キャンドルの灯りだけが部屋を照らしていた。その一角で、フィンブールが椅子に寄りかかり、肩で息をしている。大きく広げたマントにはまだ土埃の痕があり、鋭い瞳は疲労で赤みを帯びていたが、獣人族の王としての威厳は失っていない。


 「来たか、ジャンヌ……。すまないな、散らかっていて。緊迫した作戦会議が先ほど終わったばかりで、部下に少し休息しろと言われたところだ」


 フィンブールの声はかすかに張りを失っているが、それでもしっかりジャンヌを見据えている。彼の傷は癒えきらず、雷の秘術を使うたびに身体への負担が増しているはずだ。だが、総攻撃前夜に王が倒れるわけにはいかない。そんな焦りと義務感が、彼を無理やり動かしているのだろう。


 ジャンヌは近くの椅子に腰を下ろし、やや遠慮がちに口を開く。「お疲れのところ、すみません……。でも、メドラン皇国の総攻撃がいよいよ明日か明後日かと聞いて。わたし、どうしても今夜のうちに話したいことがあって」


 フィンブールは短く目を伏せ、低い声で言う。「分かった。お前は……不安なのだろう? 総攻撃ともなれば、あのアニェスやルシャール、そして黒騎士が一斉に仕掛けてくる。俺たち獣人族が守り抜ける保証はどこにもないからな」


 その苦い言葉に、ジャンヌは拳を握りしめる。まさに自分の脳裏には、アニェスが城壁を焼く炎、ルシャールが市民を扇動する火刑台、黒騎士が呪いの鎧で追い詰めてくる光景が立ち上っていた。あまりに想像しやすく、冷たい汗が頬を伝う。


 「……怖いです。もしも……また炎に焼かれるんじゃないかと思ってしまうんです。前世でわたしは焚刑に処された……としか思えないほど、はっきりした記憶があるから。あれがただの悪夢なら、どんなに良かったか……」


 フィンブールは椅子から立ち上がり、少しよろめきながらジャンヌの近くに寄ってくる。彼の逞しい腕に包帯の痕が浮き出ていて、一瞬心が痛むが、フィンブールはそんな痛みを表に出さず、ジャンヌの肩に手を置いた。


 「お前の過去がどうあれ、今は“聖槍の乙女”としてこの国に必要な存在だ。それは変わらない。アニェスの大軍やルシャールが押し寄せても、俺が雷の力で、お前を、王都を護る。――この雷を侮るなよ。たとえ命を落とすことになろうとも、最後まで戦いぬくつもりだ」


 その言葉は静かで、それでいて彼の決意を如実に示していた。死をも恐れず、総攻撃を迎え撃つ――まさに王の覚悟。ジャンヌは胸が痛む。彼の身体はボロボロなのに、それでも国を護るために最前線に立たなければならない。もし、そんな彼が死んでしまったら、と想像するだけで目頭が熱くなる。


 「フィンブールさん……。あなたが雷の秘術を使いすぎれば、本当に命に関わるって、何度も聞きました。それでも……」


 「王とはそういうものだ。俺は獣人族を代表し、この国を失わないためにあらゆる手段を尽くす義務がある。それに、俺が死ねば獣人族がどうなるかは目に見えている。お前だって、総攻撃で孤立すれば再び炎に飲まれる恐れが高い」


 そう言うと、フィンブールは自嘲気味に笑う。「お互い死なないようにしよう。俺が雷でお前を護るかわりに、お前も聖槍で俺を支えてくれ。……たとえ異なる種族でも、俺はお前を仲間だと思っている。いや、それ以上かもしれないが」


 その言葉が含む“それ以上”の意味に、ジャンヌは思わず胸が熱くなる。獣人族と人間族の壁を超えた絆――それが友情以上の何かを示唆していると感じた。ここ数日、幾度となく彼に守られ、互いに痛みを共有してきたことを思い返すと、確かにそれは“仲間以上”の感情とも言える。


 「ありがとうございます。わたし……あなたのことを大切に思ってます。もちろん、国を護ろうとしている姿勢もそうだし、戦いで傷を負っても背筋を伸ばしているところも。わたしは異世界人というわけではないけど、やっぱり出自が曖昧で、周りから魔女って呼ばれたりして、ずっと不安で……。それを忘れさせてくれるのがあなたです」


 言葉にしながら、恥ずかしさがこみ上げる。けれど、この夜を逃せば、明日か明後日には戦場が火の海と化し、もしかしたらどちらかが命を落とすかもしれない。今しか言えない想いがある。フィンブールは短く息をこらえ、ゆっくりと手を伸ばしてジャンヌの頬に触れた。獣人族の硬く大きな手の平だが、その感触は思いのほか優しい。


 「ジャンヌ。お前の不安は、きっと俺も含めて誰にも完全には消せない。だが、俺は雷を……この王の力を捧げてでも、お前を炎の悪夢から救ってみせる。だから、信じてくれ。どんなに激しい総攻撃が来ても、お前を孤独にはしない」


 その誓いに、ジャンヌはこみ上げるものを抑えきれず、瞳を潤ませる。前世を思わせる焚刑の記憶がまるで無理やり肺を締めつけるような苦しみとして蘇るが、フィンブールの言葉がそれを押し返してくれるような安心感がある。


 「ありがとうございます。怖いですけど、あなたがいるなら……わたしも戦えます。もし総攻撃の最中に、黒騎士やルシャールがわたしを狙ってきても、負けない。絶対に二度と火刑なんてされません」


 フィンブールは深く頷き、強く抱きしめるわけではないが、その両肩をしっかり支えてくれる。彼の胸板から獣人族特有の体温を感じ、ジャンヌは種族の壁が溶けていくように思った。涙が自然とこぼれ、声にならない安堵の呼気が漏れる。


 部屋の奥でキャンドルの小さな炎が揺らぎ、夜の静寂が二人を包む。まるでこの瞬間だけは戦火の影が遠く、種族や立場の違いさえ忘れさせるかのようだ。ジャンヌはフィンブールの目を見つめ、口を開く。


 「わたし、最初はあなたが怖かったんです。獣人族の王として雷を振るい、命を顧みないその姿勢が。でも、今は少しだけ分かった気がします。あなたは自分の命を捨てるために戦っているんじゃない。生きて、この国と人々を護るために戦っているんですね……」


 するとフィンブールは苦笑交じりに唇をゆがめる。「もっと早く傷が癒えていれば、こんな弱々しい姿は見せずに済んだものを。――そうだ、俺は死ぬ覚悟がある一方で、生きたいとも思ってる。獣人族が生き延び、王都が火刑で焼かれずに済むなら、自分もまた明日を迎えたい。矛盾しているかもしれんが、そこが俺の弱さだ」


 「弱さなんかじゃないです……大切な願いですよ」


 ジャンヌはきっぱりと否定する。そのとき、聖槍サン・クレールが淡く光を帯びるのを感じた。まるで二人の思いに呼応するような脈動が、槍の存在感を増していく。ジャンヌは思わず槍を呼び出し、穂先をそっと見つめる。今までにないほど静かながらも確かな輝き――聖槍が完全覚醒の兆しを見せているように思えた。


 「これは……聖槍……?」


 フィンブールも槍の変化に気づき、眼を見張る。「すごい神々しさだな……まるで、お前の心が穏やかになったことで、槍がさらに力を得ているかのようだ。――もしかすると、この槍もお前と同じで、過去に縛られるのではなく、新しい未来を望んでいるのかもしれんぞ」


 その言葉が胸に響き、ジャンヌは穂先を撫でながら微笑む。まるで、自分自身がそうであるように、聖槍もまた前世を超えて何かを実現したいのかもしれない。今や槍はどんな戦士でも扱えるわけではなく、“ジャンヌが使うからこそ”神秘の力を発揮しているのだと実感するのだ。


 「わたし、この槍とともに戦います。あなたが雷を振るうなら、わたしは槍であなたを護ります。二人でこの王都を守り抜いて、明日の朝日を一緒に拝みたい……」


 ジャンヌの言葉にフィンブールは穏やかに微笑む。それは、獣人族の誇り高い王というより、一人の男としての優しさが透けて見えるようだった。彼は小さく頷き、「約束しよう。お前と俺が共に生き延びる。――これが、獣王と聖槍の誓いだ」と静かに宣言する。


 部屋の外には最後の夜を駆け回る兵士たちの足音や怒号が聞こえ、まるで世界が戦いの前夜祭で荒れ狂っているようだ。しかし、この小さな部屋の中だけは、時間がゆっくりと流れている。ジャンヌは明日をどう迎えるか、目を閉じて思い浮かべる。もし総攻撃が来れば、アニェスやルシャール、黒騎士までもが最終決戦に乗り出すだろう。だが、ここで獣王とともに誓い合ったことが、自分の支えになると信じられる。


    ***


 夜が深まるにつれ、王都のあちこちで戦士たちの到着が相次いだ。辺境に住む獣人族の若者が「我らも戦います!」と集団で押し寄せたり、エルフ族の弓兵隊が馬車を連ねてやってきたり、さらには人間族の義勇兵が「魔女狩りなど御免だ」と意気込んで合流するなど、“この王都を守らなければ、自分たちの故郷も危ない”という切実な思いが、各々の種族を動かしていた。


 城門付近では、長蛇の列ができるほど戦士が押し寄せ、古参の獣人将校が必死で登録と割り振りを行っている。「お前は弓の腕があるなら、東壁へ回れ」「エルフの方々は西側の高台から狙撃をお願いしたい」などと次々に指示しながら、戦力を再配置する光景が夜通し続いた。一部の兵は疲れ切っているが、それでも“ここが本当の最終決戦かもしれない”との思いが、彼らを奮い立たせている。


 王都の宿屋や民家でも、戦士たちが食事や休息をとりながら明日に備える。明け方には大規模な準備が整い、全面的な防衛網が敷かれる予定だ。もはや日が昇れば、メドラン皇国の総攻撃がいつ始まってもおかしくない――そこに疑いの余地はない。


 そんな喧騒の裏側で、ジャンヌは再び王宮の奥を歩いていた。先ほどフィンブールと互いの想いを共有したが、まだ眠れるわけではない。心臓はどきどきし、身体は緊張で震えているが、それ以上に“皆が結束している”という光景を見届けたい気持ちがある。


 渡り廊下を抜けると、中庭に設置された簡易のテントが目に入った。そこでは、先に到着したエルフ族や人間族の義勇兵たちがテーブルを囲み、地図を見下ろしながら打ち合わせをしている。よく見ると、そのうちの何人かは“魔女狩り”に反発して飛び出してきた人間族たちだ。おそらくメドラン皇国の教義を嫌い、獣人族側に寝返ったか、あるいは元から反対だった者なのかもしれない。


 「これだけの種族が力を合わせれば、アニェスやルシャールの大軍も簡単には突破できないはずだ……」


 ジャンヌは小さく呟く。戦力差は依然厳しいが、心に灯る希望は確かに存在する。種族や立場の違いを越えて集まった人々が協力すれば、メドラン皇国の“火刑による排除”などに負けず、歴史を変えられるかもしれない。そう信じたくなる光景だった。


 「ジャンヌ様、こんなところに」


 不意に声をかけてきたのは獣人族の若者で、王宮内の警護を任されている一人だ。息を荒げながら近づき、「深夜になっても兵が次々と到着しています。獣王陛下の指示で、明朝には部隊を再編するそうです。ジャンヌ様は夜中でも出動要請があればすぐに動けますか?」と尋ねてくる。総攻撃は“明日か明後日”と推定されているが、メドラン側が奇襲をかけてこないとも限らないのだ。


 「はい、すぐに出られます。そちらにもわたしの護衛を配置してくださっていますし、何かあれば呼んでください。わたしも街の様子を巡回してきます」


 若者は力強く頷き、「気をつけてください。王都の内部にも、まだルシャールの協力者がいるかもしれませんから」と言い残して去っていく。ジャンヌはエルフ族や人間族の兵たちに挨拶しながら通り過ぎ、夜の街路へ出る。ここ数日の雨で石畳は湿っており、月光が淡く反射して幻想的な輝きを放つ。まるで最終決戦の前兆を暗示するかのように、静かな空気が漂っていた。


 (アニェスはきっと、炎を存分に振るうだろう。ルシャールは火刑台と神の裁きを謳っている。黒騎士は……わたしを滅ぼすことで呪いから解放されたいと望んでいる。でも、わたしたちはもう準備が整っている。何より……フィンブールさんがいる)


 そう自分に言い聞かせながら、ジャンヌは薄暗い路地を数歩進む。まるで、先ほどの感触が背中を温めてくれているような気がする。獣人族と人間族の壁を越えて、あの王との誓いを交わしたという事実が、妙に胸の奥を強くしてくれているのだ。


 そのとき、夜風に乗って歌声のようなものが耳に届く。見れば、街角でエルフの弓兵たちが静かに輪になり、古い祝歌を口ずさんでいた。戦士が出陣前に士気を高めるための聖なる歌らしく、その澄んだ旋律に自然と心が和む。ジャンヌは小声で「きれい……」と呟き、そっと立ち止まって耳を傾けた。


 ――こうして人々が各々の思いで集結しているのが、この王都フォルカスの真の強みなのかもしれない。獣人族だけでなく、多種多様な種族や考え方を包み込む器の大きさが、フォルカス王国の文化を豊かにしてきた。その象徴としてフィンブールが王位に就き、そこに人間族の“聖槍の乙女”が加わったのだ。


 (過去は変えられないけど、明日始まる総攻撃を凌ぎきれれば、きっと新しい未来が見えるはず。……みんなが平和に暮らせる世界なんて大げさかもしれないけど、わたしが燃え尽きずに済む世界は、きっと……)


 月は雲の合間から顔を覗かせ、王都の屋根の先を銀色に照らした。今夜はきっと眠れないだろう。明日、あるいは数日後には、メドラン皇国の大軍が押し寄せる。アニェスが砦を落としたときの火の海が、より大きくなって王都全体を焼くかもしれない。しかし、ジャンヌの足取りは揺るがない。フィンブールと確かめ合った誓いが、槍の奥底に眠る光とともに彼女を支えているのだから。


    ***


 王宮の回廊へ再び戻ったジャンヌは、夜明けまでに一度は身体を休めておく必要があると思い、自室へ足を向けた。途中、あちらこちらを行き交う兵たちが「ご苦労さまです」「しっかり休んでくださいね」と声をかけてくれる。彼らのまなざしにも、やはり不安と覚悟が混在している。誰もが明日を最終決戦と思っているのだ。


 部屋に入ると、ベッドの上に小さな手紙が置いてあるのを見つけた。開けてみると、そこにはエルフの弓兵隊長からの応援メッセージや、黒騎士に備えて弓の部隊を配置しているという報告が簡潔に綴られていた。さらに、“最後までともに戦いましょう。ジャンヌの勇気に感謝します”という一文で締めくくられている。胸がじんとする。種族の壁を越えた連帯感は、フィンブールとの誓いにも通じる温かさだ。


 (わたし、もう火刑に怯えるだけじゃない。みんなが力を貸してくれる。この結束を無駄にしないためにも、わたしは総攻撃に立ち向かうんだ)


 自分の寝台に腰掛け、心を落ち着かせようと聖槍を呼び出す。すると、やはり先ほど感じたとおり、槍のオーラはかつてないほど穏やかで強い輝きを放っていた。手で握りしめると、全身にじんわりとした熱が伝わり、まるで慰められているような感覚に包まれる。


 (聖槍サン・クレール……あなたも、わたしが燃え尽きるのを望んでいないのね。わたしはあなたの力を借りて、きっとこの世界で生き延びる。史実のように悲しい最期を迎えたくないから)


 短く息を整え、ベッドに横たわる。遠くで兵士の足音や談笑が聞こえるが、心はゆっくりと沈んでいき、今夜だけは一瞬でも眠りにつけそうな気がした。――しかし、そのまどろみに入る間際、頭の奥で過ぎる映像がある。炎に包まれた焚刑台、嘲笑と罵声の中で槍を握りしめる自分の幻影。前世で死んだ瞬間の感覚が、まだ生々しく身体に刻まれているのだ。


 けれど、不思議と今はその恐怖に飲み込まれずにいられる。フィンブールと交わした誓い、部下や仲間たちの結束の力、そして聖槍の優しい光が、悪夢を深追いさせずにぎりぎりのところで断ち切ってくれる。そうして、ジャンヌは浅い眠りに落ちていった。


    ***


 夜明け前。まだ空が白んでいない時間帯に、王宮の鐘が低く鳴り響いた。その音は市内にも広がり、兵たちの意識を一斉に呼び起こす合図ともなる。総攻撃が“今”とは限らないが、各砦や見張り台から連絡が来れば、いつでも防衛陣を展開できるように準備が進められるのだ。


 ジャンヌも慌てて飛び起き、聖槍を手に取りながら廊下へ出る。外から差し込む冷たい空気に包まれると、一気に身体が覚醒していく。護衛兵が駆け寄り、「メドラン皇国が各方面で兵を動かしているようです。具体的な攻撃開始の報せはありませんが、警戒レベルが上がっています。陛下が中庭に来てほしいと」と伝えてくる。


 「わかりました、すぐ行きます」


 髪を手早くまとめ、身支度を整えてから急ぎ中庭へ向かうと、すでに獣人族の将校や各部隊の隊長格が集結していた。フィンブールは彼らを見回しながら、地図を指さして声を張り上げる。「諸君、メドラン皇国は北方だけでなく、東方のルートからも別働隊を出すとの噂がある。ルシャールの聖騎士団がそこを突くかもしれん。王都を守る戦力を分散するリスクはあるが、各方面の警戒を怠るな」


 全員が静粛に耳を傾けている。ジャンヌも一歩後ろでそれを見守り、フィンブールの指揮が凛とした響きを持って王都の空気を引き締めていくのを感じた。彼は恐らく寝ていない。深いクマができているが、雷を宿す瞳は衰えを見せず、むしろ炎のような覇気を放っている。


 「ジャンヌ、いたか。――お前は後方支援ではなく、前線に出ることになるかもしれない。聖槍を用いて、俺たちとともに最前線でメドラン軍を迎え撃ってくれ。もちろん無理はするな。しかし、“聖槍の乙女”という存在が戦場で動けば、味方にとっては大きな士気になる」


 フィンブールがすっと視線を向けた。あの誓いを共有したからなのか、表情には安心感が混じっているように見える。ジャンヌはそれを感じ取って頷いた。「もちろんです。わたしの持つ力は多くありませんが、少しでも役に立てるなら、あなたの雷と並んで戦いたい」


 王の周囲に集まった部隊長たちが、「よろしくお願いします!」と口々に声を掛ける。中には人間族やエルフ族の面々も混ざっており、総攻撃前夜――いよいよ最終決戦を目前に、全員がここで腹をくくったという表情だ。ジャンヌは聖槍を手に、皆の視線を受け止める。


 「絶対に守りぬきましょう。メドラン皇国がどんな炎や神の裁きを振りかざそうと、わたしたちは生き延びます。皆さんの故郷を、王都を、獣王とともに……」


 その言葉が終わると、一斉に獣人兵たちが吠えるような咆哮とともに士気を高め、エルフや人間族の兵士たちも口笛を吹いたり、拍手で応じたりして歓迎の意を示す。雲が流れ、わずかに白み始めた東の空に、王都の夜明けが見え隠れしている。


 こうして迎えた“総攻撃前夜”は、未明からの大騒動で幕を下ろそうとしていた。アニェスの軍勢とルシャールの聖騎士団が迫る足音が、本当に間近に迫っているのかもしれない。この場に集まったすべての戦士が、一瞬の静寂を感じながら、自分の武器を握りしめている。まるで嵐の前の異様な凪が、広い中庭を包んでいた。


 フィンブールが深く息をつき、声を張り上げる。「夜明けは近い。陣形を再確認し、準備が整い次第、それぞれの持ち場に散れ。アニェスが正面から火攻めを仕掛け、ルシャールが内通者を使って王都内を攪乱する可能性も高いが、落ち着いて対処するのだ。――我ら獣人族は決して弱くない。仲間がいる。立ち上がれ、フォルカスの戦士たちよ!」


 大きな咆哮にも似た掛け声があがり、兵たちが徐々に散っていく。ジャンヌは人波をかき分け、フィンブールのそばへ向かう。彼は目を伏せ、小さく口の中で何かを呟いた後、顔を上げた。その瞳には、不安と決意が混じり合っている。


 「ジャンヌ……最後にもう一度、誓いを確かめよう。お前が炎に呑まれないように、俺は雷で守る。お前は聖槍で俺を援護する。――二人で王都を守り、明日を迎えるんだ。異なる種族がどうしたという話ではない。これは、たった二人の誓いだ」


 ジャンヌは穂先を胸に当て、深く頷く。「はい。どんなに怖くても、あなたがいるなら負けません。わたしは再び火刑になる運命を受け入れない。絶対に、絶対に生き延びます。あなたとともに……!」


 それは種族の違いや過去のわだかまりを超越した固い約束。王と“魔女”と呼ばれた娘が、最後まで戦いつづけて生き残る――その小さな希望を頼りに、今夜を乗り切るのだ。遠くから聞こえるラッパの音が戦場へ集結する合図なのか、あるいは偵察部隊がメドラン軍の動きを察知したサインなのかもしれない。とにかく、総攻撃の始まりはもう目と鼻の先にある。


    ***


 こうして“総攻撃前夜”は、フォルカス王国全体の切迫感を伴いながら幕を下ろそうとしている。メドラン皇国は“銀髪の将軍”アニェスと“敬虔な聖騎士”ルシャールを両輪に、ついに全面侵略に乗り出す。そこに黒騎士グリオ・ノワールがどう絡むのか、誰にも分からない。だが、王都には獣王フィンブールと、“聖槍の乙女”ジャンヌがいる。さらに同盟各国の戦士たちが結集し、最後の夜の中で連帯を示している。


 中庭の一角では、エルフ族が神秘的な調べを奏で、イヌ科の獣人族がそれに合わせて踊りのような士気高揚の儀式をしている。彼らが微笑みをかわしながら稽古を重ねる光景には、確かに“希望”を感じる何かがある。ジャンヌもフィンブールも、それを横目に、決意を新たにした。それぞれの想いが交わり、最後の夜を越えて明日へ――激しい戦いの渦中で、前世の焚刑のトラウマを打ち破れるかどうかを試されるのだろう。


 それでも今は、確かな温かさがある。フィンブールは己の雷を、ジャンヌは槍を握りしめ、お互いの手を重ね合わせる。視線が交わったとき、ふとその距離の近さを意識し、頬が赤くなる。種族の壁を越えた想いが、二人の心を結びつける。この世界では“珍しい”どころか“考えられない”関係かもしれないが、それでも構わない。それが彼らの“愛”の形ならば、戦場でも生き延びる力になるはず。


 (明日の戦いがどんな結末をもたらすのか、まだ想像もつかない。でも、前世のように一人で炎に沈むのではなく、仲間やフィンブールとともに進める。もしアニェスの炎が襲ってきても、ルシャールの火刑を押し付けられても、もう怯えないわ……)


 そう心に言い聞かせると、聖槍サン・クレールの柄がほんのり暖かく感じた。まるで槍が“一人ではない”と伝えてくれているような、不思議な連帯感。もしこれが“完全覚醒”の兆しだとしたら、ジャンヌはさらに強い力を引き出せるかもしれない。雷の秘術を操る王と聖槍の乙女――種族の枠を超えて結ばれた二人が、明日の戦場でこそ真の力を発揮するのだろう。


 深夜、あるいは明け方――いつメドランの軍勢が押し寄せるかは分からない。アニェスの作戦次第では夜明け前に奇襲を仕掛けてくる可能性もあるし、ルシャールが先に王都内の混乱を誘発するシナリオもあり得る。黒騎士はその闇を利用してジャンヌを狙うかもしれない。しかし、フォルカス王国はすでに最大限の備えを整え、最後の一息をついているところだった。


 ――そして夜は、静かに明けようとしていた。空に薄紅色の帯が広がり、王都フォルカス全体が朝の光を浴びてまどろみから目覚める時間。まさに“総攻撃”の火蓋がいつ切って落とされてもおかしくない瞬間だ。いっそ、このまま平和な朝が続くかもしれないと微かな期待を抱く者もいるが、多くの兵たちはすでに戦意を高め、準備万端の姿勢を保っている。


 そんな空気の中、ジャンヌとフィンブールは王宮の上層階に上がり、外の様子を見下ろしていた。続々と集まる兵の群れ、壁の上に陣取る弓兵や魔法を使うエルフ族の姿、そして荷車で補給物資を運び込む人間族の商隊。総攻撃前夜は名ばかりで、実質的にはもう戦端が開かれてもおかしくない緊張感が漂っている。それでも、二人の胸には不思議な落ち着きがあった。


 「……この朝日を、お前と一緒に迎えられて良かった」


 フィンブールがぼそりと呟く。前夜に誓ったとおり、二人で朝日を見守る時間は、束の間ながら心を温めるものだった。もしかしたら、これが最後の平和な夜明けかもしれないが、だからこそ目に焼きつけたい。まだ王都が健在で、人々の営みが息づいている光景を。


 「わたしも、こうしてあなたと並んでいられることが幸せです。前世のわたしがどんな最後を迎えようとも、今度はもう一人じゃないから」


 ジャンヌは穂先をそっと握り、心の奥で覚悟を固める。アニェスが総攻撃を開始すれば、炎と戦略の嵐が襲ってくるのは確実。ルシャールは火刑台を作ってでも“魔女”を狩る気だし、黒騎士も自分を滅ぼすことで呪いを断ち切ろうとしている。そんな多重の脅威を相手に、どれほど持ちこたえられるかは未知数だが、引き下がるわけにはいかない。


 「きっと、あなたとわたしなら勝てる。あるいは逃げ延びることくらいはできる。どんなに強い炎でも、あなたの雷と、わたしの槍と、みんなの思いがあれば……メドラン皇国の思い通りにはさせません。ね、フィンブールさん」


 フィンブールは小さく笑みを見せ、雷に似た黄金色の瞳を細める。「ああ。必ず生き延びて、笑い合える日を迎えよう。種族が違っても、俺はお前を“獣王の伴侶”に迎えてもいいくらいの気持ちなんだぞ。――もっとも、今はまだそんな余裕はないがな」


 突飛な言葉に、ジャンヌはどぎまぎするが、それ以上に嬉しさと照れくささがこみ上げる。戦火の前夜に、こうした“愛”の一端を感じられるのは、心強い支えになる。もはや言葉を交わさなくとも、二人の繋がりは揺らがない。夜明けの光がゆっくりと広がり、城壁の上を照らし出し、門の先に続く街道がぼんやりと見えてくる。


 (総攻撃前夜――そして、もうすぐ朝。アニェスたちの軍はすでに動いているのかもしれない。わたしたちの戦いは、これからが本番……)


 ジャンヌは聖槍を握りしめ、フィンブールと視線を交わす。たとえ大軍が猛威を振るおうと、炎が街を焼き尽くそうと、二人で耐え抜くと誓った。この王都に集う獣人族や同盟諸国、さらにジャンヌに共感する人間族の戦士たちとともに、メドラン皇国の暴虐を押し返してみせる。


 こうして、前世の焚刑を思い起こしつつも、ジャンヌは決して孤独ではないことを実感する。“銀髪の将軍”アニェスが炎をかざし、“敬虔な聖騎士”ルシャールが火刑台をちらつかせ、呪われし“黒騎士”グリオが復讐を試みてきても、今度こそ燃え尽きずに歩んでいけるはずだ。獣王の雷と聖槍が合わさった力があれば、史実を超えた歴史を紡げる――そう信じながら、二人は朝日の中で最後の打合せを交わし、来るべき決戦に挑むために下へ降りていく。


 誰もが息を呑む緊張の朝。これが総攻撃前夜、あるいは“最終決戦”の幕開けの朝。フォルカス王国の命運は、王と“魔女”と呼ばれた少女の誓いにかかっている。交わした絆が揺るがぬ限り、彼らは前世の悲劇を乗り越え、明日へと続く道を掴み取るのだ。もし“焚刑”が再び訪れるとしても、孤独な末路を歩むことはないと――聖槍の乙女は決意する。前夜の愛の誓いが、彼女の魂を照らす灯火になると信じて。

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