修学旅行2日目 函館ー小樽、道央自動車道
食事を済ませると、一行はすぐにバスに乗り込んだ。北海道は広い。移動だけでもかなりの時間を消費してしまう。のんびりしている暇はなかった。
大沼公園ICから道央自動車道に入った。次の目的地、小樽までは約3時間半の距離である。
バスは真っ直ぐ単調な道をひた走る。しかし車窓に広がる雄大な自然が、都会から来た若者の目を楽しませてくれた。
車内ではバスガイドの花島美乃華が、歌やゲームで生徒を飽きさせなかった。もちろん要所要所で観光案内をするのも忘れなかった。
彩那は途中でうたた寝をしてしまい、フィオナに起こされる一幕もあった。
ホテルを出発してから2時間半、バスは最初の休憩地、洞爺湖SAに滑り込んだ。
平日にも関わらず、大勢の人で賑わっている。特に大型バイクの姿が目立った。仲間同士でツーリングを楽しんでいるのだろう。
展望所に上がると、有珠山、昭和新山、噴火湾などが一望できた。
里沙と彩那は、バスガイドに勧められた名物のソフトクリームを買って、屋外の休憩所で食べた。大空の下、時折心地よい風が通り抜けていく。空を見上げると、ゆっくりと大きな雲が動いていた。
出発時刻の少し前、館内放送があった。
「櫻谷女学院の倉沢彩那さま、落とし物が届いております。サービス窓口までお越しください」
放送は大自然の澄み切った空に、二度にわたって流れた。
「アヤちゃん、まさか官給品を落としたりしてないでしょうね」
母親、梨穂子の声。
「えっ?」
一瞬頭が真っ白になった。警視庁の装備品を紛失したとなれば、大減点は避けられない。いや、それよりも自腹で弁償する羽目になったら目も当てられない。
連絡用スマートフォン、特殊眼鏡、GPS付きの下着を一つひとつ確認した。大丈夫、全て揃っている。
「お母さん、私、何も落としてないんだけど」
「それにしても変な呼び出しね。アヤちゃんの名前が分かる落とし物って一体何かしら?」
梨穂子はのんびりと言った。
「フィオ?」
さっきから黙りこくっている指令長に呼び掛けた。
「アヤちゃん、言うのが遅れたけど、フィオナさんは上層部に呼ばれて、今、席を外してるの。だから倉沢梨穂子の指示に従ってください」
「えっ、お母さんが指令するの? 何だか不安しかないんだけど」
「まあ、ひどい」
それにしてもフィオナが持ち場を離れるとはどうしたことだろう。これまでそんなことは一度もなかった。
「とにかく、里沙さんと一緒に窓口まで行きなさい」
「はい」
言われた通り、二人で建物へ向かった。すぐに龍哉と菅原刑事も近寄ってくる。彼らによって里沙の周囲は固められた。
窓口の前には、担任の槇坂とバスガイドの花島美乃華が待ち構えていた。どうやら落とし物にかこつけて、彩那を呼び出したということらしい。
「倉沢さん、これを見てください」
槇坂は折り畳まれた小さな紙を差し出した。
里沙に背を向けて、目の届かないところで広げた。
「南美丘里沙を一人残してバスを出発させろ。警察には連絡するな。この指示に従わない場合、または不審な動きがあった場合、櫻谷女学院の生徒を無差別に一人殺す」
「これは?」
「出発の準備をしようとバスに戻ったら、ダッシュボードの上に置いてありました。私、どうすればよいか分からなくて、槇坂先生に相談したのです。そしたら、倉沢さんに報告しようということになって」
ついに誘拐を予告した犯人が動き出したのだ。
彩那は、自然と里沙の手を握りしめた。
「全員がバスを降りてから、誰かがこっそり投げ入れたのだと思います」
美乃華は事の重大さに気づいたのか、次第と緊張した声になった。
彩那は考えた。
隙を見て脅迫状を残したという事実は、すなわち犯人が櫻谷女学院と共に行動していたことを意味している。今もなお、このSA内に潜んでいる可能性があった。ということは、無差別殺人の予告は単なる脅しではない。
「菅原は建物内にいる人物の写真を、なるべくたくさん撮っておきなさい。龍哉は外に出て、不審な車がないかどうか調べて」
梨穂子の指示が飛んだ。二人はそれぞれの仕事に取り掛かった。
一方、彩那は決断を迫られていた。槇坂は顔を食い入るように見つめている。今ここでバスガイドに事情を説明すべきかどうか、その確認を取りたがっているのだ。
両者がしばらく黙っていると、
「これは一体どういうことですか?」
美乃華がヒステリックな声を上げた。事情を知るのが当然の権利と言わんばかりだった。
「お母さん?」
「仕方ありません。ガイドさんに事件のことを話しなさい」
彩那は、南美丘里沙はひと月前から何者かに誘拐予告を受けており、修学旅行中にさらわれる危険があったことを話した。
「どうしてそんな大事なことを、今まで隠していたのですか?」
美乃華は明らかに怒っていた。これまでに見せたことのない険しい形相で迫った。
「前もって知っていれば、対処することができたかもしれません。私の使命は、全てのお客様に安全な旅行を提供することなのです」
彼女は若いながらも、芯の強いところを見せた。
出発時刻が迫っている。
「お母さん、どうしよう?」
梨穂子の返答より先に、
「南美丘さんを、一人置いていく訳にはいきません」
槇坂が口を開いた。
確かに担任の言う通りである。
「しかし、犯人は他の生徒を無差別に殺すと言っています。その点はどうするつもりですか?」
美乃華が小柄な身体を激しく揺らした。
「それなら、私が里沙さんと一緒に残ってはどうでしょうか?」
彩那の提案。
「それはダメ。犯人は里沙を一人残すように要求しています。そんなに目立つ制服で二人が残っていたら、すぐにバレてしまうわ」
梨穂子に指摘を受けて、彩那はすぐに思いついた。
「では、私が里沙さんに成りすまして、一人ここに残ります」
「いや、お二人は背丈が違いすぎます。一発で見破られますよ」
槇坂はすぐに却下した。
考えてみれば、犯人にはいくらでも時間があったのだ。遠くからずっと里沙のことを監視することができた筈である。それどころか、何食わぬ顔で何度も近寄ることさえ可能だったのである。犯人が里沙の容姿を熟知していても不思議はない。
「では、里沙さんの代わりは、私が務めます」
そう言ったのは、花島美乃華だった。
確かに二人は似たような背格好をしている。
「でも、その制服では……」
彩那はバスガイドの派手な黄色い服を指さした。
「ですから、互いに制服を交換するのです」
「しかし犯人は南美丘さんの顔を知っているかもしれませんよ。うまく誤魔化せますかね?」
槇坂は不安を隠せない様子である。
「なるべくうつむいて顔を隠しておきます。それで多少の時間は稼げるでしょう。その間に犯人を捕まえてくれればいいのですから」
「それなら上手くいくかもしれませんね」
槇坂は犯人逮捕を簡単に考えているようだった。担任としては、生徒の安全が最優先事項なので無理もなかった。
「倉沢さん、犯人が私に接触してきたところを逮捕してください。あなたの他にも、警察の方がここにはいらっしゃるのでしょう?」
「はい、実は……」
「彩那、黙って」
突然、梨穂子が遮った。
「こちらの警備態勢について、人には教えないで」
「私は詳しく知らされていませんが、たぶんいると思います」
そんな風に言葉を濁した。
「とにかく時間がありません。急ぎましょう」
槇坂は腕時計に目を落とすと、里沙を手招きした。
「ちょっと待ってください」
彩那が、二つの制服の背後から声を掛けた。
「花島さん、私と服を交換しましょう」
「どういうことですか?」
「里沙さんがバスガイドの制服を着ると、どうしても目立ってしまいます。これまで通り、他の生徒に紛れていた方が安全だと思うのです」
「でも、私たち、お互いに服のサイズが合うかしら?」
「それは、実際にやってみましょうよ」
彩那と美乃華の二人は、トイレに入って服を交換した。
二人の背格好は多少違ってはいたが、着替えた服にさほど違和感はなかった。美乃華は若いからか、どこから見ても女子高生という出で立ちだった。一方彩那はバスガイドの制服がややきつく、手足を動かすのに多少の制約が生まれた。
もう出発時刻である。
「お母さん、本当にこんな作戦が通用するのかな?」
彩那は今さら不安になってきた。
「現場で決めた最善策です。大丈夫、これで行きましょう」
バスガイドの制服を身にまとった彩那は、里沙と並んで建物の外へ出た。顔を見えにくくするため、槇坂が二人の前を歩いてくれた。
「犯人が見ているかもしれないから、うつむき加減に歩きなさい」
梨穂子の声。
彩那は、里沙にも指示通りにさせた。
「今のところ、建物内には怪しい人物は見当たりません」
菅原の報告が入った。
「駐車場にも不審な車はありません」
続いて龍哉も言った。
「油断はしないで。高速道路を挟んで反対側、下りのSAから監視しているかもしれません。先程交通警察隊に連絡して、不審車両がないか調べるよう手配しておきました。今はその連絡待ちです」
梨穂子は、見事に先手を打っていた。




