第59話 シンギュラリティ《side藤間ユカリ》
ユカリが持論を述べた後、ヨルはしばらく黙りこくっていた。
たっぷり10秒くらいの沈黙の後、受話口から漏れ出たのはため息だった。
『すまんがもう一度言ってくれるか?』
「だ・か・ら! 彼女は燃えるような恋心をクロウ氏に抱いているという訳なんですよ!」
再び、沈黙。
「社長? どーしました? 通信障害かな? おーい、もしもーし?」
『いや、その……あまりにキミの仮説とやらが突拍子もなさすぎてだな。かけるべき言葉を見失ってしまった。そもそも只の人工知能が感情を抱くなど……しかも、人間に対する恋愛感情だと?』
ヨルの言葉を聞いて、ユカリはニヤリと笑う。
「やや、社長の意見はもっともです。フツーありえませんわな」
『だが……そう語るに足る技術的知見がある訳だな?』
「ええ、もちろん。これからご説明しますね。添付資料の3ページ目を見てもらえますか?」
『しばし待て……今開いた。これは?』
「ハルの思考論理を司るAIシステムを簡易的にモデル化した資料になります」
『これで簡易化しているのか。正直私には何が何やらサッパリ分からない。説明を頼む』
ユカリは「勿論です」とハミングのように口ずさんだ後、一呼吸置いてから説明を始めた。
「まずはハルシリーズのAIシステムの仕組みなんですが……実は古典的な生産系人工知能とそう変わりません。LLMと呼ばれるニューラルネットワークに近いシステムを採用しています」
『すまん、もう少しかみ砕いて解説してもらえると助かる』
「ざっくりいうと、人間の脳細胞を模した計算モデルを使って膨大なテキストデータを学習させることで、人工知能に人間のような自然な言語生成や理解を実現させたシステムです。このシステム自体は2020年代頃に主流になってきたモノです。chatGPT、オープンAI……当時としては大きな話題になりましたから、社長もご存知じゃないでしょうか」
『ああ、確かに』
「んで、このLLMというシロモノの性能は、パラメータ数と学習データ量で精度が変わるんです。あ、パラメータ数というのは、人間の脳でいう神経細胞の数で、多ければ多いほど高性能になると考えてください」
『ヒトとチンパンジーでは脳細胞がより多いヒトの方が高度な知能を有する。そして同じヒトでも、小学校に入学したての子どもより、何年も大学で教鞭をとった大学教授の方が学習量の過多より高度な知性を有する、そういう理解でいいか?』
「ええ、そんなイメージで粗方間違っていません。そして理論上はそうやってAIの性能を高めていけば、やがては人間の脳と同レベル、あるいはソレを大きく凌駕するAIが誕生することになる。この到達点を技術的特異点と呼びます」
『シンギュラリティ……』
2020年代の生産型AIの登場以降、多くの技術者や研究機関がこの壁を越えようと様々な理論や技術を提唱してたが、諸々の技術的な障壁に阻まれ長らく実現には至らなかった。
しかし――
『ユカリ。キミはそのシンギュラリティとやらを超えたAIを開発したわけか? それがあのHAL-9999だと』
ヨルの言葉を受けて、ユカリは口端を吊り上げる。
「ハルのコアには、ダンジョンで採掘された新素材――パラドクス・ナノメタルが採用されています。このことにより、量子コンピューターの性能をゆうに越える演算速度を得ることになりました。その結果、LLMのトレーニングレベルは指数関数的に増加し、とある事象が発生したのです」
『とある事象?』
「創発と呼ばれる事象です」
ユカリは雄弁に語り続ける。
「2022年にLLMに関する、とある研究レポートが発表されたんですが、その中で大変興味深い事象が報告されています―― 」
その報告書によれば、LLMの学習量やパラメータ数などをどんどん増やしていったとき、それらがある閾値を超えた時点で、AIが急激かつ飛躍的な性能の向上を見せたのだ。
この現象はAI開発において「創発」と呼ばれた。
「――突如としてAIが三段論法的な推論能力を育んだり、米国の大学院入試に使われる標準テストの問題をスラスラ解けるようになったり。ま、当時としてはそのレベルでしたけどネ」
けれど今、パラドクス・ナノメタルの性能により、LLMのトレーニングレベルは指数関数的に増加している。
その結果、HAL-9999に創発が起こったとしたら?
その結果、技術的特異点を突破したとしたら?
その先の世界で、AIはどんな能力を獲得するのか?
『自意識を獲得し得ると……私たち人間と同じように』
「ハイ! 荒唐無稽とは言えない、想定可能な範囲の事象ですよね!」
ようやくヨルの理解を結論まで誘導できた充足感に、ユカリの声色は弾む。
『それがハルがクロウに執着する理由か。あのダンジョンドローンは、自我を獲得していると……』
「モチロンまだ仮説段階ですけれどねー。というかこの仮説が正しかったら大問題ですよ。単なるダンジョンドローンが自分で思考して行動しちゃうんですから。ぶっちゃけ滅茶苦茶危険な存在です。スカイネットやマトリックスよろしく人類に牙を剥いちゃうかもしれませんからね」
そこまで語り終えて、ユカリはふうっとため息をついた。
「だからボクとしては……ハルをモニタリングしたいんです。HALシリーズの生みの親として、その挙動を見守って、仮に問題が生じた場合は速やかに処分する責任があります」
『なるほどな、確かにキミの言うとおりだ』
「えーとですね……そこでヨル社長にちょっと提案が……」
『提案?』
ユカリはヨルに自分の思惑を伝える。
しばしの沈黙の後、受話口から漏れたのはヨルのため息だった。
『まったく……キミは本当にとんでもないことを考えるな』
呆れたような声色。だけどほんの少しだけ好奇のニュアンスも含まれた言葉だった。
「えっへっへー社長も好きでしょ? こういうの?」
『確かに、嫌いではない。いいだろう。キミの提案を許可しよう、ユカリ』
「ありがとうございます!社長! それではさっそく手配しまーす!」
『もしかしたらリンネに恨まれるかもしれないな』
「それはそれで面白そうでいーじゃないですかー!」
『まったくキミらしいな。まあいい、報告はこのくらいか。後はよろしく頼む』
「オーキードーキー! それじゃ失礼しまーす」
通話終了ボタンを押して、ユカリはふぅと一息つく。
「社長、やっぱ話が分かるわ~。大好きです」
それからユカリは、椅子から立ち上がり、大きく伸びを一つした。
「むふふん、これから面白くなるぞー」
ユカリはニンマリと笑みを浮かべる。
彼女の脳裏には、これから始まるであろうハルとクロウを取り巻く慌ただしい日々が、色を伴って思い浮かんでいた。
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