修学旅行2日目 函館市内、朝のホテル
「おい、起きろよ」
誰かが乱暴に身体を揺すっていた。
ついに我慢しきれずに上体を起こすと、そこには龍哉の顔があった。
「えっ?」
最初のうちは、寝ぼけて何が起きたのか分からなかった彩那も、突然正気を取り戻した。羞恥心が一気に身体を駆け巡る。シーツを持ち上げて、顔の半分までを覆った。
「ちょっと、どうしてあんたがここにいるのよ?」
咄嗟のことで、声までかすれた。
「いつまで経っても応答がないから呼びに来たんだ。もう朝食だぞ」
「分かったわよ、すぐに行くわ」
龍哉はすぐに背中を向けて、部屋を出ていった。
彩那は恐らく赤くなった顔を両手で軽く叩いた。まさか龍哉に寝顔を見られるとは、この上ない不覚である。
すぐに着替えると、装備品を身に着けた。
「随分と優雅なお目覚めですね」
フィオナの嫌味たっぷりの声が耳を刺した。
「お、おはようございます」
何度も顔を洗ったが、眠気を振り払うことができない。
彩那が寝ることになった部屋は、従業員が仮眠室として利用しているため、鍵を掛けることができなかった。いつ誰が出入りするか分からない空間は、心安まる環境とは言えなかった。おまけに午前4時には、もう従業員の出入りが慌ただしくなってきたので、ゆっくりと眠れる状況ではなかったのだ。
一度大きなあくびをして、それからはねた髪を手で撫でつけた。
「ここへ遊びに来ているのではありません。仕事のことを忘れてもらっては困ります」
「それは十分に分かってます」
彩那は憮然と返した。
これまでのところ、南美丘里沙が狙われている徴候はない。よって誘拐はただの脅しに過ぎず、実際は何も起きないのではないかと楽観的になっていたのは事実である。
(確かに、緊張感が足りないわ)
彩那は両手で頬を叩いた。
仮眠室を出ると、廊下に龍哉が待っていた。
「何よ」
先程寝顔を見られたのが心に引っかかっていた。まともに顔が見られなかった。
「お前、展望レストランの場所を知らないんじゃないかと思って」
「それはどうも」
黙って龍哉の後をついていった。しかし彼の背中はどんどん小さくなっていく。
「彩那、大丈夫ですか? 何だか視界がふらついていますが」
「あの部屋、ちっとも眠れなかったのよ」
「俺は、誰かのせいでぐっすり眠れたがな」
「こんなことなら、私もロビーで寝ればよかったな」
「年頃の娘が、そんな所で一夜を過ごす訳にはいきません」
フィオナはぴしゃりと言った。
展望レストランが見えてきた。バイキング形式の食事はもう始まっているようだ。絨毯の敷きつめられた廊下にも、生徒の喧騒が溢れ出していた。
入口にスーツ姿の菅原刑事が立っていた。彼が里沙を見張ってくれていたのだろう。軽く会釈をして通過した。
そう言えば、彼はどこで一夜を明かしたのだろうか。
「ねえ、フィオ。菅原さんはどこに泊まったの?」
「駐車場の車の中で、張り込みをしていました」
「えっ、車で?」
彩那は眼を丸くした。
「ええ、いつもそうですよ」
刑事という仕事は大変である。ひょっとして、お父さんもそんな毎日を過ごしているのだろうか。いずれにせよ、二人には昨夜寝られなかった話は通用しそうになかった。
彩那は、すぐに護衛すべき人物の姿を見つけて駆け寄った。
「里沙さん、おはよう」
彼女はすぐに相手の異変に気づいたようだった。
「何だか眠そうな顔してるわね」
「ええ、まあ」
窓側のテーブルを選んで座ると、函館の街並みが一望できた。日常生活から離れ、今は知らない土地を旅している実感が湧いてきた。この先も、未知なる体験が待っていると思うと心が躍った。
里沙と肩を並べて、好きな食べ物を選んでいく。
「ちょっと、うどん。何やっているのよ?」
甲高い声は、頭の芯まで響く。
振り向くと、蛯原、宮永、則田の三人組だった。
「ああ、おはよう」
「おはよう、じゃないわよ。あんたコーヒーカップに味噌汁入れて、お椀にコーヒー注いでいるわよ」
「えっ?」
手元に目を遣って驚いた。
(一体誰がこんなことを?)
それは紛れもなく、彩那自身が寝ぼけてやったことであった。
「そもそも、和食か洋食かどちらか一つに決めなさいよ」
宮永の呆れた声。
「そうでした、どうもすいみんません」
「呂律も回ってないじゃない。ついにうどんも壊れたか」
則田がそう言うと、連中は笑い声を残して立ち去った。
里沙と向かい合って食事を始めた。
「本当に、彩那って変な子」
「ありがとう」
「いや、褒めてる訳じゃないから」
「彩那、ちょっとよく見せて」
回線に新たな声が入ってきた。
「さすが高級ホテルのバイキング。使っている食材が段違いね」
早速、料理にうるさい奏絵の興味を惹いたようだ。
「どう、いいでしょう? 旅先で食べるご飯のおいしいこと」
「そうそう、彩那。昨日の得点をまだ発表していませんでしたね」
フィオナが割って入ってきた。
「ちょっと待って。こんな時に、それやるの?」
旅先での朝は優雅に時間が流れていく。日常生活で溜まった汚れを落とし、未来への活力を取り戻してくれるものなのだ。どうしてそれに水を差すようなこ……。
「10点です」
「低っ!」
「ほんとに低っ!」
おかげですっかり目が覚めた。爽やかな気分が一瞬にして吹き飛んだ。
「フィオナさん、内訳は?」
またまた友人の余計な好奇心。
「護衛すべき人物を見失ってマイナス30点。さらに暴言、暴力行為を働いたのでマイナス60点」
採点者は淡々と解説した。
「10点って、もはや悪人じゃない?」
「あのねえ、人を点数で判断しないの」
「本日も得点には期待しませんが、せめて里沙から目を離さないようにしてほしいものです」
「やっぱり昨夜のうちに聞いておくべきだったわ。朝から憂鬱な気分になっちゃったもの」
食事を終えて、レストランを出たところで呼び止められた。
生徒会長の国能生澪である。
「倉沢さん、今度また暴力行為をしたら、私も黙っていませんからね」
「はい。昨日のことは反省しています」
「そもそも、どうして南美丘さんにべったりくっついているの?」
事情を知らない澪は、どこまでも正義感溢れる女子生徒なのであった。
「ええっと、それは……」
彩那が言い淀んでいると、
「私が友達になって、と頼んだからよ」
驚くべきことに、里沙がそう答えた。
「ふうん。でも、また同じようなことをしたら、謹慎処分も覚悟しておいて頂戴」
澪は腰に手を当てて、睨みつけた。
「はい、気をつけます」
「さすが、国会議員の娘。社会不適合者には厳しいわね」
奏絵が忌々しげに言う。
「それ、人の悪口に乗っかって私の悪口言ってない?」
仲良い二人がそんな掛け合いをしていると、
「そう言えば、ちょうど今、国会の会期中ですね。国能生実伴も本会議で代表質問に立つ筈です」
フィオナは独り言を言った。




