プロローグ
ふと潮風の匂いを感じて足を止めた。耳を澄ますと穏やかな波の音もする。僕はひどく疲れを感じていたが、それも無かったかのように再び歩き始めた。遠くの方、名も知らぬ植物たちの隙間から海の反射らしき光が見えている。森の天井から直に僕を照らす太陽光は鋭く傷つけるような邪悪さすら感じられたが、海からのその反射光はむしろ僕を誘うかのような優しさに満ちていた。やにわに吹き始めた風は僕の背中を押し、葉の擦れ合う音は僕と海との再会を盛り上げる拍手喝采のように思える。
僕はすでに森の終わりというべき場所を抜けたことに気づいた。革靴から足の裏に伝わる感覚が変わったのだ。湿っぽく下品な焦げ茶の土ではなく、一歩毎に僕を捉えて離さない砂地へと変わった。顔を上げれば、もう目の前にはラムネ色の海が見えている。あえてここで身だしなみを整えることにした。本当は泥のついた革靴と熱っぽい背広を脱ぎ捨て走り出したい感情に駆られたのだが、当然そんな事はしない。この場では紳士としての最低限の品格は保っていなくてはならないからだ。そして、これこそが正しい作法だと確信して悠々と海に向かって歩いていく。たとえ相手を待たせていたとしても、余裕のないそぶりを見せるのはいけない。海を視界に入れてから長い時間をかけてようやく波打ち際へとたどり着いた。そこで立ち止まり一呼吸を置く。海は相変わらず波打つのみだ。革靴を淡い波にうたせるがままにしても、僕は水平線から目を外さない。またこの戯れにも長い時間かけた後、おもむろに、しかしこの瞬間が最もふさわしいであろうことを知りながら、僕は口を開いた。
「やぁ、久しぶりだね」