修学旅行1日目 大沼国定公園ー函館の夜景ーホテル
函館駅から大沼国定公園まではバスで1時間の距離だった。
彩那は里沙の心を深く傷つけてしまったようだった。隣に座ろうとしたら、彼女は強い調子で拒否するのである。それでも護衛だから仕方がないと無理に腰を下ろすと、泣き出す始末だった。
その異常なやり取りには、国能生澪をはじめ、他の生徒までもが騒ぎ出して、結局彼女とは離れた席に座ることになってしまった。
函館駅で彩那の乱暴な振る舞いを見た者が、露骨に悪口を言い始めた。おかげで車内は暗い雰囲気になってしまった。
バスガイドの花島美乃華だけが事情を飲み込めず、みんなを盛り上げようとするのだが、それは虚しい努力に終わった。
「フィオ?」
「何ですか?」
ひどく冷たい応答だった。
「どうも、すみませんでした」
「私に謝ってどうするのですか?」
その声には明らかに苛立ちが感じられた。
「でも、ごめんなさい」
「しかし、警察が護衛すべき人物に暴力を振るうなんて、聞いたことがありません」
彩那はうなだれた。
「ほら、しっかり彼女の方を向いてなさい」
「はい」
座っている場所からは里沙の後ろ髪が見える。彼女は一人窓の外を見ていた。
「もし南美丘家に訴えられたら、彩那はクビでは済みません。おとり捜査班だって解散です」
「そんなあ」
弱気な声を上げた。
「私、里沙さんに土下座して謝る」
「あなたにはプライドというものがないのですか?」
「えっ?」
「正しいと思ってやったことなんでしょう。だったら、そこまでする必要はありません。それより今は、彼女の安全を確保することだけに集中しなさい」
そこへ奏絵の声が加わった。
「そうよ、彩那が謝ることないわ」
「でも……」
「だって、自ら命を粗末にするような子を、どうやって守ればいいのよ。勝手にすればいいんだわ」
「奏絵も、そういうことを言わない」
フィオナがたしなめた。
「しかし彼女が本当に彩那と一緒に居たくないのなら、代わりに龍哉をつけるしかありませんね」
それは考えない訳ではなかったが、どこか口惜しい。
「でも、普通科のしかも男子がずっと傍にいるのは変じゃない?」
「仕方ないでしょ。彩那が蒔いた種なんですから」
それには返す言葉もなかった。
「後で里沙さんにお願いしてみるわ。もう一度だけ私にチャンスをくれないかって」
「それがいいですね」
夕刻の大沼公園に到着した。
停車直前、バスの車内が突然沸いた。路上にキタキツネが現れたというのだ。一目見ようと、誰もが席を立ってはしゃいでいたが、彩那はそんな気分にはなれなかった。
バスを降りると一行は、緑の溢れる小径に分け入った。途中小さな橋を渡ると、湖水は隙間なく蓮の葉で覆われていた。その一つひとつにピンクの可愛い花が咲いている。
夕日がすっかり落ちて、遠くに見える駒ヶ岳がシルエットを作っていた。湖面には鏡に映した像が揺れていた。
誰もが大自然の織りなす光景に目を奪われていたであろう。しかし彩那の心には何も響いてはこなかった。
倉垣咲恵が里沙と彩那の空間に無理やり入ってきた。それは明らかに二人を分断するための行動だった。
「里沙、一緒に行こうよ」
一度、彩那を目で牽制しておいてから、彼女の肩を抱いて歩き出した。
彩那は、足を速めた二人に少し後れを取りながらもついていった。
「お友達と喧嘩でもしたの?」
すぐ横に花島美乃華が立っていた。黄色の派手な制服が、大自然の中ではやや浮いて見えた。
彩那が黙っていると、
「せっかく北海道まで来たのですから、早く仲直りした方がいいですよ」
優しい声で言った。
確かにそうかもしれない。このままでは、里沙の修学旅行を台無しにしてしまう。
「そうですね、謝ってきます」
すぐに里沙の背中に追いついた。
「南美丘さん」
彼女は振り返った。
咲恵はきっと睨んだ。
「この子につきまとわないで。どこかへ行って頂戴」
そんな冷たい言葉にもめげず、
「でもその前に、謝らせてほしいの」
と彩那は頼み込んだ。
咲恵は里沙の顔を覗き込んだが、別段嫌そうではないのを確認して、空間を作ってくれた。
「さっきはごめんなさい。でも、別にあなたを嫌ってやったことじゃないの。それだけは分かってください」
里沙は黙ったままだった。
「あなたに、もしものことがあったらどうしようって、そればかりが心配だったから、咄嗟にあんなことをしてしまったのです。どうか許してください」
深々と頭を下げた。
「もう、分かったから止めて。みんなが見てるじゃない」
「もうそのくらいでいいでしょ」
「すみません」
咲恵が何も言わなくなったので、そのまま並んで歩いた。
「ああ、何だかすっきりしたわ。せっかく北海道まで来て、こんな綺麗な景色に囲まれているというのに、心のどこかが引っかかっていたのよね。やっぱり悩みを抱えていては、旅行は楽しくないわよね」
「あなたっていつも大袈裟ね。ただの修学旅行じゃない」
里沙は冷めた目を向けた。
「でも、一生に一度の修学旅行でしょ。だから楽しい思い出にしたいじゃない?」
「そんなものかしら?」
「そうよ、そうに決まってる」
夕日が三人の顔を真っ赤に染め抜いていた。
里沙はこれで少しは機嫌を直してくれただろうか。彩那はそればかりが気掛かりだった。
バスで再び函館市内に戻り、一旦荷物をホテルに預けてから、一行はロープウェイで函館山頂に向かった。所要時間は3分。途中、街の明かりが視界いっぱいに開けると、乗客からは歓声が上がった。
ロープウェイを降りると、菅原刑事の姿があった。知らぬ間につけてきていたのだ。
彩那に声を掛けるもことなく、里沙の周辺をしばらく歩いていた。
「周りはもう暗いですから、念のために菅原を近くに配置しています」
フィオナが言った。
「せっかく綺麗な夜景を楽しもうとしていたのに。仕事のことを思い出して、気分も台無しだわ」
彩那はついつい本音を漏らした。
「仕方ありません。これが任務ですから」
今夜の宿泊先は函館でも屈指の高級ホテルだった。
食事の前に大浴場で一日の汗を流した。里沙とともに湯船に浸かった。長い一日だった。警護という仕事は常に緊張を強いられるので、身体よりむしろ精神の疲れの方が大きかった。
湯船で例の三人組が絡んできた。
「ねえ、うどんって意外と胸、小さいんだね」
無礼極まりない声を掛けてきたのは、蛯原である。
「ちょっと、本人が気にしていることをずけずけと言わないで」
彩那は水鉄砲で応戦した。
「やっぱりどこか変だわ。制服の上からだと、もっとこう、胸が大きかったはず」
今度は則田。
確かにGPSが埋め込まれたブラジャーは、ある意味補正下着と言ってもよい。装着前と後とでは、身体のラインに違いが出るのは確かである。
「あなたたちって、案外、人の身体を気にしているのね。ひょっとして自分に自信がないわけ?」
「うるさいわね」
「もう、行きましょ」
「うどんは自分を茹で過ぎないよう注意してね」
悪態をついて、3人は立ち去った。
「確かに胸だけ別人みたい」
里沙が人差し指で突いてきた。
「ちょっと、どこ触ってるのよ」
食事は驚くことに、フランス料理であった。コック長がフルコースの説明をしてくれた。
彩那は冷や汗が出てきた。フランス料理のテーブルマナーをまるで知らないからである。
「フィオ、恥をかかないように教えてよ」
そう呼び掛けると、
「大丈夫です。両隣を見て、同じようにすればいいのです」
「なるほど」
彩那の心配をよそに、ホテルのスタッフが、ナプキンの使い方、フォークやスプーンの使い方などをレクチャーしてくれた。
どの料理も初めて食べるものばかりだったが、特にアスパラガスのミルフィーユ仕立ては印象に残った。できればお代わりをしたいと思ったほどであった。
食事が終わると、生徒たちはそれぞれ個室へと帰っていった。
彩那と龍哉は会議室に呼ばれた。そこで今日の反省会を行うという。
少し遅れて、菅原が合流した。
「今、里沙の部屋のドアに振動感知プレートを貼ってきました」
「何ですか、それは?」
彩那が訊くと、
「振動をキャッチすると、我々のスマートフォンが知らせてくれます。つまり誰かがドアを開けようとすれば、すぐに分かる仕組みです」
「それは便利ですね」
早速、龍哉が興味を持ったようだ。彼はこういったメカが好きなのである。
「では、今日の反省と明日の打ち合わせをします」
フィオナが言った。
「まずは全員、お疲れさまでした。一日目は無事に終了しました。明日は札幌へ移動しますが、しっかり警護をお願いします」
「はい」
全員の声が重なった。
「特に彩那は、もっと里沙と仲良くなって、仕事がスムーズにできるよう心掛けなさい」
「分かりました」
「例の三人組の男ですが、警視庁のデーターベースに前科の記録はありません。免許証の現住所は東京都内でしたので、三課に写真を見てもらいましたが、どうやら都内の暴力団員ではないとの見解でした」
「確か、本籍は四国でしたね」
菅原が指摘すると、
「はい。四国の警察に照会して、今はその結果待ちです」
フィオナが返した。
「その連中が、里沙を狙っているのでしょうか?」
東京にいる奏絵が訊いた。
「それはまだ分かりません。しかし身元が判明すれば、彼らの狙いも明らかになると思います」
「何か罪状があれば、身柄を拘束することも可能ですが、今のところそういった段階ではありませんからね」
菅原は口惜しそうに言った。
「いずれにせよ、警戒すべき連中であることに変わりありません。彩那、また今度、里沙の近くに現れたら要注意です」
「はい、気をつけます」
「そう言えば、昼間のひき逃げ事件はどうなりましたか?」
龍哉が訊いた。
「ひき逃げ犯はすでに逮捕済みです。被害者は一時は気を失っていましたが、今は意識も回復しているそうです。腕に怪我をしましたが、症状は軽いと聞いています」
「それは、よかった」
彩那は正直な感想を漏らした。道路に倒れている老人を見た時は、どうなることかと肝を冷やしたが、無事だったのだ。
「しかし疑問なのは、どうして里沙が彩那さんから逃げ出したのかということです」
菅原刑事が首をかしげた。
それには奏絵が、
「実は里沙は、彩那のことが気になって仕方がないのだと思います。その気持ちの裏返しであんなことをしたのです」
「それ、どういうこと?」
「意味がよく分かりませんが」
彩那と菅原の声がぶつかり合った。
「つまり独占したい人がいるのに、その人は他人の世話で忙しく、構ってもらえない。そこで気を引こうと、わざと姿を消したという訳です」
「僕もそう思います。里沙は無愛想な態度とは裏腹に、本当は彩那を受け入れたいと思っているのではないでしょうか」
龍哉が賛同するのを聞いて、
「年頃の女の子の気持ちは理解できませんね」
菅原は肩をすくめた。
会議はその後、明日の予定と、役割分担、そして装備品の確認をしてから終了した。
「フィオナさん、彩那の採点コーナーは?」
「奏絵、バラエティー番組じゃないのよ。勝手にコーナー作らないで」
「それでしたら、また今度発表します」
珍しくフィオナの歯切れは悪かった。こんなことは、これまで一度もなかった。彩那はどこか不審に思った。
「フィオ、何か隠してない?」
「そうですよ。函館駅では傷害事件まで引き起こしたというのに」
「事件って言うな」
フィオナは小さく咳払いをすると、
「そんなことより、彩那。今晩のお部屋についてなんですが」
突然話題を変えた。
「はい?」
「実はこのホテルは先月から予約が一杯でして、彩那と龍哉の部屋は取れていないのです」
「ええっ!」
思わず力が入った。
「従業員の仮眠室を何とか一つ空けてもらいましたので、今夜はそこで寝てもらえませんか?」
「それって、龍哉と一緒の部屋ってこと?」
「ええ、まあ、そういうことになります」
「ちょっと待って。そんなの嫌よ。男女が一緒の部屋に寝泊まりするなんて、それマズいでしょ?」
「いえ、大丈夫です」
「どうしてフィオがそんなに自信たっぷりなのよ?」
全員が黙り込んでしまった。問題をどう解決するかというよりも、どんな結末になるかをむしろ楽しんでいるようだった。
「私、絶対に嫌よ。龍哉と同じ部屋で寝るなんて」
当の龍哉は無表情に腕を組んでいる。
「アヤちゃん、わがまま言わないの。龍哉なら安心だから」
母、梨穂子が珍しく入ってきた。
「どうしてそんな根拠のないこと言うの? そもそもこれって東京都青少年育成条例とかに引っかからない?」
「大丈夫よ、そこは北海道なんだから」
「お母さん、全然答えになってない」
彩那は涙目になった。
「分かりました。支配人にお願いして、龍哉は玄関のロビーで寝てもらいます。それでいいですか、彩那?」
ゆっくり龍哉の顔を見上げると、彼は納得のいかない表情を浮かべている。
「ごめん」
「いいよ、お前がそこまで言うのなら」
「これで丸く収まりました。それでは解散にします」
(フィオ。ちっとも、丸くないっての)




