第8章:黒騎士グリオの苦悩と復讐の告白
暁の光が王都フォルカスの石畳を薄紅色に染める頃、一人の男が黙々と城門近くの広場を歩いていた。人目を避けるようにゆっくりと――しかし、その足取りはどこか浮ついた不自然さを帯びている。漆黒の甲冑に全身を覆われ、兜の面頬からは表情はもちろん、呼吸の気配すらも感じさせない。誰もがその姿を遠巻きに恐れ、近づこうとしない。実際、城門を警備している獣人兵たちですら、彼が視界に入るや否や察知して緊張を走らせた。
「……黒騎士グリオ・ノワール……!」
その名を知る者にとっては、彼がそこに現れたという事実だけで戦慄を覚えるに十分だ。メドラン皇国に仕え、呪われし鎧を纏った“黒い死神”とも呼ばれる人物。この王都フォルカスでは、以前から黒い鎧の男が潜入しているという噂が飛び交っていたが、実際にこうして昼間の街角に姿を晒すのは初めてだった。何かを探るように足取りを止めたあと、彼は城門へ向かう兵士たちを一瞥し、音もなく足を引き、裏通りへと消えていく。
その動きに気づいた獣人兵が慌てて追跡しようとしたが、すでに姿はどこにもない。まるで煙のように消え失せたのだ。兵士たちが押し黙る中、「やはりメドランの工作員が表立って動き始めたか」と低い声が交わされる。――黒騎士が堂々と街に出てきたのは、何を意味するのか。獣人族たちは不安を抱え、ただ事ではない気配を感じ取っていた。
この一件の報は、すぐに王宮へと伝えられた。フィンブールをはじめとする獣人族の重臣たちが緊急で集まり、手短に状況を確認する。ジャンヌもその場に呼ばれ、先日の“魔女狩り”扇動が落ち着きかけた矢先に浮上した“黒騎士の目撃情報”に顔を曇らせる。
「黒騎士グリオ・ノワール……。いずれ私の前に現れる気はしてましたが、まさか昼間に堂々と城門付近をうろつくとは……」
そう呟くと、フィンブールが無言で頷く。彼は前回のアニェスとの交戦からまだ傷が完全に癒えていないが、国王としての責務と、自身の苛立ちをこらえながら声を絞り出す。
「黒騎士は、俺たちの動向を探りに来たのか、それとも“聖槍の乙女”を挑発するためなのか。ルシャールやアニェスのように派手な演説や大軍侵攻をする男ではないが、奴は一介の暗殺者などではない。呪われし鎧の謎を含め、これまで獣人族を何度も追い込んできた凶刃だ」
以前から噂だけは耳にしていたが、実際に戦場で黒騎士を見た獣人兵は口を揃えて「殺気がひときわ異質だった」と言う。まるで“人間の負の感情”をそのまま鎧に詰めたような、悲壮にも似た魔のオーラを放っていたと。メドラン皇国の人間族ですら、彼を恐れているという話もある。一体何者なのか。誰もが答えを持ち合わせていない。
「ジャンヌよ、お前に会いに来る可能性が高い。実際、この王都に潜伏しているうちに、どこでお前が現れるかを見計らっているのかもしれん。できるだけ護衛を増やして移動してくれ。先日も危うく捕縛されかけたばかりなんだ」
フィンブールがそう忠告するが、ジャンヌはしばらく考え込んだのち、小さく首を振った。「護衛を増やしても、もし黒騎士が本気なら、集団戦に持ち込むよりも、むしろ巻き込まれる兵が増えるだけではありませんか。あの騎士の情報をまとめても、結局は《単独》で不気味なほどの戦闘力を発揮すると言われています。私一人なら動きやすいし、民間人の被害を避けられるかもしれません」
「お前は“聖槍の乙女”だ。貴重な戦力を失うわけにはいかん。要するに、一人で出歩くなと言っているんだ」
フィンブールの語調がやや強くなる。彼は王としての責任と、ジャンヌへの個人的な心配の両方で苛立っているのだろう。ほんの短い沈黙が執務室に流れた。しかし、ジャンヌもまた、自分の意思を譲る気はなかった。黒騎士との決着を避けては通れないと、ずっと感じていたからだ。メドラン皇国の呪われし鎧を纏う男が、なぜ自分にこだわるのかを確かめる必要があると思っている。
そんな言い合いに割って入るように、古参の獣人将校が小さく咳払いをして提案した。「では、こうしてはどうでしょう。ジャンヌ様に精鋭の護衛を数名だけつけ、あえて囮役として街に出る。もし本当に黒騎士が“魔女”を狙うなら、姿を見せるはず……そこで捕縛、あるいは討ち取るチャンスを狙う。市街地から外れた場所を誘導すれば、民間人の被害も出にくいかと思います」
フィンブールは顎に手をやり、少し考える。「ふむ……危険な作戦だが、奴が待ちの姿勢を崩さない以上、こちらから動かなければ何も始まらんのも事実だ。お前はどう思う? ジャンヌ」
ジャンヌは即答しなかった。確かに捕縛あるいは討ち取る――その言葉が引っかかったからだ。黒騎士を本当に倒してしまっていいのか。彼がアニェスやルシャール以上に“不気味”な存在であるのは事実。彼の鎧には呪いが宿り、また“幻影のように消える”という逸話がある。だが、それだけに、ただの狂信とは異なる“事情”があるのではないか。以前、アニェスの過去に悲しみがあると知り、同じように黒騎士にも何らかの理由があるのではと考えていた。
「……作戦そのものには賛成です。街が混乱する前に、黒騎士と直接話をする機会が欲しいと思っていました。でも、その……わたし、彼を殺したくありません」
「何? 相手はメドラン皇国の手先だぞ。人々を苦しめてきた元凶の一人。倒せるなら倒すのが一番手っ取り早いに決まってる」
フィンブールの言葉に、ジャンヌは少し俯く。「分かっています。でも、黒騎士は何故か私に執着している。もしかすると、ルシャールやアニェスにはない何かがあるのかもしれない。……それが何かは分からないし、単なる殺戮衝動かもしれないけれど、あえて、話をしてみたいんです」
堂々巡りになりかけたところ、フィンブールが長く息を吐いた。「お前が望むなら止めはしないが、相手の命を奪う奪わないは戦闘の成り行き次第だ。俺は獣人族の王として、この脅威を排除せねばならんのだということを忘れるなよ。殺したくないと思うなら、それもお前の自由だが……自分が死なないようにな」
王としての責任感とジャンヌの人間性の板挟み。ぎくしゃくした空気のまま協議は続き、最終的に“精鋭護衛3名”という形で合意が取られた。王都の外れで“黒騎士”をおびき出し、そこでバトルなり交渉なりを図るという算段だ。フィンブールは「決して無茶をするな」とだけ言い残し、時間をかけて護衛の面々を選定する。かくして数日の準備の後、ジャンヌは黒騎士との“対面”を果たすべく、囮の散策に繰り出すことになった。
***
作戦決行日。王都フォルカスの朝は澄んだ青空が広がっていたが、人々の表情はまだ暗い。メドラン皇国が押し寄せる恐怖や“魔女狩り”の余波が残っているため、大通りの露店や商人の姿が以前より少なく、ぼんやり足早に移動する市民が多い。そんな通りを、ジャンヌは3名の獣人兵を連れて歩いていた。もっとも、獣人兵もなるべく目立たないように平服をまとい、遠巻きにジャンヌを護衛している。姿は見せずとも“視線”は常に彼女を捉えているのだ。
「こうして街を歩いていて、黒騎士が本当に姿を現すのかな……」
小さく呟いてみるが、答える者はいない。護衛たちは作戦遂行のため、会話を控え、物陰からジャンヌの動きに合わせて移動している。一応、万が一のために安全な退路も確保済みだ。黒騎士が姿を現せばすぐに外れの空き地へ誘導し、第三者が巻き込まれない形で対峙しようという段取りである。
ジャンヌは何気なく露店を覗き、さも一人で買い物を楽しむ娘のように装っているが、内心は緊張で落ち着かない。果たして黒騎士は現れるのか。彼が本当に自分を狙っているなら、街中に溶け込む形で周囲をうかがっているかもしれない。あるいは、すでに上空や屋根の上から見張っているかもしれない――そんな想像が頭を巡る。
そのとき、不意に背後から冷たい殺気のようなものを感じた。ぴたりと胸が騒ぎ、振り向けば誰もいないが、気のせいではない気がする。まるで濃密な闇が近づいているような……。ジャンヌはあえてその場を離れ、ぐるりと路地を回り込んで人気の少ない通りへと入っていく。ここなら、もし戦闘になっても被害は小さいはずだ。――すると、人気のない道の奥、かすかに空気が揺らぐような気配を感じた。
「……いたのね」
ジャンヌが心中で呟いた瞬間、彼女の耳に、金属が擦れるかすかな音が届く。間違いない、“黒騎士”がそこにいるのだ。目を凝らしても姿は見えず、まるで闇に溶け込んでいるかのようだが、確かに衣擦れの音がする。護衛の獣人兵たちも、跳ね上がる気配で警戒を強めるが、ジャンヌはあえて立ち止まり、大きく息を吸って声を上げた。
「……わたしがジャンヌです。あなたは、黒騎士グリオ・ノワール……ですよね? 出てきてください。こうして待っているのだから、姿を隠す必要はないはず」
しんと静まる路地。辺りで小鳥の囀りすら聞こえない。ややあって、視線の端で空気が歪むように動き、ぼうっと黒い影が浮かび上がった。漆黒の甲冑に全身を包み、見る者を威圧するようなその姿。兜の隙間からは何の表情も読み取れず、ただ不気味なほどの沈黙と冷気が漂う。
「……呼んだのは、貴様か……」
低くくぐもった声が面頬の奥から発される。まるで喉に錆びた金属が詰まっているような濁りのある声音だった。ジャンヌは思わず息を呑みそうになるが、ここで怯えてはいけないと自分を叱咤した。
「あなたが、わたしを探していると思っていました。実際、王都内で暗躍するメドランの工作員がいると聞いて……わたしと戦いたいのなら、話をしてほしい。どうして、こうしてまで私にこだわるのか」
黒騎士はすぐに答えず、しばし無言のままジャンヌを見下ろす。ただ、その佇まいから伝わるのは、先ほどまでの狂おしい闇とは違い、どこか不安定な微振動のような雰囲気だ。まるで自分自身の葛藤を抱え込んでいるかのように見える。
「……黙れ。貴様は、かつて俺が救えなかった“聖女”の幻……。今度こそ、消さねばならん……!」
その言葉を聞いた瞬間、ジャンヌの心がざわつく。かつて救えなかった“聖女”――。それは、もしや史実のジャンヌ・ダルクのことかもしれない。彼の言う“今度こそ”というフレーズから、まるで前世を知っているかのような感覚が伝わる。動揺を覚えながらも、ジャンヌはなんとか言葉を繋ぐ。
「わたしが“聖女”の幻……。まさか、あなたは、前世のわたしに関わりがあると……?」
黒騎士の沈黙が重く降りかかる。次の瞬間、彼は音もなく脚を動かし、ジャンヌとの間合いを一気に詰める。驚く間もなく、漆黒の大剣が横薙ぎに振るわれ、ジャンヌは寸前で聖槍を具現化して受け止めた。鈍い衝撃音とともに、路地に火花が散り、接触した面から不思議な振動が伝わってくる。まるで呪いの力が槍を通じて伝導しているかのようだ。
「っ……あなた……っ!」
いきなりの攻撃に、ジャンヌは体勢を崩しそうになるが、慌てて槍を回転させ、黒騎士の剣を弾く。黒騎士は相手に隙を与えないよう立て続けに斬撃を繰り出すが、ジャンヌも訓練の成果と聖槍の神秘的な加護に支えられ、間一髪でそれをかわす。戦闘音が響き、路地の隅に隠れていた護衛たちが驚いて飛び出してくる。
「ジャンヌ様、下がれ! 黒騎士と一対一は危険すぎる!」
「待って……この人は、わたしに何か言いたいことがあるはずです!」
護衛が焦った表情で身構えるが、ジャンヌは手で制止する。しかし、黒騎士は一瞬そちらへ視線を向け、「余計な雑魚どもが……」と忌々しそうに呟いた。次の瞬間、鎧の隙間から放たれる淡い黒い霧のようなものが路地を満たし、護衛たちの動きを鈍らせる。まるで呪術か、あるいは呪われし鎧が発する魔力か――護衛が咳き込みながら身体の自由を失っていく。
「この……何だ、身体が重い……!」
「しまった……動けない……!」
同時に黒騎士の剣が闇のような残影を引き、再びジャンヌに振り下ろされる。ジャンヌは槍でそれを必死に受け止めるが、衝撃で足元が砕かれ、退避を強いられる。まるで乱暴な嵐の中に一人放り出されたような激しい斬撃が続き、息が苦しいほどの圧力を感じる。
「聖女……聖槍……どうして、また貴様は我が前に現れた……!」
黒騎士の声が荒れ狂い、そこにはただの敵対心ではない悲痛な響きが混じる。ジャンヌはそれを感じ取り、逆に穂先を突き出して抗戦しながら叫んだ。「教えて……あなたは、わたしの前世に何があったのか知っているの? あなたが救えなかった“聖女”って……史実のジャンヌ・ダルクのことなの……!?」
しかし、黒騎士は咆哮のような声をあげるだけで、はっきりとした答えを返さない。大剣を振り抜くたびに、漆黒の鎧の表面が歪むかのように揺らめき、呪いの力が増幅しているように見える。そこへさらに加勢しようとする護衛を、黒い霧が絡め取る。援護がままならないまま、ジャンヌは一人でこの圧倒的な力に立ち向かわねばならなくなった。
「どうして、こんな力を……いったい、あなたの目的は何……!」
槍を回しながら、必死に攻撃をいなしていくジャンヌ。黒騎士はまるで自分を痛めつけるかのように執拗に斬りかかり、しかもそのたびに「聖女……貴様がいなければ、俺は……」とうめく。何か深い苦悩を抱えているのは明白だった。敵意の奥にあるのは、復讐か、罪悪感か――掴みきれず、ジャンヌの心も乱されていく。
やがて、黒騎士の斬撃を受け流した一瞬の隙に、ジャンヌが思い切り槍の柄で相手の胴体を殴打した。ガキン、と金属の鈍い音がして、鎧の胸部に罅のようなものが走った。黒いヒビから微かな蒼い光が漏れ、そこに渦巻く呪いの瘴気が一瞬ゆらいだように見える。
「っ……!」
黒騎士が苦悶の声を出して後退し、空気が震えた。ジャンヌはその一瞬の機会を逃さず、声を張り上げる。「あなたも……苦しんでいる。そうでしょう? わたしを憎む理由があるなら、教えてください……! 何があったのか、わたしには分からないけど、あなたが話すなら、きっと……」
言葉を続けられなかったのは、黒騎士が襲いかかるのを止めていたからだ。彼は剣を地面に突き立てる形でわずかに身体を支え、甲冑の狭間からかすかな息が漏れる。「救えなかったんだ……。俺は……貴様が炎に飲まれるのを……見殺しにした……。いや……助けに行けなかったんだ……!」
ジャンヌの目が驚愕に見開かれる。まるで黒騎士は自分を責める独白を吐き出しているようだ。炎に飲まれる姿を見ていた――それはまさに史実のジャンヌ・ダルクが焚刑に処せられた場面と重なる。黒騎士は鎧に呪いを受けているといわれるが、それが彼の“過去の罪悪感”と結びついているのかもしれない。
「あなたは……あの炎の光景を見ていたの……?」
ジャンヌは心の奥で激しい痛みを覚える。もし前世で焚刑に倒れたのが事実なら、そこに黒騎士はいたのか。なぜ当時、助けに来なかったのか――いや、来られなかったのか。思考がぐちゃぐちゃになりそうな中、黒騎士の声が再び上がる。
「だからこそ、今度こそは……破滅させるしかないのだ。俺に宿るこの呪いは、“聖女を救えなかった”俺を責め立てる……。ならば、もう一度聖女を滅ぼすことで、この輪廻を断ち切るしかない……!」
どうやら、彼は“救えなかった”という負い目を“滅ぼす”という真逆の行為によって打ち消そうとしている。論理の飛躍も甚だしいが、それだけ彼の心は病みきっているのだろう。その“輪廻を断ち切る”という言葉が示唆するように、彼もまた歴史や前世の記憶に縛られている可能性が高い。かつて自分が裏切ってしまった聖女に対する贖罪のねじれが、呪いの鎧として彼を蝕んでいるのかもしれない。
「それって……どうして? 救えなかったなら、なおさらもう一度救おうとするのが普通なのでは? わたし……わたしは死にたくなんかない……!」
ジャンヌは震える声で訴える。自分だって、前世で炎に飲まれたのかもしれないが、それでも再び同じ最期を受け入れたくはない。黒騎士が苦悶を抱えているのなら、共に救われる道もあるはずだとさえ思ってしまう。しかし、その言葉は彼をさらに追い詰めるようだった。
「……救う? そんな戯言をぬかすな……。俺はもう、戻れない。呪われた鎧を纏い、メドラン皇王に仕える道しかない。いずれアニェスかルシャールが貴様を狩るだろうが、先に屠るのは俺だ……。そのときこそ、この呪いから解放されるのだから……!」
語尾が震え、鎧に走るヒビからは再び黒い瘴気が漏れる。まるで鎧そのものが彼を苛立たせ、“殺せ”“破滅させろ”と迫っているかのようだ。ジャンヌは思わず唇を噛み、もう一度だけ問いかけた。
「それがあなたの“復讐”なの? 自分を呪う鎧を纏って、わたしを滅ぼして……あなたは本当に報われると思うの……?」
黒騎士が答える前に、背後の護衛たちが息を吹き返し、ようやく身体を動かし始めた。呪いの霧が薄れてきたのか、危うく気絶しかけていた者も立ち上がり、剣を構える。彼らがジャンヌを守るべく一斉に黒騎士に斬りかかろうとすると、黒騎士は咄嗟に痛みをこらえて立ち上がり、大剣を振って牽制した。路地に駆け込むほどの力は残っているらしく、また霧を放つような気配を見せる。
「ああ、邪魔だ……! やはり今は無理か。だが次こそは――次こそは貴様を滅ぼす……、聖女……!」
その宣告を最後に、鎧が薄闇を引き連れるように消えていった。再び煙のような幻影が立ち込め、気づけば黒騎士の姿は消失している。まるでそこにいたこと自体が幻だったのではと思うほどの消え方だ。護衛たちが路地を隈なく探したが、何一つ痕跡が見当たらない。
「……逃げられたか……」
穂先を下げながら、ジャンヌは大きく息を吐いた。膝ががくがくして立っているのがやっとだが、怪我は軽微で済んだ。護衛たちも辛うじて無事。ひとまず最悪の事態は避けられたが、黒騎士の苦悩と自責を知った分だけ胸が痛い。彼は“救えなかった”という後悔を“殺すことで打ち消す”という狂気の発想に取り憑かれているのかもしれない。
「……何なんだ、あの男は。自ら呪いの鎧を纏っているとはいえ、ありえない速さと力だった。まるで呪術師が操る死体のようにも見えたが……」
護衛の一人が明らかな恐怖を滲ませてつぶやく。ジャンヌもまた、あの鎧の正体を推測できずにいる。ただ、先ほどの言葉「俺が救えなかった聖女」「今度こそ滅ぼす」というフレーズが胸を離れない。もし黒騎士が史実のジャンヌを“遠巻きに見殺しにした”人物だったのだとすれば、彼の罪悪感が呪いとなって今に至っているのだろうか。
ややあって、ジャンヌは槍を消して深呼吸する。「……助けてくれてありがとう。あなたたちがいてくれなかったら、もっと危なかった。でも……彼は多分、苦しんでいる。わたしを殺すことでしか、呪いから解放されないと思い込んでいるのかもしれない」
「だからといって、あいつが王都やジャンヌ様を狙うのを放置はできません。次こそ本気で仕留めるしかないでしょう。でなければ、また市民が狙われるかもしれない」
護衛の意見は当然だ。確かに彼を倒す以外に対策がないかもしれないし、メドラン皇王やアニェス、ルシャールの駒として黒騎士が動き続けるなら、いずれ無数の犠牲が出る可能性が高い。しかし、ジャンヌの胸にはある思いが募る。――もしかすると、この黒騎士を救いだすことも不可能ではないのではないか、と。相手は“歴史を繰り返さないため”に、苦しんでいるのだから。彼を倒さない未来があるなら、それを探りたいと願ってしまうのだ。
***
この日以降、黒騎士が街に現れたという話は一切途絶えた。まるで、目的を果たせなかった彼が一時的に撤退したか、さらなる機会を待っているのかもしれない。だが、ジャンヌの心から彼の言葉が離れることはなかった。“救えなかった聖女”への思慕と自責――それはまるで鏡のように、ジャンヌの抱える“前世の焚刑”と向き合っているように思えたからだ。
翌朝、王宮の中庭でジャンヌはフィンブールに対して今回の顛末を報告する。黒騎士の呪いの力や、戦闘時に発された言葉、彼が救えなかった聖女への思慕――すべて話して聴かせた。フィンブールは腕を組んだまま、難しい表情でうつむく。
「やはり、あの男にも過去があるようだな。仮に前世のジャンヌ・ダルクと何らかの関係があるとして……放っておけば、奴はお前を殺そうとするだろう。一度はお前を逃がしたが、次は殺し合いになるに違いない」
「……はい。そうだと思います。でもわたし、彼がまったく理解不能の“怪物”だとは思えない。敵として倒すだけでなく、どこかで彼の苦悩に向き合えるかもしれないと……」
フィンブールは苦渋に満ちた眼差しで首を振る。「甘いな、お前は。しかし、アニェスやルシャールのように完全な狂信者や復讐者とも違う印象があるのは確かだ。奴は自分を呪いの鎧に縛り付けておきながら、そこに未練を感じているかのように見える。俺はとにかく、お前が危険にさらされるのを望まないが……」
王としては仲間を守りたい気持ちが最優先であり、黒騎士の内面をどうこう考える余裕はないのだろう。それでもフィンブールなりに、ジャンヌが抱える疑問に理解を示そうとしているのが伝わってくる。ジャンヌはささやかな微笑みで「ありがとうございます」と返した。
“今度こそ聖女を滅ぼす”――黒騎士の悲鳴にも似た叫びは、ジャンヌの耳から離れない。自分が再び焚刑に倒れるだけが結末ではないはずだ、と感じる一方で、彼は本気で血路を開いてでもジャンヌを葬り去ろうとするだろう。その矛盾した思いを、ジャンヌはどう受け止めるのか。戦うのか、説得するのか――それとも、共に救われる道があるのか。
事態はこうして膠着したまま、王都フォルカスの日々は再び訪れる“嵐の前の静けさ”の様相を呈していた。メドラン皇国による大規模進軍は一時的に停滞しているが、アニェスやルシャールの脅威は依然として続き、黒騎士もいつどこに現れるか分からない。民衆の不安は消えておらず、ジャンヌを“魔女”と呼ぶ声が完全に収まったわけでもない。
それでもジャンヌは、前世を思わせる炎の悪夢に苛まれながらも、決して足を止めるわけにはいかないと誓う。黒騎士の痛ましい自責と復讐の告白が、彼女の心に明確な影を落としたからだ。もし史実の焚刑で彼が“救えなかった”と嘆いているなら、今度こそ救われる道があるのではないか――と。
(彼を倒さずにすむなら、そうしたい。前世では私も孤独に散ったかもしれない。でも今は、同じ悲劇を二度繰り返したくない……!)
そうして迎えた夜、ジャンヌは王宮の屋上で月を仰ぎ、ひとり思いに耽る。最近は“聖槍サン・クレール”を具現化させたまま瞑想することを試み、前世の記憶や炎の恐怖を抑える習慣を身につけていた。サン・クレールを握っていると不思議と集中でき、怖れが少しだけ和らぐからだ。
やがて、足音を忍ばせて誰かが近づく気配がする。警戒して振り向くと、そこにはフィンブールの姿があった。傷の回復途中で身体がしんどいはずだが、鎧を少しだけ着込み、夜風に当たっているようだ。
「夜更けにすまんな。どうも寝つけなくてな。……お前も眠れぬ口か?」
ジャンヌは小さく笑う。「そうですね。夢を見るたび、炎や処刑台の記憶が浮かんで……だから、こうして聖槍に触れていると少し落ち着くんです。王様こそ、傷が痛まないんですか?」
フィンブールは乱暴に「大丈夫だ」とだけ答え、夜風に吹かれながら城下の遠景を見下ろす。王都の家々には灯りがともり、かすかな明るさが連なるが、その向こうには真っ暗な闇が広がっている。メドラン皇国が迫るのも、黒騎士が徘徊するのも、あの闇の中からかもしれない。
「お前が苦しんでいるのは、黒騎士の言葉が原因でもあるのだろう? ……もし前世で本当に殺されたのなら、そいつはかつてお前を助けられなかった後悔を抱えているのかもしれん。倒す倒さないはともかく、覚悟はしとけ。奴は第二の焚刑をもって、お前を滅ぼそうとするかもしれない」
王の言葉は率直であり、優しさと厳しさが同居している。ジャンヌはハッと息を飲む。実際、黒騎士が炎で自分を焼く場面を想像してしまい、喉がひりつくような恐怖に襲われる。だが、フィンブールの隣にいると、その恐怖が少し和らぐのを感じた。
「もし本当にそうなっても、わたしはもう昔のように孤独じゃありません。あなたが、仲間がいます。だから、きっとまた助けられる。……そうですよね?」
フィンブールはかすかな微笑を浮かべ、「当然だ」とだけ返した。そして改めて、夜空を見上げる。「黒騎士にしろルシャールにしろ、俺たちは簡単には死なせん。お前がいれば、俺たちにもまだ勝機はある。生きろよ、ジャンヌ。前世か何か知らんが、二度も同じ苦しみを味わわせはしないからな」
その言葉が、ジャンヌにはどれほど心強いか計り知れない。黒騎士に襲われ、彼の苦悩を垣間見て、どうしようもない悲しみを共有してしまったが、それでも今度こそ自分が笑顔で生き残る未来を信じたいと思える。史実で救われなかったとしても、同じ運命を繰り返すつもりなどない。
「ありがとう、フィンブールさん……。わたし、もう少し頑張れそうです」
そうして二人はしばし夜風に当たったのち、それぞれの部屋へ戻る。翌日からは、またメドラン皇国の新たな脅威が押し寄せるかもしれない。アニェスやルシャールの動向に加え、黒騎士の復讐の告白がもたらす混迷はまだ続く。だが、ジャンヌは確かに一歩進んだ気がしていた。黒騎士が“かつての聖女を救えなかった”と語った事実は、自分の前世を裏付ける手がかりかもしれないし、同時に彼を救う鍵にもなり得るからだ。
***
こうして王都フォルカスの空に、新たな夜が落ちる。黒騎士の苦悩と復讐心は未解決のままだが、ジャンヌは確かな手応えを感じていた――彼の言葉には矛盾があり、殺意の奥に儚い愛や後悔が覗いているからだ。そこを突きとめれば、或いは共に破滅の運命を回避できるかもしれない。それは甘い幻想かもしれないが、史実のような悲劇を繰り返さないための一筋の希望でもある。
一方、黒騎士グリオ・ノワールは王都を離れ、夜霧の深い森の中にいた。月明かりを遮る木々の間で、呪いの鎧がかすかに喘ぐような金属音を立てる。
「くっ……。やはり、あの槍に触れるのは……苦しい……」
胸のヒビから洩れる魔力を必死に抑え込むかのように、黒騎士は大剣を突き立てながらうずくまる。面頬の奥から苦痛の声がこぼれ、「聖槍……聖女……」と呟いては、何とか鎧の呪いに耐えようとしている。その姿は、もはやメドラン皇王のために動く刺客というより、自分の苦しみから逃れる手段を探す亡霊のようだ。
「俺が……もう一度、助けようとしたのに……。もう遅い……。聖女は戻ってきたが、俺には彼女を殺すしか……。殺して……この鎧の呪いを解き放つ……!」
そう言い聞かせるたびに、鎧の表面がビリビリと震え、残虐な力が呼び起こされようとする。黒騎士は「ああ……静まれ……!」と呻き、木の根元に倒れ込む。過去の自分を責め、“救えなかった聖女”への後悔が鎧の呪いを増幅させている――分かっていながらも逃れられない。救えないのなら滅ぼすしかない。その思いが、彼を再び王都へ駆り立てるだろう。
しかし、先ほどのジャンヌとの交戦が、黒騎士の心に一抹の迷いを刻んでいた。「どうして……聖女が、俺を許そうとする……? 許さなくていい。俺は……」
苦悶の声が闇夜に吸い込まれ、森には虫の声だけが響く。そんな漆黒の闇が、また王都を包み込む日が近いのだろう。黒騎士は自分の“苦しみ”を一刀両断に断ち切るため、再び聖槍の乙女の前に姿を現すはずだ。そのとき、どちらかが破滅するまで戦うのか――あるいは、別の道があるのか。
“黒騎士の苦悩と復讐の告白”は、こうして一応の幕引きを迎えたが、実際には何も解決していない。ジャンヌの心には、彼を倒しきれなかった自責と、“救えなかった”という言葉に宿る哀しさが混じり合う。次に相まみえるときが、事実上の決着になるのだろうか。焚刑と呪いにまつわる輪廻を断ち切るために。
夜空に雲がかかり、月が陰り始める。王都を取り巻く運命の歯車は、いよいよ最終段階へ向けて回りだす。黒騎士グリオ・ノワールと聖槍の乙女の戦いは、単なる武力の衝突を超え、“前世”を賭けた魂の激突へと変貌していくのかもしれない。やがて来たるとき、ジャンヌは同じ炎に再び焼かれるのか、あるいは彼を救って共に解放されるのか――。誰にもまだ分からないまま、夜は静かに更けていくばかりであった。