エピソード 1―4 グルーミング
「えっと……フィーネちゃんで良いのかな?」
「……フィ、フィーネで良い、よ」
「そかそか。じゃあお言葉に甘えて、フィーネ。キミのイヌミミやシッポのお手入れをさせてくれないかな? たぶん、かなり綺麗になると思うんだ」
「フィーネ、綺麗になれるの? フィーネ、全然可愛くないよ?」
可愛くないよと小首をかしげる姿が可愛すぎて、恭弥は魂を持って行かれそうになった。
「大丈夫だ。フィーネは必ず綺麗になれるよ」
フィーネの毛がモコモコなのは、毛の質も原因ではありそうだが、一番の原因は長すぎて、ダマになってしまっていることだと思われる。
ブランカが似たようなタイプだったので、恭弥はそのことを良く知っていた。
「どうかな。俺に手入れさせてくれないか?」
「フィーネの、イヌミミやシッポを、お兄ちゃんがお手入れするの?」
「うん。嫌……かな?」
ワンコだって、見知らぬ相手に触れられるのを嫌うケースは多い。ましてや人間とほぼ同じ姿なら、警戒されて拒絶されることだってあるだろう。
けれど、フィーネは「嫌じゃない、よ」と、首を横に振った。
この時点で愛らしくて、恭弥はいますぐモフり倒したい衝動に駆られるが、ちゃんとお手入れをして、親しくなってからお願いしてみようと自重する。
「それじゃ、お手入れの道具を取ってくるからちょっとだけ待っててくれ」
恭弥は踵を返そうとして……「あぁそうだ」とフィーネに視線を向けた。
「フィーネは必ず綺麗になる。けど、いまのフィーネだって、凄く可愛いぞ」
「フィーネ、可愛くなんて……」
「外見だってもちろん可愛いし、それに……傷つけられても相手を責めようとはしない。フィーネは外見だけじゃなくて、性格も可愛い女の子だ。俺が保証してやる」
「ふえぇ……」
真っ赤になる。そんなフィーネをその場に残して、恭弥は今度こそ踵を返した。
という訳で、恭弥はアリシアの家に戻り、部屋に置いてあった荷物をとる。なお、家の鍵は掛かっていなかった。田舎であることに加えて、治安が良いのだろう。
そんな訳で、恭弥はペットトリマーのセットを持ってフィーネの元へと戻る。
「お待たせ……って、ザックさんは?」
家に戻ってくると、リビングにぽつんとフィーネが座っていた。
「お父さんは、お義母さんと一緒にブドウ園へ行っちゃった。お兄ちゃんに、フィーネのことをよろしく頼むって言ってたよ」
「そっか。それじゃ、頑張らないとな」
恭弥は持ってきた買い物袋から、ペットトリマーの入門書と、シャンプーやリンス。それにブラシやハサミをテーブルの上に並べていく。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、これはなぁに?」
「フィーネのイヌミミやシッポを手入れする道具だよ」
「へぇ~じゃあ、こっちの本はなにが書いてあるの?」
「それは……」
ミミやシッポを手入れするための知識が書かれた本だが、そのタイトルには『ペット』の文字がでかでかと書かれている。
怒られるかも……と恭弥は心配するが、フィーネは表紙を見て「不思議な文字だね、恭弥お兄ちゃんはこれが読めるの?」と、目をキラキラさせている。
「もしかして、この本の文字って読めないのか?」
「うん。見たことない文字だよ」
「なるほど……これには、毛並みの手入れの仕方が書かれているんだ」
「ふわぁ、そんなのがあるんだね」
天使のような笑顔を浮かべるフィーネが可愛くて仕方がない。早く毛並みのお手入れをしようと、恭弥はペットトリマーの入門書を開いた。
ペットトリマーのお仕事は、病気の早期発見と、グルーミングが主な仕事だと書かれている。
なお、グルーミングとは全身のお手入れのことだ。
細かい内容は、シャンプー&リンスにブラッシング。更にはトリミングと爪切り。耳掃除や歯磨きや肛門線絞りだそうだ。
おおよそはなんのことかは分かるが、肛門線絞りとはなんぞ……と詳細を読んだ恭弥は、ちらりとフィーネのお尻を見て、「これは見なかったことにしよう」と視線を逸らした。
なお、字面通りの内容だったとだけ付け加えておく。
そのほか、爪切り、耳掃除、歯磨きはペットと違って自分でしているはずなので除外。毛並みの手入れを中心におこなうことにした。
「それじゃ、軽くブラッシングをするから……えっと、ひとまずは庭でしようか」
この世界にはビニールはもちろん、新聞紙のようなモノも存在しない。家の中では抜け毛の掃除が大変なことになるので、庭に置いた椅子の上で作業をすることにした。
「えっと……背もたれを側面に……そうそう。それじゃ、イヌミミからお手入れを始めるけど、そのまま動かないでくれよ」
「えっと……痛く、しないでね?」
「痛くはしないつもりだけど、絡まってる毛がちょっと引っ張られたりはするかもだから、痛かったらすぐに教えてくれ」
「う、うん。分かったよぅ」
やはり恐いのだろう。フィーネが椅子の上でその身をこわばらせる。
恭弥は出来るだけフィーネを怯えさせないように左手で頭を軽く抑えて、右手ではソフトのスリッカーブラシを持って、軽くイヌミミの毛を解きほぐす。
「ひゃうんっ」
「あ、痛かったか?」
「う、うぅん、大丈夫だよ」
ふるふると首を横に振る。
「ホントに……大丈夫か?」
「うん。ちょっとくすぐったくて驚いちゃっただけだから」
「そっか。なら続けるぞ」
前置きを一つ入れて、再びスリッカーブラシで軽く、皮膚を引っ掻きすぎないように優しくブラッシングをして、ダマになっている部分は毛根の辺りを指で押さえて解きほぐす。
「ふわぁ……それ、なんか……んっ。ぞわぞわするよぅ」
「ぞわぞわ? えっと……嫌ならやめるけど?」
ワンコは最初に嫌な思いをすると、毎回嫌がるようになることもある。無理そうなら、日をあらためるべきだと恭弥は提案したのだけれど、フィーネはぷるぷると首を横に振った。
「嫌じゃ、ないよ。フィーネ、綺麗になりたいから」
「……ん、分かった。それじゃ、フィーネが止めて欲しいって言わない限りは続けるから、ちょっとのあいだ頑張ってくれ」
「うん、分かったぁ……っ」
ブラシを動かすとフィーネが身を震わせるが、恭弥はブラッシングを続ける。
「ひゃうっ。くす、ぐったい、けど、なんか、ぞわぞわってするっ。フィーネ、知らない。こんなの、知らない、よぅ……っ」
「ホ、ホントに大丈夫か?」
「だい、じょうぶだよ。ぞわぞわするけど――っ。嫌じゃない、からぁ……っ」
くすぐったいのか、フィーネは口元を手で押さえて、時折ぴくんと身体を震わせる。
綺麗になるために頑張ってるんだなと思った恭弥は、フィーネの頑張りに答えるために、黙々とブラッシングを続けた。
「んじゃ、ひとまず耳はこれくらいで、次はシッポのブラッシングをするぞ」
「……ふぇ? 次は……シッポを、触る……の? フィーネ、シッポ、触られちゃうの?」
フィーネが涙目になる。
「そうだけど……やっぱり今度にしようか?」
「きょ、恭弥お兄ちゃんがシッポを触るのは、その、ひ、必要だから、なんだよね?」
「もちろん、必要なことだ」
ブラッシングもトリミングも、シッポに触らずにすることは出来ない。それが伝わったのだろう。フィーネは視線を彷徨わせた後、しっかりと恭弥の顔を見上げて頷く。
「わ、分かった。フィーネ、可愛くなりたいの。だから、そのためならシッポ、触られても平気だよ。恭弥お兄ちゃん、フィーネのシッポ、さ、触って、い、いいよ」
「分かった。それじゃ、ブラッシングを続けるぞ」
「う、うん。……ひゃうっ」
シッポの付け根を掴んでブラッシングをしていくと、恭弥がブラシを動かすたびにフィーネはその身を震わせる。
「ん、シッポ、恭弥お兄ちゃんに、触られてる、よぅ。ひゃ……ぁん。また、ぞわぞわって、くすぐったい。くすぐったいよぅ~~~っ」
最初のブラッシングが終わったとき、フィーネは息も絶え絶えになっていた。
「はぁ……はぁ。恭弥、お兄ちゃん。これで、フィーネはモフモフに、なった、の?」
「いや、いまのは前段階だ」
「……ふぇ?」
「この後、シャンプーとリンス、トリミングをしてからもう一回ブラッシングだな」
「ふえええぇぇえぇぇぇっ」