修学旅行3日目 札幌市内、朝のホテル(2)
放送は誰もいない朝のロビーに、異常なくらい大きく響き渡った。
「彩那、それでは仕事開始です。まずは女学院の生徒以外の部屋から調べなさい」
「はい、分かりました」
従業員とともに、一般の宿泊客の部屋を見ていった。1時間ほどで全室を回ることができたが、里沙の姿はおろか、不審な人物も見当たらなかった。
どうやら彼女はすでにこのホテルの外へ出てしまったらしい。彩那は一縷の望みをかけていただけに、大いに落胆した。
廊下の途中で、倉垣咲恵に進路を塞がれた。
「ちょっと待ちなさいよ」
彼女は腕を組んで彩那を睨み付けている。あっという間に他のクラスメートにも囲まれてしまった。
「里沙の部屋に警察が集まってるけど、彼女の身に何が起きたって言うの? あなたは知っているんでしょ?」
「いいえ、知らないわ」
先を急ごうとすると、腕を掴まれた。
「嘘をつかないで。あなたがこの学院に来てから、ろくでもないことばかり起きるようになったわ。まるで疫病神よ!」
彩那は腕を振りほどいた。
「里沙がどうなっても平気なの?」
さすがにその言葉には振り返った。
「私が平気でいられる訳ないじゃない!」
それだけ叫ぶと、彩那はクラスメートの身体を左右に押し分けて進んだ。
(この私が平気でいられる? とんでもない。自分の不甲斐なさに、どれだけ腹わたが煮えくりかえっていることか)
「ロビーに戻りなさい」
フィオナの指示が戻って来た。
「言われなくても、今、向かっているところです」
彩那は憮然と返した。
「これから言うことをよく聞きなさい」
ロビーの椅子に腰を降ろすと、すぐにフィオナが呼び掛けた。
「先程、南美丘会長と話をしました。娘が誘拐されたことを伝えると意気消沈していましたが、それでも我々警察を責めることはしませんでした」
それは、里沙の父親が人に優しい性格であることを物語っていた。やはり思い描いていた通りの人物だった。
「今、ナミン製菓は存続できるかどうかの瀬戸際に立たされているため、娘の身代金とはいえ、1億もの大金は用意できないとのことです。1千万円だけは何とか都合するので、身代金が犯人に渡る前に逮捕してくれないかと、会長は涙ながらに懇願していました」
警察の失態に文句の一つも言わず、ただ平身低頭するばかりの父親を不憫に思った。
(絶対に里沙を助けてみせる)
そのために身を投げ出す覚悟はできている。彩那は拳に力を入れた。
「身代金は、取引銀行の札幌支店で用意してもらうことになりました。できるだけ早くホテルに届けてくれるよう連絡を入れてあります」
「フィオ、残りのお金はどうするの?」
「紙幣と同じ大きさの模造紙を用意します」
「なるほど」
「そして身代金は生徒会長ではなく、彩那が運搬しなさい。犯人の指示とはいえ、一般人を危険に晒すわけにはいきません。あなたはそのために、この旅行に参加しているのですから」
「望むところよ」
彩那は力強く言った。
2年1組の生徒たちは、里沙の姿が見当たらないことを不審に思い始めた。彼女は、彩那とのトラブルがきっかけで、ホテルを飛び出したのではないかと口々に噂した。
担任の槇坂はそんな事態を収拾するため、里沙は突然体調を崩し、救急車で市内の病院に搬送されたのだと説明した。あくまで誘拐事件のことは伏せておくつもりであった。
こうして修学旅行は、犯人の指示通り、予定を変更することなく続けることになったのである。
最終日、午前中はグループに分かれて札幌市内観光。正午に札幌駅に集合し、千歳レジャーランドへバスで移動。夕方まで遊園地で過ごした後、飛行機で東京に帰ることになっていた。
午前8時、生徒たちはそれぞれの荷物を携えて、チェックアウトを始めた。
倉垣咲恵が、ロビーにいた彩那を目ざとく見つけると近寄ってきた。クラスメートも立ち止まって冷たい視線を向けている。
「あなた、こんな所で何をしているの? 私、槇坂先生の説明なんて信じてないから。みんなも同じ意見よ。きっとあなたのせいで里沙はどこかへ行ってしまったのよ」
咲恵は吐き捨てるように言った。
彩那はじっと耐えるしかなかった。
所詮、彩那は櫻谷女学院の生徒ではない。そんな疎外感が湧いた。事件が解決すれば、学院に通えなくなる身分である。よってクラスメートに何と思われようと、それは問題ではなかった。
「彩那、言わせておけばいいよ」
奏絵の声。
「知り合って、たった数日しか経っていない彩那が、クラスの誰より里沙のことを一番分かっているのにね」
その言葉は、闇の中、一筋の光となって彩那の前を照らしたようだった。自分は間違ったことはしていない、そんな自信が湧いた。遠く離れた場所から応援してくれる友人に感謝しなければならない。
生徒全員がホテルを出て、ひっそりとしたロビーで、彩那は現金の到着を待っていた。
龍哉と菅原刑事は病院で花島美乃華に付き添っている。そのため、この先独りで犯人と対峙しなければならない。不安というよりも、責任の重圧が肩にのし掛かっていた。
すでに8時30分を回った。犯人が指定した時刻は9時。果たして現金は間に合うのだろうか。
「フィオ、身代金はほとんどがただの紙切れなんだけど、本当にそれで大丈夫なのかな?」
「彩那は余計なことを考えなくてよろしい。きちんと1億円が入っているものとして運搬すればいいのです」
こんな非常事態でも、フィオナはまったく動揺を見せなかった。まさに鉄の女といった感じである。
9時少し前、玄関に一台の車が横付けされた。白いワゴン車である。堅牢な現金輸送車を予想していただけに、少々拍子抜けだった。
「どうもすみません。遅くなりました」
支店長代理と名乗った男が汗を拭いながら駆けてきた。銀行はまだ開店前のため、準備に手間取ったなどと早口で説明した。
男の手には、ジュラルミンケースが一つ握られている。50センチ四方の大きさだった。彩那はお礼を言って受け取ったが、さほど重くは感じられなかった。
それでも蓋を開くと、札束がぎっしり詰まっていた。しかし本物は表面だけで、その下には模造紙が重ねてあった。
支店長代理と向き合って、犯人からの連絡を待った。
しかし9時を過ぎても連絡はない。
彩那は次第に苛立ち始めた。取引が遅れれば、それだけ里沙の命が危険に晒されるような気がしたのである。
すると突然フロントが騒ぎ始めた。
「どうしたのですか?」
慌てて駆け寄ると、
「これを見て下さい」
と係員がパソコンの画面を指さした。
画面には、ホテルの宿泊予定表が写し出されている。予約はメールでも受け付けているのだが、その備考欄に何やら不審なメッセージが書かれていると言う。
彩那はその文面を目で追った。
「フロントに鞄の忘れ物が届いている。その中に麻袋が10枚入っていることを確認せよ。身代金はそれぞれの袋に1千万円ずつ詰めておけ」
「すみません。もっと早く気づくべきでした」
係の女性が申し訳なさそうに言った。
「メールの発信時刻は分かりますか?」
「8時半です。いつもは頻繁にチェックしているのですが、今朝はフロントがごった返していたので、今確認したところなのです」
腕時計に目を落とした。もう時刻は9時を過ぎている。犯人はとっくに指示を出していたのだ。
「しかし、そんな忘れ物は見当たりませんよ」
もう一人の男性係員が、一旦奥に引っ込んでから飛び出してきた。
「普段、忘れ物はどうやって届けられるのですか?」
「客室係が部屋を掃除して、忘れ物や落とし物を見つけたら、作業終了後、こちらに持ってくることになっています」
「彩那、直ちに呼び掛けてもらいなさい」
フィオナの指示をそのまま伝えた。
支配人の緊張した声が放送で流れる。
「緊急事態につき、全員、手を止めてよく聞きなさい。館内で鞄の忘れ物を発見したら、大至急フロントまで届けてください」
時間が止まったように感じられた。何の返答もない。
すると、壁に掛けられた業務連絡用の電話が鳴った。
係員が慌てて取った。
「はい、それです。急いで持ってきてください」
受話器を戻すと、
「3階のトイレにあったそうです」
と教えてくれた。
それは里沙の部屋と同じ階である。犯人は里沙を誘拐しておいて、わざと鞄を置いていったのだろうか。
しばらくすると、慌ただしく階段を駆け下りる音がして、中年の仲居が姿を見せた。手には黒い鞄が握られている。
「忘れ物というのはこれですか?」
彼女は肩で息をしながら尋ねた。
彩那は礼を言って受け取ったが、よく見ると、それは里沙が菓子を入れていた鞄であった。開くと、確かに白い麻袋が入っている。
犯人は里沙の持っていた鞄を身代金の運搬に使う気なのだ。わざわざナミンの菓子を床にぶちまけて、空になった鞄を利用するというのはいかにも人を食ったやり方である。そこにはナミン製菓に対する私怨を感じ取ることもできる。
「もう9時を回っています。現金の詰め込み作業は、みんなに手伝ってもらいなさい」
フィオナに言われて、支配人にスタッフを集めてもらった。
ロビーにいる者全員が手分けして、現金を麻袋に詰める作業を行った。本物の1千万円は一つの麻袋に、そして模造紙は残りの麻袋に詰め込んだ。
現金は百万円ずつ帯封されていたので、作業を完了するのにそれほど時間は掛からなかった。
「彩那、フロントにツールボックスを預けてあります。受け取りなさい」
言われた通り、小型のケースを手にした。
「ボックスを開くと、中に青色のスプレー缶が入っています。それを本物の現金を入れた麻袋だけに吹きつけなさい」
彩那は訳も分からぬまま、指示に従った。
「それは不可視インクと言って、紫外線を当てると発光します。肉眼では見えませんが、彩那の眼鏡では青く光って見えます」
「ほんとだ」
思わず感嘆の声を上げた。
「犯人から現金を見せるように言われた時は、その袋を見せなさい」
「分かりました」
時刻は9時20分。もう指定時刻を大幅に超えている。この後どうすればいいのか。早く犯人から連絡がほしい。
「他に不審なメールは届いてないのですか?」
フィオナに言われて、彩那はフロントに声を掛けた。
「ちょっと待ってください」
係員はパソコンを操作し始めたが、
「あっ、新着メールがあります」
「生徒会長が鞄を持って、9時30分までに札幌時計台に来い」
「フィオ?」
「すぐ出発しなさい」
支配人に訊くと、とてもその時間には間に合わないと言う。それでもこの時間、道路は混雑しているので、自転車を使った方が早く着けると教えてくれた。




