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第2章:獣人族の王との出会い

夜明けの空はうっすらと光を帯びているものの、辺境の地に漂う空気はまだ冷たかった。けれど、その冷気以上に村の人々の心を凍えさせていたのは、まさに数刻前まで繰り広げられていた血なまぐさい戦闘の爪痕だった。茅葺き屋根の民家は軒並み破壊され、家具や穀物袋が散乱し、そこかしこに焦げた跡が残る。地面には乾きかけた泥と混じって赤黒い染みが所々に広がり、それらがこの村を襲った惨劇を如実に物語っていた。


それでも、村人の多くは奇跡のような生還を果たしていた。なぜなら、一人の少女が“聖槍”を握り立ち上がり、さらに“獣人族の王”という救いの手が駆け付けたからである。朝もやに包まれた村の中央で、彼女――ジャンヌは聖槍サン・クレールを前にただ立ち尽くしていた。地面に突き立てられた槍の柄に左手を添え、右手でその穂先をそっと触れる。まるで自分の身体の一部か確かめるように、あるいは初対面の不思議な存在に恐る恐る触れているようでもあった。


あのとき、自分がどうやって槍を呼び出したのかは分からない。ただ、危機に瀕したとき、胸の奥から熱と光が溢れ出し、それが具現化して槍の形を成した。扱い方を誰にも教わったわけではないが、不思議と身体が動き、襲撃者たちと拮抗するほどの力を発揮できた。もちろん、すべてがうまくいったわけではなく、何度も剣の刃先が頬をかすり、恐怖で心臓が縮むような瞬間を味わった。だが、一縷の勝機を掴むには十分だった。


「ジャンヌ……」


背後から声をかけたのは、この村の長であるロジェだ。彼の服にはまだ土埃がつき、一夜のうちにずいぶん老けこんだかのような疲労の色が滲んでいる。それでも、信じられないものを見るように彼女を見つめ、どこか安堵の表情も見せていた。


「おかげで、村は滅びずにすんだ……お前が、聖なる槍の力を見せてくれたからだよ。心から感謝している」


ロジェの言葉は素直な賞賛だったが、ジャンヌの胸は複雑に揺れた。戦うことなど望んでいなかった。だが、それしか方法がなかった。今度こそ自分は、あの焚刑の夢で感じた苦しみ――何者にも助けられない絶望――を、ここには与えたくないと思ったのだ。それが、聖槍を呼び覚ますきっかけになったのかもしれない。


「私こそ……村長さんや、みんなが助けてくれたから。私一人ではきっと、敵に屠られていたはずです」


「いやいや、あれはお前じゃなけりゃ無理だった。とにかく、被害は出たが、全滅は免れた。まだ生き残った家畜もいるし、畑の作物も全部が焼かれたわけじゃない」


そう言いながら、ロジェは鞘に収めた短剣の柄を握りしめていた。村人を護るために必死だったのだろう。かすかな手の震えは、戦が終わった後の安堵と恐怖の残滓を象徴しているようだった。


「これから、どうなるんでしょう……?」


ジャンヌは呟く。再びメドラン皇国の軍勢が襲ってくるかもしれない。その危機感は村の誰もが抱いている。なぜ獣人族を狙うのか、なぜ辺境の小村まで執拗に攻め立てるのか――それを考えると夜も眠れない。


しかし、答えを示してくれそうな存在が既に村にはいた。見るからに逞しい体躯を誇り、狼に似た獣の耳と尾を携える男――フォルカス王国を治める獣人族の王、フィンブールである。彼こそがこの村を救ってくれた真の立役者であり、ジャンヌ自身もその剛勇に圧倒されながら助けられた一人だ。


「それにしても、まさか獣王陛下ご自身がこんな辺境まで来てくださるとは……」


ロジェがまじまじと彼の背中を見やる。フィンブールは少し離れた場所で部下たちと話し込んでいる。その背中には長大な大剣が背負われ、獣人特有の敏捷さと雷を思わせるオーラをまとっていた。遠巻きに見ている村の若者らは畏敬の念を抱きつつも、どこか恐れ多いように頭を下げている。


ジャンヌはその姿を眺め、昨夜の激戦の光景を思い出していた。フィンブールが大剣を一振りするだけで、数人のメドラン兵が地面に叩きつけられ、その瞬間に稲光が閃き、敵の甲冑が砕かれていく。人間の域を超えた力を感じさせる戦いぶり。と同時に、圧倒的な存在感で敵を圧倒する王としての威厳があった。


だが、あの戦闘の合間にジャンヌが目を合わしたとき、彼の瞳には純粋な意志と悲しみに似た翳りが混在していたように思う。なぜ悲しみなのか。人々に慕われる王でありながら、なぜあのような感情が見え隠れしたのか。気になって仕方がない。直接話を聞いてみたいが、そんな立場にあるのかも分からない。


と、そこにエロアムという神官がそっと近づいてきた。彼はまだ浅い眠りしか取れていないのか、目の下にくまができているが、表情はどこか満足げだ。まるで「運命が動き始めた」とでも言わんばかりに、ジャンヌを見つめている。


「おはよう、ジャンヌ。いや、正しくは“聖槍の乙女”と呼ぶべきかのう。昨夜の戦いは見事だった。ほんの数刻前に目覚めたばかりの槍で、あれだけの力を引き出すとは……君は、やはり特別な存在なのだろう」


「特別だなんて……そんなことは。ただ、みんなを助けたいと思ったら、身体が動いてくれたんです。私だって怖くて震えていました」


「それが、聖女としての資質なのだろう。人を護るために立ち上がり、己を省みずに前線に飛び込む。だが、その道は険しいぞ。わしもかつて、“神の声”に導かれた者たちの話を文献で読んだが、その多くが過酷な運命を背負っていた。君も覚悟を決めねばなるまい」


エロアムの言葉には警告と励ましが同居している。ジャンヌは咄嗟に返事をせず、聖槍の柄をぎゅっと握りしめた。自分がなぜこの力を与えられたのか、そもそも自分が何者なのかはまだ霧の中だ。けれど、運命に巻き込まれた以上、前へ進むしかないだろう。後戻りしても、あの焚刑の悪夢が待っているだけだ。


やがて、フィンブールが村長や部下たちとの談義を終えたのか、ジャンヌたちのほうへ近づいてきた。高い背丈と力強い足取りはまさに“王”の風格がある。周囲の村人は慌てて道をあけ、ある者は深々と頭を下げる。フィンブールはそれを気にかける風でもなく、まっすぐジャンヌに目を向けた。


「……元気そうで何よりだ。昨夜の戦いぶりは見事だった。改めて礼を言わせてもらう。おかげでメドラン軍の先遣隊を退けることができた」


低く響く声が、聞く者の胸を震わせる。ジャンヌは少し緊張しながらも頭を下げた。


「いえ……私なんて何も分からずに、ただがむしゃらに槍を振っていただけです。獣王陛下がいらっしゃらなければ、村は滅んでいました」


フィンブールはどこか意外そうに唇を緩める。王という偉大な立場にもかかわらず、まるで親しみを込めた視線である。「獣王陛下などと堅苦しい呼び方はやめろ。俺はフィンブール。それだけで十分だ」


「は、はい……。それでは、フィンブール様……」


「“様”もつけなくていい。もっとも、俺の部下たちの前では、あまり馴れ馴れしく呼ばないほうがいいかもしれんが」


真剣な声とは裏腹に、どこか愉快そうに言うフィンブール。彼の部下数名がそれを聞いて肩をすくめるような仕草をしたが、誰も口を挟もうとはしない。彼らにとって王は絶対であり、その命に従うのが当然ということなのだろう。だが、その絶対的な関係性の一方で、フィンブール自身は型にはまらない雰囲気を醸し出しているのが不思議だった。


フィンブールは少し視線を落とし、地面に突き立てられた聖槍をまっすぐ見据えた。「それが“聖槍サン・クレール”か。噂には聞いていたが……実際に見ると、ただの武器ではないな。空気を震わせるような神気が漂っている」


ジャンヌは思わず槍の柄を握り直した。「わたしにも正体は分かりません。でも、危ないときに現れて、力を貸してくれるみたいです。無心に振るったせいで、かなり無茶もしましたが……」


「だが、結果的には多くの者を救った。昨夜、俺の兵が村外で偵察をしていたとき、まばゆい光が見えたという。まさか聖槍が目覚めるとは誰も想像していなかった。だからこそ、急ぎ駆けつけたのだ」


フィンブールの言葉を受け、エロアムが頷く。「わしも少しばかり聞いたことがありますが、サン・クレールとは数百年の昔から“聖なる武具”として伝承されており、選ばれし者が手にすると光を放つという文献がありました。もっとも、その所在や正体は不明でしたが……今こうして目の前にあるということは、やはり“運命”なのでしょうな」


運命――その言葉がジャンヌの胸を強く揺らした。前世の記憶か、それとも幻のような過去か、彼女の意識には“神の声を聞いた少女”や“焚刑に処せられた聖女”といった史実のジャンヌ・ダルクの面影が刻み込まれている。しかし、今の自分はその繰り返しを望まない。戦火の中、散っていく人々をただ見守るだけなんて真似はしたくないが、同時に自分がまた炎に焼かれる運命を辿るのはあまりに恐ろしい。


そんな迷いや戸惑いを読み取ったのか、フィンブールが口を開いた。「ここは危険だ。メドランの本隊が来れば、村どころか辺境全域が焼かれる恐れがある。村長とも話し合ったが、住民は近くの山を越えた先にある砦へ避難させることになった。俺の部下を護衛につけよう」


ジャンヌは安堵の表情を見せる。だが次の瞬間、フィンブールの鋭い眼差しがまっすぐ彼女を射抜いた。「お前はどうする、ジャンヌ? 王都に来る気はあるか。俺としては、お前が同道してくれれば心強い。聖槍の力を試すにも、王都の専門家や魔術師の力を借りるのが最善だろう」


王都フォルカス。それは獣人族が統治する中心地であり、様々な種族も集まる大都市でもあると聞く。辺境のこの村からすればまさに“別世界”だ。そこへ行けば、ジャンヌの“正体”や“前世の記憶”について何か分かるかもしれない。しかし、同時に大きな責任も生まれるだろう。戦争の当事者として、獣人族の王に加勢しなければならなくなるかもしれない。


一歩踏み出せば、もう戻れなくなる――そんな感覚を覚えて、ジャンヌはわずかに躊躇した。目を伏せ、震える声で問いかける。「わたしなんかが行って、本当にお役に立てるのでしょうか。聖槍といっても、ただ振り回すしかできないんです。教練も受けたことがない」


フィンブールはその言葉に一度頷いたあと、まるで嗤うように言い放つ。「俺も雷の血を受け継いだ当初は、まったく制御できなかった。小さな怒りを抱いただけで周囲に火花が散り、仲間に怪我をさせてしまったこともあった。だが、訓練を積み、術師たちの知識を借りれば、今のようにある程度は意のまま操れるようになる。お前も同じさ。何事も最初は素人だ」


その言葉には、奇妙な説得力があった。伝承によると、獣人族の王家に伝わる“雷の力”は先天的に身につくものだという。だが、それを使いこなすのは至難であり、ときには自らの身体さえ雷の衝撃で損なう危険がある。フィンブールの肉体にはうっすらと古傷のような痕が見えるが、それも彼が自分の力を制御するために歩んできた過程を物語っているのだろう。


「……わかりました。いえ、行きます。わたしの意思で、王都フォルカスへ。メドラン皇国の脅威を知りながら、何もしないわけにはいきません」


ジャンヌは小さく息をつき、聖槍を軽く引き抜いた。穂先に朝日が差し込み、金色の光を反射する。先ほどまでの戦闘の気迫は消え、今はただ静かな輝きを放っていた。


エロアムは満足げに微笑み、ロジェは少し寂しそうな表情を浮かべる。「ジャンヌ、お前は村に留まって欲しいが……そう言っている状況じゃないな。聖槍の力を持つお前なら、きっとフォルカス王国にとっても、メドラン皇国に苦しむ人々にとっても大きな希望になるだろう」


「そんな大それたものにはなれません。でも、できることは全部やってみます」


短い別れの挨拶を終え、村長や村の人々と抱き合う者も多い。夜明けの光の中で、ささやかな荷物をまとめ、必要最低限の支度を整えた。村には置いて行けない怪我人もおり、彼らもフィンブールの部下の馬車に乗る形で移動を開始する。


メドラン兵の再襲撃を警戒するため、あまり長居はできない。村の周囲の見張りを担当していた獣人族の斥候が、遠くに怪しげな塵の動きがあると報告してきたのだ。幸い、本隊ではなく、小規模な捜索部隊のようだが、万が一捕捉されれば逃げ場を失う可能性もある。


ジャンヌは行列の後尾付近で馬に乗せられていた。自分が馬に乗るなど初めての経験で、ぎこちない手つきで手綱を握る。獣人族の兵士の一人が手綱を支えてくれるが、その動きはまるで慣れた騎手のようだ。辺境の未開地を移動する際、彼らの身体能力は人間よりもはるかに安定感があると聞く。


少し前方にはフィンブールが先頭を行き、その堂々とした背中はまるで戦神のように頼もしかった。背に担いだ大剣がわずかに稲光を帯びるのは、その雷の力がまだ完全に沈静化していないからなのだろうか。あるいは、メドラン皇国の軍勢が近くにいることへの警戒の証なのかもしれない。


王都フォルカスまでは、山と森を抜けて数日の行程が必要だという。道中で野営や小休止を挟みつつ、なるべく急ぎ足で進む予定だった。幸い、山道は険しいが、フィンブールの兵士たちが先導しているおかげで、迷うことなく進める。ジャンヌは不安を抱えつつも、どこか胸が高鳴るのを感じていた。自分がここを離れてしまったら村はどうなる――そんな思いもあるが、ほとんどの住民は既に避難のため動き出しているし、一人がいてもどうにもならないことは分かっている。ならば、少しでも早く力をつけて、いつか村に平和を取り戻してあげたい。


やがて日が高く昇り始めた頃、一行は山道の合間の広い平坦地で休息をとることにした。流れる小川で喉を潤し、携行食で腹を満たし、怪我人の様子を確認する。ジャンヌは慣れない移動に疲れを覚え、馬を降りて大きな岩に腰掛けながら、聖槍を横に置いた。どうやら槍そのものは彼女の意志で消し去ることもできるようだが、今は安全を考えていつでも抜き放てる状態にしておきたい。


兵士の一人が声をかけてきた。「お嬢さん、疲れてるかい? 水が残ってるから、よかったらどうぞ」


「あ、ありがとうございます……」


差し出された水筒を受け取り、ジャンヌは控えめに飲む。口の中に水が広がり、喉を潤す。ほっと息をついたところで、ふと周囲を見回した。獣人族の兵士たちは皆それぞれの装備を手入れしたり、斥候役の仲間と情報交換をしたりしている。見た目は獣の耳や尾、あるいは猫科のような瞳を持つ者、翼を持つ者など多様だが、みな統率が取れていて、静かに連携を進めている印象だった。


少し離れた場所ではフィンブールとエロアムが会話をしている。エロアムはしきりに何かを訴えるような仕草をし、フィンブールは眉間に皺を寄せつつ、時折うなずくように聞いている。何の話だろうか――ジャンヌは気にはなるが、深く立ち入るのははばかられた。


そのうちフィンブールが会話を切り上げ、ジャンヌのほうへと近づいてきた。隣に腰を下ろし、ふう、と息を吐く。その表情は険しさを内包しながらも、どこか安堵にも似た雰囲気を帯びていた。


「エロアム殿は、“メドラン皇国の動きが尋常ではない”と強く主張していた。実際、この辺境に兵を差し向けるだけでも大変な労力を要するはずだが、やつらは熱心に“獣人族の排斥”を行っているらしい。ときには『魔女狩り』と称して、罪なき村も焼いているとか」


「魔女狩り……わたしも聞いたことがあります。異端だと決めつけた者を、火あぶりや他の残虐な方法で処刑するのだとか。まるで、私が夢に見た焚刑の光景のようです」


言葉に詰まる。彼女は自分が見ている悪夢とメドラン皇国の所業とが重なり合ってしまうことに、強い嫌悪感を抱いていた。もしや、この世界でも彼女は“魔女”と呼ばれて火刑に処されてしまうのか。そんな予感さえ脳裏をかすめる。フィンブールは彼女の複雑な表情を読み取ったのか、静かに続ける。


「俺は王家に生まれたが、それでも“雷の獣”だの“呪われた血筋”だの、いろいろと言われてきた。だが、獣人族はその誇りを失わずに歴史を歩んできたんだ。それを、『神聖な人間族こそ至高、獣人族は異端』などという欺瞞で排除しようとするのがメドラン皇国だ。連中は、皇王レオナルト二世のもとで新たに成立した狂信的な宗教を国教にしており、その教えが異端狩りを正当化している……なんとも腹立たしい話だ」


レオナルト二世――初めてその名を耳にした瞬間、ジャンヌの背筋にぞくりとするものが走る。まるで遠い過去に似たような男を目の前にしたことがあるような錯覚。かつて英仏間での戦争を煽り、彼女を“魔女”と糾弾した権力者たちの顔がオーバーラップする。記憶が甦るわけではないが、嫌な胸騒ぎがするのだ。


「その皇王レオナルト二世が、侵略を推し進めている。昨夜の兵士たちも、きっと本隊とは別に、俺たち獣人族の動きを探ろうとしていたのだろう。おかげでこの村が被害に遭った。……もし早くに気づけていれば、こんなことにはならなかったかもしれん」


フィンブールの声には自責の念が滲んでいた。王であるがゆえに、すべての民を救いたいと願いながらも、実際には救えないことが多すぎるのだろう。辺境まで目が届かず、犠牲が出てしまった。その重圧にさらされながら彼は戦い続けている。


「フィンブールさん……」


ジャンヌは思わず彼の名を呼んでいた。言葉をかけることもなく、ただ呼んだだけだが、フィンブールは少し驚いたように目を丸くする。彼女は、いまだに“様”をつけるか迷っていたが、先ほど呼び捨てでいいと言われたので、その通りにしてみたのだ。


「お前は妙な目をしているな。まるで、俺の裏側を見透かしているようだ」


「そ、そんな。わたしはただ、あなたが苦しんでいるんじゃないかと思っただけで……」


「苦しんでなどいらん。俺は王だ。民を守るために戦う。それが宿命だ」


強がりとも取れる響きがそこにはあった。ジャンヌは、一瞬だけ見えたフィンブールの寂しげな瞳を思い出し、彼が王としての責任を負う重圧に耐えているのだと確信した。周囲から尊敬され、圧倒的な力を持ちながらも、孤独を抱えている。まるで、かつて焚刑台で最期を迎えた自分――あるいは史実のジャンヌ・ダルク――が感じた孤独とも通じるかのように思われた。


それから数日間、ジャンヌとフィンブールたちは山道を越え、険しい峠を渡り、小さな集落を経由して、フォルカス王都への旅を続けた。行く先々でメドラン皇国の暗い噂を耳にし、ある集落では既に住民が逃げ出したあとだった。荒れ果てた家々には魔女狩りの痕跡が残り、逆らった形跡がある家は焼かれていた。見たくもない光景に、ジャンヌの心は締めつけられる。


「ひどい……」


荒野のようになった集落を目にしたとき、彼女は馬上でうなだれてしまった。エロアムがそっと肩に手を置き、絞り出すように言う。「生前の……いや、かつての“ジャンヌ・ダルク”も、こんな景色を見て嘆いたのだろうな。戦火の犠牲は、いつの時代も罪のない民衆にこそ大きく及ぶ」


ジャンヌはその言葉を否定できない。自分が“ジャンヌ・ダルク”であるかどうかは定かではないが、心のどこかで同じ痛みを共有している気がするのだ。もしここに自分が先に来ていたら、彼らを救えたのではないか。自分の力で村を守れたのではないか――そんな後悔めいた思いが芽生えてならない。


フィンブールは唇を引き結び、顔を横に振った。「自分を責めるな。誰にだって限界はある。この惨状を少しでも減らすために、俺たちは急いで王都へ向かうのだ。今は一つでも多くの村や町を救えるよう、力を結集しなければならない」


怒りも悲しみも呑み込みながら、一行は先を急ぐ。険しい山道を抜けると、大きな川が見えてきた。その川には石造りの古い橋がかかっており、そこを渡るとフォルカス王国の内陸部へと繋がる。橋のたもとでは、フィンブールの部下たちが待機しており、合流して警護を強化する段取りになっているという。


「隊長、こちらです。橋の状況は異常なしですが、メドラン側の偵察らしき動きが見られます。川向こうまでは近づいていないようですが、用心は必要かと」


部下の一人がフィンブールに報告する。彼女は猫科の耳と尾をもつ獣人で、鋭い眼差しを持ちつつ、王への忠誠を誓う姿勢がうかがえる。報告を受け、フィンブールは短く指示を出した。


「よし、ならば急いで渡ろう。橋の中程で守りを固め、もし追撃があれば弓隊で応戦する。ジャンヌは中央付近で待機しろ。危なくなれば聖槍を使え」


「わかりました」


この橋を越えれば、王都はもうすぐそこだ。そう思うと少しだけ希望の光が見える。しかし同時に、メドラン皇国の追撃が来るかもしれない――その恐怖も拭えない。戦場は常に一瞬先が闇なのだ。ジャンヌは胸の高鳴りと不安を同時に感じながら、聖槍をいつでも呼び出せるよう身構える。


重厚な石造りの橋を馬と兵士たちが渡り始める。下方には激しい流水が轟音をたて、もし橋が崩れれば一溜りもないだろう。遠くで何か蹄の音が響いた気もするが、視界は開けておらず、曖昧なままだ。


半ばほど進んだところで、フィンブールが鋭く口を開く。「どうやら、あそこだ――」


彼の視線の先を追うと、橋の対岸の崖際に黒い影が複数見え隠れしている。光を反射する甲冑らしきもの、そして旗のようなものも見えるが、判別できるには遠すぎる。けれど、それがメドラン皇国の斥候隊か何かであることはほぼ確実だ。


「敵対行動を取らなければ、こちらも無理に戦う必要はない。急ぎ渡りきれ!」


号令とともに馬の速度が上がり、兵士たちも足取りを早める。ジャンヌも馬にしがみつきながらなんとか進むが、心臓の鼓動がうるさいほど響いていた。もしあれが敵の狙撃部隊であれば、この橋の上は格好の的である。メドラン側の武器や戦力は未知数だ。以前の戦闘で勝てたからといって、今回も同じようにいく保証などない。


しかし、その黒い影たちは攻撃を仕掛けてこない。何やら動いてはいるようだが、大規模な戦闘を仕掛ける意図はなさそうに見える。フィンブールもそれを確認し、「どうやら様子見か」と呟いた。ジャンヌは冷や汗を拭いながら、なんとか橋を渡り終える。


「助かった……」


渡り切った先には、比較的平坦な道が続いており、そこからさらに森を越えれば王都に入る街道に出るという話だった。獣人族の兵士たちは警戒態勢を維持しつつ、一気に森の中へと進軍を始める。ジャンヌも馬の揺れに必死に耐えながら続く。


そして、ようやく日が傾きかけた頃、一行はフォルカス王都へ通じる街道の入口に到達した。そこには木製の柵で囲まれた関所のような施設があり、多くの獣人族の兵士や衛兵たちが守っていた。フィンブールの姿を見るや、兵士たちは驚きと安堵の入り混じった歓声を上げ、立ち並んで敬礼する。


「お帰りなさいませ、陛下! 王都ではメドラン皇国の侵攻を受け、すでに警戒態勢を敷いております。まさか辺境へ赴かれていたとは……」


衛兵長らしき壮年の狼獣人が、フィンブールへ勢いよく駆け寄る。王が無事であったことに胸を撫で下ろしているようだ。フィンブールは馬を降りながら、簡潔に報告する。


「俺は少数の精鋭を連れて辺境の村の様子を確かめてきた。そこをメドランの連中が荒らしていたんでな。いくつかの村を救い出したが、被害は甚大だ。詳しい話は後で王宮の者たちを交えて行うことにする。まずは怪我人を収容してやってくれ。医療班を呼べ」


衛兵長はすぐに部下たちに指示を出し、王都の医療施設へ連絡を取る。一方でジャンヌは馬から降りる際、足に力が入らず、ころりと尻もちをつきそうになった。慌ててそばにいたエロアムが手を貸してくれ、ようやく立ち上がる。


「これが……フォルカス王国の入り口……」


見上げると、かなり背の高い柵や門が設置されており、その向こうには大きな石造りの城壁がそびえるのが見える。壁の向こうには白く美しい塔や広い街並みが広がっているはずだ。人間族の世界でいうならば古い城郭都市に似ているが、どこか獣人族特有の装飾や文化が混じっているらしい。


フィンブールはジャンヌを一瞥し、疲れを気遣うような表情を浮かべた。「長旅だったな。王都へ入ったら、まず休息をとるといい。俺はすぐに議会を招集して、メドランへの対策を協議することになるが……お前も、いずれ参加してもらうことになるだろう。なにせ“聖槍の乙女”だからな」


「そ、そんな大役……」


「謙遜するな。今やお前は、少なくともここフォルカス王国において“希望”だ。実際、お前の槍を見た者は皆、口をそろえて『まるで神話だ』と言っていた」


思いがけない言葉に、ジャンヌの頬が熱くなる。希望などと祭り上げられるには、あまりに自分は未熟だ。それでも、そんな存在を必要としている人たちがいるのなら、自分は応えなければならない。二度と裏切られ、焚刑に処せられる結末にならぬよう、行動を起こしていくしかないのだ。


門が開かれ、一行は王都の内部へ続く石畳の道を進んでいく。そこから見える景色は驚くほど活気に溢れていた。獣人族の商人が露店を並べ、人間族の旅人と話し込んでいる姿もある。遠方にはエルフと思しき細身の耳をもつ女性も見え、まさに多種多様な種族が共存する賑やかな都市だ。しかし、その賑わいの裏には確かな緊張感も漂っており、兵士たちが行き交って警備を強化しているのが分かる。


「平和なようでいて、すぐ先にメドラン皇国の脅威が迫っている……か」


ジャンヌは心の中でそう呟く。王都が賑やかなうちに、メドランとの対立が激化すれば、ここもすぐに戦火に包まれるだろう。けれど、自分の力でそれを食い止めることはできるのだろうか。前世のように、ただ燃やされる運命を嘆くしかない――などという結果だけは勘弁してほしいと願わずにはいられない。


エロアムはそんな彼女の横で、祈るように杖を握っている。「わしは長い巡礼の旅で多くの苦難を見てきたが、フォルカス王都ほど大きく、かつ多種多様な種族が共存している場所は珍しい。ここを守るというのは、つまり“世界の多様性”を守ることに繋がるのかもしれないのう……ジャンヌ、君なら、きっとやれる」


ジャンヌは思わずエロアムの顔を見やる。薄い微笑みをたたえながら、彼は信じて疑わないような瞳をしていた。自分には責任が重過ぎるし、まだ槍の扱いさえおぼつかない。それでも、この人や、フィンブールや、他の仲間たちが一緒にいるのならば――もしかしたら自分は本当に、ここで何かを成し遂げられるかもしれない。


王都の中心部へと近づくにつれ、城壁の内側には広い大通りが伸び、その左右に建ち並ぶ建築物は石造りと木造が融合した独特のデザインをしている。屋根の形状や装飾も様々で、まるで異世界の文化が凝縮されているようだ。人々は獣人族の姿を当然のように受け入れており、通りを歩く大柄な熊獣人の姿も珍しがられていない。ただ、一部の通行人はフィンブールの姿を見て「陛下だ」と慌てて身を正している。彼はそれらに軽く頷くだけで、あまり気にしていない様子だ。


こうして大通りを進むと、目の前に荘厳な建造物が見えてくる。白を基調とした堅固な石の壁と、尖塔のように天を突き上げる中心塔。獣の意匠が随所に施され、正面には大きな門と王家の紋章が掲げられている。これこそがフォルカス王城――フィンブールが住まう王宮である。


馬車や兵士の隊列が城門前で整列をはじめ、ジャンヌも下馬して城の外観をしばし見つめる。その威容には思わず圧倒されるが、同時に胸にこみ上げてくるものがある。もしメドラン皇国がここまで攻め込んできたら、どれだけ恐ろしい戦いになるのか――考えるだけで身震いがした。


「さあ、入るぞ。まずはお前が休める部屋を用意させる。兵や魔術師、文官たちと話を詰めるのはそのあとだ」


フィンブールはそう言って、門番に合図を送る。ジャンヌは肩の力を抜きながら、またしても強く槍を握りしめた。自分は本当に、こんな大きな国を救う戦いに身を投じることになるのか。聖槍の力はまだ未知数で、前世の記憶の断片にも苛まれているというのに。


それでも、あの辺境の村を救い、フィンブールに救われ、ここまで来た。もう一度深呼吸をすると、微かな勇気が湧いてくる。大丈夫、焚刑の悲劇を繰り返さないためには、ここで戦うしかない。村を襲ったメドラン皇国を許していては、さらなる犠牲が広がるだけだ。もし自分に“選ばれし力”があるのなら、それを使わない理由はない。


聖槍を消すような仕草をすると、それは淡い光の粒子となって姿を消した。エロアムが少し目を丸くしながら、「やはり自在に顕現させられるのだな」と呟く。ジャンヌは無言で頷き、城門の前へと歩みを進めた。心なしか足取りは軽くなり、先ほど感じていた重圧がわずかに薄れたようだ。


フィンブールの部下たちに先導され、門をくぐると広々とした中庭が広がる。草木が整然と植えられ、噴水がいくつも設置されており、そこには王宮の衛兵や使用人の姿がある。彼らは王の帰還に敬意を示し、ジャンヌを奇妙そうに見る者もいたが、特に不審な視線を向ける者はいなかった。


「ここが……フォルカス王城。今はまだ落ち着いていられるけれど、本当にメドランの大軍が攻めてきたら……」


思わず声が漏れる。フィンブールは横目でそれを聞き取り、静かに答えた。「王城は堅牢だし、俺たち獣人族には雷の加護がある。だが、それでも相手が圧倒的な物量で来れば、勝てる保証はない。だからこそ、聖槍の力と、お前の意志が必要なんだ」


フィンブールの言う“意志”とは何だろうか。ジャンヌは考えてみる。自分が故郷の村を見捨てずに立ち向かい、そして焚刑の悪夢を振り払うかのように戦ったあの瞬間のように、強い意志が力を引き出したのだろうか。もしそうだとするならば、自分はためらうわけにはいかない。恐怖に怯えていては、また同じ失敗を繰り返すことになってしまう。


兵士に案内されて一行が通されたのは、広い大理石の廊下を抜けた先にある迎賓用の区画だった。そこでジャンヌには部屋が与えられ、エロアムも隣室をあてがわれる。フィンブールは王の執務室へ向かうらしく、「先に休んでいろ」と短く告げて足早に去っていった。まるで、これから始まる“会議”に備えて覚悟を決めているように見える。


部屋に通されたジャンヌは、柔らかそうな寝台ときらびやかな調度品に目を丸くした。質素な村の暮らしとは比べ物にならない豪華さだが、落ち着かないというのが正直な感想だった。とはいえ、疲れはピークに達しており、ベッドに腰を下すと、体が重くて立ち上がるのも億劫に感じられる。


「こんなところに、自分がいるなんて……まだ信じられないわ」


深く息を吐き、瞼を閉じる。思えば、数日前まではただの少女として村で暮らしていた。それが突如“聖槍の乙女”としての力を覚醒させ、獣人族の王と出会い、こうして王都まで来てしまった。あまりの変化に頭がついていかない。


しかし、そのまどろみの中でも、あの焚刑台の炎がちらつく。夢か現か、意識が薄れるといつでもあの光景がやって来そうで怖い。こんな豪華な部屋にいながら、心の中は決して安穏ではいられないのだ。


「わたしはきっと、また戦わなきゃならない……」


その事実に心が震える。メドラン皇国の勢力は辺境を焼き払い、さらにはフォルカス王国へと侵略の手を伸ばしてくるだろう。しかも彼らには“皇王レオナルト二世”という恐るべき指導者がいる。単なる暴君ではない、狂信的な宗教と権力を巧みに操る策謀家なのだ。それを止めるためには、獣人族だけでなく、この地に生きるあらゆる種族と手を取り合わねばならない。


その中心に、もしかしたら自分が立つのかもしれない――思い浮かべるだけで責任の重みと恐怖で息苦しくなる。だが、逃げ出すことはできない。前世で“魔女裁判”にかけられた記憶が脳裏にちらついても、今度こそ裏切られず、誰かを裏切らず、火刑に怯えずに最後まで戦い抜きたい。


窓の外を見やれば、美しい夕焼けが広がっていた。王都の建物が赤金色に染まり、人々の喧騒がかすかに聞こえる。戦乱の訪れを感じさせる空気の中で、確かに今はまだ一瞬の平和があるのだ。ジャンヌはそっと自分の胸に手を当て、心臓の鼓動を感じ取った。


「この鼓動が止まるまで、私は戦い続けるのかな……」


独りごちる声はわずかに震えていたが、それでも意志の火は絶えずに燃えている。聖槍サン・クレールが自分を選んだのなら、それを無駄にするわけにはいかない。自分の存在が希望となるかどうかは分からないが、少なくとも誰かが待っている限り、立ち止まるわけにはいかないのだ。


そう思うと、不思議と眠気が襲ってきた。すべてを休めと促すかのように、意識が深い闇に溶けていく。短い間だけでも眠りたい。あの焚刑の悪夢が来るかもしれないが、今は体が限界に近い。意地を張って起き続けても何も変わらない。


ベッドに身を横たえると、柔らかな布団が背中を包み込み、まぶたが重くなっていく。どこか遠くでエロアムの足音や、兵士が行き交う気配を感じながら、ジャンヌは一人静かに瞳を閉じた。そして、思い描く――遠くない未来、獣人族の王フィンブールと肩を並べ、あの皇王レオナルト二世に立ち向かう自分の姿を。そこに火刑台はない。あるのは、仲間とともに生き抜くための道程だ。


やがて訪れるであろう激戦と、その先に待つであろう運命。彼女は前世の悲劇を振り払い、聖槍を手に、もう一度“戦うこと”を選び取るのだろう。過酷な道は避けられないが、フィンブールとの出会いが教えてくれた。孤独と恐怖を超えた先に、互いの生き方を認め合う未来があると。もしそれが“獣人族”という異種と人間族を結ぶ架け橋になるのなら、確かにジャンヌは“希望”なのかもしれない。


そのわずかな望みにすがるように、彼女は深い眠りの淵に堕ちていった。日没の光が窓辺を染め上げ、静かな黄昏が部屋を覆う。聖槍の輝きも今は見る影もないが、彼女の胸の内で密かに輝き続けている。その光が、この国を、そして世界を照らす日が来るかどうか――答えはまだ、誰にも分からない。だが、焚刑に倒れた“ジャンヌ・ダルク”ではなく、今の“ジャンヌ”が選び取る道こそが、新たな奇跡を呼び込むのかもしれないのだから。

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