第一話「日常」
僕は「平凡」を自負している。
華やかな脚光は浴びないが、かわりに大きな諍いもない。平穏こそが僕が生きる世界。
平坦な道を、ただ淡々と歩んできた二十六年に後悔は少ないし、それなりに順調だったと思う。
専門学校を卒業して、ひとり暮らしをはじめた二十歳の春。
はじまる新生活の熱に浮かされて一気に階段を上ると、荷造りする手を止めて、卒業アルバムをぼんやりと眺める母が座っていた。
口煩くて疎ましかった筈なのに、その背中がやけに小さくて、かける言葉が見つからなくて、ただ切なく思った夕暮れの記憶が今でも刻まれている。
あれから…六年。
時々旅先から送られてくる仲睦まじい写真を眺めて、僕はようやく安堵していた。
二人きりの生活を満喫しているのだろうか。無愛想な父がこんな笑顔をみせるなんて、と吹き出してしまった。
それでも、誕生日が近くなれば大きなダンボール箱が届く。いつものように米や味噌や地元の食材が詰め込まれている。
きっと、僕は永遠にあなたたちの「子ども」なのだろう。
秋が近づいて、朝夕が冷え込む九月下旬。顔にあたる肌寒さが心地良くて、らしくはないが自転車通勤をはじめた。
デスクワーク中心だから運動不足の解消にもなる。少しだけ体重が増えたのが本当の理由だけど。
ゆるやかな坂道を立ち漕ぎで上ると、工業団地の奥にスレート屋根の工場が見えてくる。あれが僕の職場だ。
「おはようございます」と上司や同僚へ手短な挨拶を済ませて、座り慣れた愛用のPCチェアへ腰をおろす。
まずは昨日の原稿やメモに目を通して、注意箇所を書き込んだ付箋をモニターの右端に貼りつける。
一日の流れを反芻してから仕事に取りかかるのが、毎朝のルーティーンだ。
今日はできるだけ多くの仕事を捌かなければならない。僕は焦っていた。
工程がタイトになると印刷部から不満の声が上がり、工場長の怒号が飛ぶことになる。
「ふぅ!」ひと息吐いて、アプリケーションを起動させた。
ジ…ジジジッ…。
資料をあさりながら、コンセプトに合うピースをかき集めて、デザインのイメージを膨らませていく。今日は調子が良い。
「梶原チーフ、ちょっとぉ…いいですかぁ?」
いきなり出鼻を挫かれて、集中力が途切れてしまった。バラバラになったパズルは簡単に戻らない。心の中で軽く舌打ちをした。
「なんだよ?」と不機嫌を隠せず振り返ると、やはり同期の宮田がそこにいた。
このつくり笑いを浮かべる時は要注意。きっと、急ぎの仕事を割り込ませる魂胆だろう。
コイツとは新人研修で相席してからの腐れ縁。友人…ではないが、唯一腹を割って話せる営業社員でもある。
長男が産まれてはり切るのはわかるが、その地声のデカさは何とかならない?
「〇〇の社長からパンフレットを新しくしたいって電話が入ってさぁ…。」
日焼けして脂ぎった顔が浮かぶ。なかなか癖が強い人物だから、担当したくないのが本音だ。
一代で会社を築き上げるような人は、だいたい変わり者が多い。よく言えば信念を貫くタイプだが。
「急ぎで本当に悪いんだけど…今から同行できない?向こうの会議室で打ち合わせなんだ。」
予想通りだ。あの社長にはいつも振り回される。
「社長がデザイナー連れて来いってうるさいんだよ。」
中堅の印刷会社に勤める僕は編集業務のチーフを任されている。
チラシやパンフレットなど、街でよく見かける印刷物のデザインが仕事だ。
大口の取引先だが、さすがに今日の今日は物理的に無理だ。僕も期限が迫る仕事が山積みなんだ。
「田嶋主任、ちょっといいかな?」
ボサボサ頭の薫がモニターの影からひょこっと顔を出した。今日もばっちりノーメイク。彼女も残業続きだったから言い出しにくい。
「悪いんだけど…今から宮田主任に同行できない?こっちも手が回らないんだ。」
交渉力があって仕事が早い。いくらフロアを見渡しても頼める社員は限られていた。ここは拝み倒すしかない。
「えー?いきなり困る!」
結構な音量で、窓際の席から憤りの声を返してきた。手にした原稿を放り投げてこちらを睨んでいる。
無茶振りされて、眉間にシワが寄ったまま近づいてくるのが恐怖でしかない。
「お?頼める?助かるー!」
さっそく手のひらを返して、彼女にすがる姿がうっとおしい。
「あのさ、交渉するのも営業の仕事じやないの?私だってノルマあるんだけど!」
仁王立ちで、眼鏡の奥から睨みつけてくる迫力に逆らえる男はいない。
そこからの宮田は母親に叱られる子どもになった。論理的かつ効果的にダメ出しを突き刺してくる。
「今の状況わかってる?安請け合いしないで…□○□△×。」
こうなると薫は止まらない。
「あそこの社長が気難しいのは君も知ってるだろ?宮田主任も間に挟まれて困ってるみたいだし。」
日和見な僕は仕方なく仲裁に入る。結局は引き受けてしまう彼女の性分は分かっていた。
「もう!わかったよ…。」
観念した薫は頭をかいて渋々頷いた。つかつかとデスクへ戻って、バッグに資料を詰め込みはじめる。
「着替えてくるから、急いで準備済ませてよ!」
バタバタと更衣室へ消えた15分後、メイクをきっちり整え、グレーのスーツで武装した彼女がヒールを鳴らして現れた。
ガサツなオジサンが美女に化けるこのギャップ。
フロアが騒つくのは無理もない。入社式で男どもの視線を釘づけにした美貌は健在だ。
新人の頃から田舎の中小企業に籍を置くのが不思議なほど、彼女のデザインスキルは特別だった。
そのセンスに惚れ込んだ取引先の部長は、未だに引き抜きを諦めていない。
「焼肉だけじゃ済まないよ?」
素早く首に腕を回した狼が、ヒソヒソと仔羊の耳元でささやいた。見抜かれている…今夜は焼肉でご機嫌をとるつもりでいた。
甘い香水と柔らかな感触に「女」を感じて、週末に過ごした二人の時間を思い出してしまう。
「薫、ズルいよ。」
仕返しされた僕は「男」を揺さぶられて、呆気なく完敗する。周囲に悟られないように慌ててデスクへ戻った。