修学旅行2日目 道央自動車道、洞爺湖SA
彩那がバスに乗り込むと、どよめきが起こった。
それもその筈、バスガイドが花島美乃華から倉沢彩那に替わってしまったからである。クラスメートは一体何があったのかと、誰もが顔を見合わせた。
これに関しては説明するのが面倒に思われて、無言を貫くつもりだった。しかし車内の不協和音は増すばかりで、そういう訳にもいかなかった。
仕方なくマイクを取った。
女生徒全員の視線が一斉に集まる。自然に無差別殺人の予告が思い出された。絶対犯人の思い通りにはさせない、そんな闘志が密かに湧いた。心配させないように、敢えて明るく振る舞おうと思った。
「えー、みなさん。お静かに願います。わたくし、新しくバスガイドを務めさせて頂く、倉沢彩那と申します」
車内にはブーイングの嵐が吹き荒れた。
「というのは、冗談でございます。実はわたくし、制服を汚してしまいまして、花島さんのご厚意により、制服を貸してもらった次第でございます」
揺れる車体に両足を踏ん張って説明した。その姿はまさにバスガイドさながらであった。
「倉沢さん。あなたって、いつも新しいことに挑戦し続けているのね」
すぐ目の前の席に、国能生澪の呆れ顔があった。
「ねえ、うどん。本物のガイドさんはどこへ行っちゃったわけ?」
「あなたに制服を奪われて、あの人は今どうしてるの?」
「SAで一体何をしたら、制服が着られないほど汚れるのよ?」
蛯原、宮永、則田の三人が順番に叫んだ。
こうして2年1組のバスは、ガイド不在のまま小樽へと向かうことになった。生徒が突然バスガイドに変身するという異常事態に、車内はいつまでも騒然としていた。
彩那はそんな野次を振り払うようにして、里沙の隣に腰掛けた。
一人思索にふけると、周りの騒音もすうっと消えていく。
確かに里沙はSAから安全に脱出することができた。しかし犯人が偽者に気づくのは時間の問題である。騙されたことを知って、犯人がどんな行動に出るのか、予測がつかない。
もちろん、槇坂が期待したように、花島美乃華に犯人が飛びついたところを逮捕できればよいのだが、果たして上手くいくかどうか。取り逃がして、逆上した犯人が櫻谷女学院の生徒を無差別に襲うとなれば、こちらには防ぐ手立てがないのだ。
だが誘拐の目的は、1億円の身代金の筈である。とすれば、たとえ騙されたことに気づいたとしても、もう一度里沙に接触してくる可能性は高い。
何と言っても、里沙はまだ犯人の手中にはない。こちらが優位に立っていることに違いはないのだ。
それにしても、花島美乃華の勇気ある行動には驚かされた。
彼女は何のためらいもなく、身を捧げることを選んだ。ここにいる女子生徒とさほど変わらぬ年齢でありながら、あの仕事にかける熱意はどこから湧いてくるのだろうか。
彩那はそんな美乃華に対して、憧憬の念を抱かずにはいられなかった。
時を同じくして、洞爺湖SAでは花島美乃華が犯人からの連絡を待っていた。
櫻谷女学院の制服に身を包み、顔が見られないように、うつむいて椅子に腰掛けている。
バスが出発してから、まもなく30分。
菅原刑事は美乃華の見える場所に、そして龍哉は駐車場に配置されていた。そして下りのSAには交通警察隊が見張っている。
「二人とも、何か変わった点はありませんか?」
フィオナの声が戻ってきた。
「今のところ、花島に近づく者、不審な動きをする者はいません」
菅原は建物に入ってくる人物の写真を撮り続けていたが、あの時いた客はすでに一人もいなかった。顔ぶれはすっかり入れ替わっている。
「駐車場にも、不審な車両は確認できません」
龍哉も報告した。
交通警察隊からの返答も似たようなものであった。
どうして犯人は連絡してこないのだろうか、指令長は黙って考えた。
果たして、この作戦は正しかったのだろうか。何か大きな過ちをしているのではないか。次第に疑心暗鬼になってきた。
犯人は、バスに置き手紙を残すというやり方で連絡を寄越した。携帯電話での発信は足がつくと考えたのだろうか。
もしそうなら、建物内外に犯人からの次のメッセージがないか調べた方がいいのかもしれない。
「フィオナさん、今いいですか?」
奏絵が入ってきた。
「どうぞ」
「先程上層部に呼ばれたというのは、やはり国会議員、国能生実伴の件ですか?」
「さすがに奏絵は鋭いですね」
フィオナは彼女を褒めた。
「捜査上、何か上から圧力が掛かったということですか?」
「いえ、まだそういう段階ではありません。それにおとり捜査班というのは、そもそも正式な部署として認知されていませんから、表立って目につくことはありません。
直接、国能生実伴に話を聞こうと、刑事局長に許可を申請したところ、今の段階ではその必要性は認められないと返されました。今は国会が会期中なので、国会議員に尋問することは難しいとのことです」
「やはり、あの3人組が気になるのですか?」
「そうです。国能生実伴は四国の出身です。そこへきて、連中の一人の本籍地が四国というのは偶然ではないと見たのですが、まだ確証は掴めていません。地元の警察では照会に手間取っているようです」
「でも、どうして修学旅行に暴力団員なんかを派遣しているのでしょうか?」
「最も可能性が高いのは、実伴の娘、澪の安全確保でしょう。彼女には内緒で身辺警護をさせていると考えられます」
「澪に何か起こるということでしょうか?」
「さあ、どうでしょうか。国能生実伴は保守派の政治家ですから、過激な集団から謂れのない脅迫を受けているのかもしれません。その辺を調べようと思ったのですが、ストップが掛かりました」
「なるほど、そうでしたか」
奏絵は納得したようだった。
突然、耳をつんざくサイレンが鳴り出した。
「これは何の音ですか?」
フィオナの問いに、菅原は辺りを見回した。
「火災報知器のようです」
建物内は逃げ惑う人で騒然となり、誰もが我先に出口へ殺到した。
龍哉もすぐに異変に気がつくと、人の流れに逆行して中へ入った。
「トイレから煙が出ています」
菅原はすぐに火元を特定した。
何事かと立ち上がった美乃華を手で制して、奥へと突進した。トイレ付近には人の気配があった。直ちに救助しなければならない。
美乃華の足が二、三歩、トイレの方へ吸い寄せられたその瞬間、爆発が起こった。廊下には火薬の臭いが充満した。
女性の悲鳴が聞こえた。
奥からは止めどなく煙が流れてくる。瞬く間に視界が効かなくなった。
「誰かいますか?」
菅原は姿勢を低く保ちながら、さらに奥へと進んだ。咳き込む声を頼りに、うずくまっている女性を発見した。
「娘が中にいます。助けてください」
彼女が叫んだ。
「龍哉は花島の傍で待機しなさい」
フィオナの指示が飛ぶ。
躊躇して、一瞬美乃華と目が合った。
火災現場から女性が助けを求めている。今ならまだ間に合う。気がつけば、自然と床を蹴っていた。
「龍哉、待ちなさい!」
菅原は龍哉らしき人影に向かって、ぐったりとした女性を引き渡した。それから、さらにトイレの個室へ突入した。
煙が充満していて見通しが利かない。もたもたしている間に、次の爆発が起こるかもしれない。そんな極度の緊張の中、怯えて動くことのできない女児に行き着いた。苦しそうに咳き込んでいる。すぐに手を引っ張って外に連れ出した。
いつしか天井のスプリンクラーが作動していた。しかしいくら見回しても、火の手は確認できない。
菅原が戻ると、龍哉は一心不乱に駆けていた。
その慌てふためいた動きに、何が起きたのか瞬時に理解できた。
花島美乃華がいないのだ。
女児を母親に引き渡すと、外の空気を吸うように言った。
それから、煙にむせながら自分も建物の外へ出た。
車や大型トラックが圧倒的な速度で駆け抜けていく。駐車場には事態を見守る人々が建物を取り囲んでいたが、その中にも彼女の姿は発見できなかった。
「フィオナさん、やられました。花島美乃華がいません」
「分かりました。親子に怪我はありませんか?」
「外傷はないようです。煙にやられてひどく咳き込んでいます」
「救急車を要請してあります。あと10分で到着する模様。それまで龍哉が親子を救護しなさい」
「了解」
「菅原は建物内を直ちに封鎖して、花島を目撃した者がいないか聞き込みをしなさい。監視カメラの映像もチェックすること。トイレ付近の現場検証は道警に行ってもらいます」
「分かりました」
菅原はすぐに動き出した。
「龍哉、怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です」
「それを聞いて安心しました」
フィオナから思わず本音がこぼれた。
「すみません。僕が彼女から目を離したせいで」
「今さらそんなことを言っても始まりません。それより、早く親子の救護にあたりなさい」
「はい」
龍哉は意気消沈していた。
菅原は建物内で聞き込みをしてみたが、花島美乃華を覚えている者は意外と少なかった。
あれほど特徴的な制服を着ていたのだから、何か覚えていることはないかと食い下がったが、まったく記憶にないと誰もが口を揃えた。トイレから立ち昇る煙に気を取られ、それどころではなかったらしい。
それでも粘り強く聞き込みを続けると、彼女を見ていたという掃除係に出くわした。
制服姿の女子学生が爆発音を聞いた途端、一目散に外へ飛び出していったとその老人は証言した。
さらにもう一人、美乃華の後ろ姿を見たSA職員が現れた。彼女は火災から逃げるというよりは、何か別の意志があって走っていったようだ、と不思議なことを言った。
次に、建物の外で事態を見守っていた人にも話を聞いた。
火災が起きて、人々が逃げ出す中、特に美乃華を意識していた者はなかった。
事務所に行って、屋外に設置された監視カメラの映像も見せてもらったが、彼女の姿は写っていなかった。カメラは駐車場から本線に合流する道路に向けられているため、役に立たなかったのである。
親子を救急車に乗せた後、龍哉が合流した。
「これは一体どういうことでしょうか?」
「爆発から逃れるために外へ出たとは考えにくい。彼女は最初、煙が発生したトイレの方に向かう素振りさえ見せたからね。あの時、特に怖がっている様子はなかった」
そこへフィオナが割り込んできた。
「確かに変ですね」
「やはりそう思いますか?」
「廊下に煙が充満しているのを見たら、誰だって恐怖が先立つものです。今の話だと彼女は妙に落ち着いていたことになります」
「つまり彼女は、その後爆発が起きることを知っていた?」
「そういうことです」
フィオナと菅原のやり取りに、龍哉は信じられないという顔をした。
道警のパトカーが二台到着した。直ぐさま鑑識官によって、ずぶ濡れになったトイレの現場検証が開始された。
「フィオナさん、誘拐事件のことは話しますか?」
「それは、私の方から道警本部に報告してあります」
「刑事さん、こんな物が落ちていましたよ」
その声に振り向くと、先程の老人が紙切れを握っていた。
「それは?」
「床を掃除していて見つけたのです。ゴミかと思ったら何か書いてありまして。文字が小さくて私には読めませんが」
菅原はお礼を言うと、二つに折られた紙を広げた。
「南美丘里沙の偽者へ告ぐ。
11時30分、トイレで爆発が起きる。その隙に警察の目を盗んで表へ出ろ。横付けしている『札幌330た 65XX』の白いセダンに乗れ。指示に従わない場合、死人が出る」
横から覗き込んでいた龍哉が、
「ちきしょう」
と思わず声を上げた。
「犯人は、こちらの動きを全て読んでいたということか」
「彼女は我々に知らせるために、それをわざと落としていったのですね」
龍哉が断言した。
「しかし、この紙はいつ受け取ったのだろう?」
菅原には納得がいかなかった。彼女の近くでしっかり見張っていたのだ。誰かと接触した形跡はなかった。
フィオナは、道警に白いセダンの捜索を頼んだ。道路上に設置されたNシステムを使っての調査がなされたが、不思議なことに該当車両は発見できなかった。
トイレを検証した鑑識官は、花火をほぐして大量の火薬を集めておき、長い導火線を使ってそれに火をつけたのではないかと推測した。




