第1章:転生の記憶と“聖槍”の目覚め
――煙が立ち昇り、夜空を赤く染める炎の海。その光景は、眠りの底から浮上するたびに、彼女の胸を締めつけた。軋むような熱気と息苦しさ、嗄れ声で何かを叫ぶ人々の姿。それは記憶なのか夢なのか判別もつかないまま、闇夜に呑み込まれていく。
炎の中心にいたのは、自分自身。両手両足を縛られ、激しく燃え上がる薪の山の上に立たされる――まるで処刑台のように。息が詰まり、目を開けていられないほどの熱気に襲われる。知らずのうちに悲鳴をあげ、何かに縋ろうと手を伸ばした瞬間、目の前に歪んだ鉄の格子が迫ってくる。耳をつんざく罵声や嘲笑、あるいは哀れみの囁き。火の粉が頬に降りかかり、焼け焦げる臭いが鼻腔を刺す。
「――許して。神よ、私は、まだ――」
かつての誰かがそう訴えている。自分が発したものなのか、どこか遠い他人の声なのかも分からない。ただ確かなのは、その声に宿る魂の震え。そして、最後の瞬間に聞こえたかすかな笑い声が、彼女を絶望の底に突き落としたという事実。自分を囲む人々に対する怖れ、裏切られる痛み、信じていたものを否定される悲しみ。それらが混じり合い、焼け跡のように胸へと刻みつけられていく。
「うっ……」
まるで炎の残滓が喉を焼くかのように目を覚ましたとき、彼女は薄暗い板張りの天井を見つめていた。額には冷や汗、呼吸は荒く、身じろぎ一つでさえ疲労を感じる。ここはどこだろうと、まず思う。だが、この板の天井は最近になってようやく慣れた“家”のものだということに気づき、かすかに安堵した。
名前は、今は“ジャンヌ”と呼ばれている。もっとも、彼女自身には「生まれつきそう名乗っている」という以外には、確信めいたものがない。記憶がないわけではないが、幼少期の出来事がやや曖昧で、さらに“あの炎の夢”が脳裏を混乱させている。自分はまるで二つの人生を重ね合わせたような感覚に苛まれていた。
小さな木造の家屋には、まだ夜明け前の冷たい空気が漂っている。吐き出す息が白くなり、上掛けをきゅっと握りしめながら、ジャンヌは落ち着こうと深呼吸をした。今日は早起きして、裏山にある泉へ水を汲みに行く予定だ。村長や周囲の村人たちは、彼女を「神の子が落ちてきたようだ」と珍しがりながらも、温かく受け入れてくれた。まだ十七か十八ほどの年ごろに見えるが、どこからやってきたのかは誰も知らない。その最初の頃の記憶がまた曖昧なのだ。
「あの夢、また見てしまった……」
呟いて顔を上げる。脳裏に焼き付く“焚刑台”の光景があまりに生々しく、まるで自分が実際に死を迎えたかのような錯覚に陥る。なのに、こうして生きている。不気味な静けさのなか、心臓の鼓動だけが鼓膜を打ち続ける。
外からは、小鳥のさえずりや穏やかな風の音が聞こえてきた。昨晩の雨が残した水滴が軒下からぽたぽたと落ちる。どこか生を感じさせる音に、ほんの少しだけ救われる気がした。前世かあるいは幻か――とにかく、再びあの惨劇を繰り返すわけにはいかない。その強い思いが、ジャンヌの胸には確かにあった。
「私は……今度こそ、きっと守ってみせる。誰も失わせないし、私自身も裏切られたりしないわ」
一種の誓いのように言葉を口にすると、彼女は起き上がり、簡素な衣服に袖を通した。目をこすりつつ寝床を片付け、木桶を担ぎ、少しずつ眠気を振り払う。裏山の泉までは歩いて数十分。だが、その道のりは朝の身体には心地よい刺激となるはずだ。あの夢のざわめきを洗い流すかのように、彼女は家を出た。
村はフォルカス王国の辺境に位置する小さな集落で、畑仕事や狩りで生計を立てている。大きな街道から外れた場所にあるため、さほど豊かではないが、住民同士は協力し合い、平和と呼べる日常を保っていた。だが、最近になって隣国のメドラン皇国が活発に動いているという噂を耳にするようになった。獣人族は異端だ、神に逆らう種だと――そんな宗教的な理屈を掲げて侵攻しているらしい。フォルカス王国には獣人族が多く暮らしているというし、このあたりの村にも影響がないとはいえない。
「侵略……まるで、過去の戦火と同じよう」
そう思うたびに胸が疼いた。史実のジャンヌ・ダルク――そう呼ばれた乙女が活躍した時代があるらしい。この世界の歴史とは違うかもしれないが、彼女の脳裏には“百年戦争”と呼ばれる紛争や、フランスとイングランドの争い、裏切りと処刑の記憶が混濁するように浮かんでくる。なぜ自分がそんなことを知っているのかは分からない。でも、その悲惨さは自分に刻み込まれた過去のようで、どうしようもないほど胸が締め付けられた。
そんな煩悶を振り払うように歩を進めると、木々の合間から柔らかい朝日が射し込んできた。鳥たちが羽を広げ、泉のほとりへ降り立って水をついばんでいる。澄んだ空気に触れると、さっきまでの悪夢が少し遠ざかった気がする。
「さて、水汲みしなくちゃ」
そうつぶやき、泉の水を桶に汲み始めた。泉は土地の神様が宿るといわれる神聖な場所でもあり、村の人々は朝夕に必ずここを訪れるのが慣わしだ。ジャンヌは丁寧に桶を満たしつつ、なぜか穏やかな安堵を感じる。自分に与えられたささやかな日常を大切にしたい。二度と、あのような戦火に巻き込まれたり、誰かを失う苦しみを味わいたくはない――そう思いながら。
ただ、その願いがどこか儚いものだということも、心のどこかで分かっていた。平穏はいつまでも続かない。なぜなら、今は戦の予兆が近づいているのだ。その予兆は確実に村の空気を変えつつある。村長が言うには、“フォルカス王国の都”からも「辺境の警戒を怠るな」という通達が届いているとか。しかもメドラン皇国はすでに複数の集落を蹂躙したという話まである。
「ああ……私に何ができるんだろう」
村の人々にとっては常連の野盗団が来るか来ないかくらいの危機感だったかもしれない。だが、ジャンヌは胸騒ぎを覚えてならなかった。まるで前世での戦を知っているかのように、侵略や異端裁判、魔女狩り――そういった血なまぐさい言葉が頭をかすめていく。
桶に水を満たし終え、木陰で一息ついていたときだった。視線の先に人影が見える。こちらに向かってゆっくりと歩いてくるそれは、見るからに巡礼者あるいは旅の神官を思わせる風体だ。長い外套をまとい、杖を携え、腰には小さな革袋を提げている。年のころは六十にも及びそうな老人で、灰色の髪を短く切り揃えていた。
「やあ、娘さん。こんな朝早くから水汲みかい?」
不思議と優しい声音に、ジャンヌは警戒心を少しだけ緩めて答える。「ええ、村のみんなが飲む分を確保しないといけませんから。それに今日は天気がいいので、少しでも早く行動したくって……」
老人はにこりと微笑むと、喉が渇いたのだろうか泉のほとりへ歩み寄る。そして、杖をそっと地面に立てかけると、その身なりからは想像できないほど巧みな所作で泉の水をすくって飲んだ。
「ああ……ここの泉は実に清らかだ。やはり、昔から聖域と呼ばれるだけのことはある」
「聖域、ですか? 村のみんなは“神様の泉”だって言ってますけど……何か由来があるんですか?」
「伝え聞くところによれば、この辺りにはかつて“雷の獣”が降り立ち、穢れを打ち払ったとか。そして地面に落ちた一滴の聖なる血が泉となった、という伝承があるそうだよ。真偽は分からんがね」
老人は懐かしむように笑う。ジャンヌはその伝承の響きに、なぜか胸を締めつけられるような感覚を覚えた。雷――それはフォルカス王国の王が受け継ぐ“雷の加護”を指すのだろうか。獣人族が治める王国と“雷”とは、深い縁で結ばれているという話を村人からも聞いたことがある。もっとも、彼女はその具体的な伝説を知らないし、興味を持っても仕方がないと思っていた。
だが、その老人は続ける。「実のところ、わしは神官として各地を巡り、古文書や伝承を調べておる。昨日、たまたまこの村に到着してね。宿を借りようかと村長に相談したら“朝になれば泉に行けば若い娘がおるから案内してもらえ”と言われたよ。まさか、娘さんがその方とは」
ジャンヌは小さく笑った。「私、ジャンヌといいます。神官様はお名前を?」
「わしはエロアムという。ただのしがない流れの神官だよ。各地を放浪して、神の御名と聖遺物について書物をまとめている。――ところで、少し妙なことを尋ねるが……君は“聖槍”というものを知っているかね?」
不意に発せられた言葉に、ジャンヌの背筋は寒気に似たものを感じた。聖槍――そう聞くだけで、胸の奥で何かがざわめく。彼女にとって、その言葉は夢の中で見た炎の記憶と同様に、得体の知れない何かを喚起させる響きがあった。
「……さあ、分かりません。ただ……どうしてそのことを私に?」
エロアムは目を伏せ、泉に向かってそっと祈るような素振りを見せる。ややあって、静かに口を開いた。「実を言えば、わしは長き旅の中で奇妙な預言を耳にした。“聖槍サン・クレールが目覚めるとき、異端の火は辺境より立ち昇り、古の雷はその導きを担う”――たしか、そんな一節じゃったよ。数年前に会った賢者が呟いていた。それを聞いたときはただの戯言だと思ったが、最近の情勢を見るに、どうやら本当に“異端の火”、すなわち異種族を排除する動きが活発になりつつあるようでな」
「メドラン皇国、ですよね。噂には聞いてます……どうやら獣人族を排斥しているみたいで」
「うむ。彼らは古くからの教義に従っていると言うが、実際は新興の宗派を掲げ、諸国の弱体化を狙っているという評判だ。フォルカス王国は獣人族が多いから、真っ先に標的になりやすい。まして、ここは辺境。防備が薄い場所から侵略が始まる可能性は高い」
ジャンヌは桶をそっと置いて、まっすぐエロアムを見つめた。「……だからって、“聖槍”がどう関係するんです? もしそんなものが本当にあるなら、よほど強大な力を秘めていると考えるべきですよね。でも、それは私には関係のない話です」
そう口にしながらも、心のどこかがざわめく。何故なら、“聖槍”という言葉に確かに覚えがあるのだ。どこかで手にした気がするし、それを使って――戦った記憶さえある気がしてならない。けれど、それは夢の中の話かもしれないし、この世界の話であるという確証はどこにもない。
神官エロアムは穏やかに頷いた。「無理もない。ただ、わしには分かる気がするんだよ。君の内にある光――正確には、君の魂に刻まれた“聖女”の痕跡が」
「聖女、ですって?」
驚きに声が大きくなる。村人たちからは、確かに“神の子”とからかわれたことがある。道に迷って倒れていたところを村長の孫が見つけて助けてくれたという話だが、あまりに身寄りもなく素性も不明で、しかも妙に几帳面で礼儀正しいという理由で、そう呼ばれていたに過ぎない。だが、それを“聖女”と断言されるのは別次元の話だ。
エロアムは落ち着いた口調を崩さない。「君が何者なのか、わしもまだ分からん。ただ、この泉が“君を導く場所だ”と言わんばかりに、清らかな風を運んでいる気がしてならない。君がもし本当に“聖槍”に選ばれた存在だとしたら――今度、世界を覆おうとしている炎を食い止めるのは、君の役目になるのかもしれんぞ」
ジャンヌは唇を噛んだ。前世の記憶――あるいは自分が見た夢――において、“神の声”を聞いて戦場に立ち、最期は処刑された少女のイメージが鮮明に残っている。そんな運命はごめんだ。二度とあんな死に方はしたくないし、誰かを裏切るような悲しい結果も見たくない。
「……たとえそうだったとしても、私は戦なんてしたくありません」
その言葉に、エロアムはどこか寂しげに目を細めた。「心情はよく分かる。わしも人が傷つくのを見たくはない。だが、侵略を仕掛ける者たちを止めなければならないのも事実だ。もし君が本当に聖なる槍の持ち主なら……君が立ち上がらねばならない時が来るかもしれない。それは決して強制ではない。君自身が望むのなら、ということだよ」
ジャンヌはなんとも言えない思いで俯く。“世界を救う”など大それたことを成し遂げる自信などない。ただでさえ、今は自分の生活を営むのに必死なのに。しかし、心の奥で炎が燻る。あの夢のなかで、誰もが自分に助けを求めていた――そう、彼女には感じられた。
いったい、前世の自分は何をしようとしていたのか。なぜあのような最期を迎える羽目になったのか。どうしてこんなにも、痛みを抱えながら生きているのか。すべてが分からない。だが、分からないからこそ、二度と同じ失敗を繰り返したくはない。
――そんなふうに自問自答を繰り返していると、ふと村の方角から鳴り響く鐘の音が聞こえてきた。普段は滅多にならない合図。これは厄介ごとの到来を示す非常用の鐘だ。ジャンヌははっと息を呑む。
「神官様、この音……緊急事態です!」
エロアムも顔色を変え、杖を取り上げる。「どうやら、のんびり話している暇はないらしい。君は村に戻ってくれ。わしも行こう」
ジャンヌは慌てて桶を置き、走り出した。軽い朝靄が晴れていく村の景色が視界に広がるが、鐘の音はどこか鋭く焦りを感じさせる。村長がこんな合図を出すのはよほどのことだろう。胸騒ぎを感じながら、彼女は全速力で駆け出した。
村へ戻る道は草木が生い茂る小道で、でこぼこの地面を何度もつまずきかける。エロアムは老人とは思えないほど機敏に歩を進め、まるで強い意志に突き動かされているかのようだった。
「はあ……はあ……いったい何が……?」
息を切らしながら村の入口に戻ると、そこには村の男たちが武器らしきものを手に集まっていた。錆びた剣や木製の棒、あるいは熊用の大きな罠。畑仕事や狩りに使う道具がほとんどだが、必死に身を守るには十分かもしれない。村長の姿もあり、彼の隣には見慣れない数人の男たちが倒れこむように座り込んでいる。
「村長! これは……?」
村長のロジェは険しい顔で振り返る。「ジャンヌ、戻ったか。――実は、さっきこの者たちが村に駆け込んできて、“メドラン皇国の兵隊に襲われた”と……」
そう言われ、彼らを見ると、確かに深手を負っている様子だ。服は血で汚れ、何かから必死に逃げてきたという形相だった。一人が汗だくで言う。「俺たちは東の隣村の者だが……昨晩、メドランの兵が来て、獣人族を匿っているだろうと因縁をつけて……村中を焼き払われた……」
「なんて……残酷な……」
ジャンヌは言葉を失う。メドラン皇国が侵略を開始しているという話は聞いていたが、こんなにも早く、しかも隣村へ軍勢が押し寄せるなど夢にも思わなかった。しかも“獣人族を匿っている”という口実が恐ろしい。こちらには、そういった獣人族はいないはずだが、因縁をつけられれば一巻の終わりだ。
「どうすれば……村長!」
村長のロジェは迷ったように唇を噛む。「我々の村には守備の戦力なんてない……このままじゃ東から襲われるのは時間の問題だ。しかし、山を越えて王都に援軍を要請するにしても、間に合うかどうか」
すると、エロアムが口を開いた。「拙僧が少しでも手を貸しましょう。わしは神官の端くれ、傷の手当てくらいはできる。ジャンヌ、君はどうする?」
問われても、ジャンヌには具体的な答えが浮かばない。戦なんてしたくない。けれど目の前に倒れた人々を助けないでいることもできない。葛藤が胸をかきむしる。そこに逃げ込んできた男が声を振り絞った。
「獣人族の王がこの辺りに駆けつけるって噂を聞いたんだ。フォルカス王国の軍がしばらく前に動き出していて、この辺境の地も見捨てないって。俺たちもそれを信じて逃げてきたが……くそっ、間に合うのかどうか」
獣人族の王――それはフォルカス王国を統べる狼の血を継ぐ存在、フィンブールと呼ばれる人物に違いない。辺境にまで救いの手を差し伸べるほど慈悲深いのか、それとも戦略的意図があるのかは分からないが、実際に来てくれるなら頼もしいことこの上ない。ただ、そんな都合よく現れてくれるのか。
「……私にできることは……」
ジャンヌは視線を落とす。エロアムの言った“聖槍”の話が頭に引っかかって離れない。だが、この場でできるのは看病や介抱くらいしかない。自分が戦場に出ていくなど恐ろしいし、民兵たちの足手まといになるだけだろう。
しかし、その思考を振り払うように、村長が決然と言い放つ。「女性や子どもは奥の山へ避難させる。若い衆で武器を取れる者はできるだけ守りを固める。ジャンヌ、お前は――」
言いかけたとき、東の街道のほうから一際大きな喧騒が聞こえた。続けて金属がぶつかり合う鋭い音が響く。驚いてみながそちらを見ると、どうやら早くもメドラン兵の先遣隊が迫ってきたらしい。甲冑の鈍い輝きと馬の嘶きが見え、村人たちは悲鳴を上げて散り散りになろうとする。
「そんな、早すぎる……」
ジャンヌは恐怖に震えるが、目の前で村人が逃げ遅れれば、惨劇が起きるのは目に見えている。駆け出そうとした瞬間、何か強い衝撃が胸の奥で弾けた。まるで心臓が高鳴るのではなく、“別の何か”がうごめくような不思議な感覚。あの夢で見た焚刑の炎ではなく、もっと神々しい熱が体を満たしていく。
「――っ!」
声にならない叫びを上げた瞬間、指先から眩い光が走った。まるで意志を持つかのように光が収束し、地面の一部が盛り上がる。次の瞬間、そこから姿を現したのは一本の槍。その長さは優に人の背丈を越え、鋭い穂先には淡い金色の輝きが宿っていた。
“サン・クレール”――そんな名が頭のなかで反響する。それがこの槍の名なのだと、なぜか確信できた。胸の鼓動が一層強くなり、彼女は思わずその柄を握ってしまう。するとどうだろう、怯えや迷いが嘘のように消え、血潮がたぎるような力が湧き上がった。
「これが、聖槍……?」
呟く声を聞きつけたエロアムは目を瞠り、驚愕に言葉を失う。「な、なんと……本当に目覚めたというのか……」
ジャンヌ自身も半信半疑だが、右手に握った槍からは確かな質量と力を感じる。これが“私が戦うための道具”なのか。戦うことなど望んでいないのに、こうして手元に具現化してしまった。まるで、彼女の魂を証明するかのように。
遠方から再び悲鳴が上がり、メドランの兵士たちが村人を追い詰めようとする姿が見える。甲冑の隙間から覗く冷酷な目。剣を振りかざす腕。ジャンヌは意を決したかのように前へと出る。その様子を見て、村長が声を張り上げる。
「ジャンヌ、危険だ! やめろ!」
けれど、彼女は聞く耳を持たず、手にした“聖槍”を振りかざしてメドラン兵の目の前まで駆け寄った。長槍の間合いは広い。慣れないながらも、一撃で敵の馬の足もとを払うと、兵士はバランスを崩して落馬する。それを見たほかの兵が驚き、仲間を救おうと剣を振りかざすが、ジャンヌの身体はどこか研ぎ澄まされた感覚で、その刃をかろうじて避ける。
恐ろしい――当然そう感じるはずなのに、なぜか身体が怯まない。むしろ心の奥底で「戦わねばならない」という声が鳴り響き続ける。まるで、すでに幾度も戦場を駆け抜けてきたかのような錯覚があった。この槍と心が繋がっている――そう言いたくなるほど、不思議な一体感があるのだ。
兵士たちは「なにものだ……こんな小娘が!」と口々に叫ぶ。ジャンヌは応える気力すらなく、ただ村人を守ろうと必死に槍を突き出し、あるいは横へ薙ぎ払う。金色の光がしばしば溢れ、兵士たちが目を焼かれたように悲鳴を上げる姿もあった。
「くそっ、魔女め!」
その罵声に、一瞬、あの炎の夢がフラッシュバックする。魔女――そう叫ばれながら火刑台に送られた記憶が甦る。だが、今度は恐怖に飲まれるのではなく、怒りのような感情が沸き起こる。自分は魔女ではないし、誰にも裁かれはしない。なにより、守るべき人々が目の前にいるのだ。
ほんの数十秒の間に、数名のメドラン兵が地に膝をついた。全滅はさせられなくとも、これで少しは退却するかもしれない。そう思いかけたとき、遠くから馬の嘶きが聞こえてきた。どうやら更なる増援が押し寄せてくる気配がある。
「こんな……数が多すぎる。私一人じゃ……」
ジャンヌは汗を滴らせながら立ち尽くす。敵の大部隊がこの村を蹂躙しに来るのは時間の問題だ。ほんの数分のうちに、彼女は己の無力を思い知らされる。聖槍の力は驚異的だが、一人で大勢に敵うほど甘くはない。
そのときだった。村の入り口とは反対側の木立を轟音が駆け抜けた。まるで雷鳴のような低く重い響き。そして、一頭の猛々しい獣が跳躍するかのように姿を現す。その背には、狼に似た獣の耳と尾を持つ大柄な男が乗っていた。圧倒的な威圧感――そう、この男こそ噂に聞く“獣人族の王”フィンブールなのだろう。
彼は背に負った大剣を片手で抜くと、メドラン兵の増援に向かって一気に突撃する。電撃のような稲光が一瞬走り、間合いにいた兵士が次々と吹き飛ばされる。その光景を見て、ジャンヌは呆然とした。まるで“雷”を宿しているかのような、凄まじい力だ。
「貴様ら……フォルカス王国の領土を荒らすとは、覚悟はできているのだろうな!」
フィンブールの咆哮が響き渡り、兵士たちはさすがに恐れをなす。何名かは逃げようと馬を返し、何名かは反撃しようとしたが、雷を纏う大剣の前では虫けらのように弾き飛ばされてしまう。まさに圧倒的な強さだった。
瞬く間に形勢は逆転し、メドラン兵は敗走を始める。フィンブールはそれを深追いはせず、一瞥だけ投げかけると、村のほうを振り返った。その赤い瞳がまっすぐジャンヌを捕らえる。獣の本能を思わせる鋭い眼差しだが、どこか深い知性を感じさせる不思議な目だった。
「――お前が、あの槍を使ったのか」
ドスの効いた低い声で尋ねられ、ジャンヌは緊張でうまく返事をできない。だが、フィンブールは彼女の姿をじっと見つめた後、少しだけ口元をほころばせるように言った。
「確かに“雷”とは異なる力を感じるな。神官の噂に聞いていたが……なるほど、お前が“聖槍”の乙女、か」
まだ呼吸が整わないまま、ジャンヌはかろうじて頷いた。さきほどの戦闘で疲労しきっているが、フィンブールの存在感はそれを上回る衝撃だ。なぜ獣王がこの村に来たのか――聞きたいことは山ほどある。
しかし、フィンブールはさらなる追手を警戒してか、周囲を見回し、村長のロジェに声をかける。「これ以上ここに留まるのは危険だ。俺の兵が近くで待機している。速やかに村人を避難させるのが懸命だろう。お前たちは頑丈な砦のある場所へ移動するんだ」
ロジェは状況も理解できないまま必死で首を縦に振る。「わ、分かりました。恩に着きます、獣人族の王さま……」
「細かい礼はあとだ。――おい、槍の乙女よ。お前の名は?」
槍を握ったままのジャンヌは、この場で堂々と名乗るべきか迷った。だが、どのみち嘘をついても仕方がない。それに、今の自分が持っている名前はジャンヌだけなのだから。彼女は目を伏せ、覚悟を持ってその名を告げた。
「……ジャンヌ、と呼ばれています」
フィンブールはほう、と低く呟く。「ジャンヌ……か。聞き覚えがあるような、ないような、不思議な響きだ。“聖槍”に選ばれし乙女が、そんな小さな村でくすぶっているとはな。いや、こうして俺が駆けつけたのも、天の導きかもしれん」
その言葉に、ジャンヌは戸惑いを隠せない。自分が何者なのか、何故こんな“聖槍”を振るうことができるのかも分からないのに、次々と大きな運命が押し寄せてくる。まるで、自分という存在が「戦いの場」に引きずり出されているかのようだ。再び前世の焚刑台を思い出してしまい、恐怖に似た感情が胸をよぎる。
だが、そんな彼女の心境を見透かしたように、フィンブールは言葉を継いだ。「怯えるな、乙女よ。お前が望まないならば、剣を取る必要はない。だが、メドラン皇国はもはや狂気の沙汰だ。奴らは獣人族だけでなく、人間族であっても“魔女”“異端”などと難癖をつけ、燃やし尽くすだろう。お前がその惨劇を見過ごせるかどうか、それだけの話だ」
見過ごせるはずがない――そう、彼女の胸には確かにそうした感情がある。前世の記憶を抜きにしても、目の前で苦しむ人々を放置することはできない。たとえ戦火の中で再び傷つくとしても、二度とあの焚刑の無念を繰り返さないためにも、自分が成すべきことはあるはずだ。
息を整え、ジャンヌはフィンブールを見据えた。「……私、分かりません。“聖槍の乙女”なんて、いきなり言われても。だけど、もう目を背けることはできない。どうすればいいか教えてください。私は……守りたいんです、この村の人たちを。それから、きっとほかにも助けを求める人がいるならば」
フィンブールは満足げに笑う。「ならば、フォルカス王都へ来い。ここでくすぶるより、王都で俺たち獣人族と共に戦略を練え、メドラン皇国に対抗する方法を探るのだ。お前が“聖槍”の力を発揮するなら、きっと我らの助けとなるだろう。それに――俺はお前と話したい。お前が何者なのかを知りたいのだ」
なぜ王がそこまで彼女を求めるのかは分からない。ただ、村長も避難を余儀なくされる今、ジャンヌがここに留まったところで事態は好転しない。エロアムも傍らで「ぜひ行くべきだ」と促しているようだった。
ジャンヌは聖槍を握り直す。その光は先ほどの戦闘でやや弱まっているが、まだ手応えは十分に残っている。自分の足で歩いていくしかない。前世の記憶という呪いに苛まれながらも、今は前へ進むときなのだ。
「わかりました。私……行きます、フォルカスの王都へ。メドラン皇国の侵略を食い止めるためにも、この槍の力を確かめるためにも」
その決意の言葉は弱々しく聞こえたかもしれないが、フィンブールは力強く頷いた。「よし。ならばすぐに移動の準備をしろ。俺も手勢を整えてから、王都への道を先導しよう」
こうして、ジャンヌは一介の村人としての日常を捨て、より大きな運命の流れに足を踏み入れることになった。聖槍の目覚め――それが彼女を象徴する出来事だったのかもしれない。メドラン皇国の脅威は日増しに迫り、かつての焚刑の恐怖も完全には消えない。だが、今度こそあのような悲劇を繰り返させるわけにはいかない。
村の人々はフィンブールの部下の案内で安全な場所に避難し、ジャンヌとエロアムは彼らと別れを惜しんだ。村長は目に涙をためながら、ジャンヌに感謝の言葉を述べる。
「ジャンヌ、ありがとう。お前のおかげで、私たちは助かった。この村も、また必ず再建してみせる。いつか、平和になったら戻ってきてくれ」
胸が痛むほどの思いとともに、ジャンヌは村長の手をぎゅっと握った。自分はどこまで力になれるのか。分からないけれど、絶対に負けられない。前世で果たせなかった救済を、今度こそ果たす――それだけが彼女の願いだ。
こうして、“ジャンヌ”の新たな物語が幕を開ける。今はまだ、彼女自身すら知らない。自分が史実のジャンヌ・ダルクの記憶と魂を受け継ぎ、聖槍の乙女として世界を変えることになるなんて。焚刑の悪夢を乗り越えるため、そして守るべきものを守るため、彼女は歩み出していく。燃え盛る炎に呑まれた前世の記憶を引きずりながらも、再び同じ轍を踏まぬよう――新しい勇気を、その両手に携えて。