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人と、妖

 どこかのりんご農園から拝借してきたりんごを齧りながら、私は高い木の上からある神社の境内を見つめていた。そこでは、若い神官がせっせと掃き掃除をしている。

 風が吹き、集めた落ち葉が再び舞う。若い神官は眉を顰めて風に踊る落ち葉の行方を追い、私と目が合った。

「お前、誰だ! その姿、人間じゃない……よな。妖か。この神社に何の用だ」

 驚いた、さすが神の使いの血筋。私のことも見えているようだ。けどあの腰の引けた様子、まだ本物と対峙したことはないようね。

「別に、何の用もありません。ただ見ていただけです、お気になさらず」

 私がその場から動かずに淡々と答えたのを見て無害そうだと思ったのか、急に若い神官は態度を変える。

「ははーん。そうだよな、お前ら妖はこの神聖な場所には入ってこれねーもんな。だからそこから指くわえて見ていることしかできないんだろう」

 こんな安い挑発に怒りを覚えるなんて、私もまだまだ子どもね。けど、今は秀もいないし少しくらい遊んでも良いかな。

 私はりんごの芯を木の枝に置くと、体を前に倒し、落ちる勢いで体を一回転させ、境内に着地した。

「ごめんなさい、なんて言ったのかよく聞こえなかったわ」

 言いつつ一歩近づくと、若い神官は箒を前に構えながら何歩も後ずさりをした。相当驚いているようだ。

 私の存在なんて、所詮こんなものね。

「妖め、何を企んでいる!」

 それでも口だけは立派なようね。ま、神の使いとしてその使命を果たさんと逃げずに立ち向かう勇気は素晴らしいものだわ。

「ご安心を、私は人に危害を加える気はないわ。暇つぶしがしたかっただけだけど、あなたがあまりにも怖がるから可哀想になってきたし、もう帰るわ」

 身を翻し、森へ戻るため足を進めると、背後から鋭い声が飛んでくる。

「待て! 人に危害を加える気はないだと? 信じられるか。お前みたいなやつがこの辺りをうろうろされると困るんだよ」

 本物に、使命感だけは尊敬に値する。

 私は進みかけた足を戻そうと、体を捻る。とそこに、息を切らしながら走ってきた神主と、どこからか舞い降りた秀が現れる。神主は手を膝につき肩で息をしながらこちらを見つめ、瞳に映る現実が信じられないというように驚いた顔をした。秀は私と若い神官の間に入り、私を庇うように羽織で包み込む。

「お嬢らしくないですね、こんな無意味な争い」

「ごめんなさい、秀。どうかしていたわ」

「さ、帰りますよ。あまり迷惑をかけてはいけない」

 秀は私が逃げ出さないようにか、わざわざ抱き上げて飛び上がるために膝を屈めた。私もあえて抵抗しようとは思わない。確かに私は、今日は感情的になりすぎている。

「ま、待ってください!」

「待てっ」

 声が重なった。一つはやけに悲愴的で、一つはやけに荒々しい。

 思わず、秀が動きを止める。恐らく悲愴的な声に反応してだ。私も、声の主を目を見開いて見つめた。

「待て、ください。あなた方は、かの家のお嬢様と従者の秀くん……ですよね。お母様方がさぞ心配していらした。どうしてこんなところに」

 声の主、いや神主は追いすがるようにこちらを見る。しかし、私達に追いすがられても困るというものだ。

「おい、父さん。それってどういうことだ。だってこいつら、どっからどう見てもあやか」

「お前は少しだけ黙っていなさい。後で説明するから」

 そう言いつつ、私達に近づく神主。秀は、警戒を強めるが、逃げようとはしなかった。

「母が、お世話になっております」

 私は秀から降りて恭しくお辞儀をする。

 そう、ここは私のお屋敷から近い場所に位置する、憑かれやすい母がいつもお祓いをしてもらっていた神社。当然私も神主に何度か会っている。

「お嬢様、どうしてあなた様がこのようなお姿に」

「私にも分かりません。ただあるがままを受け入れただけです。あなたこそよく私達が分かりましたね」

「もちろんです。小さな時からずっと見守ってきましたから、お姿に惑わされることなどございません。ですが、どうして」

 絶望に暮れた瞳、母は私が消えてすぐここを訪れたに違いない。また悪いものの仕業だと。神主は知ってしまった現実をどう母に伝えるか苦悩するだろう。いや、事実など言えるはずもない。

 私達もそれは望まない。

「神主さん、母にこのことは内緒にしてくださいね。母には私のことなど忘れて幸せに生きて欲しいですから。では」

「あ、お待ちください!」

 もう待つことはない。私は背を向けると予備動作なしに飛び上がり木の枝に着地する。すぐさま秀が隣に並ぶ。

 待ったところで、何も変わりはしないのだ。

「宜しいのですか、お嬢」

「えぇ、また暇つぶしにでも来るとしましょう」

 背中に二つの視線を受けながら、私達は森の奥へと姿を隠した。



「無様ね、姿を知人に見られたくらいでこんなに動揺するなんて」

 私は今の宿にしている洞窟の前にある一本の大樹に腰掛け、どこか遠くを見つめながら呟いた。秀は立て膝で定位置に控えており、私の呟きを聞いて顔を上げた。

「そのようなことはございません。その点に関して、お嬢は正しい判断をなされだと思います。ただその前、お心の広いお嬢が取るに足らない挑発に乗ったことがらしくないと」

「私もそう思うわ。気性も妖寄りになってきたということかしら。本当に、らしくない。秀が来てくれて助かったわ」

 秀は無言で首を振った。昔から私が秀を褒めたり感謝を伝えたりするとよくする仕草だ。ただの謙遜だろうけれど、私はこれを秀なりのありがとうだと受け取っている。

 秀の美しい髪が、木漏れ日に照らされ淡く透き通る。

「秀、もっと側に」

「はっ」

 私がそう命じる時は、決まって髪をいじって欲しい時。秀もそれを理解して、私の背後に座り静かに髪を梳く。

 耳の近くを秀の指先が滑る。その心地よい感覚に、難しいことをしばし忘れることが出来るのだ。

 逃げ出したわけではない。少しだけ、休憩がしたいだけ。



 それからしばらくの間、人の集まる場所には近づかず、山奥で、妖の世と人の世を行き来しながらひっそりと暮らしていた。

 しかしその日は、静かな山奥がなぜか騒がしかった。いつもは穏やかな山奥に、何か不気味な空気を感じる。人の世になんとか行くことのできる程度の妖が何体も噂話をしながら走り去るのを幾度も見かけ、嫌な予感は確信へと変わっていった。

「私達も参りましょう。良くないことが起こるわ」

「準備はできております」

 私は秀が持ってきた羽織と刀を身につけ、妖が向かった方へと急いだ。

 重い空気は濃くなり、妖の世へ行こうとはしていないのに似た感覚に陥る。

 着いた先は、磁場の影響なのだろうか、人の世と妖の世が曖昧に混ざり合う息苦しい場所だった。

 あまり長くは居たくない。

 しかし、このような空気は妖も存在が安定せず嫌うはず。なのにこんな大勢中位の妖が集まっているということは、何か他に訳があるということ。

 そして大抵そういう時は、人絡みなのよね。

 その時、妖には似つかわしくない、草を踏み分ける音が耳に届いた。その場にいた妖が皆そちらに注目する。

 そして目に映ったのは、およそ山に入る装備とは思えない格好をした青年だった。よく見ると、見覚えのある顔だ。

「まずいわね。秀、これは一波乱あるわよ」

「全く厄介なことになりました」

 妖達は色めき立ち、獲物に向かっていつ飛びかかるか、誰が一番かを見計らっているようだった。そして一体の妖が動いた瞬間、皆一斉に青年へ襲いかかる。

「私達の前でそんなことさせないわ」

 私は刀に力を込め思い切り引き抜いた。

「応えなさい、《紅雲》!」

 呼びかけると同時に《紅雲》から覇気が放たれ、それによって何体かの妖は存在を保てず土に還った。そのまま刀を真っ直ぐに構え、秀と共に妖達と青年の間に立ちはだかる。

「お嬢、彼を連れて安全な場所にお逃げください。この量を相手にするのは少々骨が折れます。俺がしんがりを務めます」

「そうね、ここは任せるわ。秀も頃合いを見計らって巻いてきなさいよ」

「御意」

 私はすぐ後ろで腰を抜かしている青年を脇に抱えると、深くしゃがみ込んで一気に飛び上がり距離を稼ぐ。

「待て! おのれ人型め、何奴だ!」

「独り占めとは許せん」

 中位の妖が生意気なことに何か喚いているが、こちらに向かって来るものは全て秀が斬り伏せ黙らせる。私も地中から姿を現し足に絡みつこうとする妖に対して、空中で体を捻り《紅雲》を振り下ろして一撃を浴びせる。

 後ろ向きのまま枝に着地し、再び体を反転させその場から遠ざかる。早くこの混沌とした空間を抜け出し、人の世へと青年を連れていかなければ、何か良くない影響を受けてしまうかもしれない。

 耳には妖の断末魔が幾つも聞こえ、その度に《紅雲》が足りない、私にも殺らせろと訴えてくるのを感じた。



 やがて妖達のざわめきは遠くなり、またいつもの静かな山奥に戻ってくる。妖は皆あの場に集まっているおかげで影一つなく、安心して腰を落ち着けることができた。

「大丈夫ですか」

「あ、あぁ」

 妖に襲われてから終始呆然としているだけだった青年は、人の世の空気に平静を取り戻したのか、やっとの思いでそれだけ呟いた。

「無理もありませんね、妖を見ることのできる身としては辛いものもあるでしょう。どうしてまたあんな所に居たんです」

「それは、父さんに色々聞いて、確かめたくて」

「そう、その話は秀が戻ってきてからにしましょうか」

 そこで青年、いいえ唯の青年ではない、若い神官は何か思い出したように息を詰まらせ、身を乗り出した。

「そうだ、彼は大丈夫なのか! あんな中に一人で置いてきて」

「大丈夫よ、彼はあんな奴らに負けるほど弱くはないですから」

 無言の時間が訪れる。二人きりで何か話すようなこともなく、互いに黙って、ただ近くに寄る気配だけは注意して。

 間もなく、一つの影が私達の元に舞い降りる。

「お帰りなさい、秀。早かったわね」

「見た目に比べ手応えのない連中でした。何てことありませんよ」

 私はほらね、という顔をして若い神官を見る。若い神官は唖然として秀を見ていた。まだ髪は白く目は黄色の光を宿していた。

 おそらく直前まで振り切る為に力を使ってきたのだろう。

「それで、彼は一体どうしてあのような所に」

「それは今から話してくれるそうよ」

 私は若い神官に視線を送り促した。

「父さんが、二人の昔話をしてくれた。俺もその話にはなんとなく覚えがあって、二人のことは、言われてみれば薄っすら記憶に残っていた。ずっと仲の良い兄妹だと思ってたけどな。でも、だからこそよく分からなくなった。あの二人が、どうしてこんな状況になっているのか、信じられなかった。だから今日は直接会って確かめようと決めて森に入ったんだ。勝手に入るなとは言われてたけどな」

 それはそうね、あんな危険な場所がある森なんて人が近づくものじゃない。神主はその存在を知っていたのかもしれない。神の使いである彼は、無意識にあの場に引き寄せられていったのだろう。

「結論は出たの?」

 私は短く問う。なるべく余計な感情が混ざらないようにする。

「出るわけないだろ。だって見れば見るほど昔の記憶が蘇るのに、近づけば近づくほど妖の気しか感じないんだから」

 若い神官はかなり混乱しているようだった。心優しく、勇気に溢れた、未熟な神の使い。妖を知りたいなら、もっと力を得てきなさい。

「なぁ、二人は本当に、俺の知ってる二人なのか?教えてくれ」

「私達が口を揃えてそうだと言ったとしても、信じるか否かは結局あなた次第。つまり私達の問題ではないわ」

「俺は信じたい!例え妖になってしまったとしても、あの頃の二人が消えてしまったなんて思いたくないんだ。あの幸せそうな笑顔を、亡きものにしたくないんだ。だから今日は、二人がそうだと言ってくれさえすれば、事実がどうであれ信じるつもりで来た。事実が異なり、結果として殺されることになっても構わない覚悟で会いに来たんだ」

 迷いのない瞳に、彼なりの正義が宿っていた。私はその熱い視線を受け止め、刀を引き抜く。

「そう、だったら死になさい」

 刀が振り下ろされ、首筋に触れるその瞬間まで、視線を片時も離さなかった。

 覚悟は本物だった。

「……ありがとう。私達を認めてくれて、受け入れてくれて」

 私は刀を傍らに置き、若い神官を抱きしめる。

「ちゃんと人間だった」

 若い神官はまるで私を納得させるかのように呟き、私の背中に腕を回した。私は束の間の幸福を噛みしめ、ただ一筋涙を流し、秀に命じる。

「彼を、神社に帰してあげて。この先の道も、人には険しいですから」

「かしこまりました」

 これ以上人の世に情を移してはいけない。彼とはもう、別れなくては。

 しかし私の力では、離れることは出来なかった。

 秀は音もなく彼を担ぎ上げると、神社の方へ迷いなく飛び去る。秀に任せておけば問題ない。私は見送ることもせず、ただ若い神官を抱きしめたその場から動けず、膝立ちのまま固まっていた。その手に残る、人の温もりを感じながら。背中に切なげな眼差しを受けながら。



 秀が何事もなかったかのように戻ってきて傍らに控える。何も言わず、ただ次の命を大人しく待つかのように立て膝で平伏する。

「若い神官は無事に帰りました?」

「勿論です、お嬢」

「そう、なら良かった」

 私はそばに剥き身のまま置いてある《紅雲》を鞘に収め、視線を落としたまま秀に伝える。

「本当はね、追ってきた妖を斬らなくても十分逃げ切れたの」

 秀も気づいていたに違いない。けどそれを確認しなくては、この先に何か悪い影響が残る気がしたのだ。

「《紅雲》が斬りたがっていた。由縁を考えれば当然よね。けど、だからこそこの子は、人は斬れない」

 あれから秀と刀についてもかなり調べた。どんな刀鍛冶が打ったのか、何を斬ってきたのか、どうして妖が持っていたのか。

 色々と面白い話が出てきたわ。妖を斬るために打たれた二対の刀だとか、常に妖の血を欲しているとか。そういう謂れがあるから妖には使えないはずね。本来なら由緒ある所の選ばれし人が振るうべきなのでしょう。私達が刀に認められたのは、妖を斬るという思いに共鳴して、か。

「刀に行動を支配されるなんて情けない。ただ妖を斬るだけの機械にならないためにも、《紅雲》を制御できるよう強い意志を持たなければ」

「それは俺にも言えることです」

 秀も何か思い当たる節があるのか、目線を落とし、帯刀している《黄空》を見つめる。

「俺はお嬢を護る力があればそれでいいと思っています。ですが、護ることよりも先に妖を消すことに集中してしまったのなら、俺の生きている意味はなんだったのかと思うことになります」

 秀ですらそのようなことになれば、自身の存在意義を疑い、自ら命を絶ちそうね。その時私は、どのような決断を下すのでしょう。

 私は、秀の前に膝をつくと、その右手をとり口元に寄せる。

「私の目的は、人に害なす妖をその前に地へ還すことです。それを超えて殺戮に走った時は、本当に堕ちた時。もし私がそうなったら、遠慮なく殺しなさい」

 秀の黒い瞳を見つめる。風のざわめきが辺りを包み込み、去る。余韻が無くなるのを待って、秀は口を開いた。

「仰せのままに」

 いつものような即答ではなかった。けれど受け入れてくれたのなら、秀がそれを破ることはない。

 これで私は、安心して戦える。

 けど、こんなことを頼んでしまったのはなぜだろう。体は妖に染まろうとも、心だけは最期まで人でいたいと願っているから?

 馬鹿みたい。

 大概人間らしい倫理観からはかけ離れた生活をしているのに、一欠片の可能性に縋ろうだなんて、浅ましい限りね。

 秀、あなたはいつだって私に仕えることに真っ直ぐで正直で、きっとあなたなりの正義を持ってのことなのでしょうね。

 主たる私がこんなに揺さぶられているなんて、本当に示しがつかないわ。

 しっかりしなければ。



『ちゃんと人間だった』



 声が頭に響く。それは残響となりいつまでも鳴り続ける。

 若い神官の、人間らしい、確信を持った言葉。私はあのたった一言に、救われている。

 若い神官は、今後修行を積み、正統な技で害なす妖を封じ、自らの身も守れるようになるだろう。あの心があれば、立派な神官なれる。父の背を追う眼差しを見れば誰だって分かることね。

 私達は妖を一時的に地に還すことし力を弱めることしかできない。それはつまり、その内力を取り戻した妖がまた人を襲うということだ。永遠に終わらない虚しき戦いである。けれど神の使いは、血が正しく続く限り、妖を封じることが出来る。それが正しい理だ。私達がしていることは余計なことに過ぎない。しかし、神の使いは封じるという強大な力を使うことができる代わりに、それを無闇に使ったりはしない。その時をしっかりと見定めている。

 対して私達は身軽に動ける。余計なこと、世の流れ乱すことだと言われようとも、その一瞬で助かる人が、いやそんな都合のいいものではないわね、助けられる人がいるなら、その力が私にあるなら、動かないなんて出来るわけない。

 これが私の、正義なのかもしれないですね。

 今の生き甲斐を、そこにしか見出せなかった末路でもある。



 でも、いいじゃない。妖である私が何を気にする必要があるの。したいようにしましょう。間違った時は秀が正してくれる。そして必ず、ついてきてくれる。

 染まれるとこまで都合よく染まりましょう。そして一縷の、人間だった望みに縋り付いていきましょう。

「ありがとう、秀。頼んだわ。あなたの命を私にください。代わりに私の命、あなたに託します」

「出会った時から俺の命はお嬢の物ですよ。覚悟はとうにできております。永遠に側に使え、守り抜いてみせましょう」

 これで良い。

 今はこれが、一番良いの。



 これから、どれくらい妖を斬るのでしょう。考えるだけ無駄なこと、でも考えずにはいられないものなのです。

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