死霊の手紙
精神的に追い詰められた人間が発する言葉として、「死にたい」という言葉がある。元々人間は平等に素晴らしくなんてないと思うし、強いて言うなら平等に無価値だとでも言うべきだろうから、「死にたい」と言うこと自体を否定する訳ではない。
だが、一つ忠告しておきたいことがある。人は死んでも、消えたりなどしない。その意識は、この世界に留まり続ける。全てを無かったことにはできないのだ。でも、それでも、やはり人は人なのだ。
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突然だが、僕は霊を見る事ができる。何をそんな馬鹿な話を、と思うかもしれないが、少なくとも僕には見えているのだから、これは事実という他あるまい。だが、そんな僕でも初めてなのだ。霊が話しかけてくるなど。
「ねえ、聞こえてるなら返事すればいいのに」
霊はそう、不満気な声を漏らす。「彼女」、便宜上そう呼ばせてもらう、彼女の容姿は痩せこけていて、頭髪もほぼ無い、まさに霊と言った様な見た目だった。それに対して僕は、疑問を抱けばいいのか、恐怖を感じればいいのか、もう何をすれば良いのか分からなかった。彼女にどう見えているのかは知らないが、少なくとも僕にとっては辺りは何の変哲もない真昼間の公園である。ベンチに座ってのんびりしようかと思っていた折に、彼女が不意に話しかけてきたのだ。周りに人影は見えないので、この霊の声が僕以外にも聞こえているのかどうかは分からない。
「悪気は無いんだけど、君みたいな霊は初めてだから」
「......? 私以外にも霊っているの? 」
彼女がそう言って驚いている所を見るに、霊同士が干渉することはないのだろうか。若しくは、彼女の様な喋れる霊が希少であるため、同類と会ったことがないということかもしれないが。
「ああ、いる...はずだ。だけど、喋れる霊には会ったことがないな。他の霊はただ浮かんでいるだけ、本当に、そこに「いる」だけなんだ。あとこれは蛇足だが、雨の日にはあまり見ない気がするな」
と言うと、彼女はふと疑問を抱いたかの様に、僕に向かって聞いてきた。
「じゃあ何で、私は喋れるんだろう?」
「さあ?」
「さあ? ってどういうこと... そもそも何で君は、霊を見るなんてことが出来るの?」
「さあ?」
「.......。君が物凄く語彙力が無くてコミュニケーション能力に難があるか、若しくはただ単に性格が悪くて私と会話する気がないのか。君はどっちだと思う?」
彼女が本当に怒った様に話すので、僕は閉口した。
「どちらでも無いということにする.... でも本当に、僕にも何も分からない。何で君がそうなのか、僕がこうなのかも、分かる人なんてそうそういないさ」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
そう言って彼女はしばらく考え込んだ末に、こんな言葉を口にした。
「お願いがあるんだけど」
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能登瑞稀。彼女の名は、確かに墓標に刻まれていた。辺りから漂う線香の匂いにどこか懐かしさを感じる。
「お前、死んだのは何歳の時だ?」
「この見た目と同じ、14歳の時だよ」
今の僕と同い年か。
「......これは答えたくなければ答えなくてもいいんだが、何が原因だった?」
彼女は少し暗い表情をした後、語り始めた。
「白血病。死んだのは、多分今から4〜5年前だから、君より、四歳ぐらい年上ってことになるね。死ぬまでの2〜3年は病院の中で暮らしていたから、死んだ時に外の空気が吸えて嬉しかったことを覚えてる。私の葬式には、少しだけ顔を出したけど、あまり長い間居たくはなかったな、私はここにいるって伝えたいのに、誰も分かってくれないからさ....」
そう言って彼女は、どこか遠い所を見つめる。
「死んで私は自由になった。それは確かで、もう痛覚というか、感覚自体がない。身近な人の感情に振り回されることも、いつ来るかも分からない死に怯えることも無い。だけどこれで終わりにするのは、無責任な気がする」
「それで、お前の妹にってことなんだな?」
そう言うと、瑞稀はうん、と言って頷いた。
「早希はいつもクールな子なんだけど、周りが思ってるほどしっかりした子じゃ無いから、誰かに甘えたかったりもすると思うんだよ」
「まあ分からなくは無い話だが...」
「だから、私はちゃんとここにいるよってことを、手紙に書いて伝えたい。その為に、君の力を貸してくれないかな?」
そう言われた時に、僕の頭に過ったことは何だっただろうか。
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「お前の妹は、今何歳なんだ?」
ここは僕の部屋の中。シャーペンを片手に、葉書に手紙を書きながら、僕はそう言う。
「私が死んだ時確か9歳とかだったから....今は13歳」
「今はってことは、誕生日が近かったりするのか?」
「その通り。丁度今日から一週間後だよ」
そう言って彼女は楽しそうに足を揺らしながら僕が手紙を書いている机の上に座っている。
「まあ、それは置いておいて、次、なんて書くんだ?」
「そうだね....」
その後も、瑞稀と他愛もない話をしながら、手紙は出来上がった。
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手紙を書き上げた後、問題だったのは、どうやって渡すかだった。考えられるのは、早希が住んでいる家のポストに投函しておくか、若しくは僕が直接渡すかだ。だが、瑞稀は僕に直接渡して欲しがった。何でも、せっかく付き合ってくれたのだから、お礼ぐらい言われてもいいのではないかということらしい。勿論、僕は早希(さんを付けるべきかどうかは置いておく)からのお礼など別にいらないのだが、悪くはない気分だった。
「うん、ここら辺のはず」
そう言って瑞稀は道をどんどん進んでいく。通行人が、おそらく無意識の内に彼女を避けながら歩いて行くのは、何とも興味深い。僕みたいに見えたり、聞こえたりはしなくとも、ある程度は皆霊を感じながら生きていたりするのだろうか。
「...ここ、だね」
瑞稀は目を細めて表札を見つめている。
「お前もここに、住んでいたことがあるのか?」
ごく普通の一軒家。だが、瑞稀にとってはかけがえのない場所だったと、そう言われても不思議ではない。
「うん、病気が再発するまではね。お父さんは早くになくなったから、お母さんと早希と、三人で住んでたんだ。」
重くなってしまった空気を他所に、瑞稀は取り繕う様に笑った。
「まあ、昔の話だよ」
「...。ああ、任せろ」
インターホンを押して、出てきたのは
「はーい」という、若い声だった。
背格好は僕より少し低いぐらい。どこか顔に瑞稀の面影があるのを見るに、この子が早希で間違い無いだろう。
「...? 何ですか?」
彼女、早希はドアから半身を乗り出して、こちらを探るような視線で問いかけてきた。
「君の、お姉さんの話なんだが」
そう言った途端に、早希の視線が険しくなるのを感じた。
「姉の?姉がどうかしましたか?」
「亡くなったお姉さんからの、手紙なんだよ」
そう言って僕は、鞄から葉書を取り出そうとする。
「姉の生前の、ということでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて...」
何と説明するべきか。
「亡くなったお姉さんが、さっき書いた手紙なんだよ」
その言葉を聞いた早希が、こちらに興味を失うのを感じる。
「......ふざけてるんですか?」
「違う、そんな訳じゃーー」
「だったらなんでそんな、昔のことを引っ張り出してくるんですか?」
僕の言葉を遮り、早希は静かに、だが確かに怒りに体を震わせていた。瑞稀が死んだのは4〜5年前。「昔のこと」と言われればそれまでかもしれない。
「君のお姉さんが、それを望んでいたから」
僕にはそう、答えるしか無かった。
「そもそもあなた、誰なんですか」
そう言って彼女は、固くドアを閉めた。
「そうだよな」
ドアの前で立ち尽くしながら、僕はそんな言葉を零した。
「なあ瑞稀、僕にはーーー」
そう喋りかけようとしたその時、瑞稀が側にいなくなっていることに気づいた。代わりに、僕の周りには雨の音がただ、滴り続けていた。
ぽつ。ぽつ。ぽつ、僕の頭を、愉快そうに叩いてみせる。ああ、畜生。
「何で、だよ......」
元々何の関係も無かった。意味なんて無かった。
「何で、いなくなるんだよ」
助けようと思っていたその人を、あろうことか憎もうとしている自分自身に気づいてしまう。涙で滲んでいく視界を、徒に擦る。
「帰るか」
最後にあいつの墓に寄って、それで全部終わりにしよう。そう、自分勝手に決めて、僕は踵を返した。
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ドアを閉め、靴を脱いでから、能登早希は小さなため息をついた。一番最近の記憶に残っている姉の姿は、いつの時のものだろうか。姉は自分とは違って陽気な人で、人付き合いが上手い人だった。私とは違って。
家の中を改めて見てみる。誰もいない。私以外には、誰もいてはくれない。お母さんは仕事で忙しいから、ゆっくり話をすることも少ない。胸の中で誰かを求めている様な感覚だけが残るが、もうそんなのは慣れっこだ。
本当にさっきの人は、何だったのだろうか。なぜ今更、姉の話などするのか。思い出すだけで腹が立ってくる。
「それじゃ、行ってきます」
そう誰もいない家に言って、鍵を閉める。
ぽつ。ぽつ。ぽつ、私の傘を打つ雨の音が、空気を刻んでいく。姉の墓が視界に入ってきたと同時に、「彼」がいることに気づく。
石を踏む、じゃり、という音がして、私は彼に声をかけようとした。
「....!」
彼は、ビニール傘を肩に抱えつつ、座り込んで祈っていた。その背中に声をかけることを、何故か躊躇ってしまった。
「ああ」
彼はそう言って、静かに立ち上がって私と真逆の方向に歩き始めた。
「待って」
私の声に驚いた様に、彼はゆっくり振り向く。
「言っておくが、別に馬鹿にしてる訳じゃない」
彼が生真面目にそう言うので、私は少し笑ってしまった。
「もうそれはどうでもいい」
だけど。
「お姉ちゃんは、何て言ってた?私に、何を伝えようとしてたの?」
それだけは、どうでもいいなんてことは無かった。
「信じるのか? 何で?」
彼は少し驚いていた様だったが、私の目を見て不意に何かを悟った。
「瑞稀は、ーーーって、言ってたよ」
その言葉の突拍子の無さに、思わず笑ってしまう。でも、その言葉は確かに、私が欲しかったものなのかもしれない。単純すぎて、笑ってしまうほどの言葉だったけれど。
「笑うなよ」
そう彼は言って、傘の下からさっきの手紙を渡してくる。
「いや、もうそれは要らないや」
そう言うと彼は、不思議そうな顔をする。
「欲しいものはもう、もらえたから」
もう、寂しがることは無いだろう。
「そう......なのか?」
「うん」
「なら、良かったんだが」
そう満更でもなさそうにする彼の顔に、朧げな記憶の中の姉を重ねる。墓に備えられたルピナスの花は、静かに雨の中に生きていた。
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