修学旅行2日目 深夜、札幌市すすきの界隈(2)
言われた通りに進むと、薄暗い路地にこぢんまりとした店が現れた。
間口は狭く、店内は混んでいる様子だったが、ちょうどサラリーマン風の男三人が暖簾をくぐって出てきた。
酒に酔っているのか、そのうちの一人が、
「お姉ちゃん、お二人、いらっしゃい」
と店の中へ招いてくれた。強烈な酒の臭いに、彩那は顔をしかめた。
さすがに人気店らしく、深夜でも客で溢れかえっている。それでも空いたばかりのテーブルに、里沙と向かい合って座ることができた。
いつの間にか眼鏡のレンズが曇ってしまった。これでは指令室にいるフィオナにも指示は出せないだろう。彩那は眼鏡を外して脇に置いた。
慌ただしくやって来た店員が、前の客の散らかした食器類を片付けてくれたのだが、よく見るとテーブルには拭き残しがあった。衛生面はあまり褒められたものではないが、味には妥協しない店主であることを願った。
「恥ずかしいところを見られちゃったな」
ようやく口を開いてくれた。ここでだんまりを決め込まれたら、間が持たないと心配していたのだ。彩那は気を取り直して、店員に注文をした。
「あの人たちは里沙の知り合い?」
「一応。ネットのチャット仲間」
「ふうん」
彩那にとってはよく知らない世界の話なので、相手からの説明を待った。
「私、リアルではほとんど友達がいないから、ネットで知り合った子たちと楽しくやっていたの。みんな、漫画やイラストが好きな同じ趣味の人たち。絵を描いていると心が安まるのね。だから私のことを理解してくれるのは、家族でもなく、同級生でもなく、彼女たちだと思ってた。
でも、それも違ったみたい。今夜オフ会があるから、修学旅行中に抜け出してみんなに会いに行く約束をしていたんだけれど、時間に遅れて行ったらすでに会は始まっていて、そこでも私は嫌われ者だった。ああ、どこまで行っても孤独なんだなって悲しかった。結局、何を期待してここまでやって来たんだろうって」
「ごめん、実はさっき店の中で、全部聞いちゃったんだ」
「そうだったの」
「それでね、あんまり頭にきたから怒鳴ってやったわ」
里沙は目を丸くした。
「まさか、みんな投げ飛ばしたとか?」
「あのねえ、私もそこまで凶暴じゃないから」
「よかった」
里沙は小さく笑った。
「でもさ、誰かと群れをなして、他人を悪く言って、そうでもしないと自分の居場所が見つからないなんて哀れな人たちよね。そんなことするくらいなら、孤独に生きた方がマシだわ」
彩那は鼻息を荒くした。
「あなたが孤独に生きるだなんて、想像もつかないけど」
「そうでもないのよ。私、お母さんに早く死なれたから、実際独りぼっちだったし」
「お父さんがいるじゃない」
「だめだめ、あの人は警察の仕事一辺倒だから、たまにしか家に帰ってこないんだから」
「お兄さんは?」
「龍哉は新しいお母さんと一緒に来た人なの」
里沙は口をつぐんだ。
「それでね、新しい家族ができてから、顔には出さなかったけど、実は嬉しくてね。みんなどこかよそよそしかったけど、心の中では早く仲良くなりたいと思ってた」
「そうだったの」
里沙は両手で彩那の手を握った。
「それで、今はどうなの? 仲良くできた?」
彼女は身を乗り出して訊いた。
「どうなんだろう。確かに以前よりは、家族みんなといるのが楽しいかもしれない。ゆっくりと何かが変わり始めた気がする、かな?」
彩那はお冷のコップを傾けた。
「ところで、里沙の家族はどうなの?」
さっき、家族は自分を理解してくれないと口にしたが、決してそんなことはないだろう。大企業の令嬢として、大切に育てられてきた筈である。
里沙の顔はすっかり曇っていた。
「実はね、うちの会社、なくなるかもしれないんだ」
「まさかあ」
「本当の話。前々から噂はあったの。今度の株主総会で正式に発表するらしいわ。他社との合併と言えば聞こえはよいけれど、実質、乗っ取られるってこと。そうなったら経営権も資本も全て奪われてしまうんだって」
彩那には言葉もなかった。
「それを聞かされた時、ひどく父を憎んだわ。だっていずれは女学院のみんなに知れ渡って、何を言われるか分かったものじゃないもの。授業中考えただけでも怖かった。それで、もうどうにでもなれって自暴自棄になったわ。
それなのにお父さんときたら、娘が一人悩んでいることに気づきもしないで、修学旅行には鞄一杯のお菓子を持っていって、クラスメートのみんなに配りなさいって言うのよ。正直呆れたわ。お人好しにもほどがあるでしょ」
そうだったのか。里沙はスーツケースとは別に大きな鞄を持ってきていたが、あの中にはナミンのお菓子が詰まっていたのだ。
「お父さんはバカよ。この先なくなってしまう会社のお菓子なんか、誰も喜ぶ訳ないじゃない」
里沙は両手で顔を覆った。
「何言ってるのよ。立派なお父さんじゃないの」
彩那は彼女の肩を揺すった。
恐らく父親は里沙に心配を掛けまいとして、わざと会長の威厳を保っているのだろう。確かに会社は潰れる運命かもしれないが、最後まで堂々とした姿を、娘の目に焼き付けておこうとしているのではないだろうか。
里沙にはそれが分からないのだ。
「私はむしろそういうところが嫌なの。会長とは名ばかりで、お客に媚びへつらうばかりで、ちっとも偉くないんだもの。そもそも子供騙しの商品を作って、世間に認められるような会社じゃないくせに」
「あなた、本気でそんなことを言ってるの? だったら、バカなのは里沙の方よ。あなたこそ、お父さんの娘には相応しくないわ。甘ったれてないで、家族の一員として認めてもらえるよう、もっと努力したらどうなのよ」
里沙は憎悪の目を向けた。しかし瞳の奥が揺れて、これまでの自信が崩れ始めているのは明らかだった。
「何よ、私の悩みも知らないくせに」
彼女は最後の力を振り絞って、弱々しい声を上げた。
「ええ、あなたが何を考えているかなんてどうでもいいわ。そんなことより、今はお父さんのことが心配よ。会社が大変というのなら、どうして家族の一員であるあなたが助けてあげようって思わないの? 経営のことは分からなくても、お父さんの心の支えになってあげることぐらいできるでしょう。ちょっとはいい娘になったらどうなのよ」
里沙は放心していた。
「そんなお父さんがいて、あなたは幸せ者よ」
彩那は鼻をすすった。もう言いたいことは言い尽くした。後は里沙自身が考えることだ。
「あなたって、本当に面倒臭い人。だって、私の心の嘘が通用しないんだもの。年下のくせに、何だか腹が立つわね」
彼女は涙を拭って、白い歯を見せた。もうそこには敵対心は微塵も感じられなかった。
注文した味噌ラーメンが目の前に出てきた。白ネギともやしが山のように盛られて、黄色いコーンが添えてある。見るからに食欲をそそった。
里沙は手を合わせると、一人先に箸をつけた。
「あら、おいしい」
彩那は、元気よく麺をすする里沙の顔を見つめていた。
「早く食べないと冷めちゃうわよ」
「そうね」
「この店に無理矢理連れてきたのは彩那なんだから、これ、あなたの奢りなんでしょ?」
「ちょっと、何言ってるの。割り勘よ、割り勘」
しばらく二人は何も言わず、目の前の丼だけに集中した。
「ねえ、お父さんから預かったお菓子、どうするの?」
「こっそり捨てようって思ってた」
「何、馬鹿なこと言ってるのよ。捨てるぐらいなら、全部私に頂戴。私、ナミンのお菓子大好きだもん。全部一人で食べるわ」
「太るよ」
「全然気にしない」
里沙は笑顔になった。
「私、彩那と知り合えてよかった。思ったよりもいい子だもの」
箸を宙に浮かべて言う。
「えっ、今頃気づいたの? お嬢様は人を見る目がないんだから、もう」
ようやく里沙は心を開いてくれた。ここまで長い道のりだった。彩那の目には自然と涙が滲んでいた。櫻谷女学院で共に過ごした時間が一つ、またひとつと思い出された。
「ああ、そうだ。彩那にこれあげる」
里沙は箸を置くと、生徒手帳を一枚破った。
そこには目をつぶっている可愛い女の子のイラストが描かれていた。
「これは?」
「病院であなたが寝ている間に、こっそり描いたの」
里沙は少々得意げに言った。
「てことは、これ私なの? すごく上手に描けてるじゃない」
里沙は満足そうな顔をしている。
「でも、私ってこんなに可愛いかったかしら?」
「そこは大幅に修正してあります」
「それじゃ、結局私じゃないってこと?」
彩那が口を尖らせると、里沙は笑った。
「あなたって、絵の才能があるんだね。羨ましい」
「実はね、昔お父さんに頼まれて、お菓子のパッケージデザインを手がけたことがあるのよ。ほら、うちのお菓子で、『グミ夫とグミ子』っていうのがあるんだけど、知ってる?」
「もちろん知っているわよ。小学生の頃の、私の主食」
「あのイラスト、実は私が描いたものなの」
「ええっ、そうだったの?」
彩那は正直驚いた。
子供向けのお菓子なので、最近口にしてなかったが、親しみやすいパッケージは今でもしっかり覚えている。
「ねえねえ、私のキャラも採用されないかな?」
彩那は、はしゃいで言った。
「でも、うちの会社からはもう新商品は出ないと思うけど」
「あっ、ごめん。変なこと言って」
「ううん。でも、もし存続できたら、お父さんに頼んでみる」
「ぜひそうして頂戴。そうねえ、商品名は『アーヤとリーサ』なんてどうかしら? 私たち二人のイラストでさ」
「あんまり売れそうにない名前ね」
二人は大いに笑った。
ラーメンを完食すると、二人は店を出た。
「さあ、もうホテルに戻りましょう」
大通りに出てタクシーを拾った。
「彩那、今夜は本当にありがとう。あなたが傍に居てくれてよかった。一人じゃホテルに帰れなかったかもしれない」
里沙はそんなことを言った。
そして身体を弾ませるようにして、
「ねえ、いよいよ明日は修学旅行最終日ね。一緒に楽しもうね」
色鮮やかなネオンを背景に、里沙の笑顔は一段と輝いていた。




