エピローグ
ボアのヌシ討伐の日から一ヶ月が過ぎた。
シャンプーとリンスの開発は順調で、エリーに教えたグルーミングの知識も、カエデ商会の雇ったトリマー志望の者達に伝授されている。
今度、シャンプーやリンスの試作品が届く予定で、その品質が一定基準を満たしていれば、イヌミミ族トリマーの支店がオープンすることになっている。
もう少ししたら、恭弥の元にはそれなりの報酬が支払われることになるだろう。
それは、アリシアの病を抑えるために必要な、高価なポーションを買うために必要な資金となる必要だったのだけど……もう、その必要はない。
「恭弥お兄ちゃん、どうかしたの?」
不意に、フィーネに問いかけられて我に返る。
「すまん、ちょっと考え事をしてた」
「もぅ……いまは、お仕事の時間でしょ?」
「そうだな」
フィーネに諭され、恭弥はグルーミングの作業を再開した。モフモフなシッポの根元を掴んで、丁寧にブラッシングで毛並みを整えていく。
「ひゃぁ……んっ」
恭弥のブラッシングにあわせて、くぐもった声が漏れる。それをBGM代わりに作業を続け、恭弥はアリシアについて思いを巡らす。
「恭弥お兄ちゃん?」
「……すまん」
「もぅ、いくら作業に慣れてきたからって、上の空でなんてダメだと思うの」
「……すまん」
弁解の余地はないと、恭弥は謝罪の言葉を繰り返す。
「……はぁ、重傷だね。なにをそんなに考え込んでいるの?」
「いや、アリシアのことだよ」
「アリシアお姉ちゃん? アリシアお姉ちゃんのなにを考えてたの?」
「アリシアは、親の仇を討ったんだよなぁ……って」
一ヶ月前、帰還した討伐隊のメンバーからもたらされたのは、ボアのヌシを退治したという報告だった。アリシアは、見事に自分の目的を果たしたのだ。
「たしかに、仇討ちはしたけど……それがどうかしたの?」
「いや、ヌシを倒したら思う存分モフらしてもらうって約束をしてたんだけど……」
「そっか……もう、あれから一ヶ月だもんね」
「ああ。もう一ヶ月だ」
「それは、さすがに……そろそろ約束を果たさなきゃダメじゃないかなぁ?」
フィーネは呆れ眼を恭弥の手の先に向ける。そこには、仕上げのブラッシングでくぐもった声を漏らしている――アリシアの姿があった。
「はぅ……ふぇ? どう、か……したの?」
毛並みのお手入れにうっとりしていたアリシアが小首をかしげた。
「いや、そろそろモフらせてもらうって約束、果たして欲しいなぁって」
「んなっ!?」
一瞬で、アリシアの顔が朱に染まった。
「な、なななっ、なに言ってるのよ、恭弥!」
「なにって……約束しただろ? 帰ってきたアリシアは大怪我をしてたから、いままで自重して待てたけど、もう傷も完治したんだし……そろそろ良いだろ?」
「~~~っ。あ、貴方ね、そういうことを軽々しく……って言うか、フィーネが聞いてるのに、なんてことを言うのよっ!」
アリシアは恥ずかしげに叫んで、「いまのは違うのよ、フィーネ」と弁解する。
「アリシアお姉ちゃん、そんな風に誤魔化すことはないよ」
「あ、あたしは誤魔化してなんて……」
「でも、恭弥お兄ちゃんに、思う存分モフらせてあげるって約束したんだよね?」
「そ、それはその……」
「約束、したんだよね?」
「し、したけど……」
自分より年下のフィーネに詰め寄られて、アリシアはモジモジと答える。
これでは、どっちが年上なのか分からない――と、アリシア自身も思ったのだろう。なにかを振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。
「あのねフィーネ。フィーネはまだ小さいから分からないかもしれないけど、女の子がそんな風に、モフらせてあげるとか、軽々しく口に出しちゃダメなんだよ」
「でも、アリシアお姉ちゃんは、恭弥お兄ちゃんと約束したんでしょ?」
「そ、それはそうなんだけど……でも、あたしは色々とあって仕方なくなだけだから。フィーネは、そんな風に口に出しちゃダメ。軽い女の子だと思われちゃうよ」
「大丈夫だよ、フィーネ、恭弥お兄ちゃんの前でしかいわないもん」
ピシリと、アリシアの顔が引きつったようにみえたのは気のせいかどうか。アリシアは目を見張って、マジマジとフィーネを見る。
「どうしたの、アリシアお姉ちゃん、そんな顔でフィーネを見て」
「いや、その……えっと……あの。ね、念のために確認させて。そんなことあるはずないと思うんだけど、念のため、念のために確認しておきたいんだけど……」
アリシアはそこで言葉を切り、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
「フィ、フィーネ、恭弥にモフらせてあげるとか、約束した訳じゃ、ない……わよね?」
「違うよ」
「そ、そうよね」
「フィーネが一杯モフって欲しいってお願いしたの」
「あぁ、なるほど、フィーネから……って、は? モフって欲しいって……言ったの? フィーネが、恭弥に? ……言ったの?」
「言ったよ。毎日、たぁくさん、モフモフしてもらってるよ。……えへへっ」
胸の前で手を合わせ、無邪気な顔で言い放つ。にもかかわらず、フィーネの瞳の奥には、どこか艶やかな色が滲んでいる。
「モ、モフモフさせたの? 恭弥に? 言うだけじゃなく、させちゃったの?」
「うん」
「は……はあああああっ!? ちょ、ちょっと、恭弥、どういうことよ!?」
恭弥の襟を掴み、ガクガクと揺すってくる。
「ちょ、おち、落ち着けっ」
「落ち着いてられるはずないでしょ!? フィーネはまだ子供なのよ!? そ、それなのに、モ、モフり倒すなんて、な、なに考えてるのよ!?」
「なにを考えてるって、イヌミミやシッポをモフモフしただけなのに、大げさな」
「大げさじゃないわよっ! そ、それに、あたしに、モフり倒したいって言ったくせにっ! フィーネをモフり倒してるってどういうことよっ」
「なんだ、焼き餅か?」
「ちちちっ違うわよっ!」
口では否定しているが、その表情はあまり否定できていない。
素直じゃないなぁと、恭弥は苦笑いを浮かべる。
「心配しなくて、アリシアのことも思う存分モフらせてもらう予定だから安心しろ」
「だから、そんな心配は……って、あたしのこと、も?」
「もちろん、フィーネのこともモフモフするぞ。二人ともタイプが違う最高の毛並みだから、どっちもモフモフしたいしな」
「あ、貴方ね。そんなこと言われて、納得するはずがないでしょっ」
「フィーネは納得してるよ」
怒りをあらわにするアリシアの横で、フィーネがさらりと告げた。それを聞いたアリシアは、信じられないと言った顔でフィーネを見つめる。
「フィ、フィーネ、いま、なんて言ったの?」
「フィーネはいままで不細工だっていじめられてた。そんなフィーネを可愛くしてくれたのが、恭弥お兄ちゃんなの。だからフィーネは、恭弥お兄ちゃんになら、なにをされても良いよ」
「い、いくら、恭弥のおかげだからって……そんな」
アリシアは反論するが、明らかに勢いが弱まっている。
そこに、フィーネがたたみ掛けていく。
「フィーネが良いって言ってるんだから、問題ないでしょ?」
「も、問題あるに決まってるでしょ!」
「どうして? フィーネは、恭弥お兄ちゃんに、モフモフされるの大好きで、恭弥お兄ちゃんはフィーネをモフモフするの大好きなんだから、アリシアお姉ちゃんには関係ないでしょ?」
「そんなことないよっ! あ、あたしだって、恭弥にモフりたいって言われてるんだから!」
フィーネに煽られたアリシアがそんな言葉を口にする。恭弥は間髪を入れず、「それはつまり、モフらせてくれるってことで良いのか?」と確認した。
「……あっ、う……。い、良いわよ。や、約束だもんね。好きにモフらせてあげるわよ」
「よっしゃあっ!」
恭弥は思わずガッツポーズを取った。
でもって、フィーネのイヌミミを撫でながら、偉いぞ、よくやったと褒める。
「フィーネ、そういうつもりじゃなかったんだけどなぁ」
「……うん? なら、どういう意味だ?」
「な、なんでもないよ」
「そうか?」
良く分からないけれど、いまはアリシアとの約束を確定させるのが先だと視線を戻す。
「アリシア、確認だけど……本当にモフっても良いんだな?」
「い、良いわよ」
「いつでもどこでも、好きなだけ、モフり倒しても良いんだな?」
「は、はぁ? いつでもどこでも? 恭弥、貴方――」
「ちなみに、フィーネは、いつでもどこでも、恭弥お兄ちゃんが好きなだけ、いっぱい、いーっぱい、モフモフして良いよ?」
フィーネがえへへと、恭弥にイヌミミを差し出す。
それはアリシアを煽っていると言うよりは、単にモフられ依存症にかかっているだけなのだが、アリシアはますますムキになってしまう。
「い、良いわよっ! 好きにすれば良いじゃない! あたしも、いつでもどこでも、恭弥の好きなだけ、モ、モフらせて、ああっあげるわよ!」
「……アリシア、本当に良いのか?」
「な、なによ、急にどうして真面目な顔で確認してくるのよ?」
真剣な顔つきの恭弥に、アリシアは少したじろぐ。
「俺はアリシアをモフりたい。けど、ポーションの代金とか、そういうつもりは全くないんだ。アリシアがもし嫌なら、無理にモフらせなくて良いんだぞ?」
「……恭弥。……そ、そんなこといちいち聞かないでよ、ばかっ」
アリシアはぷいっと視線を逸らす。
それは、人間の恋人同士であれば、「ハグしても良いか?」「そ、そんなこと、いちいち聞かないでよ、ばかっ」くらいの甘ったるいやりとりなのだが……
例によって例のごとく、恭弥はペットとのコミュニケーションの延長としか思っていない。
「教えてくれなきゃ分からないだろ」
真面目な顔で確認する。鬼畜のごとき恭弥の所業に、アリシアは真っ赤になった。
「も、もうっ、好きにしたら良いでしょっ!」
「何度も言ってるけど、俺はアリシアに無理強いをするつもりは――」
「どうして分からないのよ。嫌じゃない、モフって良いって言ってるのよっ!」
「そっか……安心した」
恭弥は、アリシアのイヌ耳に触れ、そぅっとモフモフする。
「ひゃう……、恭弥の手、優しい……っ。あたしのイヌミミが、モフられてる」
「さすが、アリシアの毛並みは手触りが良いな」
「もぅ、ばか。そんなこと言っても、喜んだり、しないんだから、ね」
喜ばないと言いつつ、頭を恭弥に預けてくる。
アリシアは可愛いなぁと、恭弥は更にイヌミミをモフモフする。
「恭弥お兄ちゃん、フィーネもモフモフして欲しいよぅ」
「んっと……」
理由は良く分からないが、アリシアが嫌がってたけど大丈夫かなと、恭弥は視線を向けた。それに気付いたアリシアが、小さなため息をついた。
「……もぅ良いわよ」
「良いのか?」
「ええ。フィーネが望んでるなら、あたしが口出しすることじゃないしね。それに、あたしはもうすぐ死んじゃう訳だし、その後の恭弥が可哀想だもの」
つまりは、自分が死んだ後は、フィーネと仲良くしなさいよという意味。
それは、アリシアの悲しくて優しい心遣い――なのだが、恭弥は自分のモフモフに身を任せているアリシアの横顔を盗み見る。
ポーションを飲んでから既に一ヶ月が過ぎているが、その顔色は良好だ。……いや、いまはモフられて真っ赤になっているが、それを除外しても健康そのものである。
だが、前にポーションを飲んだときは、数週間で容態が悪化したと言っていたので、今回は症状の悪化が前回より遅い……というか、いまだに出ていないと言える。
でもって、恭弥にはその理由に心当たりがあった。当たり前すぎて――そして、みんなの食生活に否定されて気付かなかった、アリシアの体調不良の原因。
それは……タマネギとワイン。
イヌミミ族はタマネギやブドウやアルコールが平気だと言っていた。けれど、いまのイヌミミ族は人間とのダブル。つまりは、それらが平気な人間の血が流れている。
けれど、アリシアは先祖返りの純血種。
つまりは、タマネギなどがダメなイヌの特性を引き継いでいる可能性が高い。
で、もしそうだと仮定すると、色々と見えてくるモノがある。
たとえば、イヌにとってのタマネギを一気に食べて死ぬ量は、まるまる一個程度。これは体重に関係するので、中型犬くらいでの話だ。
であれば、軽くとも四、五十キロあるアリシアは、たとえイヌと同じ特性だったとしても、一度に十個くらい食べなければ即死するようなことはないという計算になる。
そしてこれは、ポーションを飲むたびに症状再発までの期間が短くなった理由にも関係するのだが……アリシアは、タマネギがあまり好きじゃないが、安いからと食していた。
つまりは、高価なポーションを購入して、お金を節約するために安いタマネギを多く食べるようになり、それによって症状が悪化……というのが、恭弥の予想である。
もちろん、まったく別の理由で、恭弥の予想は的外れという可能性もあるが――と、恭弥は今日まで使用を躊躇っていたペットトリマーのスキル、診察を使用した。
そしてアリシアに使用すると……そこには、健康の文字が表示されている。
恭弥の予想があっているのかは分からない。他のなにか奇跡が起きたのかもしれない。けれど、アリシアの病が治ったことだけは間違いがない。
だが、待てよ――と、恭弥はその事実を口にすることを躊躇した。
アリシアは、もうすぐ自分が死ぬと思っているから、二人一緒にモフっても良いと言った節がある。ここで真実を話すと、モフらせてもらえなくなるかもしれない。
ひとまず、今日いっぱいはモフらせてもらってから教えてあげようと決意した。
そして――
「じゃあ、死が俺達を分かつまで、思う存分モフらせてもらうな」
ちゃっかり、一生モフらせてもらう約束を一方的に交わし、アリシアとフィーネ、二人の極上のモフモフに手を伸ばす。
恭弥のモフモフライフはこれからも続いていく。




