修学旅行3日目 札幌市内観光?(3)
「買ってきました」
龍哉の声。
「それでは、テレビ塔下の公衆トイレで彩那と落ち合いなさい。人目につかないよう注意して」
「はあ」
それを聞いて、彩那もトイレに向かった。入ってすぐの所に立った。仕切り板のおかげで外からは見えない位置になる。
自転車の乾いたブレーキ音がしてから、龍哉が入ってきた。
「朝、ホテルで会ったきりだな。一人で大丈夫だったか?」
「まあ、何とか」
彩那は両手で体操服の胸辺りを隠すようにした。
「お前、さっきから何もじもじしてるんだよ?」
「別にもじもじなんかしてないわ」
龍哉は意外にも鋭い。
「ちょっと、あんまりこっちを見ないでよ」
「どうして?」
「いいから、早くTシャツ頂戴」
「何だ、これお前が着るのか?」
不思議そうな顔をして袋ごと寄越した。
「ありがとう」
「龍哉、自転車でテレビ塔付近を巡回しなさい。不審者がいないかどうか確認して」
「了解」
彩那に向かって軽く手を挙げると外へ出ていった。それを確認してから、女子トイレの個室に駆け込んだ。
体操服を脱いで、素肌の上からTシャツを着た。「クマ出没注意」という文字とともに、リアルな熊の絵が中央に描かれている。文句を言えた立場ではないが、もう少し可愛いデザインが選べないものかと、龍哉のセンスを疑った。
国能生澪はどこかへ消えたという報告をもらって、彩那はテレビ塔真下のベンチに戻って腰を下ろした。
犯人の指定してきた時刻は10時15分。しかしすでに30分が経過している。ここでもまた連中は接触しないつもりだろうか。
「彩那、誰かがこちらに向かってきます。用心しなさい」
確かにテレビ塔の下をくぐり抜けて、真っ直ぐ歩いてくる者がいた。
派手な格好をした若者である。手にはウサギの形をした風船を持っている。左右を見回してみたが、彼が来るのを待っている者はいなかった。
案の定、男は彩那の真正面に立ちはだかった。
「失礼ですが、櫻谷女学院の方ですね?」
「はい、そうですが」
「これを頼まれまして」
男は風船を手渡した。
「お代は頂いておりますので結構です。ありがとうございました」
軽くお辞儀をすると、くるりと背を向けて帰っていった。
ピンクのウサギは青空にぷかぷかと浮いている。よく見ると、紐に紙が巻き付けてあった。
彩那は慌てて紙をほどいた。風船はするりと手の中を抜けて、大空に舞い上がっていった。
「11時、北海道庁旧本庁舎」
「次の指示ですね。そこから北西500メートルの距離です。直ちに移動を開始しなさい」
それから菅原刑事を呼び出した。
「今、風船売りの若者がテレビ塔の下を抜けて噴水広場の方へ向かっています。それとなく接触して、誰に頼まれたか尋問して」
「了解しました」
一方、彩那はフィオナの誘導でビル街を走り抜けた。10キロの鞄のせいで、すぐに息が上がってくる。
「あと10分あるから、余裕ね」
「どうやら、そうでもなさそうですよ」
前方に例の男3人組が行く手を阻んでいた。国能生実伴と関係が深い暴力団員である。
「また、あの人たち?」
自然と顔が歪んだ。
「どうしよう、フィオ?」
「菅原がすぐ近くにいますから、全員を傷害ならびに公務執行妨害で逮捕することは可能ですが、事を大きくするのは得策ではありません。誘拐犯が見張っている可能性があるからです。ここは来た道を引き返しなさい。別のルートで誘導します」
「ぜひ、そうして頂戴」
彩那はくるりと反転すると逃げ出した。
「おい、待て」
「龍哉、連中を足止めしなさい」
「やってみます」
返事をすると、わざと進路に自転車を滑り込ませた。車体が転倒する音と彼らの怒号がビルの谷間でぶつかり合った。
「龍哉、うまく引き留めておいてよ」
北海道庁旧本庁舎は「赤れんが庁舎」の愛称で親しまれている。西洋色が強く打ち出されたその外観は、明治時代の人々をあっと驚かせたに違いない。その感動は、今もなお薄れることはない。
彩那も一時は仕事を忘れ、その存在感に目を奪われた。
時刻は11時10分。またもや遅刻である。
この庁舎は札幌駅に近いこともあって、集合時間が迫っている櫻谷女学院の学生たちですっかり埋め尽くされていた。他の観光客は申し訳程度に混じっている。
彩那は、体操服の肩から鞄を下ろして門をくぐり抜けた。
「本当に、こんなところで取引を?」
「人混みを利用して、鞄をひったくられる可能性があります。しっかり掴んでいなさい」
「彩那、今更だけど、さっきはテレビ塔に上がるべきだったわね」
「えっ、どういうこと?」
「やはり奏絵も気づきましたか」
フィオナが声を被せた。どうやら二人には何か思い当たる節があるようだった。彩那にはそれが何か分からなかった。
「ねえ、どういうことか教えてよ」
「だって、おかしいとは思わない? 犯人はこれまでに3つの観光ポイントを指定してきたけれども、テレビ塔だけ他とは違ったでしょ?」
「そうだったかしら?」
彩那は考えてみた。
「ほら、テレビ塔だけ指示が具体的だったじゃない?」
「どんな風に?」
「いい、思い出してみて。最初は時計台、次がテレビ塔の下、そして北海道庁旧本庁舎。やっぱり変じゃない?」
彩那にはまだ分からない。
「テレビ塔だけ、わざわざ『下』と指示しています」
フィオナが解答を示した。
「ああ、そういうこと。でも、それは塔には上と下があるから、区別をしただけのことじゃないの?」
「いいえ、建物にも内と外の区別があります」
その説明には納得がいかなかった。
「要するに、あの時犯人は展望台にいて、下にいる彩那を見張っていたのかもしれないということです。わざわざ下と指定することで、上に来てもらっては困るという都合が見え隠れしています」
「それじゃあ、あの時、展望台に上がっていれば、犯人と対面できたってこと?」
「そういうことです」
悔しいが、女二人の考察には鋭いものがあった。
旧庁舎に足を踏み入れると、櫻谷の制服に取り囲まれた黄色い女性を見つけた。
驚いたことに、制服を着たバスガイドの花島美乃華だった。
「花島さん!」
思わず声を上げた。女子生徒をかき分けて彼女の元に辿り着いた。
「身体の方はもう大丈夫なのですか?」
「あら、倉沢さん。何だか久しぶりに会った気がするわね」
まだ少し顔色は優れないが、意外にも物腰はしっかりしていた。
「点滴を打ってもらったら、随分と楽になったわ。最後まで責任をもって、この旅行の添乗員を勤めたくて、お医者様には無理を言って病院を抜け出してきちゃった」
美乃華は微笑んだ。しかしその表情もどこか弱々しい。
しかし彩那は、彼女の芯の強さを再び垣間見た気がした。
そう言えば、彼女の着ている制服は新品同様に見える。それを尋ねると、札幌の営業所から予備を貰ってきたのだと説明してくれた。
「大切な制服を破いてしまって、ごめんなさい」
「そんなこと気にしなくていいのよ。全て事情は聞いたわ。倉沢さんが無事で何よりよ」
美乃華は優しく言った。
庁舎の中は、ますます観光客で混雑し始めた。そんな人の目を気にするようにして、
「倉沢さん、ちょっといいかしら?」
彼女に誘われてレンガ造りの建物を出た。
二人は木陰に身を潜めると、
「その鞄には、里沙さんの身代金が入っているんですって?」
「ええ」
「早く犯人が捕まって、里沙さんが戻ってくるといいわね」
そこまで言っておいてから、突然「あっ」と短く声を上げた。
「そうか、これはそういうことだったのね」
美乃華はポケットに手を入れて何かを探し始めた。
「私は犯人から逃げることができたと思い込んでいたけれど、実はわざと逃がされただけなのかもしれないわ」
「どういう意味ですか?」
「これを見て」
小さな紙切れだった。
「本日午前11時、大きな鞄を持った櫻谷女学院の生徒が声を掛けてくる。その人物に次のように伝えよ。そちらの警備態勢は十分把握できた。そのまま一行と合流して、最終目的地まで向かえ」
「これは?」
「病院で気がついたのだけど、私が着ていた櫻谷の制服に忍ばせてあったの。犯人からのメッセージだったのね」
いつか奏絵が言った通りだった。
連中は彩那を引っ張り回して、警察の動きを観察するのが目的だったのだ。つまり最初から札幌では取引などするつもりはなかったのである。
朝から死ぬ思いで走り回っていたことが、実は無意味だったと分かって愕然とした。その場に倒れてしまいたい気分だった。
「倉沢さん、大丈夫?」
美乃華が慌てて身体を支えてくれた。




