おわかれのあいさつ
「……ふうっ」
重いダンボールを玄関に運んで、土間にどすんと置いてから、僕はやっと一息ついた。
「これで最後ですか?」
引っ越し業者のお兄さんがそう聞いてくる。
「はい。トラックへお願いします」
「はいよっ」
愛想良くダンボールを持ち上げ、庭に止めたトラックへと運んでいく。その背中を見ながら僕は腰に手を当て伸びをした。やっとほぼ全ての荷物を梱包し、運び終わったのだ。一人暮らしと言えど、運ばなければいけない荷物は意外に多いものだと驚いた。
……そう。今日僕は、大学院へ進学する来月に備え、生まれてからずっと住んでいた祖母の家から引っ越すのだ。
腰をさすりながら空を仰ぎ見ると、早春の涼やかな青空が広がっているのが見えた。3月の空気は未だ冬の寒さを含んでひんやりと冷たい。しかし、荷物運びで汗ばんだ肌には吹き抜ける風が気持ちが良かった。
「――じゃ、こっちは先に発つんで」
引越し業者のお兄さんに言われ、僕はうなずく。
「ええ。お願いします」
トラックを見送り、僕は庭に面した軒先へと腰を下ろした。張り切って荷物を運んだのはいいが、疲れた。そのままごろんと後ろに寝転がる。板張りの廊下を越えて頭を座敷に投げ出すと、畳の匂いが香ってきた。もうこの家には誰もいない。人間は、という話だが…。
「――ああ!ついに坊ちゃんも行っちゃうんですねえ」
演技がかった口調の嘆きが頭のすぐ近くから聞こえてきて、僕は横を向いた。そこには灰色のネズミが一匹、頭に手を当ててちょこんと立っていた。
「赤ん坊だった子どもが勉学の為に故郷を離れるまでに成長するなんて! 時の流れってのはほんと、早いもんですねえ」
ネズミは狭い額に手をやったまま感慨深げに溜息をついていた。大仰な仕草に、僕は思わずくすりと笑う。
「そんな、大げさな」
「とんでもない! 昔はこーんなに小さかったのに」
こーんなに、のところでネズミは小さな手を丸めて形を作った。
「そんな米粒みたいじゃなかったって」
笑いながら話していると、ぴちゅぴちゅ、ぴちゅぴちゅ、という鳴き声が段々と近づいてきた。道路の電線を飛び越えて、ツバメの一団が庭に飛んできたのだ。小さいのが4羽に、大きいのが2羽。小鳥達は庭を飛びまわり、親鳥達が庭のイチョウの木に止まった。
「ああ、あんまりおかしな飛び方しちゃダメだって言ってるじゃ――危ない!」
ツバメの母鳥が、地面すれすれを飛行する小鳥達を見てはらはらしながら叫んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、母さん。子どもは少しくらい元気でなくちゃ」
一方、父親は楽観的に眺めている。子ども達は上へ下へと危なっかしく飛び回りながら、僕へと戯れてきた。
「ねえねえ修一、どこ行くの?」
「ねえねえ、いつ帰ってくるの?」
「修一修一、遊んでぇ」
「聞いて聞いて、こいつがぶったの」
「やだやだ、修一に言わないで」
四方八方飛びながら一斉に喋り出すのでとても騒がしい。
「喧嘩しないの、お前達」
「だってだって、あいつが悪いんだもん」
「仲良くしなよ。僕はもう面倒見切れないからね」
そう言って溜息をつくと、子ツバメ達はまたわっと騒ぎ出す。
「なんでなんでぇ?」
「どうして修一、どうして?」
親鳥の夫婦が子ども達に声をかける。
「あんまり困らせちゃだめよ。さあさあ、遊んでないで並んで。エサを取る練習よ」
「はいはーい」
「はいはーい」
集まってきた子ども達に向けて、父鳥が足で掴んでいた虫を地面に放った。
「ほら。つかまえてごらん」
子ツバメ達は一斉に群がっていく。はあ、と母鳥が疲れたように言った。
「修一君がこの子達と遊んでくれないと、もてあましちゃうわ」
「いつまでも頼ってちゃいけないぞ。裏山の子達の仲間に入れてもらえばいいじゃないか。
ちょうど2丁目のメジロの一家も越してきたことだし」
「うーん……。でもあっちは大家族でしょう? 私達お仲間に入れてもらえるかしら」
話し込む彼らに、僕は優しく声をかけた。
「子ども達は明るいし良い子達ばかりだから、きっと大丈夫ですよ」
「そう? そうかしら……」
と、その時、廊下の先から「うるせえな」と機嫌の悪そうな声がした。
「修一。いつまで鳥どもの世話してやってんだ」
廊下の突き当たりの戸棚の上に、丸い金魚鉢が乗っている。その中でぽちゃん、と黒い大きな出目金が一匹、主張するように跳ねた。
「早く俺の準備もしてくれよ」
「はいはい。ちょっと待ってね」
「池の水にしろよ。ちゃんと日光に当たったやつだ。水道水はやめろよ」
「わかってるって」
僕は用意してきた引っ越し用の水槽を取り出した。取っ手が付いていて持ち運びが出来る、小さなやつだ。それを持ったままサンダルを履いて庭に出て行き、庭の池の水を掬った。水の冷たさが手にきいん、とくる。そのまま軒先へ持ってきて、金魚鉢も隣に持ってくる。
「はい、移すよ」
カップを鉢に差し入れると、そろりそろりと出目金が入ってきた。
「ゆっくりだぞ。揺らすなよ」
「わかった、わかった」
要望通り、あまり揺らさないよう慎重に水槽に金魚を移して、鉢の水を捨てた。しかし考えてみれば、これからこの水槽を車の助手席に乗せて移動していくのだから、良いだけ揺らされることになるのだが、しかし文句を言われては敵わないので、今は黙っておくことにした。鉢を片づけていると、台所からしゅんしゅんしゅん、という音が聞こえてきた。火にかけていた蒸し器が湯気を放ち始めていた。寄っていって火を消し、蓋を開けると、もわっと湯気が上がり、布巾の中からほかほかとした赤飯が現れる。
「うん、良い感じ」
熱い赤飯を少しだけ食べてみると、丁度いい粘り気を感じた。独特の淡い甘みが口の中に広がった。先ほどからじーっとそれを見つめているネズミに向かって小さい塊を千切り、投げてやる。
「熱いから気をつけて」
「おおっ! かたじけない」
飛んできたご飯をネズミはいそいそと受け取る。
「おい修一、俺にもメシを寄こせ」
「はいよ」
僕は金魚の餌を持ってきて、水槽の中に撒いた。ぱくぱくと出目金がそれを食べていく様子を見ていると、「あんまりじろじろ見るな」と言われてしまった。仕方なく離れていって、赤飯を皿に移して蒸し器を水で洗った。乾いた布で拭き、風呂敷で一式包みこむ。これを自分の車に積めば、引っ越しの準備は全て終わりとなる。
「さてと。行く前に、古婆ちゃんに挨拶しないとな」
「おお。それはそうですな」
赤飯を食べ終わったネズミが、ぽんと手を叩いて言った。
「それでは私が案内仕りましょう」
「なんだよそれ。わかるって。ずっと暮らしてた自分の家なんだし」
わざとらしいネズミの案内に思わず笑うが、「さ、こちらへ」とネズミは薄暗い廊下の先を歩き出した。仕方なくそれについていく。小さい灰色の背中がととと、と廊下を渡っていく。古い板張りの廊下は僕が歩くとぎしぎしと鳴った。
「おお――修一か?」
裏庭へと向いた屋根の軒下に、大きな蜘蛛の巣が張ってあった。その真ん中には蜘蛛が一匹、止まっている。
「婆ちゃん、僕そろそろ行くから」
「おお……そうなのか。行くのか」
年老いた大蜘蛛は動くのが億劫なのか、少しだけ身じろぎをした。
「この家を宜しくね。管理はお隣の幸田のじっちゃんに頼んであるけど、色んな奴らが暮らしてるからさ」
「そうかあ。修一、行くのか」
しみじみと呟く。
「みんな突然だのお……。良一も修一もみんな急にいなくなるのお」
古婆ちゃんは、一昨年亡くなった僕の爺ちゃんと、引っ越しを重ねているようだった。言葉の端々に寂しさが窺える。
「爺ちゃんと違って僕はたまに帰ってくるよ」
張られてから長い時間が経った蜘蛛の巣は、ほこりや糸のくずがあちこちにくっついている。それでもちぎれることなくぴん、と張られたこの大きな巣が、僕はなんだか好きだった。
「僕の故郷はここしか無いよ。たまに戻ってくるからさ、元気でいてよね」
「そうか。きっと戻って来いな……きっとな」
「うん。また来るよ」
婆ちゃんは最後まで寂しそうだった。仕方がない、と僕は思うしか無かった。都会の大学院に進学することは、自分で決めたことだ。しかし、ネズミと廊下を戻りながら、後ろ髪の引かれる思いが拭えなかった。
「お赤飯はみんなで公平に分けなよね」
「もちろんです」
ネズミがそう答えると、庭先から子ツバメ達が別れを惜しむように飛んでくるのが見えた。飛翔する鳥達にネズミはひええっ、と身を屈める。
「修一修一、また遊ぼうねえ」
「ばいばーい」
「元気でね、修一君。新しいところでも頑張ってね」
優しく声をかけてくれるツバメの一家に、僕は笑って手を振った。
「では坊ちゃん、どうかお元気で」
見送るように土間に立ったネズミは小さな背を曲げ、深々と頭を下げた。いつも滑稽に見えるそんな芝居めいた仕草が、なんだかやけに別れの寂しさを深くしたような気がした。
「……。……」
からかってやろうとしたが、うまく言葉が出てこない。しばらく無言だったネズミが、ぽつりと言った。
「引っ越し先でもきっと楽しいことが多いことでしょう。ご友人を沢山お作りになってください」
「……出来るかな、友達」
僕は苦笑しながらそう返す。引っ越してからのことはあまり考えていなかった。考えたくなかった。自分で決めたことではあるが、ここを離れたくないという気持ちもある。今、胸の内には寂しさだけが溢れていた。
「出来ますとも!」
するとネズミは、自分のことでも誇るように胸を張って言った。
「生まれた場所でなくとも故郷と呼べる場所になるでしょう。きっと坊ちゃんならそう出来ます」
「……ありがとう」
車に乗り込み、エンジンをかけた。バックミラーを覗き込むと、茅葺の屋根が静かに遠ざかっていくのが見えた。ミラーから見る左右逆の景色はどこか別の場所のようで、それでも確かな温かさを含んでいた。やがて小さくなっていく家を見て、僕は後ろを気にするのを止め、前に目を向けた。