彩那のそれから
久しぶりの東京は小雨が降っていた。北海道とは違って、湿気で空気が重く感じられた。ついさっきまで千歳レジャーランドに居たことが嘘のように思えた。
羽田空港からは、電車とバスを乗り継いで自宅まで帰ってきた。
途中、龍哉は近くのコンビニで夕飯を買ってくると言って別れた。彩那も一緒に行くと言ったが、その格好では風邪を引くことになるから先に帰れと気を遣ってくれた。
自宅に戻ると鍵が開いていた。両親は不在と思っていただけに意外だった。
キッチンには父親、剛司がいた。
「おや、彩那。もう帰ってきたのか?」
振り返って言った。テーブルには、見るからに貧相な総菜のパックが広がっていた。
「だって、明日から学校行けって、お父さんが言ったんじゃないの?」
「俺はそんなことは言ってないぞ」
そう言って何か酒のつまみを口に放り込んだ。
「フィオナだろ。お前の学業を心配して、一日も早く学校に戻るようにしたんじゃないのか?」
「あーあ、それじゃ早く帰ってきて損した」
「彩那、何か土産はないのか?」
「あっ、しまった。みんなに買ってくるのをすっかり忘れてた」
大きな声を上げた。
「いや、父さんにとっては、お前が無事に帰ってきたことが何よりの土産だぞ」
「くっさい台詞。こっちが恥ずかしくなるようなこと言わないで」
父親は笑ってから、
「まあ、そんな所につっ立ってないで、これ食べろ」
「何よ、これ?」
「梅屋のみたらし団子。ほら、頑張ったご褒美だ」
「あれだけ頑張って、みたらし団子一本って、しかも食べかけだし」
彩那は鼻から息を出した。
「今回は無理な仕事を引き受けてくれて、ありがとな」
剛司は背中を向けたまま言った。それはいつもの父親とはどこか違っていた。ちょっと意外な気がした。
(世の中には、いろんなお父さんがいるのね。うちのお父さんは、お父さんでよかったのかもしれない)
父親は何か薄ら寒いものを感じたのか、急に振り返った。
「おい、彩那。一人でニヤニヤするのは止めろ。気持ち悪いぞ」
翌日の朝、彩那は龍哉と一緒に登校した。
いつもの見慣れている風景がひどく新鮮に映った。
「ああ、やっぱりなんだか心が落ち着くわね」
彩那は感慨深く言った。
「おーい」
すぐ後ろから小柴内が迫ってきた。
彼の顔を見るのも随分と久しぶりである。
「二人ともようやく戻ってきたのか。コスプレ大会って、一体どこで開催されていたんだよ?」
「ロシア」
龍哉が無表情に答えた。
彩那は突然思い出した。
「そういえば、あなた私の制服写真撮ったでしょ。あれ、どうなったの?」
「まあ学校に行けば分かるさ」
小柴内は意味深なことを言った。
途中、橋のたもとに奏絵が立っていた。手を振って走ってきた。
顔を見るのは久しぶりだが、いつも声を聞いていたので懐かしい感じはしなかった。ずっと一緒に旅行をしていたような錯覚に囚われた。
「ねえ、ねえ。旅行中は気を遣って黙っていたのだけど、実は大変なことになってるのよ」
「何が?」
彩那が訊くと、
「学校に行けば分かるわ」
こちらも意味深な一言を発した。
一体何が待っていると言うのか、不安がよぎった。
古びた校舎が見えてきた。
豪華絢爛な櫻谷女学院とは比べようもないが、どこか温かい感じがした。
これが自分の通っていた学校なのだと言い聞かせた。しかしそんな必要はなかった。校門を抜けると、すぐに身体が順応するようだった。
嬉しさがこみ上げてきた。道行く生徒みんなと握手をしたくなる、そんな気分だった。やはり自分の学校はいい。住めば都とはこのことだ。
男女四人は下駄箱を抜けて1階廊下の掲示板の前へ来た。
「これを見てくれよ。俺一人で作った力作なんだぜ」
小柴内は誇らしげに胸を張った。
そこには学校新聞の最新号が貼り出されている。
しかし誰も気に留める者はいない。何もなかったように、みんな素通りしていく。
「誰にも見向きされてないじゃない」
彩那は無遠慮に言い放った。
「やっぱり一週間も経つと記事も鮮度が落ちるんだな。初日は黒山の人だかりができて、廊下が歩けないほどだったんだけどな」
「どれどれ?」
彩那は壁新聞に目を遣った。
大きな写真が目を引いた。そこにはあの日のコスプレ写真が載っているではないか。
「倉S彩Nのスクープ写真! ついにアイドルデビューか!」
そんな見出しが踊っている。
「まさか、これって一週間ずっとここに貼ってあったの?」
呆れて訊いた。
「そうさ、決定的瞬間をうまく捕らえているだろう?」
「ちょっと待って。これって伏せ字が逆じゃない?」
彩那の指摘に、小柴内はきょとんとした顔になった。
「そうなのか?」
「あのねえ、普通は前の文字を伏せるのよ」
「ってことは、K沢A那ってことか?」
「そうよ。そんなことも知らずによく新聞部やっているわね、あんたは?」
「悪い悪い、それじゃあ明日正しく直しておくよ」
小柴内は意外にも律儀な性格なのであった。
「いやいや、余計なことしなくていいから。そんなことしたら名前が全部バレちゃうじゃない」
彩那は両手を腰に当てて、小柴内を睨んだ。
すると今度は奏絵が控え目に肩を突いてきた。
「何よ、今取り込み中なの」
彼女は黙って指を向けている。彩那の視線もそれにつられて移動した。
新聞のすぐ隣には、また別の紙が貼り出してあった。
こちらは「数学科からのお知らせ」とある。
「以下の者、数学の課題が未提出となっています。至急提出すること」
「えー。こっちは伏せ字になってない」
「当たり前じゃない」
奏絵は冷たかった。
「ということは、あの日の苦労は無駄だったってこと?」
彩那は天を仰いだ。
「もう、この学校いや。櫻谷女学院に戻りた~い」




