第77話 優しさに惹かれる《side掛水リンネ》
「え……?」
リンネは涙に濡れた顔を上げて、犀川を見やる。
冷たい台詞とは裏腹に、犀川は、至極穏やかな口調で続けた。
「クロウさんの持つ戦闘力、魔素耐性、精神力……それらはすべて、人の範疇に収まるものではありません。ですからリンネさんがその領域に辿り着けないのは、仕方のないことです」
「仕方ないことって……」
「人の身でありながら、人ならざる力を目指すことこそ、失当に他なりません。何も無理に変わろうとする必要はない。貴女は今のままの貴女で良いのですよ」
犀川は、まるで子どもを諭すかのように、優しくそう語る。
けれどリンネにとって、その言葉は到底受け入れられるものではなかった。
「なんでそんなひどいこと言うんですか!? クロウさんは人間です!」
「逆に問いましょう。あの人ならざる力を一番近くで見ておきながら、なぜそう言い切れるのですか?」
「だってクロウさんは、誰よりも優しい人だから!」
リンネは即座に反論する。
そのまま食ってかかるように、犀川に言葉を浴びせた。
「どんな苦しいときでも、弱い人の立場に寄り添って、自分より他者を大事にする人だから! クロウさんほど思いやりにあふれている大人を、わたしは知らない! その優しさにわたしは、わたしは――!」
「リンネさん」
犀川は、なおも語ろうとするリンネを遮った。
「それが貴女の強さです」
「え?」
リンネは、ぽかんとして犀川を見つめる。
視線の先で、犀川は穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴女だけが、皆守クロウの力ではなく、彼の優しさを見た。その優しさに魅せられた。彼の人ならざる力を目にしてなお、力ではなく、その優しさを見つめ続けている――」
犀川はゆっくりと言葉をつなぐ。
「それは簡単なようで、誰にでもできることではありませんよ。人は誰しも、大いなる力を前にして、まずそれを《《自らの寄るべ》》にしようとするものですから。ヨル社長も、ユカリ様も、私だってそうです」
「わたし……」
「ほほっ、だから、貴女は今のままの貴女で良いのです。お似合いですよ、貴女とクロウさんは」
犀川は、必要なことは告げたといわんばかりに椅子から立ち上がり、リンネに一礼した。
「それではリンネさん。くれぐれも無理は禁物です。クロウさんが目を覚ましたときに、元気な顔で迎えてあげるのが、今の貴女の役目なのですから」
犀川は踵を返して、病室を出ようとした。
「あの!」
リンネは椅子から立ち上がって、犀川を呼び止めた。
「……なんでしょう?」
犀川は立ち止まり、肩越しに振り返る。
「犀川さん……もしかして……」
リンネは少しだけ逡巡してから、犀川に尋ねた。
「もしかして……クロウさんと、お知り合いだったんですか?」
リンネの問いに対して、犀川はしばらく沈黙した後、答えを返した。
「昔、ほんの少しだけ」
「それって……どういう?」
犀川はリンネの質問に答えずに、ただ肩をすくめた。
「リンネさん」
「はい?」
「クロウさんが貴女の力を必要とするときが、必ず来ます。そのときは助けてあげてください、彼のことを。どうかよろしくお願いします」
「助ける? わたしがクロウさんを……? そんなの……わたしなんかじゃ……」
「一つだけ、貴女よりほんの少しだけダンジョンを知る者として、おいぼれからのアドバイスです」
犀川はそこで言葉を区切ると、静かにリンネに言った。
「スキルとは、人の心を映し出す鏡のようなものです」
「心を映し出す……鏡……」
「ですから、どうかご自身の想いと向き合ってください。きっとその先に貴女が求める力があります。なに、焦る必要はありません。若い貴女には、多くの時間があるのですから」
犀川はそう言うと、最後にもう一度だけ会釈をして病室を出て行ってしまった。
残されたリンネはしばらくの間、黙って立ち尽くすしかなかった。
犀川が残した言葉の意味を、ぼんやりと考えていたリンネだったが、やがてクロウが横たわるベッドに視線を落とした。
(わたしがクロウさんを助ける……? そんなこと……どうやって……? そもそも、こんなに強い人に……助けなんて……)
「う……」
そのとき、クロウの寝顔が苦しげにゆがみ、うめき声がもれた。
「クロウさん!?」
慌ててクロウに駆け寄るリンネ。
「大丈夫ですか!? どこか痛いんですか!? クロウさん!?」
「……い」
リンネがクロウの手を握ると、クロウはうわごとのように何かを呟いた。
「あい……たい……」
リンネは息を吞んで、クロウの寝顔を見つめる。
「ヒイロ……」
「ヒイロ……?」
クロウがつぶやいたその名前は、リンネには聞き覚えのないものだった。
「……あい、たい……ヒイロ、さん……」
クロウの閉じた瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。
そこでクロウの呟きは途絶え、苦しげだった表情は、再び安らかなものへと戻っていった。
リンネには、そんなクロウの手を握り、彼の顔をじっと見つめることしかできなかった。
「クロウさん……わたし、あなたのことを……何も知らないんですね」
リンネは、ぽつりと呟く。
そして、そっとクロウの手を離すと、懐から自分のスマホを取り出して、検索サイトを立ち上げた。
「ヒイロ……」
リンネは検索バーにその名前を打ち込むと、表示された検索結果に目を通していった。
やがて、とあるページが彼女の目を引いた。それは過去から現在まで、探索者の名鑑を網羅したサイトだった。
「時遠、ヒイロ……」
リンネは、そのサイトをタップして、プロフィールページを開く。
ページトップには顔写真が掲載されていた。
時遠ヒイロは、すっと通った鼻筋に、切れ長の瞳が印象的な美しい女性だった。
リンネはページをスクロールして、彼女のプロフィールに目を通していく。
「ダイバーライセンス、A級……活動期間、二〇二三年から二〇三三年の十年間……今から五年前に、引退しているんだ……」
リンネの呟きが病室に落ちる。彼女は夢中になって、ページをスクロールしていった。
そして、プロフィールページの最後に記された一文が、リンネの目を釘付けにした。
『享年二十八歳』
「……え?」
リンネは息を吞む。そしてもう一度、その一文を指でなぞった。
「天王洲ダンジョンで発生したイレギュラーに巻き込まれ、死亡……」
リンネは思わず言葉を失った。
それから、傍らで眠り続けるクロウに視線を落とす。
クロウの言葉、流した涙、それらの意味。
リンネの中で、点と点が、一本の線に繫がっていくような気がした。
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