修学旅行3日目 札幌市内、朝のホテル(1)
ベッドの脇に置かれたスマートフォンが激しく鳴っていた。
目が覚めた途端、激痛が全身を貫いた。ちょっと手を伸ばしただけで、ちぎれそうな痛みが走る。
「彩那、直ちに里沙の部屋へ急行しなさい」
フィオナの鋭い声。
「一体、どうしたの?」
口を動かすと、顔面にも痺れを感じた。しかし今はそれどころではない。指令長の次なる言葉に身構えた。
「里沙が誘拐されました」
「何ですって?」
思わずベッドから転げ落ちた。そこには最大級の痛みが待っていた。
着替えもせず、素足のまま里沙の部屋に向かった。階段で何度も足がもつれ、その度に痛みが容赦なく襲ってきた。それでも走るのは止めなかった。
午前5時。ホテルの従業員たちが、それぞれ持ち場の服装で廊下に押し寄せていた。生徒たちはまだ寝ているのか、誰もいない。
「ちょっと通してください」
彩那は従業員をかき分けて進んだ。
一苦労して部屋の中に雪崩れ込むと、櫻谷女学院の制服女子が横たわっていた。一瞬、里沙かと思ったが、こんな朝早くに制服を着て倒れている筈もない。
驚いたことに、それはバスガイドの花島美乃華だった。
(どうしてここに?)
すぐにしゃがみ込むと、彼女の脈を診た。死んでいるのではないかと肝を冷やしたが、確かに息がある。犯人に連れ去られたものの、無事だったのだ。
しかし安心するのはまだ早い。
顔色は悪く、額からは汗が噴き出していたからである。熱があるのかもしれない。
「フィオ?」
「今、救急車が来ます。そのまま待機しなさい」
支配人が駆けつけて、従業員に通路を空けるよう指示した。
龍哉も姿を見せた。肩で大きく息をしている。
「だめだ、ホテルの外を見てきたが、里沙はどこにも居ない」
「一体何が起こったの? 里沙と花島さんが入れ替わるなんて」
状況がまるで飲み込めない。
「俺にも分からんよ」
龍哉は怒ったような声を上げた。
遠くからサイレン近づいてきて、階下で止まったようだった。すぐに慌ただしい足音とともに、救急隊員が到着した。
「龍哉は花島に付き添って病院に行きなさい」
「了解」
彼女は制服姿のまま、担架に乗せられて部屋から出て行った。龍哉もその後に続いた。
さすがに救急車のサイレンに目を覚ましたのか、廊下には女子生徒が集まってきた。みんな乱れた髪もそのままで、不安な顔をずらりと並べている。
「彩那、部屋の中を調べなさい」
「分かりました」
まず目についたのは、床に散乱しているナミンのお菓子だった。これがクラスメートに配るため、東京から持参したものであろうか。
里沙によれば、菓子は大きな鞄に入れていた。とすれば、どうして犯人は菓子をばらまけたのだろうか。
いや、そうではない。鞄だけが必要だったので、中身は床にぶちまけたのだ。
(しかし、何のために?)
ベッド脇のスーツケースはちゃんと残されている。こちらは犯人が手をつけた形跡はない。やはり鞄が一つなくなっているのだった。
それをフィオナに報告した。
「ねえ、彩那。その鞄の大きさってどのくらい?」
奏絵が疑問を呈した。
「そうねえ、里沙が肩から掛けて持っていたから、長さ1メートルぐらいの円筒形ね」
「ふうん」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「犯人はその鞄に里沙を押し込んで、何食わぬ顔でフロントを通過していったのかと思ったのよ」
彩那は目をつぶって思い出しながら、
「でも、あの鞄に人を入れて運ぶのはちょっと難しいわね」
「やっぱりだめか」
「身体全体を入れるのは無理だと思う。頭だけ外に出すのなら、何とかいけるかも」
「それじゃあ、隠して運ぶことにならないし」
「そうね」
「ねえ、彩那。昨夜もドアには振動感知プレートが設置してあったのでしょ。それはどうして作動しなかったのかしら?」
部屋の外に出て、プレートを手に取ってみた。そんな彩那の動きを女子生徒たちが見守っている。
「右側をよく見せて」
フィオナの指示。
「スイッチが切ってあります」
「誰がそんなことを?」
「そりゃ、犯人に決まっているでしょ、普通に考えて」
奏絵が当然とばかりに言った。
「犯人はドアに仕掛けがあることを知っていた訳です。恐らく昨夜、函館のホテルに侵入し、警備態勢をチェックしていたのでしょう」
「犯人は私たちと一緒に移動しているようだから、宿泊客に紛れて、ホテルに潜り込んでいたことは十分に考えられるわね」
「でも、里沙と花島さんが入れ替わったのは説明がつかないわ」
奏絵が鋭く指摘した。
「花島の意識が回復するのを待って、詳しい話を聞くことになりますが、どうやら彼女は自力でホテルまでやって来たと思われます」
「犯人から逃げ出してきたってこと?」
「はい。実は午前4時頃、彼女自身が110通報してきたのです。犯人の隙を見て、監禁されていた車から逃げ出したと伝えています。
そこで発信元と思われる公衆電話に菅原を向かわせました。しかし花島は発見できませんでした。その後、道警と協力して付近を捜索しました。ひょっとして、犯人に見つかって、連れ戻されたのではないかと考えていたところ、ホテルに現れた訳です。
フロントの証言では、制服を着た女性が鍵の掛かったドアを外から叩いていて、中に入れたところ、警察を呼んでくれと頼んだそうです。そして里沙の部屋番号を尋ね、その足で乗り込んでいったというのです」
二人は黙って聞いていたが、奏絵が先に口を開いた。
「花島さんを尾行してきた犯人が、今度は里沙を連れ去ったということでしょうか?」
「そうに違いないわ。彼女は責任感の強い人だから、里沙の身に危険が及ぶと思って助けに来たんだわ。ところがそれは犯人の罠で、逆に里沙の居る場所を教えることになってしまった」
彩那は自信を持って言った。
「しかし不思議なのは、フロントが犯人の姿を見てないことです」
「いや、犯人の仲間がこのホテルに宿泊しているとしたら、別に問題はないんじゃない」
彩那が返した。
「花島を車に監禁していた者と、ホテルで里沙を連れ去った者、つまり犯人グループは二手に分かれて行動しているということですか」
フィオナが確認した。
「あっ」
奏絵が声を上げた。何かに気づいたと見える。
「もしそうだとしたら、里沙はまだホテルから出ていないことになりませんか?」
「そうよ。それは十分にあり得るわ」
彩那も同意した。
「その可能性も考えて、ホテル側にチェックアウトする客の手荷物検査を依頼してあります。まだ朝早い時間ですので、今のところ誰も外へ出た者はいません。すぐにでも全室を確認したいところですが、この時間ではさすがにそれは無理でしょう。6時になったら、館内放送を掛けてもらい、宿泊客に協力してもらう予定でいます」
さすがフィオナは先手を打っていた。
「それなら時間の問題よね。犯人はもう袋のネズミなんだもの」
彩那は意気揚々として言ったが、
「果たしてそうでしょうか? ここまで用意周到だった犯人が、簡単に逃げ場を失うようなことをするとは思えないのです」
フィオナはどこまでも慎重だった。
「ちょっと待って」
突然フィオナが言った。
「今、フロントに妙な電話が掛かってきたそうです。彩那、すぐに向かいなさい」
「了解」
部屋を飛び出して、直ちに一階のフロントに駆けつけた。
フロントの係員が、ちょうど受話器を置いたところだった。
「今の電話、どんな内容でしたか?」
勢い込んで聞くと、係の女性はメモを読み上げた。
「南美丘里沙は誘拐した。バスガイドは用がないので返す。一行は予定通り、このまま旅行を続けよ。
事前に通告した通り、身代金として1億円を要求する。午前9時までにホテルのロビーに準備せよ。その運搬役は生徒会長が務めること。次の指示は追って連絡する」
とうとう里沙が誘拐されてしまった。警察が警戒する中、犯行に及ぶとは大胆不敵と言わざるを得ない。同時に、犯人にまんまと出し抜かれたことに、ふがいなさを感じた。
「フィオ。私、どうすればいいの?」
「まずは落ち着きなさい。こういう時こそ、冷静さが大切です。人間は感情だけで動くと、大きく判断を見誤ります」
「そんなこと言ったって」
「いいから、フロント係に電話の相手がどんな声だったか訊きなさい」
「はい」
カウンター越しにその点を質すと、
「コンピュータが文章を読んでいるような、抑揚のない声でした」
グレーのスーツを着こなした若い女性が答えてくれた。
「相手は人間ではなかったのですね?」
「はい。こちらがいくら話し掛けても何も応えず、一方的に切れました」
そこに奏絵が入ってきた。
「つまり犯人は、前もってその音声を用意していたということね」
「それがどうかしたの?」
「これまで犯人は、バスの置き手紙やSAのメモ紙、コンピュータの音声といった具合に、全てを事前に用意しているってこと」
「そんなの当たり前じゃない? 誘拐を企てる人間が、行き当たりばったりで動く筈ないでしょ。用意周到に計画をたて、それを実行に移しているのよ」
「どうもそこが引っかかるのよね。何と言うか、旅行はリアルタイムで進んでいるにもかかわらず、犯人の動きがリアルタイムではないという感じ。私たちは犯人によって、決められたレールの上を走らされている気がするの」
奏絵には珍しく、うまく考えをまとめられないようだった。
「私には全然分からないけどな」
フィオナは二人のやり取りを黙って聞いていたが、
「私は、これから南美丘会長と身代金について打ち合わせをします。梨穂子が代わって指令を出しますので、彩那はそれに従いなさい」
「はい」
「アヤちゃん、元気出して」
すぐに母親の声に切り替わった。
「でも、里沙さんが誘拐されたのは私のせいなのよ」
「そんな風に自分を責めないで。今やるべきことは、負の感情を捨てて、犯人と対決するための体勢を整えることでしょ?」
確かにその通りだが、そんな風に割り切って考えることはできない。
なぜなら里沙とは、いつでも傍にいることを約束したからである。捜査班として、いや友達として、その約束を守れなかったことが悔しいのだ。
梨穂子はそんなことにはお構いなく、
「龍哉、聞こえますか?」
と呼び掛けた。
「はい、どうぞ」
「そちら、花島さんの容体はどうですか?」
「診断の結果、特に外傷はありません。極度の疲労が見られるので、ベッドに寝かせて点滴を打っています。今は意識も回復しているようです」
「そうですか。それはよかったです。菅原、尋問はできそうですか?」
「医者の話では、今は精神状態が不安定ですが、もう1時間もすれば普通に話ができるということです」
「では、二人ともそのまま病院で待機しなさい」
「了解しました」
時計の針が午前6時を指した。
フィオナが依頼しておいた通り、館内放送が流れた。
「皆様、おはようございます。お休みのところ、誠に申し訳ございません。警察より、ただいまこの付近に爆発物を持った人物が潜伏しているという情報が入りました。つきましては、安全確認のため、一時的にホテルを閉鎖し、お部屋をチェックさせて頂きたいと思います。これから従業員が皆様のところへ参りますが、どうかご協力のほど、よろしくお願い致します」




