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なくこと、

作者: 鹿谷おず


 小さい頃から私には、感情と表情に微妙なズレがあった。


 いつも通りに過ごしていたのに、突然「悲しいことでもあったの?」と心配されてしまったり、自分なりに楽しんでいたのに「退屈?」と聞かれたり、内心慌ていても「冷静だね」と評されたり、ほとほと困った。無表情やポーカーフェイスとは違うと思う。面白いことがあれば笑うし、怒っていれば不機嫌にもなる。ただ、自分の感情とイコールにならない表情をしてしまうだけ。



「泣きそうな顔してる」



 そんな毎日の中で、彼はそう言った。私は一瞬、言葉に詰まる。


「…え?そう?別に普通だよ」


 まるで意外な指摘をされてしまったと言うように、自分で自分の顔をぐにぐにと押したり、引っ張ったりしてみる。


 声は震えていなかった?動揺を悟られなかった?変な間があったと思われてない?取り繕った言葉が“嘘”だと見破られた?


 こわくなる。


 誰かの前で泣くのは恥ずかしい。泣いてしまうと相手を困らせてしまう。だから泣きたくないと思う。泣くことなんてできない。どんなに悲しいことがあっても。


 小さな頃は泣き虫だった私も、成長すれば自分に嘘をつくのが上手になる。私は今にも泣いてしまいそうな心情を圧し殺して、けれど自然を装って、愛想笑いを浮かべた。


「やっぱり、泣きそうな顔してる」


「ひどいなぁ、そういう残念な顔ってこと?」


 冗談を交えて誤魔化すようにまた笑う。彼は笑わない。ただ怪訝そうに、ぽつり、また言葉を落とす。


「違うけど…泣きたいなら泣けばいいのに」


「もう!そんなに情けない顔してないってば。泣きたくなることもないし」


 泣けばいい。その言葉は思いのほか鋭く、私の心に爪をたて、沈み込んでいく。私にはとても出来そうにないことを簡単そうに言ってのける彼に、ひっそりと、羨望と劣等感を覚える。けれどそれ以上に、まるで見透かされたような的確さで私の心を言い当てたことに、怖くなる。


 今まで何度もあった。私が一生懸命に圧し殺している感情を、彼はピタリと言い当てる。それも決まって、泣きたくなるような感情のときばかり。私は困惑する。私を理解してもらいたい切情と、私を見透かされてしまう不安と羞恥に、揺れ動く。


 そんなとき、決まって私は曖昧に誤魔化して、嘘をついて逃げるんだ。


「そういえば、この間オススメしてくれた映画、すっごく泣けたよ。特にラストの――」


 彼はよく私に色々なものを教えてくれる。それは音楽だったり、小説だったり、映画だったりと幅広く、私は多趣味で博識な彼に驚いていた。私も昔から音楽や読書を楽しむのが好きだったし、彼が選んで薦めてくれるものは、すぐに好きになってしまうもの、面白くて何度も読み返してしまうもの、心に響いて泣いてしまうものばかりだった。


 その中でも、とある映画監督を気に入った私は、彼と意気投合し、今度公開される新作を二人で観に行くことになった。




「理由はどうあれ、人間って泣くと気分がスッキリするらしいよ。あはは、言い訳になってないか」




 彼がそう言って照れくさそうに笑う。それは、映画館を出てから立ち寄った、公園のベンチでのこと。


 彼はすっかりぐしゃぐしゃになってしまったティッシュをゴミ箱に放る。彼の目はまだ赤いけれど、マシな方だ。主人公に感情移入して号泣してしまった私の顔は、とても見れたものじゃない。


「こんな内容だって知ってたら…レンタルで観たのに……」


 いまだに鼻をすすりながら恨み言を呟いた私を、彼はけらけらと笑う。


「あの監督はこういうのが得意じゃないか。登場人物の苦悩や葛藤を描いて、観客を映画の世界に引きずりこむ。他の作品でも泣いただろ?」


「泣いた…けど……今回は特によ!ちょっと!こっち見ないで!」


「あはは、目だけじゃなくて鼻まで真っ赤!赤鼻のトナカイだな!」


「みーるーなー!」


「事前に調べなかった?泣ける映画って売りで宣伝してたのに」


「ネタバレ防止のために調べない派なんですー」


「はいはい、そうだったね」


「もう…泣いちゃう映画だって知ってたんなら先に言ってよ!ううっ…恥かいた……」


「俺だって泣いたし、別に恥ずかしいことじゃないだろ?」


「私には人前で泣くなんて恥ずかしすぎるの!ありえない!」


 泣き腫らした顔を濡らしたハンカチで覆って、隠すように応急処置を試みる私に、飄々として彼は言った。




「だから、泣かせたかったんだけどな」




「…………は?」


「一回、俺の前で泣かせてみたかったんだよね。成功成功」


「え、ちょっ、なに真顔で変態くさいこと言ってんの!?わわっ、こっち来ないで!」


 三人掛けのベンチに二人で腰かけているのだからどう考えても狭いはずがないのに、彼は何故かじりじりと距離を詰めてくる。


「変態扱いはひどいな。別に泣き顔に興奮するとか嗜虐趣味があるわけじゃないって」


「そんな趣味あったら半径5m以内に近寄らせないわ……って、なんで近づいてくるの!」


「なんでって…逃げるから?」


「そんな狩猟本能は捨ててしまえ!」


「まあまあ」


「ちょっと待ってよ何で抱きしめてきやがるんですかここ公共の場なんですけど分かってるのこの変態ニヤニヤしないで何が楽しいのよ意味わかんない頭撫でるなー!」


「あはは見事な混乱っぷりだね」


「あははじゃなーい!」


 抱きすくめられてしどろもどろになっている私をからかう彼が、不意に、真っ直ぐな声を出す。


「なあ、全然気づかなかった?」


 その問いかけの意図が分からなくて、私はますます混乱とドキドキを極める。


「…なにに、よ?」


「今までも、あの手この手で泣かそうとしてきたんだよね」


「完全に…いじめっこの発言……!」


「違うって。君が好きそうな音楽とか小説とか映画とか探して、これなら感動するかなーとか共感するかなーとか泣くかなーとか考えて、紹介してきたつもりなんだけど」


「確かに泣けるのが多かった…!いや、むしろ、全部…?怖っ!なんで私の趣味嗜好がバレてるのよ!」


「綿密かつ入念なリサーチの結果ですー。詳細は企業秘密」


「余計に怖いっ!そもそも私を泣かそうとか企む魂胆が謎なんですけど!」


「あれ?さっき言っただろ?人間って泣くと気分がスッキリするらしいよ」


「えええええ?」


 いきなりストーカーまがいの行為の告白があったかと思いきや、とんちんかんに思える解答をされ、私は頭を抱えそうになる。本気なのか冗談なのか判別しづらい彼の声音も、私の戸惑いを加速させた。


「説明を…要求する…!」


「説明って言われてもなあ」


 困ったように言葉を探る彼の表情は見えない。けれどきっと、陽だまりのように柔らかく笑っているんだろう。それほどに彼の声も体温も、あたたかく、私に染みる。


「うーんとね、いっつも泣きそうな顔するくせに泣くの我慢して泣かなくて、頭ん中ごちゃごちゃになって落ち込んでダメダメになってるどうしようもない奴がいたからさ、これは素直に泣かせてあげたいなと思いまして」


「ダメダメ!?どうしようもない!?」


「泣けといっても泣きそうにないし、いじめても良かったけど趣味じゃないし、色々考えた結果、泣いてもいいんだって、思えるようにしようって決めた」


「…………」


「感動したり共感したり気分が高まると、人は自然と泣く。みんなが泣くんだから、君が泣いたって可笑しくない。みんなが泣くんだから、君が泣いてもいい。みんなが泣くんだから、君も泣けばいい。俺も泣いたから、君も一緒に泣いてよ」


 相変わらず冗談なのか本気なのかよく分からない調子の、けれど愛を説くような優しさに満ちた言葉が、私の心を甘くひっかく。


 じわり、景色が歪んで、ぽたり、頬を伝った涙が、彼の肩を濡らした。


「……ぐすっ……ふぅ……ずずっ」


 涙を圧し殺すのは、もうすっかり癖になってしまっていた。息を乱さないように、嗚咽を漏らさないように、涙を見せないように、私は彼の肩にすがる。こんな私を見ないでほしい。


 泣き虫だった幼い頃。泣くことは醜いと、育児ノイローゼの母は私を叱った。頬が、痛かった。私の泣き声は母にとって耳障りで、私の涙は母を苛立たせるのだと言われた。泣くことは迷惑だと教えられた。泣いてはいけないと思った。泣かないように生きてきた。本当はいつだって子どものように泣きじゃくりたかった。でも、泣かなかった。私は涙を圧し殺す。それが私だった。そんな私になった。


 今まで、こう考えて生きてきたから、私の表情と感情の関係は歪んでしまったのかもしれない。感情と表情がイコールにならないように、私は私を歪めてきたのだから、当然のように感情と表情にズレが生じる。


 泣くことが迷惑になるから、泣いてはいけない。泣いてしまいそうな感情は隠さなければならない。表情を別のものへ変えなければならない。だから、愛想笑いを浮かべたのに。それなのに。


『やっぱり、泣きそうな顔してる』


 いつも、彼だけは気づく。


 泣いたって可笑しくないと、肯定してくれた。泣いてもいいと、許してくれた。泣けばいいと、勇気をくれた。一緒に泣いてよと、私を、抱きしめてくれた。


 誰にも知られないように、ひっそりと閉ざしていた心が、ゆっくりと、緩やかに、確実に、溶けおちる。




「泣きたいなら、泣けばいいんだよ」


「………………………ありがと…」


 ようやく帰るべき場所に辿りついた迷子のように、私は泣いた。





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