第6章:銀髪の将軍アニェスの猛攻と揺れる獣王
満月が夜空を明るく照らす頃、フォルカス王国の北方境に位置する峠の砦では、緊張感に満ちた空気が張り詰めていた。砦の石壁には獣人族の旗が掲げられ、夜警を務める兵たちが慌ただしく往来している。その理由は明確だ――メドラン皇国の大軍が、すでにこの砦まであと数日の距離まで迫っているという報せが届いたからである。しかも、指揮を執るのは「銀髪の将軍」アニェス・ブラント。彼女は冷徹な戦略眼を持ち、メドラン皇国の拡張政策を成功に導いてきた立役者として知られている。獣人族にとっては、これまでの“魔女狩り”や局地的な侵略とは次元の違う、本格的な軍事侵攻が始まる予感をひしひしと感じていた。
かつてメドラン皇国は、小規模な騎士団や“黒騎士”グリオ・ノワール、さらに“敬虔な聖騎士”ルシャールらを用いて点で王都フォルカスを揺さぶっていた。だが今回は、アニェスが大規模な兵力を率いて全面進攻してくるらしい。フォルカス王国の防衛線はけっして弱くはないが、相手が用いるという“圧倒的な用兵術”を甘く見ることはできない。獣人族の王、フィンブールは部下の報告を受け、その夜からすぐに兵を増強し、砦の援軍を整え始めた。
「ここを破られれば、北方の平原を一気に蹂躙される。最悪の場合、王都への道が大きく開かれてしまうだろう」
フィンブールが荒い声でそう言うと、重鎧をまとった獣人族の将たちが神妙な面持ちで頷く。ジャンヌもその場に同席しており、聖槍の穂先をぼんやり眺めながら唇を噛む。“銀髪の将軍”アニェスがいよいよ本気を出して動き始めたという事実に、あらためて危機感を覚えざるを得ない。すでに“魔女狩り”の名目で複数の村や町が焼かれ、獣人族の被害は深刻だ。アニェスはそんな“小競り合い”の域を超えて、正面から獣人族を滅ぼす覚悟で侵攻してくる――想像しただけで、背筋が凍る思いだった。
「確かに、ルシャールや黒騎士は局所的な破壊や混乱を引き起こす存在でしたが、アニェスの名を聞いただけで、戦場の様相が変わる気がします……」
ジャンヌは部下の獣人兵に話しかけるように言葉を漏らし、彼らもまた重々しく頷く。銀髪の将軍アニェスは、一部の人間族からは「英雄」と呼ばれ、獣人族からは「虐殺者」と呼ばれる存在。かつての戦場では冷酷無比な用兵で敵を追い詰め、その容赦ない手段で恐れられてきた。しかも「炎と復讐」を胸に抱き、獣人族を憎む私怨さえあるという噂だ。それが事実なら、容赦など微塵も期待できない。どれほどの兵を殺そうと、彼女は意に介さないだろう。
「もしアニェスの大軍が国境を突破すれば、辺境だけでなく、王都へ通じる道筋にも甚大な被害が及ぶだろうな……。人間族もエルフ族も巻き込まれてしまうかもしれない。ジャンヌ、いざというときは、後退も視野に入れるべきだ。お前が捕まれば、メドラン皇国の思う壺だ」
フィンブールは王としての威厳を保ちながら、ジャンヌに声をかける。その瞳には不安が混ざっており、彼がどれだけ内心で苦しんでいるかが窺えた。王たる存在として、国境の砦を守りぬかねばならず、それを放棄すれば民の信頼を失う。だが、勝ち目が薄ければ、王自身が討ち死にする可能性だってあるのだ。
「わたしだって、逃げたいわけではありません。でも、あまりに不利なら、みなさんを巻き込んでは……」
ジャンヌの心には、焚刑に処される悪夢がちらつく。前世の記憶なのかどうかは今も判別がつかないが、炎に焼かれて死ぬ恐怖が頭から離れない。アニェスが“炎”を用いる将軍であるという噂を耳にすると、どうしても震えが止まらなくなるときがある。けれど、自分がここで逃げ去れば、また多くの獣人族や庇護を求める人々が犠牲になりかねない。覚悟を決めるしかないのだ。
「大丈夫、わたしは戦います。たとえアニェスの兵がどんなに多くても、“聖槍”を手放すつもりはありません。ふたりで踏みとどまって、何とかこの砦を守りたい」
その誓いに、フィンブールは深く息をついて微笑む。「お前がいてくれると心強い。だが、無理はするなよ。俺は王として、できる限りこの国を護る。お前はお前の信じる戦い方で手伝ってくれればいい。雷の秘術も、たやすく使いこなせるわけではないが……必要があれば、惜しまず解放してみせる」
フィンブールには“雷の血”が受け継がれており、獣人族の王家は雷を操る特別な秘術を代々隠し持っている。普段から雷撃の一端は使えるものの、本当に奥底の力を解放するには大きな代償があるらしく、フィンブール自身も身体への負担を恐れてそう簡単には行使しないようだ。しかし、アニェスの大軍が迫る以上、もうそんな悠長なことは言っていられない。王が自ら最前線に立ち、秘術を解放してでも砦を守る覚悟があるのだろう。
ジャンヌは彼の横顔をちらりと見る。獣人族の王としての気高さ、しかし同時に背負う重圧と悲壮感に心が痛む。もし王である立場でなければ、フィンブールは一個の戦士としてもっと自由に戦えるのかもしれないが、国を護る責任がある以上、自ら進退を決してしまうわけにもいかない。ジャンヌはそうした彼の苦悩を思うと、できることなら少しでも助けになりたいと願わずにはいられない。
翌朝、山肌に夜明けの光が差し込み、白く濃い霧が峠をゆっくり覆っていた。砦の見張り台から、獣人族の斥候が何やら叫び声をあげている。どうやら、谷間から大軍の人影が見え始めたというのだ。兵たちが大慌てで武器を手にし、壁上へ詰めかける。
「陛下! メドラン皇国の旗が視認できます。槍兵や弓兵を中心に、かなりの数です!」
「分かった。全員、配置につけ。決して混乱するな。こちらも矢とバリスタの準備を怠るなよ」
フィンブールの指示が砦内に響き渡り、ジャンヌもまた軽甲冑を調え、聖槍を呼び出すための心構えを整える。聖槍サン・クレールは普段こそ消えているが、彼女の意志が固まればすぐに具現化してくれる。とはいえ、相手は文字どおりの“大軍”だ。いくら獣人族が勇猛でも、数で圧倒される危険が高い。
砦の正面に広がる谷間の道を、アニェスの軍勢が縦隊を組んで前進してくる。銀色に光る甲冑や旗印が遠目にも分かり、見るだけで規律の高さが伝わってくる。先頭には騎兵隊が陣取り、その後ろに長槍を携えた歩兵がびっしりと続き、物量も相当だ。弓兵や投石器まで用意していそうな隊列に見える。獣人族の兵たちが思わず「これはまずいな……」と呟くほどの戦力差がそこにあった。
そして、その先頭で馬を進める銀髪の女性こそがアニェス・ブラント。真っ直ぐに伸びる白銀の髪を、戦場に似つかわしくないほど美しくまとめているが、容貌とは裏腹に彼女の眼は冷ややかだ。まるで獲物を見据える狩人のような鋭さを帯び、氷のように反射のない瞳で砦を見上げている。その唇が微かに動き、指揮官に何事かを告げると、周囲の兵が一斉に位置を変え始めた。どうやら戦闘陣形を組むための指示が出されたようだ。
「構えろ! まずは砦の長射程攻撃で牽制し、相手の出方を見ろ!」
フィンブールが高らかに叫ぶと、砦の上から弓矢や投げ槍が一斉に放たれる。メドラン兵の先頭がそれを見て盾を構え、ある程度の被害を受けながらも前進を続ける。さすがアニェスの率いる軍だけあって、無駄に慌てる兵はいない。行儀よく編隊を保ち、陣形を乱さずに接近してくるのだ。
「前衛、しっかり足場を固めろ! 焦るな、射程が届く者は次弾を用意するんだ!」
砦の外壁から鳴り響く兵士の怒号、そしてメドラン側の号令が尾を引き、谷間には緊迫した空気が満ちる。やがて敵陣の弓隊が止まって狙いを定め、次の瞬間、砦に向けて大量の矢が放たれた。空を埋めるかのような矢の雨に、獣人族の兵たちが盾を掲げ、石壁の陰に身を隠す。矢が石壁に当たって弾け、金属の響きが砦中にこだまする。
「やはりアニェスの用兵は手堅い……。まずはこちらの弓兵を牽制して、砦の守りを崩しながら前進する気だな」
フィンブールが唸るように呟き、ジャンヌも固唾を呑んで見守る。と、そのとき、アニェス自身が馬を進め、砦正面の視界が開けた場所へ出た。銀色の髪が風に揺れ、彼女の声が谷間を伝うように響き渡る。
「獣王フィンブールに告ぐ。あの“聖槍の魔女”をこちらに引き渡せ。さもなくば、貴様の国を徹底的に焼き尽くしてやる。私の復讐の炎に、獣人族など一握りの灰と化してしまうが、それでよいのか?」
その声は朗々としていて、まるで形式的な通告のようにも聞こえるが、その背後には強い怒りがうかがえる。フィンブールは砦の上からアニェスを見下ろし、「ふざけるな!」と一喝する。
「貴様らがどんな理由で獣人族を憎もうが、俺は絶対に仲間を差し出したりはしない! ましてジャンヌを“魔女”扱いする根拠などどこにもない。もし攻めたければ攻めてみるがいい。こちらも黙ってやられるわけにはいかん!」
その返答を聞いて、アニェスの目が冷たい光を帯びる。馬上で背筋を伸ばす彼女の姿は、どこか悲壮感すら漂うようでもある。しかし、その次の言葉は容赦なく、砦にいる兵士たちの血を凍らせる内容だった。
「よかろう。私の望みはただ一つ。獣人族を滅ぼし、私が失ったものの代償を払わせること。炎がすべてを解決するのよ……。お前たちには理解できまいが、私にも正義がある。冷酷な正義がね」
その瞬間、アニェスの背後で軍旗が大きく振り下ろされ、メドラン兵が一斉に前進を開始する。砦への総攻撃の火蓋が切って落とされた。フィンブールが「総員、備えろ!」と声を張り上げ、獣人族の兵たちが各々武器を構える。ジャンヌも身を引き締め、槍を呼び出した。まさに、一大決戦の幕開けである。
激しい矢の交換、投石機やバリスタによる砦への打撃が続き、石壁にはひび割れが広がっていく。メドラン軍の槍兵が外壁に取りつき、長い梯子をかけて突入を図ってくる。獣人族の兵が上から熱した油や岩塊を落とし、それを阻もうとするが、敵の数が多すぎる。さらに、アニェスが巧みに指揮をとって各部隊を配備し、砦に圧力をかけてくる。
「なんて緻密な動き……少しずつ包囲を狭め、こちらの弓兵を封じ込めようとしているのか……!」
ジャンヌは外壁の隙間から戦況を見下ろし、アニェスの戦略に驚かされる。彼女はただの強行突破ではなく、砦の弱点を見極めながら、確実に包囲を完成させている。ところどころで煙が上がり、火矢が射込まれた場所から炎が広がりつつあるのが分かる。アニェスは炎を使うことを躊躇しない。まさに「炎と復讐」を胸に抱いていると噂される彼女の恐ろしさが、目の当たりにされている。
「まずいぞ、火が回り始めた。消火班を回せ! だが外壁を突破されたら終わりだ……ここで踏ん張るんだ!」
フィンブールが声を張り上げ、獣人兵たちは必死に応戦する。しかし、そこへアニェスの騎兵隊が突出し、砦の側面を急襲しようと突撃をかけてきた。彼女が先陣を切って馬を駆り、脇腹を狙うように剣を振り下ろす。砦の側壁に回り込みたいための陽動だったのか、見事に獣人族の連携が乱される。
「ここで退かせるか……! 雷よ、我に応えろッ!」
フィンブールが渾身の力で大剣を掲げると、天候さえ従うかのように雲が集まり始め、稲光が空を切り裂いた。バリバリという音とともに雷の閃光が地面へ一直線に落ち、メドランの騎兵の一部が薙ぎ払われる。轟音で馬が怯え、アニェスの隊列が一瞬動揺する。
「く……これが獣王の雷の秘術か」
アニェスは馬上で体勢を立て直しながら、小さく舌打ちしたように見えた。だが、すぐに彼女は傍らの兵士に合図を送り、新たな突撃を指示する。雷撃の衝撃を受けても、メドラン軍は崩壊しない。兵たちはやや後退しながらも、すぐさま再編し、別の角度から砦に圧力をかける。この柔軟な戦術と統率力こそ、アニェスの真骨頂だった。
ジャンヌはそれを目の当たりにし、砦の上から弓兵の隙を突いて聖槍を投擲しようと試みるが、相手の布陣が巧妙すぎて決定打を与えられない。そこかしこで炎が拡がり、獣人兵たちが悲鳴を上げながら火を消そうとしている。さらには弓兵隊同士の撃ち合いで死傷者も増えていく。明らかにフォルカス王国側が不利だった。
「やはり数が違う……それに、アニェスの指揮は完璧に近い。少しでも付け入る隙を見せれば、すかさず切り崩されてしまう……!」
限界を悟ったフィンブールが部下たちに指示を出す。「外壁を諦めて、内側に兵を下げろ! 防衛ラインを再編するんだ。ジャンヌ、焦るなよ。お前は俺とともに中心部で戦線を立て直す。雷の秘術を使いすぎると俺自身も危ないが、ここで退けば王都が危ういからな」
「わかりました。わたしも聖槍を全力で振るいます。……だけど、フィンブールさんの身体が……」
実は、先ほどの雷撃を行使したときから、フィンブールは小さく咳き込み始めている。雷の秘術を用いると、血や肉に相応の負担がかかるらしい。王族であっても無制限に使えるわけではないのだろう。しかし、今の状況ではそうも言っていられない。アニェスの猛攻に対し、雷以外の手段では砦を守りぬくのは難しい。覚悟を決めた王の背中に、ジャンヌはいたたまれない気持ちを抱きながらついていく。
内側へ撤収を始める獣人兵を見て、アニェスは容赦なく追撃命令を下す。砦の門を破壊しようとする工作隊が動き出し、大きな撞木が砦の正面扉を狙ってゴンゴンと衝突を繰り返す。周囲のメドラン兵は弓や投石で援護し、獣人兵が近寄りにくい状況を作り出している。まるで相手の次の行動を予測したかのような布陣だ。
「これほどまでに綿密に攻め立てるとは……」
ジャンヌは戦火の中で混乱しつつも、アニェスの戦略に圧倒される。火矢と石弓、そして歩兵の突撃が三拍子そろい、獣人族の防衛陣をじわじわと崩し始めているのだ。一方、フィンブールは自ら前線を走り回って指示を飛ばし、空中から稲妻を引き落として敵の進行を阻もうとするが、そのたびに咳き込む姿が目につく。王としての威厳を失わないように気丈に振る舞っているが、無理をしているのは明らかだ。
「フィンブールさん、少し休んでください。わたしが……」
「甘ったれるな、ジャンヌ。俺はこの国の王だぞ。ここで引けば、兵たちの士気が崩れる。まだ……まだやれるさ……!」
雷を纏った大剣で迫るメドラン兵を一太刀に切り裂き、フィンブールが血気盛んな咆哮をあげる。その姿は獣人族の戦王として揺るぎないが、ジャンヌの目にはあまりに悲壮に映る。もしこのまま秘術を乱用すれば、彼が命を落としてしまう可能性さえあるのではないか――そんな不安が胸に広がる。
そして、戦況がさらに悪化したとき、ひときわ高い炎が砦の西壁付近からあがった。メドラン兵が仕掛けた火攻めによって、砦の一角が崩落し始めたのだ。その光景を目にして、フィンブールとジャンヌは顔を見合わせる。崩落した部分から、敵兵がなだれ込んでくる危険がある。そこを放置すれば砦全体が陥落しかねない。
「……ジャンヌ、お前は西壁へ行け。あそこを放棄すれば全部終わりだ。俺は中央で踏ん張る。もしアニェスがここを狙ってきたら、俺が受けるしかない」
「でも……あなたが危ない……!」
「心配するな。お前も死ぬなよ。次に雷を大きく呼べば、俺も正直限界かもしれんが……ここで立ち止まれば王都までが火の海になる。これが俺の役目だ」
フィンブールの言葉には、自らの死をも覚悟した決意が込められていた。その横顔には、獣人族の王としての厳しさと、どうしようもない悲しみが交錯しているように見える。ジャンヌはその表情を見て、胸が張り裂けそうになる。だが、今は戦場の真っ只中。何も言い返せず、無理やり気持ちを振り切って西壁へ向かって走り出す。
砦の西壁は、すでに数名のメドラン兵が火炎壺を投げ込み、内部の木製構造に火が回っている状態だった。そこを守る獣人兵が必死に応戦するが、炎の熱と煙で動きが鈍くなり、敵の突破を許しかけている。ジャンヌは聖槍を振るって火炎壺を払い落とし、一人でも多くの仲間を救おうと奮戦する。
「くそっ……炎……!」
焚刑の悪夢が一瞬フラッシュバックし、思わず足がすくむが、それでも槍を手放さない。目の前で苦しむ獣人兵を助けるためには、逃げるわけにはいかないのだ。突き上げてきたメドランの槍を柄で逸らし、逆に穂先を突きつけて敵を倒す。矢が飛んできたら壁を背に回避しながら、防ぎきれない分は槍の回転で弾く。限界ギリギリの集中力で戦う中、視界の端に“銀色の髪”が一瞬揺らめいた気がした。
「アニェス……!? いや、違う……?」
焦げ臭い空気を吸い込みながら、ジャンヌは辺りを見渡す。確かに銀髪らしき影が視界を横切ったのだが、その姿はすぐに混戦の中に消えた。もしかすると、アニェスが西壁の突破を自ら確認しに来ているのかもしれない。考えただけでも恐ろしいが、一方でジャンヌの胸には妙な興味が湧く。アニェスが「炎と復讐」を抱き、この侵略に打って出た理由――それが何なのか。相手にも相手の“正義”があると、ルシャールのときとはまた違う意味で思わされるのはなぜだろう。
「火を消せ! このままじゃ崩落する!」
獣人兵が叫ぶのを聞き、ジャンヌは思考を振り払って消火を手伝う。砦の西壁内部には水桶がいくつかあるが、人手が足りず対応が追いつかない。それでもどうにかして炎を抑えないと、メドラン兵の侵入を許してしまう。聖槍を地面に突き立て、水桶を持って必死に火にかけるが、どこからか次々と火矢が飛んできて消火を妨害する。このままではジリ貧だ。
だが、そのとき遠くで轟音が響いた。雷鳴にも似た音が砦全体に反響し、振り返ってみると、中央のあたりに真っ白い稲光が一瞬炸裂している。フィンブールが再び雷の秘術を大きく使ったのだろう。激しい閃光の残滓が空を切るのを見て、ジャンヌは「フィンブールさん……!」と息を飲む。彼はすでに何度も雷を呼び出している。今度こそ本当に危ないかもしれない。
それでも砦の混乱は収まらない。アニェスは容赦なく攻勢を継続し、メドラン兵が壁を登り始める。中には明らかに獣人族を殺すこと自体を楽しんでいるような凶暴な者もいて、ジャンヌは嫌悪感で胸がむかつく。だが、敵の一部がそんな嗜虐心を見せる中、他の兵は淡々と命令をこなしているだけにも見える。“銀髪の将軍”に従う兵たちが抱く信念や義務感はどんなものなのか――ここは敵地でもあり、まったく理解が及ばない。
激戦が続いた末、ついに大きな衝撃音が轟き、砦の門が崩れたらしいと知らせが入る。中央で指揮をとっていたフィンブールも、深手を負ったまま必死に兵を鼓舞していると聞くが、その詳細は分からない。ジャンヌは歯ぎしりしながら消火と応戦を続けるが、メドラン兵の猛攻で獣人兵の犠牲者が急増しているのが肌で感じられた。
「もう、これ以上はもたない……。本当に全滅してしまう……」
頭を巡るのは敗北の二文字。砦が陥落すれば、アニェスの大軍は王都を目指して一気に侵攻するだろう。まさに正念場だ。だが、どうすれば打開できるのかまるで見えない。フィンブールが雷の秘術をさらに使えば、あるいは一時的に敵を吹き飛ばすこともできるかもしれないが、王自身が命に関わる。ジャンヌも聖槍を振るっているが、大軍の包囲を覆すほどの力は持たない。
激戦の最中、不意に明瞭な女の声が砦内に響いた。それは低くも高くもない、どこか冷たい響きを持つ声。耳を澄ませば、戦場の騒音の合間をぬって明瞭に届いてくる。
「獣王フィンブール……いるのなら姿を見せなさい。これ以上の無駄な抵抗はやめるべきだ。私には、まだ“情け”がないわけでもない」
まるで挑発のようであり、同時に最後通牒のようにも聞こえる。その声の主こそ、アニェス本人なのだろう。ジャンヌは火の手から少し離れた場所に陣取り、彼女がどこにいるのか探した。すると、砦の中央部へと続く石畳の上に、銀髪を揺らす騎馬姿が見えた。両脇にはメドランの騎兵が固めている。まさに高貴な女将軍の威圧感と冷たさを兼ね備えた佇まいだ。
アニェスは高らかに宣言するように叫ぶ。「私に立ち向かうなら、ここで灰と化すだけ。見ろ、あちこちで火が燃え上がっている。貴様ら獣人族が誇る砦も、もはや限界だ。……それでも死を望むなら、止めはしない。だが、貴様らが賢明なら“聖槍の魔女”だけでも差し出せ。そうすれば多くの命を無駄に失わずに済む」
その言葉を受けて、砦の中にいる兵士たちの中から、動揺が走る者が出るかもしれない。しかし、ジャンヌは耳を疑った。まるで、自分を引き渡さなければ炎で全員を焼き尽くすと脅しているように聞こえる。ルシャールは“神の名”を口にする狂信者だったが、アニェスはある種の論理性をもって“炎による復讐”を行使しているようだ。どちらにせよ獣人族にとっては悪夢に等しい。だが、アニェスの背後にも彼女なりの正義があるのだろうか。そう考えると、ジャンヌの心は混乱を深めるばかりだった。
「その通りだ、貴様の正義など俺が知ったことか……!」
フィンブールが血をにじませながら姿を現した。大剣を杖がわりにしているのか、足元がややおぼつかない。深い切り傷や凶暴な雷の力の反動で、呼吸も荒い。それでも獣王の威厳を失わず、アニェスと対峙する。
「王……!」
ジャンヌが駆け寄ろうとすると、フィンブールが手で制する。「来るな、ここは……俺がケリをつける。貴様、アニェス・ブラントとか言ったな。この砦を焼くのが目的なら、やれるものならやってみろ……。だが、その前に俺が貴様を叩き斬る。雷の力が尽きるまで、俺は倒れん……!」
よろめきながらも毅然としたフィンブールの言葉に、アニェスの目が一瞬細まる。「私からすれば、そこまでして獣人族を守る理由が分からない。お前が王だから? それともくだらない誇りか? 所詮は異端の血脈……。私からすれば、なぜこんな“獣”を愛する者がいるのか、理解できないね」
その言葉には、深い憎悪と悲しみが同居しているように感じられた。ジャンヌは思わず声を上げそうになる。まるで、彼女自身に家族や大切なものを獣人族によって奪われた過去があるかのようだ。だからこそ“炎と復讐”を糧に、ここまで冷酷になっているのだろうか。だが、そんな理屈をぶつけ合っても解決するはずがない。アニェスの憎しみは深く根付いていて、簡単に消えるようなものでもないのだ。
「俺に理解を求める気などない。だが、これ以上は通さん。獣人族の血をさらに流すと言うなら、この雷で貴様を焼くのみ……っ!」
フィンブールは大剣を振りかざし、再び稲光を呼び起こそうとする。だが、その顔には明らかな苦痛が浮かんでいる。何度も雷の秘術を乱発し、身体に負担が積み重なっているのは明白だった。ジャンヌが止めようにも、アニェスはもう攻撃態勢に入り、騎馬から飛び降りて獣王に向かって剣を構えた。周囲のメドラン兵が「将軍、お下がりください!」と叫ぶが、彼女は首を横に振り、周囲を払うように手で示す。
「引け。これは私と獣王の問題だ。私の炎か、あんたの雷か、どちらが上かを決めてやろう」
静寂が瞬時に広がり、ジャンヌは思わず息を呑む。フィンブールとアニェス――王と将軍が一対一の形で刃を交える構図になりつつあった。もしフィンブールが限界を超えて雷を放てば勝てるかもしれないが、その代償で命を落としかねない。かといって、このまま手加減すればアニェスに討たれる恐れがある。ジャンヌは槍を構えて割り込もうとするが、フィンブールは「手を出すな」と威圧的な目で制止する。
短い沈黙の後、アニェスが刃を横に一閃し、火花が散る。その剣先には油でも塗ってあるのか、揮発性の液体が滴り落ち、空気に触れた途端にぼっと小さな炎が上がる。戦場の喧騒に混じって、低い轟音が聞こえた気がした。次の瞬間、アニェスが猛スピードでフィンブールに斬りかかり、フィンブールは大剣でそれを受け止める。
「っ……!」
剣戟の衝撃でフィンブールが歯を食いしばり、足元がぐらつく。しかし、なんとか踏みとどまって反撃に移ろうとするが、アニェスは一瞬で間合いを外し、その上で炎をまとわせた剣を切り下ろす。フィンブールは苦しそうに雷の力を溜め、半ば強引に稲妻を剣へ纏わせる形で相打ちに近い状態を作る。轟音とともに稲光と小さな爆炎がぶつかり合い、煙が二人を包み込んだ。
「フィンブールさん……!」
ジャンヌは煙をかき分けて駆け寄り、二人の姿を探す。周囲の獣人兵もメドラン兵も息を殺して見守る。やがて、煙の中から姿を見せたのはアニェス。腕に火傷の跡が見え、口元から血を流しているが、その目には殺意がゆらめいていた。一方、フィンブールは片膝をついて咳き込み、明らかに限界に近い。再度の雷撃に身体が耐えきれなかったのだろう。
「あなた……なかなか強いわね。でも、その程度の雷では私の炎は消せない」
アニェスが剣を構え直し、とどめを刺すように前進する。フィンブールは必死に剣を握るが、腕が震えているのが遠目にも分かる。今にも倒れてしまいそうな姿に、ジャンヌはいても立ってもいられず、槍を抱えてアニェスとの間合いに走り込んだ。
「もうやめて! これ以上は、あなたにも取り返しのつかない事態を招くだけよ!」
しかし、アニェスはジャンヌを冷たく睨みつける。「お前が“聖槍の魔女”か。ふざけた話だ。貴様らが殺してきた人間族の数を知っているのか? 獣人族が人間を何度裏切り、いくつの家族を焼き殺してきたか……。私にはその一端を直接味わわされた過去がある。今さら説教でもする気?」
思わず息を詰まらせる。確かにジャンヌには、アニェスの言う“過去”を否定するだけの材料がない。獣人族が何らかの戦争でアニェスの大切な人を奪ったのかもしれない。そうだとすれば、アニェスが燃え上がる復讐心を武器にしている理由も分かる気がする。だが、ジャンヌはそれでも叫ばずにはいられない。
「たとえそうでも、あなたが今やっていることは……同じことの繰り返しです。復讐が復讐を生んで、どれだけの命が失われるか分かっていますか……!?」
「知っているわ。だからこそ、私は最後まで炎で焼き尽くして、自分の心に決着をつける。獣人族への憎悪は、私が生きる理由そのものよ。そこにお前たちの理屈は通用しない」
アニェスの瞳に宿る憎しみは深く、まるで氷と炎が同居しているような矛盾した冷たさと熱さがある。ジャンヌはその視線に射すくめられそうになりながらも、一歩も退かない。もしこの場でフィンブールが討たれれば、砦は落ちる。王都へ侵攻が一気に進み、さらなる血が流れるのは確実だ。そんな未来を容認するくらいなら、少しでも自分が代わりに立ち回って時間を稼ぎたい。
「わたしも、過去に炎で殺された記憶があります。前世なのか夢なのか分からないけれど……だからこそ、これ以上、誰かが炎に焼かれる光景を見たくない。あなたの復讐心も……悲しいけれど、やめてほしい……!」
涙が滲むような思いで言葉を振り絞る。しかし、アニェスは眉一つ動かさず、「気持ち悪い御託ね」と吐き捨てる。すでに彼女は再度剣を振り上げ、フィンブールへとどめを刺す気満々だ。ジャンヌがそれを止めるために、聖槍を水平に構えるが、アニェスの剣には依然として小さな炎がまとわりついている。万が一ぶつかり合えば、こちらも無事では済まないだろう。
「どいて。お前を相手にしている時間はない。王を仕留めるのが先……!」
アニェスの剣閃がジャンヌを薙ぎ払おうとした瞬間、割って入るように獣人族の兵数名が突撃してきた。戦いに混ざろうとする仲間を見て、アニェスは一瞬後ろに跳んで距離をとる。ここで将軍が無理をして負傷すれば、大軍の指揮に支障が出るからだろう。彼女は唇を噛みしめながら周囲の兵に退避を促し、ひとまず深追いはしない姿勢をとった。
そのわずかな隙に、ジャンヌはフィンブールを支えて少し離れた安全な位置へ移動する。フィンブールは口から血を吐き、息が乱れている。もう本気で雷の秘術を振るう力は残っていないだろう。砦の中は炎や死体の山だ。メドラン軍は当面、アニェスの命令で無理をせずじわじわと砦を包囲するに留めているように見える。まるで獣人族の兵力を消耗させてから一網打尽にしようと考えているのかもしれない。
「す、すまない……お前にまで迷惑を……」
フィンブールが弱々しく呟く。ジャンヌは彼の血を拭いながら首を振る。「そんなこと言わないでください。ここまで国を守るために戦って……わたしこそ何もできなくて、もどかしい……」
周囲で兵士たちが必死に防衛線を立て直そうとしているが、アニェスの大軍の前では焼け石に水だ。砦の門が破壊され、壁も崩れかけている今、ここで戦い続けるのは現実的ではないかもしれない。退却を選ぶか、それとも玉砕覚悟で最後まで粘るか――フィンブールにとっては苦渋の決断だろう。
そのとき、低い声で誰かが提案を口にする。「陛下……もう引きましょう。これ以上は無理です。砦を捨てれば、多少の時間は稼げます。王都へ戻り、改めて防衛策を練えましょう。アニェスの大軍に対抗するには、まだ兵が足りない……」
それは獣人族の古参将校。多くの部下を失いながらも冷静さを保っているようだ。フィンブールはその言葉に苦い顔をするが、反論できない。事実、この砦を死守するには兵力も物資も圧倒的に足りず、何よりフィンブール自身がこのまま倒れれば王都を率いる者がいなくなる危険がある。
「……王都まで引くのか。これほど多くの仲間が血を流して……」
「陛下、敗北ではありません。これは一時的な戦略的撤退です。砦は落ちても、まだ戦いは終わりではない。獣人族が生き延びている限り……ジャンヌ様も含め、まだ希望はあります」
古参将校の説得を聞き、フィンブールは悔しげに拳を握りしめる。だが、ジャンヌがその肩に手を添え、「わたしも帰りましょう。ここで全滅してしまったら、あなたの民はもっと苦しむことになる。まだ戦いは終わっていない。わたしだって諦めていないんです」と静かに呼びかけると、彼はうなだれながら小さく頷いた。
「……ああ、分かった。兵を撤退させよう。アニェスめ、あとで必ず返り討ちにしてやる……!」
こうして獣人族の守備隊は、砦を放棄して王都方面へ後退を始める。兵たちが夜陰に紛れて脱出経路を確保し、メドラン軍の包囲網が完全に閉じきる前に脱出する算段だ。ジャンヌもフィンブールを肩で支えながら移動し、命からがら砦を離脱した。崩れゆく砦に火炎の柱が立ち昇り、遠くでアニェスの軍旗がはためいているのが見える。夜風にまぎれて聞こえるのは、メドラン兵の勝鬨か、それとも獣人兵の断末魔か――分からないほどの雑踏が辺りに満ちていた。
こうして“銀髪の将軍”アニェスは、フォルカス王国の重要拠点の一つを落とす大戦果を挙げ、北方への進軍を確実なものとした。獣王フィンブールは辛くも生き延びたが、その傷は深く、雷の秘術が彼の身体を蝕んでいるのが明らかだった。ジャンヌも疲労と心の痛みに苛まれ、砦を失ったという事実に胸を痛める。これほどまでに不利とは――メドラン皇国の軍勢が本気で“異端”を滅ぼしにかかる脅威を、まざまざと見せつけられた格好だ。
「アニェスが燃やしてきたのは、砦だけじゃない。獣人族の心も、わたしたちの希望も、全てを炎で焼こうとしている。でも……わたしたちは、立ち上がらなくちゃ。まだ……まだ負けたわけじゃない」
闇夜の中、茨だらけの山道を辿り、獣王や生き延びた兵たちとともに王都への道を急ぎながら、ジャンヌは決意を噛み締める。アニェスの狂おしいほどの復讐心と、そこに宿る彼女なりの正義。獣人族の歴史の闇が、こんな形で跳ね返っているのかもしれない。とはいえ、だからといって滅びるわけにはいかない。フィンブールが王として背負う責任を、今度こそ自分も支えてあげたい。痛みや悲しみを分かち合いながら、まだ見ぬ「新しい未来」へと歩みを進めなくてはならない。
“人を焼く炎”と“雷の秘術”。どちらも絶大な力を持つが、それが人々を救うか滅ぼすかは、使い手の心次第だろう。アニェスは炎を憎しみの道具として使い、フィンブールは雷を仲間を救うための糧として使う。ジャンヌはその二人の狭間に立ち、どちらにも相応の“正義”があることを感じてしまう。この矛盾をどう乗り越えるのか――その答えを見つけられるまで、彼女もまた立ち止まるわけにはいかない。
こうして、一度は敗退し、砦を明け渡した獣人族は、改めて王都への防衛体制を整えるべく後退する。アニェスの軍勢は砦の陥落を契機に北方の支配を進め、さらに大軍を率いて王都への道を切り開くつもりだろう。獣王フィンブールは重い傷を抱え、ジャンヌにも苦しい選択が迫られる。だが、薄暗い山道で血と汗にまみれながらも、彼女は聖槍を両腕で抱きしめ、絶望の中に微かな光を見出そうとしていた。
(アニェスにも理由がある。わたしたちにも守る理由がある。正義が交わらないままぶつかれば、多くの命が奪われるだけ……。でも、本当にそれしか道がないの……?)
そんな問いが何度も頭を過ぎる。復讐の炎を背負うアニェスの姿が、目を閉じるたびにちらつく。あの銀髪に宿る狂気と悲しみ。それが最終的に何を生むのか分からないまま、ジャンヌはフィンブールの手を握りしめていた。王としての厳しさと、痛みをこらえる悲壮感に寄り添いながら、今はただ、次の戦いに備え、命を繋ぎとめるしかないのだ。
夜は深まり、敗走の道のりは険しい。だが獣人族も、人間族のジャンヌも、それぞれが譲れぬものを抱え、歩みを止めることはない。大きな炎の傷跡を残した砦が、遠くで闇に沈んでいく。銀髪の将軍の猛攻に耐えきれず破れた苦渋を胸に、フィンブールたちは“次”を見据える。そしてジャンヌもまた、いずれアニェスの内面に踏み込まざるを得ないと感じていた。戦場では相容れぬ敵同士として剣を交えても、いつかは彼女の“復讐”を理解しなければ、また同じ悲劇を繰り返すだけかもしれないのだから。眼下の道は血と涙でぬかるみ、焚刑の悪夢が絶えず心を蝕む。それでも、彼女は槍を離さない。雷と炎が再び交わるとき、そこにどんな未来が待ち受けるのかは、まだ誰にも分からない。