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第4章:王宮の政治と“黒騎士”の影

夜の闇が王都フォルカスを包み込もうとしている頃、城壁の上には淡い月光が降り注いでいた。白く輝く石造りの壁と複雑な装飾が施された塔――この町の独自文化を象徴するように立ち並ぶ建造物が、夜の静寂に浸されている。だが、静けさとは裏腹に、獣人族の兵士たちは昼間よりも多く巡回に出ていた。メドラン皇国からの“魔女狩り”侵攻、あるいは潜入を警戒しているのだ。最近は街の出入り口での検問が強化され、夜間の往来に対しても入念な取り締まりが行われている。その様子は王都の住民から見れば、少し物々しすぎると思われるほどだった。


しかし、兵士たちの眼を盗む影が一つ、城壁を背にして暗がりの路地を滑るように進んでいた。漆黒の甲冑に身を包み、兜の面頬からは感情を窺い知ることすらできない。その身体からはまるで“瘴気”にも似た禍々しさが漂い、近づくだけで寒気を覚えるような不気味さがある。光が差せば甲冑の輪郭が歪むかのように見え、まるで周囲の空間すらねじ曲げるかのようだった。


この男こそ、メドラン皇国に仕える“黒騎士”グリオ・ノワール。噂によれば、その鎧には呪いがかけられており、絶対に脱げないばかりか、着込む者の魂を蝕むとも言われている。甲冑の下にどんな顔があるのか、どんな素性であるのか、誰も知らない。現にメドラン皇王レオナルト二世ですら、彼を“呪われし従者”と呼び、仮面の下を見たことがないとされている。そんなグリオ・ノワールがいま、王都フォルカスに潜入しているらしい。夜の街で“黒い騎士”を見かけたという噂がまことしやかに囁かれ始めたのは、つい数日前のことだ。


もっとも、王都の住民の多くは、その情報を半信半疑だった。獣人族の王都は人間族よりもはるかに警備が厳重であり、しかも昼夜を問わず獣人族特有の鋭い感覚で不審者を探知する仕組みが確立されている。そんな中、どうやって黒騎士が忍び込めるのか――常識的に考えれば不可能に近い。それでも、メドラン皇国の“魔女狩り”がこれほど激化している以上、どんな非常識が起きても不思議ではないと思わせる空気があった。


そして、現に“非常識”は起きていた。グリオ・ノワールは城壁下の外灯が届かない路地を選び、まるで地を滑るかのように移動している。獣人族の鼻や耳の鋭さを掻い潜るためか、気配を限りなく薄くしているのが分かる。呼吸さえも抑えこんでいるのか、不自然なくらい人の生体反応が感じられない。王都のどこを目指しているのか――その目的は闇の中に沈んだままだ。


やがて彼は城壁をくぐる細いトンネルの脇へと足を運んだ。そこはかつて、非常時のために設けられた抜け道らしいが、今は廃れて誰も使っていない。あるいは一部の秘密裏の連絡路として利用されているのかもしれない。グリオ・ノワールは甲冑の手甲をゆっくりと壁に当て、微かに残っている彫刻をなぞるようにしている。その手先はどこか懐かしむようでもあり、あるいは何かを探しているようでもあった。


「……」


言葉は発しない。鎧の擦れる音すらほとんどない。暗闇に溶け込むような漆黒の姿で、闇夜の王都に潜む黒騎士。彼は皇王レオナルト二世から密命を帯びていると噂されているが、その具体的な内容は謎に包まれている。メドラン皇国が目論む侵略の一環として、あるいは“聖槍の乙女”の存在を確かめるためか。いずれにせよ、この行動が波乱を巻き起こすのは確実だろう。


一方その頃、王宮の一室では深夜にもかかわらず、明かりが灯っていた。疲れを帯びた顔で机に向かうのはジャンヌ・ダルク――獣王フィンブールに招かれて王都へやってきた“聖槍の乙女”である。少しだけ乱れた髪を手櫛で整え、目の前の文書を眺めては溜息をつく。そこにはメドラン皇国の魔女狩りや、北方の境界付近での騒動について、詳しく書き込まれた報告書が並んでいた。彼女は昼間の評議会で聞いた話を整理し、自分の言葉でノートに記していたのだ。


「正直、どれだけ頭に入っているのか分からない……」


呟きながら机を閉じ、ぼんやりと窓の外を見やる。夜の王都は静かだが、先ほどの評議会では話し合いが紛糾したことを思い出す。特に「人間族との同盟を渋る獣人族」たちがいて、ジャンヌを含む人間族を完全に信用できないという意見が噴出したのだ。メドラン皇国の存在を恨むあまり、“人間は皆同じ穴のムジナだ”と断じる者すらいる。


もちろん、フィンブールはそれをたしなめ、ジャンヌの聖槍こそがこの戦いを切り拓く希望であることを説いてくれたが、一度根付いた不信感を取り除くのは容易ではない。むしろジャンヌが“聖槍”という得体の知れない力を扱うからこそ、彼女を異端と疑う声も少なからずあるのだ。


「私だって、何者か分からないし……」


聖槍を握る瞬間、自分が本当に史実の“ジャンヌ・ダルク”なのか、それともまったく別人なのか。はたまた、前世の記憶が中途半端に絡んだ謎の存在なのか。そのどれにも確信を持てない。そんな曖昧な存在に大国の命運を委ねるなど、冷静に考えれば確かに不安だろう。だからこそ、ジャンヌは今必死に勉強している。王都を治める獣人族の風習や政治、メドラン皇国の宗教的背景など、一つでも多く吸収し、自分の立ち位置を明確にしたい。それが不信感を和らげる一歩にもなるはずだ。


「もう少し頑張ろう……」


決意を新たに再びペンを取ろうとした時、部屋の扉が控えめにノックされた。何事かと返事をすると、侍女らしき女性が顔を出す。手には小さなランプを携え、丁寧に一礼した。


「深夜に失礼いたします。陛下の使者が、ジャンヌ様をお呼びしております。お時間は大丈夫でしょうか?」


「フィンブールさんが? こんな時間に……」


驚きを隠せず立ち上がる。何か緊急事態でも起きたのか。それとも、先ほどの評議会の件で決断が下りたのか。胸の奥で淡い不安が生じるが、断るわけにもいかない。聖槍の乙女という立場もあるが、何よりフィンブールの意図を汲み取りたいと思う気持ちが強い。


「分かりました。すぐに向かいます」


侍女に従って廊下に出ると、案内役の近衛兵が短く頭を下げ、足早に先導を始めた。夜の王宮は昼間とは打って変わって閑散としている。けれど、窓際や通路の角には必ず数名の兵士が立っており、隙のない警戒態勢が敷かれているのを感じる。辺境の村からすれば別世界のような光景だが、これが“王都の防備”なのだろう。魔女狩りの噂が広まるほど、皆の表情は険しくなる一方だ。


「陛下は玉座の間にはいらっしゃらず、執務室に待機とのことです」


近衛兵の説明を聞きながら、ジャンヌは心の中で呟く。なぜ深夜に執務室なのか。もしかしたら、メドラン皇国の動きに関する新情報が入ったのかもしれない。あるいは、王都内で不穏な事件が起きた可能性もある。いずれにせよ、落ち着いて対応しなくては。


案内された執務室は、王宮の中でも比較的奥まった場所に位置していた。扉を開けると、獣王フィンブールが大きな机の前に立ち、地図を眺めている。その横には数名の側近が小声で相談を交わしていたが、ジャンヌが入室すると皆が一斉に視線を向ける。


「夜分遅くにすまないな、ジャンヌ。座ってくれ」


フィンブールはいつも通り低い声で言い、机の前に置かれた椅子を指し示す。その表情は険しく、何か重大な決断を迫られている気配が漂っていた。ジャンヌは静かに席に着き、息を整える。


「呼び出しということは……何か緊急のことがあったんですか?」


「察しがいいな。その通り、少々ややこしい情報が入った。まず大前提として、今日の評議で話が出た“メドラン皇国の密偵が王都に潜り込んでいる”という疑惑――どうやらそれが現実らしい。しかも、既に複数の目撃証言がある。夜の街で“黒い鎧を纏った騎士”を見たという話だ」


ジャンヌはそこで身を乗り出す。黒い鎧を纏った騎士――まさしく“黒騎士”グリオ・ノワールのことだろう。評議会でその名が挙がったばかりだが、本当に潜入していたのだとすれば大事件だ。フィンブールが奥歯を噛みしめるように言葉を続ける。


「どうやって侵入してきたのかは不明だが、獣人族の感覚を掻い潜っている以上、ただの騎士ではない。呪いの鎧を纏う“黒騎士”である可能性は高い。奴が王都にいる理由は二つ考えられる。ひとつは情報収集と内乱の工作、もうひとつは――」


言葉を継がずとも、ジャンヌには想像がつく。“聖槍の乙女”たる自分を狙うこと。メドラン皇国が異端を排除するためなら、彼女を暗殺する可能性は十分にある。実際に“魔女狩り”の標的として、最も象徴的なのはジャンヌと“聖槍”かもしれない。


「……私を探しているのかもしれませんね」


「そうだろうな。もっとも、奴がどう動くか読み切れない。人知れず王都を混乱に陥れる可能性だってある。だから、今後しばらくは警戒態勢を一段と強める。ジャンヌ、お前もなるべく外出は控えてくれ。先程から城門付近にも兵を増派しているが、何かあればすぐ知らせるように」


ジャンヌは苦い表情で頷いた。黒騎士が仕掛けてくる可能性を思うと、怖気が立つ。あの“呪いの鎧”という言葉の響きだけで、不気味な殺気を感じるようだった。フィンブールの側近と思しき獣人族が、手元の紙束をめくりながら補足情報を語る。


「実は、先ほど闇取引を行う商人が拘束され、その商人から“皇国の騎士らしき者との接触を目撃した”という自白を得ました。黒い鎧が宵闇にまぎれ、取引を見張っていたとか。おそらく王都内の闇社会や、獣人族を嫌う人間族の一部とも接触している可能性があります。街中に小さな混乱を起こし、人心を揺さぶるのが狙いかと」


「なるほど……それこそ敵国の常套手段ですね。内部から情報を抜き取って、もしくは破壊工作をして、私たちを分断するつもりなのかもしれない」


ジャンヌの言葉を受け、フィンブールは険しいがどこか静かな怒りを含んだ眼差しで地図を睨んだ。「奴らが何を企もうと、これ以上王都を乱されるわけにはいかない。獣人族の中にも、人間族を快く思わない者は多い。そこを刺激されれば、こちらが分断される可能性もある。この“黒騎士”の影を放置しては危険だ」


そう断じる彼の姿は、まさに王としての責務を背負う者そのものだった。ジャンヌは少しだけ心を強くして、訊ねる。「それで……私にできることはありますか? ただ籠もっているだけじゃ、黒騎士が何を狙っているのか分からないし、どんな陰謀を企んでいるのか把握できません」


フィンブールは迷うように視線を落とすが、やがて意を決したように口を開いた。「本当なら、お前を外に出したくはない。だが、確かに手が足りないのも事実だ。もしお前がよければ、昼間のうちに王都内の様子を見て回ってほしい。人間の視点で、獣人族の悩みや不満を直接聞いてほしいのだ。今、我が国の住民たちは“魔女狩り”への恐怖はもちろんだが、人間族すべてを敵視するような感情も秘めている。そこを突かれれば内紛が起きかねない」


確かに、ジャンヌが“聖槍の乙女”であり、同時に人間族であることは、この王都に住む獣人族にとって複雑な心境を抱かせるだろう。メドランに故郷を焼かれ、家族を失った者であればなおさら、人間族に敵意を向けても不思議ではない。中には“同じ人間族に手を貸すなど言語道断”と訴える極端な意見もあるに違いない。


「そうですね……私も、獣人族のみなさんともっと直接話してみたかったんです。彼らの思いを知ることで、誤解や不安を解消できるかもしれないし。黒騎士への警戒を怠らずに、街を巡ってみます」


ジャンヌの決意を聞き、フィンブールは少しだけ口元をほころばせた。「お前は本当に不思議な奴だな。普通なら怖気づくところを、自分から踏み込もうとする。それが“聖槍の乙女”の使命なのか、それとも前世の記憶がそうさせるのか……」


「正直、自分でも分かりません。ただ、同じ悲劇を繰り返したくないんです。私が抱いている炎の悪夢――焚刑に処される記憶――それを本当に現実にしたくないから。だから、戦うにしても、まず相手を知るところから始めたいんです。味方の獣人族にさえも、まだ誤解があるなら解きたい」


言いながら胸の奥が熱くなる。彼女の願いは“人を守りたい”ということ。そのためには、獣人族と心を通わせることも、メドラン皇国の“黒騎士”や他の幹部たちと対峙することも避けては通れない。フィンブールは深く頷き、机上の地図を指さして場所を示す。


「分かった。明日から数日の間、お前には近衛兵の護衛をつける。街の主要地区を回り、住民の要望や不安を聞いてくれ。もし何か異変を感じたら、すぐ報告すること。黒騎士がまた現れるかもしれないし、あるいは陰で暗躍している人間族がいるかもしれんからな」


「承知しました。必ず警戒は怠らないようにします」


こうして、真夜中に行われた短い密談は幕を閉じた。ジャンヌは部屋に戻る途中、どこか気持ちが軽くなるのを覚えた。黒騎士の潜入は確かに恐ろしいが、自分にできる役目が見えたことが嬉しかったのだ。どうせ聖槍を振るうだけの存在に留まるのではなく、政治や住民感情にも気を配り、双方に橋をかけることが大切だと感じている。


翌朝。朝霧の晴れた王都フォルカスは、いつもの賑わいを見せていた。露店が並ぶ大通りからは活気のある掛け声が飛び交い、通りを行き交う獣人族や他種族の旅人が楽しげに情報交換をしている。しかし、その裏には昨日よりも増員された警備兵が点在し、薄氷を踏むような慎重さで見張りを続けていた。


ジャンヌは護衛役を名乗り出た若い獣人兵――名をレフィオンという――とともに街へ繰り出す。レフィオンは狼の耳と尾を持ち、年若ながら近衛兵への抜擢を受けた俊英らしい。彼はジャンヌに敬意を払いつつも、まだ打ち解けない雰囲気がある。それも仕方がない。こちらは人間族であり、相手は獣人族だ。政治的に見ても複雑な思いを抱えているだろう。


「おはようございます、レフィオンさん。今日はいろんな区画を回りたいんですが、まずどこがお勧めでしょうか?」


ジャンヌが明るく声をかけると、彼はややぎこちない返答をする。「は……はい。おはようございます、ジャンヌ様。まずは中央市場がいいかと思います。あそこは商人が集い、住民の往来も激しい。意見を聞くには最適でしょう。ただ……」


少し言いよどんだあと、レフィオンは言葉を続けた。「人間族をあまり歓迎しない獣人族もいますから、言葉には気をつけてください。ジャンヌ様は“聖槍”を扱うすごいお方ですが、同時にメドラン皇国と同じ人間族でもあるので、複雑な感情を抱く人は多いはずです」


「分かっています。無理には踏み込まず、静かに話を聞いて回りますね」


そう約束し、二人は石畳の大通りを歩き始めた。道端には犬の耳を持つ獣人が露店を開き、干し肉や薬草を売っている。向かいには鹿の角をもつ背の高い獣人が野菜を並べていた。人間族やエルフ族の客もそこそこおり、談笑しながら買い物を楽しんでいる。


最初は皆、ジャンヌの姿を見て多少の興味を示すが、大事には至らない。彼女が“聖槍の乙女”であることまでは知らない者も多いらしく、単に人間族の女性が護衛を連れて歩いている程度にしか受け取っていないようだ。もっとも、護衛役のレフィオンが近衛兵の装いをしているため、一部の店主や客は敬意を込めて道を譲ってくれる。ジャンヌはそのたびに慌てて頭を下げるばかりだった。


「ええと……今日は、王都の暮らしぶりを見学したくて。最近何か困っていることはありますか?」


そう尋ねると、鹿角の獣人がはにかみつつ応じてくれた。「困っていることといえば……やはりメドラン皇国が怖いですな。あそこは獣人族を異端だなんだと言って攻めてくると聞くし、実際、辺境の村が焼かれた話も耳にしました。いつ王都にも戦の火種がくるか分からないと思うと、落ち着きませんよ」


「そうですよね……。それでも、こうして市場は活気がありますし、皆さん協力しあっているように見えます」


「そりゃあ協力しないと生きていけませんから。獣人族と人間族とエルフ族が混在してるこの街は、正直、複雑ですよ。だけど、自分で選んで住んでる以上、共存の道を探るしかない。私の父は昔、人間族の旅人に助けられたことがあって、その恩を忘れられないそうでね。だから人間族を一概に嫌うわけにはいかない、とか。――とはいえ、やっぱり敵対心を隠さない者もいるんですよ。例えばあそこの牛獣人の若者なんて、火のような憎悪を人間に向けてる。理由は……まあ、察してあげてください。家族をメドランに殺されたんです」


ジャンヌは胸を痛めながら聞き入る。同じ人間族でも、メドラン皇国とここに住む人間族を切り分けて考えるべきだが、感情というのはそんなに簡単に整理できるものではない。誰かに家族を奪われた痛みは、容赦なく人間全体への憎しみにすり替わることがある。だからこそ、ジャンヌはこうして個々の声を聞くしかないと思った。


その後も市場を回り、各店主や客に話を訊いてみると、やはり「獣人族と人間族の温度差」が一番の問題として浮かび上がる。特に、すでにメドラン皇国の魔女狩りによって親戚や友人を失ったという人々は、ジャンヌに向かって露骨な敵意を向けることはないにせよ、どこか目線が冷たかった。彼らはフィンブールを敬愛しているが、人間のジャンヌが王に近づくことに警戒感を持つのも無理はない。


「ジャンヌ様、少し場所を変えましょう。市場は賑やかですが、もっと辺境寄りから移住してきた獣人族が多い地区に行けば、また違った声が聞けるかもしれません」


護衛のレフィオンが提案し、二人は市場を後にした。大通りを抜け、やや下町風の住宅街へ向かう。そこは木造や石造りの建物が密集し、人々の生活の息づかいが真近に感じられる場所だった。子どもたちが路地裏で遊んでおり、洗濯物がひしめくように干されている。まるで日常の風景だが、門番の増員に加え、警戒姿勢を強める兵士の姿もちらほら見かける。


そんな中、一人の猫耳の獣人女性がジャンヌを見て声をあげた。「あんた……もしかして人間族かい? 珍しいわねぇ、こんな地区まで来るなんて。変な気を起こさないでよ。ここには貧しいながらも生きている獣人が大勢いるんだから」


決して嫌味っぽい言い方ではないが、警戒心は隠せない様子だ。ジャンヌはできるだけ柔らかい微笑みで返す。「変なことはしません。私は、この街で暮らす皆さんの声を聞きたくてやってきました。獣人族がどんな不安を抱えているのか、何に困っているのか……」


すると、猫耳の女性は嘆息交じりに答える。「そりゃもう、メドラン皇国が怖いに決まってる。でも、あの皇国の人間が全部悪いとも思えないんだよね。実際、昔は交易でお世話になった人間族もいたし、うちの旦那はエルフ族と協力して畑を作ってたし……。でも、ある日突然“魔女狩り”とか言われてもねぇ。理解できるわけがない。うちの子どもがいつ狙われるか、不安で仕方ないわ」


「そうですよね……メドラン皇国の力は大きいし、この王都まで攻め込む可能性も否定できない。何とか防ぐためにも、ガリアス連邦全体で協力しようとしているんですが……」


「あんた、詳しいのかい? もしかして偉い人と繋がりでもあるわけ?」


そんな問いかけに、ジャンヌは一瞬言葉に詰まる。自分が“聖槍の乙女”だと名乗れば、相手の反応がどうなるか分からない。下手に畏れを抱かせるか、それとも「人間が何を偉そうに」と反発を呼ぶかもしれない。ここはあえて普通の“旅人”として振る舞うのが得策だろう。


「いえ、大した者ではありません。ただ、少しだけ王都の政治に関わっている人たちと話す機会があって……ここに住む皆さんの思いを伝えたくて、こうして訪れています」


「へえ……なら、あんまり期待しすぎないでおくわ。あたしはそこまで難しいことは言えないけど、家族が平穏に暮らせるならそれでいいの。もしメドラン皇国が来るなら、陛下が守ってくれると信じてるけどね」


そう言いつつ、猫耳の女性は子どもを抱いて家に戻っていった。ジャンヌはその背中を見送り、レフィオンと視線を交わす。レフィオンは少し苦い顔をしているが、どこか納得したように頷く。


「こういう声が増えているんですよ。フィンブール陛下に絶対の信頼を置きながらも、“人間族”をどこまで信用していいかは分からない。だからといって、異端狩りを叫ぶメドラン皇国に落ちるのはごめんだ――と。結局、人々の不安は解消されずに積み重なっているんです」


「わたしにできることは……少しずつ、対話を重ねて信頼を築くしかないですね」


そう言いながら、ジャンヌは何度目になるか分からない決意を胸に刻む。だが、その一方で、黒騎士グリオ・ノワールが王都に潜んでいるという事実が、頭の片隅を離れない。獣人族と人間族の溝を広げるような破壊工作が進めば、あっという間に暴動や疑心暗鬼が広がるだろう。もしかしたら、すでに誰かが裏で糸を引いているのかもしれない。


その予感はあながち外れてはいなかった。日が暮れ始め、そろそろ王宮へ戻ろうとした時、路地裏で小競り合いが起きているとの知らせが飛び込んできたのだ。レフィオンがすばやく情報を仕入れ、「近くです、行きましょう」とジャンヌを急かす。二人が駆けつけると、そこは人目の少ない住宅街の裏手。獣人族の若い男が人間族と思しき商人を押し倒し、掴みかかっていた。


「この裏切り者! てめえ……メドランの手先なんだろうが!」


「ち、違う、私はただの行商人だ……。あの国とは無関係だって!」


互いに息を荒げ、周囲には見物している近所の住民が数名いる。誰も止めに入らないのは、獣人族の男の形相があまりに険しいからだろう。商人は怯えた目をしており、本当に何か後ろ暗いことがあるのか、あるいはただ濡れ衣を着せられているだけなのか定かではない。


ジャンヌは慌てて間に割って入った。「待ってください! どうしてこの商人の方をメドランの手先だと?」


押さえつけていた獣人族の男は、明らかに怒りと悲しみを同時に抱えた表情をしていた。「俺はこいつがメドランの兵士と密会しているところを見たんだよ! 奴らの言葉を聞いてたわけじゃないが、一緒に酒を飲んでたくらいだ! メドランとつるんでるに違いねえ!」


一方、商人は必死の形相で釈明する。「酒くらい誰と飲んだっていいだろう! 取引先を増やすために、わざわざ皇国の兵隊に近づいて話を聞いたんだ。別に魔女狩りを支持してるわけじゃない!」


どちらの言い分にも一理はある。しかし、いまこの王都でメドラン皇国の兵と酒盛りをしたというのは、あまりにも不用心としか言いようがない。獣人族の男が怒りを募らせるのも無理はないが、それが即“裏切り”になるかどうかは別問題だ。


ジャンヌは商人を落ち着かせるように肩を叩きつつ、獣人族の男に向き合う。「ここは一度、王宮の兵に引き渡して事情を聞くのが筋だと思います。あなたが傷つけてしまったら、この人が本当に裏切り者かどうかも分からなくなります。きちんと調査させるから、手を離してください」


「調査? そんな悠長なことやってるから、メドランのやつらに好き放題されるんだ! 黒騎士って奴が王都に潜んでるって噂だが、こういう裏切り者が協力してるからだろうが!」


怒りのままに噛み付かんとする男を、レフィオンが押さえ込む。「落ち着いてください! 我々はこの王都を守るために日々警戒を強めています。あなたの気持ちも分かりますが、ここで暴力を振るったら、あなた自身が罪に問われるかもしれない。そんなのは本意ではないでしょう?」


やがて他の兵士も駆けつけ、男をなだめるように説得を続ける。ようやく男は意地を張りつつも手を離し、商人は地面にへたり込む。周囲の住民がひそひそと囁き合い、やがて現場は何とか落ち着きを取り戻した。だが、抱えた不信感は何も解決していない。獣人族の男は最後まで睨みを利かせ、「仲間の仇を取らずにいられるかよ……」と呟いて姿を消していく。


「すみません、ありがとうございました……。私、本当にただの行商人なんです。まさか酒を飲んだだけでこんなことになるなんて」


商人はほっと胸を撫で下ろすが、ジャンヌは心のどこかに嫌な予感を覚えた。こうした小競り合いが、黒騎士やその協力者によって増幅されれば、一挙に大きな騒動へと発展するだろう。獣人族と人間族のわずかな火種が、内紛の導火線になるかもしれない。


結局、その商人は兵士に伴われて王宮へ連行され、調査を受けることになった。ジャンヌは何も言えないまま、人垣が引いていく路地を眺めながら、「これが王都の現実か……」と痛感する。外敵が迫るだけでなく、内部でも疑心暗鬼が募り始めているのが分かる。黒騎士の潜入は、この状況に火を注ぐ格好になるだろう。


「ジャンヌ様……。やはり、王都の住民たちも限界が近いかもしれません。みんながフィンブール陛下を信じているとはいえ、“人間族”への不満や恐怖をどこかにぶつけたがっている面がある。これ以上、黒騎士が暗躍すれば――」


レフィオンが言葉を詰まらせるのも無理はない。メドラン皇国は“魔女狩り”を正当化するために、獣人族の凄惨なイメージを流布しているが、逆に言えば獣人族の側にとっても“人間族は裏切り者かもしれない”という疑いを拭えない状況がある。それを黒騎士が利用すれば、一気に王都の秩序が崩れる可能性があるのだ。


「フィンブールさんが言っていたとおり、まずは防犯体制をさらに強めるしかないですね。私の存在がどれだけ役立つかは分からないけど、せめて“黒騎士”の動きが見えたらすぐ報告できるようにします」


そう返しながら、ジャンヌは自分の中に芽生える“使命感”を再確認する。人間族として獣人族の不信を解消すること、同時に“聖槍の乙女”として黒騎士の脅威を阻むこと――それが今の自分の仕事なのだ。前世で焚刑に倒れた少女と同じ道を辿らないためにも、ここで足を止めてはいられない。


かくして、その夜。再び王宮は張りつめた雰囲気に包まれた。黒騎士の目撃情報が相次ぎ、複数の住民が「黒い影を見た」と証言したからだ。しかし、具体的な被害はまだ起きていない。まるで相手がこちらを試すかのように、陰で嗤いながら潜んでいる。獣人族の兵士たちは翻弄され、怒りと焦りを募らせるばかりだった。


ジャンヌはその報告を聞いて胸騒ぎを覚え、夜中だというのに部屋の窓から王宮の庭を見下ろしていた。月明かりが石畳を照らし、警護の兵士が行き交う。その姿を追いかけながら、彼女はそっと胸に手を当てる。“聖槍サン・クレール”の力が求めるものは何か。自分が何者で、何のためにここにいるのか。答えはまだ明確ではないが、一つだけ確かなことがある。


「黒騎士グリオ・ノワール――あなたの目的が何であれ、私はあなたに屈しない。メドラン皇国の魔女狩りを許さないためにも……!」


小さく呟いた時、まるで槍が応えるように右手が熱を帯びた。それはごくかすかな感覚だったが、前世の炎の痛みとは違う、静かな闘志の火が灯っているかのようだ。怯えを振り払うように深呼吸し、ジャンヌは窓を閉める。今は自分にできることを積み重ねるしかない――明日もまた、獣人族との対話を続け、黒騎士の影を追いかける日々が始まるだろう。


同じ頃、王宮の裏手の森に面した小道を、漆黒の甲冑が歩んでいた。グリオ・ノワールは夜風にマントをなびかせ、城壁の上を睨みつける。喉奥でくぐもった低い音が響き、それは嘲笑とも苦悩の呻きとも区別がつかない。やがて甲冑の隙間から漏れたかすかな声は、こう呟いていた。


「……また、あの“聖女”か。なぜ……なぜお前は再び現れる……」


その声に応える者はない。闇夜だけが静かにその言葉を受け止める。黒騎士の足音はやがて森の影へと消え去り、そこには冷たい月光と、獣王の都を守る王宮の砦がそびえ立つばかりだった――。


かくして、フォルカス王国の首都を巡る陰謀はさらに深まっていく。メドラン皇国との正面衝突が避けられぬ今、黒騎士の動きは単なる潜入工作を超えた何かを暗示している。ジャンヌの存在がカギとなると確信する者、あるいは疑念を抱く者――それぞれの思惑が交錯する中、彼女とフィンブールの“短い心の交流”は、まるで大嵐の前のひとときの安らぎのようでもあった。


けれど、嵐は既に王都のすぐ近くまで迫っている。獣人族と人間族の亀裂を広げようとする企み、黒騎士グリオ・ノワールの不気味な行動、そして聖槍の乙女としてのジャンヌの秘められた力――それらが互いに触れ合い始めたとき、新たな運命の歯車が大きく軋み、回転を始めることになるだろう。焚刑の炎から甦ったこの少女は、果たして今度こそ過去の悲劇を乗り越えられるのか。それとも再び“魔女狩り”の闇に呑み込まれるのか――。いまはまだ、その答えを誰も知らない。だが、夜の王都フォルカスには、確かに風がうねり始めている。月の光を反射して黒く光る鋼鉄の甲冑が、その暗示を深めるように揺らぎながら消えていくのであった。

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