エピソード 1―1 知らないモフモフ
「……知らないモフモフだ」
目覚めた恭弥がぽつりと呟いた。
ぼんやりと開いた目の前に、紫がかった銀色のシッポが揺れていたからだ。
少し視線を動かすと、ベッドサイドに少女が腰掛けていた。森で恭弥を救ってくれた少女のようで、お尻から伸びるシッポがベッドの上で揺れている。
恭弥が猫なら思わず飛びつくところである。
しかし、恭弥は猫ではない。モフリストではあるが……そもそも恭弥の感覚ではイヌミミやシッポを触って殴られた直前なので、恐怖が好奇心に打ち勝った。
好奇心は猫をも殺すが、恐怖は好奇心をも殺すのである。
しかし――と、恭弥は冷静に考える。反射的に飛びつくのは危険だが、目視で観察するのなら、大丈夫かもしれない、と。
そんな訳で、恭弥は慎重にシッポを観察し――その表情を曇らせた。
昨日モフったときにも感じていたが、毛並みのモフモフ感が少ない。まともな手入れをしていないのか、毛が伸び放題で絡まっているのが原因のようだ。
モフモフというよりは、ゴワゴワ。
好意的に表現しても、モコモコと言ったところである。毛並みのお手入れをすればモフモフになるのになぁ……と恭弥は思った。
「……あ、ようやく目が覚めたんだね」
イヌミミ少女がベッドに手をついて肩越しに振り返る。それと同時にシッポが遠ざかって行き、恭弥は思わず手を伸ばした。
「……なによ? また変なことをするつもりじゃないでしょうね?」
「いや、ちょっと、そのシッポを――」
イヌミミ少女のただでさえ細い目が更に細められる。
「な、なんでもない」
さすがの恭弥も、モフモフよりも命の方が惜しい――というより、ここは無理をせず、もう少し仲良くなってからお願いしようと引き下がる。
「で、体調はどう?」
「大丈夫そうだ。ところで、キミが助けてくれたんだよな?」
「そうね。魔獣に襲われていたから助けたのに抱きつかれて、あ、あげくに、イ、イヌミミやシッポまで触られて。しかも、ちょっと殴ったら気絶までされて、あのまま放置するのはさすがに寝覚めが悪いから、仕方なく家まで連れて帰ってきたのよ」
「……いや、なんか、色々とすまん」
恩を仇で返し捲りだった。
そもそも、中型犬のブランカが人型になったら、目の前にいる少女になると確信することからして意味が分からない。
雰囲気というか、なにか似ているという思いはあるのだけど、それでも死んだブランカと、この少女が同一人物だというのは無理がある。
よっぽど疲れていたのだろう……と、恭弥は自己分析をした。
「あ、そういえば、俺の荷物はどうなった?」
「あぁ、それならそこに置いてあるわよ」
少女が指差す先に手荷物が置かれている。恭弥と一緒に運んできてくれたらしい。
「ありがとう、ホントに助かったよ」
「それは良いけど、どうしていきなりあたしに抱きついてきたのよ? なんか、ブランカとか口にしてたけど、その娘と関係があるの?」
「あ~っと、その……死んだ家族とキミが似てたんだ」
「家族と、似ていた?」
「そうだよ。だから、思わず抱きついちゃったんだ。その……悪かった」
ベッドをずり上がって上半身を起こし、ぺこりと頭を下げた。それに伴い、少女の目がさっきと同じように細められる。
けれど、さっきまでとは違って、その目は穏やかな眼差しだった。
「アリシアよ」
「……へ?」
「あたしの名前」
「許して……くれるのか?」
「死んだ家族に似ていたっていうなら、まぁ……仕方ないじゃない。でも、今回だけだからね」
「ありがとう。えっと……アリシアちゃん?」
「小娘扱いしないで」
アリシアの目つきが険しくなった。なかなかに迫力のある美少女である。危険な化け物が出る森にいたくらいだし、幼く見えても自立しているのかも知れない。
「なら……アリシアさん?」
「アリシアで良いわよ。で、貴方は?」
「俺は恭弥だ」
「……恭弥? 変わった響きね」
「そういうアリシアは綺麗な響きだな」
恭弥が切り返すと、アリシアの顔がほのかに赤く染まった。
勝った――と、恭弥は謎の達成感を得る。
「そ、それより恭弥は、あんな場所で武器も持たずになにをしてたのよ?」
「なにって……迷子?」
「はぁ? 貴方、森で迷子って……死ぬわよ?」
「身をもって痛感したが不可抗力だ。まったく違う場所でうたた寝をして、気付いたら森の中にいた。あんまりにも元いた場所と違いすぎて、ここがどこだか想像もつかない」
「……本気で言ってるの?」
いぶかしむような視線を受け、恭弥はアリシアの目の横、モコモコのイヌミミを指差した。
「そのイヌミミとシッポ。俺とは違う種族、なんだよな?」
「ええ、そうよ。あたしはイヌミミ族よ。でも、それがなんだって言うのよ」
「俺の住んでいた世界には、言語を操る他の種族なんていなかった」
「……住んでいた世界? 神隠しにでも遭ったってこと?」
「神隠し……あぁ、そんな感じかも知れないな」
恭弥はいわゆる異世界転移だと認識しているのだが、本質的には同じだろうと頷く。
「神隠し、ね。噂には聞いたことがあるけど……って、ちょっと待ちなさいよ。さっき、死んだ家族があたしに似てるとか言ってたわよね?」
恭弥はギクリと肩をふるわせる。
「……なによ、やっぱり嘘だったの?」
「い、いや、嘘はついてないぞ」
「じゃあなによ、人間の娘があたしと似てるってこと?」
「いや、それも違う。その、ブランカは……」
「ブランカは?」
「俺と一緒に暮らしてた――ワンコだ」
「……ワンコ? ……へぇ、そう、なんだぁ~」
アリシアが目を細めて笑った。ただし、優しげという感じではなく、犬歯をむき出しにした、ちょっと凶暴な感じで――
「あいたっ!?」
恭弥は額を押さえて呻いた。
「まったく、殴るわよ」
「殴る前に言えよっ!」
「さっきのただのデコピンよ。だから、次は本当に殴る」
「海より深く反省してるので許してください!」
「まったく、仕方ないわね」
アリシアは肩をすくめる。
続けて、ふと思いついたかのように「ねぇ」と恭弥の顔を覗き込んでくる。
「そのブランカってワンコ、そんなにあたしと似てるの?」
「……それは、俺が頷いたら殴るって意味じゃないよな?」
「殴るに決まってるじゃない」
「ひでぇ……」
これじゃワンコというより狂犬である。
「冗談よ。いくらなんでも、そんな鬼畜なことはしないわよ。……で、どうなの?」
「ん~、いまにして思えば、見た目が似てるってことはないな。ただ、気高くて……それでいてどこか儚げ。そんな雰囲気が似てるって思ったんだ」
「ふぅん。雰囲気が、ね。なら、恭弥にとって、ブランカは大切だったの?」
「俺の大切な家族だ」
恭弥は迷わず断言する。
アリシアはそっかと呟いて正面――つまりは恭弥に背を向けて、じっと天井を見つめる。
そんな背中に声を掛けるべきか否か、恭弥が迷ったのは一瞬だった。その答えを出すよりも早く、アリシアが笑顔で振り向いたからだ。
「ねぇ、恭弥。貴方はいま、行く当てはないのよね?」
「そうなるな」
「そっか。なら、この家を恭弥にも使わせてあげる」
「それは……良いのか? 本気で困ってるから、お言葉に甘えるぞ?」
「良いわよ。部屋は余ってるし、それに――」
アリシアはなにかを言いかけ、そしてふっと笑った。
「……それに?」
「なんでもない」
「いや、気になるだろ」
「と に か く、良いって言ってるでしょ」
良く分からないが、家を使わす云々は本気らしい。
どうしてそんな風に優しくしてくれるのか、なにやら事情がありそうな気がしないでもないが、他に行く当てがないのも事実。
恭弥は詳しい事情を聞くのは棚上げして、ひとまず甘えることにした。
後から考えれば、この選択こそが恭弥の運命を左右したといえるのだが――このときの恭弥には知るよしもない。
というか、イヌミミ少女と一つ屋根の下、いつかモフりたい――とか暢気に考えていた。
「――っと、そろそろ夕食の時間だから準備をしてくるね」
「あ、それなら、俺もなにか手伝うよ」
ベッドから降り立とうとするが、アリシアに肩を押さえつけられる。
「良いから、恭弥はもう少し寝てなさい。さっきまで気を失ってたんだから」
「……気を失わせた奴が言うなよ」
「恭弥が変なことするからでしょ? また気を失わせてあげようか?」
アリシアが犬歯を見せて笑う。
恭弥は肩をすくめて、それには及ばないとベッドに倒れ込んだ。