終わり、そして始まり
私はちょっとした資産家の娘だった。優しい母がいて、尊敬する父がいて、可愛い弟がいて、親しい従者たちがいた。なんてことない幸せな日々を送っていた。この夏までは。
夏休み、私たち一家は数人の従者をつれて山奥の立派なホテルに来ていた。その日、ホテルではある催しが用意されており、みんなでそれに参加しようと弟が言い出した。父は残念ながら急な仕事が入り翌日からの参加になっていたため、その場にはいなかったが、弟はお父さんが来たら今日のことお話しするんだと大はしゃぎだった。
身支度を済ませると、参加の受付をするため私たちはロビーへ向かった。
エレベーターに乗り込みロビーのある一階を押すと、軽い重力を感じながらゆっくりとそれは下降した。
楽しみでたまらない弟は扉のまえで肩を弾ませ、一階に到着すると同時に開く扉をこじ開けん勢いで飛び出した。
慌てて母と従者が追いかける。私はそれを苦笑して見ながら、ゆっくりとエレベーターから降りた。
そして視界に入ったものは、母の首に噛みつかんとする人ではない何かだった。
「お母さん!!」
私は勢い母を突き飛ばした。
それが私の、人であった時の最後の行動であった。
その後私は、人の世界では行方不明となる。
「おいお前、なにしてくれてんだよ。俺の遊びを邪魔してくれちゃって」
そんな声が聞こえた気がした。
気づくと私はホテルの外の地面に座り込んでいた。なぜだかすごく疲れている。様々な音が遠く聞こえ、私だけがそこにぽつんと取り残されたような感覚が襲う。
「お嬢」
ひどく聞き慣れた声がすぐ近くでする。
私ははっと顔をあげそのままの姿勢で首だけを動かした。
「お嬢、あなたは疲れているご様子。どこか休める場所を探しましょう」
「秀、あなたには私が見えるの」
「もちろん、私はずっと貴方の側に」
彼は私の幼い頃からの従者であり私と最も多くの時間を共にした者。
「そう、そうなの。ねぇ秀」
「はい、なんでしょう」
「私達、これからどうなるのでしょうねーーー」
翌朝、私は心地よい香りの中目を覚ました。
「おはようございます、お嬢」
「おはよう、秀」
昨日のことは夢だったのでは、そう思いながら見た景色は、清々しい朝の陽気に包まれた美しい木々だった。
「昨日のことが嘘みたいに、この森は生命を誇るのね。でも、ここにいること自体がすべての証明、か。秀、貴方は眠れたの」
「お嬢がお休みになられたのを確認して、俺も側で寝ました」
「そう、それなら良かった。私にはもう、秀しかいなのだから……」
秀の胸に体を寄せ耳をすます。そこには確かに、命の息づく音がしているのに、私達はなんて悲しい存在になってしまったのだろう。
「ご安心を、俺の生き甲斐はお嬢と時を共にし、守り抜くことですから」
秀は私の肩をそっと抱いた。私にとっても秀は生き甲斐であり、また命そのものとも言えるだろう。
秀がいなければ、私は今頃自ら命を絶っていたかもしれない。
「不思議ね」
「何かでしょう」
「この体も、昨日の化け物も、全てがすべてよ」
そう言うと私は立ち上がり空を眺めた。昨夜の空はあんなに黒々として吐き気がするほど気持ち悪かったのに、今は何事もなかったかのように青い。こんな日は、弟を連れて散歩したい気分だ。
「散歩でもしますか?」
「……いいえ、体を清潔にしたいから、川でも探しましょう。着いてきて」
「はい」
私は森の奥へと足を進めた。
森の奥には危険がいっぱい! なんてなんの笑い話だろう。私は秀と共に到底人がよりつかなさそうな場所へ道無き道を進んだ。獣も虫も寄り付かない。もしかしたら私達は、なにかそういった空気を纏っていたのかもしれない。
やがて、なんの偶然か小さな滝と湖を見つけた。
「綺麗ね、きっと何年も人が訪れていないのでしょう。まさに自然だわ」
私は手の平を水の中に差し込んだ。すると水に触れているところから体中の黒々としたものが抜けて行く感覚がする。私は目を閉じ、しばしにその感覚に身を委ねた。
「秀、見張りを頼んでいい? どうせ誰も来ないでしょうけど」
「そんなこと仰らないでください」
秀は恭しく頭を垂れると身を翻して少し離れた茂みに消えた。私は着ていた洋服を脱いで湖に浸かる。全身から嫌なものが流れて行く感覚が私を支配し、冷たさはさほど気にならなかった。
そこで改めて冷静になる。昨夜のことは正直よく覚えていない。ただ母を守ろうとして、がむしゃらに、何かと戦っていた気がする。その何かとは、恐らくだが妖だろう。母は昔から妖に憑かれやすく、よく近所の神社に出向いたものだ。
そして、そんな妖を目視し退治することが可能になった私もまた妖になってしまったのだろう。恐らく秀も。
本当にこれからどうしたら良いのか……。いえ、やることは決まっているわ。一度人の前に出て私達を認識することができなかったら、その時は、妖を退治する妖になればいい。私はその力を有したんだ。私の生きる意味は、もうそこにしかない。
これが人を離れ、妖となったものの運命さだめか。
私は湖から上がると全身濡れたまま服を纏った。
「秀、あなたも入りなさい。交代よ」
「お嬢、濡れたままですと風邪をひきますよ」
秀は茂みから出て来て困ったようにそう言った。私は笑みを浮かべる。
「あら、だって拭くものがないんだもの、仕方ないでしょう」
「それもそうなんですけどね」
「ほら、そんなことはいいからさっさと入った入った。私達にはやることがいっぱいなんだから」
「仰せのままに」
私もまた秀と同じように茂みで秀が上がるのを待った。その間に腰まである髪を絞っていく。身体が濡れていることはさほど気にならない。むしろあの湖の水に触れている方が身が清められているようで心地よかった。きっと秀も、同じことを思うだろう。
秀はすぐに上がってきた。しかしその顔は満たされている。
「お互い、色々溜め込んでいたみたいね」
「そのようで、とても清々しい気分がします」
「うん。そろそろ人々が目覚める頃でしょう。向こうの様子も知りたいし、ホテルに戻りましょう」
「はい」
もう昔のように歩いて森を抜けるようなことはしなかった。私も秀も、自然に跳び上がると、明らかに人間離れした跳躍力で木々を渡っていった。
ホテル付近の森まで戻ると、異変にはすぐ気づいた。大勢の警察官が、森の中を捜索していたのだ。私達はそれを無視して家族を探した。
見当はつけてある。単純に、私達が泊まっていた部屋を外から探せば良い。窓からみた景色は何と無くだが覚えている。たしか、小さな川が見えたはず。
「お嬢、あちらから水音のようなものが聞こえます」
「行きましょう、案内して」
「はっ」
私は秀に続いてホテルの裏側に回った。そこには確かに見覚えのある小川があったので、背の高い木を見つけて枝に跳び乗ると、ホテルを見上げた。沢山の窓が並んでいるが、その間隔は上に行くに連れて広くなっていた。
「私達が泊まっていたのはー」
「八階……最上階ですね。そのちょうど真ん中の部屋」
秀は瞬時に答えて、その方向を見つめた。私も少し遅れて目的の窓を見る。しかし、カーテンが閉じられているために中の様子までは分からなかった。
「仕方ないわ、試しにベランダまで行ってみましょう。声が聞こえれば無事かどうかくらい……」
「ではお嬢、失礼します」
「えっ」
秀は急に体制を低くしたかと思うと、そのまま私を抱き上げる。昔から危険な場所ではよくこうして私を守ってくれていたからさほど驚きはしなかったが、流石に出来ることまでやってもらう必要はない。
「秀、平気よ。今の私ならばこのくらい」
「駄目です。お嬢をお守りするのが俺の役目だって、何度も言っているでしょう」
「守るって言っても」
言いかけて、途中で断念する。秀は一度決めたらてこでも曲げない性格だ。きっと私が何と言おうと、止める気はさらさらないのだろう。おとなしく秀の肩に腕を回した。
「では行きます」
「程々にしなさいよ。かっこいいところ見せようとか考えなくて良いから」
「そんなことを思ったことは一度もありませんよ。俺はお嬢にとって常にかっこいい存在でいたいですから」
「またそんなこと言って」
口元に軽く笑みを浮かべた秀に私も微笑む。秀が私の気を紛らわそうと思ってそんな冗談を言ったのには気づいていた。
ありがとう。でも本当に平気よ。だって覚悟は出来てるもの。
私達の姿が家族に認知されなくとも、貴方が私を見てくれるのならば、私はそれだけで救われるの。
「では、行きます」
静かに呼吸を整えると、ゆっくり体制をかがめて、一気に蹴る!
そして私達の身体はしばらく宙を舞い、やがて音もなく着地する。
「やるじゃない」
私は秀の隣に足をつけて言った。
「惚れましたか?」
「やめなさい、その冗談。秀には合わなさすぎて逆に面白いわ」
「これは失礼しました」
恭しくお辞儀する秀の頭にそっと手を乗せ、透き通るように美しいその黒髪に指を通す。
昨日までと何も変わらないその感触は、私の心を刺激した。変わらないものもある中で、確かに体を流れる異質なものがある。
「お嬢、どうかなさいましたか」
「いえ、ただ懐かしいな、と思って」
私は秀の髪から指を抜くとそのまま体を反転させ窓に近寄る。手をかけると、ひやり、と指先に熱を感じた。
夏とはいえ、山の朝は少し寒い。夜のうちに冷えた窓は、まだ太陽の熱を吸収しきってはいないのだろう。
冷えた窓に耳を寄せ、神経を集中させる。室内の様子を、出来る限り把握するのだ。
やがて、耳は人の声を捉えると、さらに鮮明に聞きとろうとする。
中からは、知らない男性と母が話す声がした。どうやら、私がいなくなった瞬間、あのエレベーターを降りた瞬間のこと説明しているようだ。さらに部屋の奥からは、弟のすすり泣く声もする。
二人とも、無事のようだ。
「よかった。それが分かっただけでも、私は十分」
窓から離れ静かに背を向ける。そのままベランダの柵に両の手のひらを乗せ、一気に力を込め体を浮かせる。
「お嬢、そんなとこに立たれては」
「危ない、なんて忠告聞かないわよ。だって今更じゃない」
秀は、柵の上に立つ私のすぐ側で、片手を差し出し微笑んでいた。その手にそっと、右手を重ねる。
「さぁ、行きましょう。私たちにはやるべきこと、確かめるべきことが沢山あるわ。ついてきてくれるでしょう」
「勿論です。しかし……お会いしなくてもよろしいのですか」
「いいの、どうせ見えやしないんだもの。またそのうちに、顔を見に来ましょう。私たちはどれほど人の世に接触できるのか、それも調べないといけないわね」
重心を後ろへと移動させ、軽く柵を蹴り身を翻しながら落下する。秀は慌てて私の後を追い飛び立つ。
「お嬢、あまり無闇なことは」
「平気よ、なんだか秀と家の庭を冒険していた時のこと思い出すわ」
私は幸せだった人としての生活に、心の中で別れを告げた。
それからしばらく、私たちは山奥で妖の世と人の世を行き来しては沢山の情報を集めていった。
何より大きかったのは、妖は人に興味があるということと、人の世に顔を出せる妖はかなり少数ということ。私たちは着ていた洋服を売り払い妖らしい服を手に入れ、持っていた最低限のものを自分の身を守るためのものに変えていった。
異形のもの人型のもの、とにかく様々な妖がそこにはいた。私たちは一切遠慮することなく声をかけていく。誰も元人間だなんて思っていないようで、むしろ人のものを沢山持っていることから勝手に上位の妖だと勘違いしてくれたようだ。
妖の世にも、空気の読める奴がいるらしい。
この生活に、多少慣れてきた頃、私たちは今いる山から別の山へ移動した。
私の住んでいた屋敷がある、懐かしの山へと。
「不思議よね。行き来自体は何の苦労もなく、ただ一瞬瞼を閉じて念じるだけでできてしまうのに、それをする場所が人の手の入っていない場所ではないといけないなんて。一体どういう仕組みなのかしら」
「考えても埒のあかないことですね」
「それもそうね」
最近の日課である刀の素振りをしながら、秀と私は他愛もない言葉を交わす。それはまるで、人であった時となんら変わりなく、ただ周りの様子だけ、形を変えてしまったかのように。
「それよりお嬢、髪が絡まっておいでですよ。こちらへいらしてください」
「あら、そう? 別に気にしなくてもいいのに、邪魔なようなら切ってしまっても」
「なりません。私はお嬢の髪を梳くのが大好きです。私の癒しのためにも、切ってしまわれるのは困ります」
そう言って秀は懐から日頃よく使っていた彼愛用の櫛を取り出す。全く、律儀な従者だこと。そういうとこちゃっかりしてるんだもの。
「まだそんなもの持っていたのね」
「いけませんでしたか」
「いえ、素敵だわ」
私が秀の前に腰をおろすと、秀は失礼しますと言い優しく私の髪を撫でる。秀が好きだというこの髪を、私だって愛していないことはない。ただ今生きるのに必要かどうかは分からなかった。けど、切らなくてもいいみたいね、こんな幸せな時間があるのなら。
「やはりお嬢の髪は美しいです。切るなんて勿体無い」
「そんなことを言ってくれるのは、もう秀だけね」
「お望みでしたら、何度でも申し上げますよ。お嬢の髪は、いつ見ても素敵です。そしてその髪を梳くこのできる俺は幸せ者ですね」
一瞬だけ、あの暖かで綺麗な私の部屋に戻った気分だった。
そんな山の、静かな朝。
「おい、そこの人型お二人さん。ちょいと家の品見ていかないか」
唐突に声をかけてきたのは、武器屋の主人……と言っても妖だが、瓢箪のような頭の形をした中位の妖だった。
主に売り買いをしているのは中位のもので、下位は何かに引っ付いているか、植物に紛れていないと存在を保てない、ということもここ数日で分かってきたことだ。逆に上位のものはその絶対数が少なく神出鬼没なんだとか。人の世を行き来できるのも力の強いものだけ。つまりは、人にとり憑いたり人を呪ったりするのはそういうものたち。私たちの敵は、手強いのだろう。
「お前さんたち、噂になってる人の世好きの妖だろう。ま、別に珍しかないんだけどな。何でも人のものに触れられるとか。そこで提案なんだが、この刀、ちょっいと癖が強くてね。拾ったはいいが貰い手がいなくて。お前さんたちの今持ってる刀とでいい、交換と行かないか」
そう言って見せられたのは、やけに美しく妖しく光る二本の刀だった。
「……けれど私たちが今持っている刀は人のものではないわよ」
「それはもちろん、分かっておりますとも。私はただ、刀は相応しいものの手に渡るべきだと考えているだけさ。なんでもこいつ、元は人が妖を切るために打ったんだとか。血を吸いすぎてね、私たち程度のものでは振ることも敵わんのさ。けど、噂に聞くお客さんたちならあるいは、と思ってね」
「つまりは妖刀と言うことね、面白い。私たちが振れたその時は交換に応じるわ」
私は差し出された妖刀の名が《紅雲》という方に手を伸ばした。しかし伸ばした手は別の手に抑えられ、さらに別の手がもう一つの刀を掴んだ。
「これは凄い。よほど高名な刀鍛冶が打ったのでしょう。名は《黄空》か」
「全くあなたは、いつも私の一歩先を行こうとするのだから」
私はおとなしく手を引っ込め、握り心地を確認する秀を見守った。
「それで、どうなの?振れそう?」
「これは……本当に素晴らしいですね。きっとお嬢もお気に召すかと」
「そう、なら決まりね。主人、《紅雲》と《黄空》を頂くわ。代わりにこれは置いてくわね」
腰から刀を抜きその場に主人に手渡す。代わりに《紅雲》を自らの手で腰に収める。その瞬間、血が騒いだ。刀の思いに、まるで共鳴するかのような感覚。
「期待してるわよ」
私は低くつぶやいた。
「さ、もう用は終わりね。主人、とても素敵な刀に出会わせてくれてどうもありがとう。これはほんの気持ちよ」
懐から、私はあるものを取り出し放り投げる。
「こ、この金細工は……!」
「人の世で作られる指輪というものよ。安いものだけどね、出来はいいでしょう。けれど金は柔らかいから取り扱いには注意なさい」
「人の……!」
私は店を出ながら不敵に笑って見せた。
「何を今更。初めからこれが目的でしょう」
「へっ、どんな小娘と若者か思いきや、なかなかやるじゃねぇか」
「お嬢様を、なめないことね」
店を出る瞬間、小さな声で毎度ありと聞こえた。そういえば、彼らから私たちは、どの程度に見えているのだろう。
「秀、何をしているの」
「お嬢の髪を結んでおります」
「そんなことは分かっているのよ。そうじゃなくて、なぜ結ぶのかって聞いているの」
山奥の小川付近で、流れる水音に耳を澄ませながら、私は秀に髪を遊ばれていた。
「なぜって、好きだからですよ。昔からそうだったでしょう。お嬢だってお嫌いではないはずです」
「そうね、秀に髪をいじられるのは好きよ」
秀の大きな手の平に撫でられ、寄せた顔から息づかいと甘い香りを感じる。小川のせせらぎと相まり、心地よさは増していく。
「出来ました。サイドテールで」
「秀、危ない!!」
突如感じた背筋の凍るような気配に私は目を見開き柄に手をかける。瞬間、視界の左で何かが弾けた。
「折角お嬢との時間を楽しんでいたのに、邪魔しないでいただきたいな」
秀が刀を構え見つめる先に、奇襲を仕掛けてきた妖がいた。私も秀の一歩後ろで鞘を握りしめ、右手を柄に添える。
「ふん、あの晩はよくも我輩の獲物を横取りしてくれたな。お陰で我輩はしばらく土の中だ。目覚めた時には特別な晩も終わっちまってたよ。折角年に一度の人間どもを弄べる日だったのによぉ」
耳障りな声に卑しい言葉。あぁ、吐き気がするわ。あんなやつ、私が切った中にいたかしら。
「お嬢、お怪我は」
「平気よ。守ってくれてありがとう、頼りになるわ」
「もったいなきお言葉」
秀は体制を低くすると、地面を蹴って飛び上がり妖との間合いを一気に詰める。
秀の髪が、白に変わっていく。
「残念、それは偽物」
秀が無言で振り下ろした刃は虚しくも土の塊を両断するだけだった。声はその真上、木の枝から発せられた。
「逃げ足の速いやつだ」
刃についた土を振り払い再び秀は目標を妖に定める。瞳が黄に輝く。
その時、私の背後で何かが動く気配がした。
と気付いた時には、既に切り刻まれていた。
「っな……」
「……待っていたわよ。あんな逃げるしかない小物が一匹でのこのこやってくるはずないものね」
私の目の前で虚しく散っていったのは、背後から襲ってきた異形の妖。しかし異形にも目はあるようで、切られた瞬間信じられないという目で私を見ていた。
木の枝につかまって様子を伺っていた妖も驚きを隠せないようだ。けど、あなたにそんな暇なんてあったかしら。
「なぜ、お前は刀を抜いてなかったはず」
「ほかのことに気をとられる余裕があるとは、随分なご身分だな」
「しまっ」
その虚しい叫びとともに妖は秀の刃の餌食となる。
「さぁ、他にはどなたが私たちの相手をしてくださるのかしら」
私は両手を広げて辺りを見回した。気配はまだ十数残っている。誰からでもいらっしゃい。全員まとめてお相手しても構わないわ。
「せいぜい楽しませてくださいね」
怪しく笑うとともに、私は内に秘めた力を増大させ圧力をかける。いつの間にか私の側に戻った秀は、膝をつきこうべを垂れた状態で傍に控えていた。
「ご苦労様、秀」
「これくらい、赤子の手をひねるよりも簡単にございます」
しばらく、十数の妖と私たちの間で緊張状態が続いた。やがて気配は一つ二つと消え、元の穏やかな山奥へと戻っていく。
私たちも己に眠る妖力を鎮める。
「口ほどにもない奴らでしたね」
「本当に、力試しにもなりやしないわ。私たちが戦うべき相手は、きっともっと、強大な相手でしょうに」
刀についた悪しき血を払い鞘に納め、思い切り伸びをした。奴らは強くはなかった、しかし妖力を使うという慣れない行為に体は疲れを感じているようだ。
私は履物を脱いで小川に足を入れた。あの湖程ではないが、心が休まる。
「まだ、うまく操れていない。刀も、力も」
「無理はなさらないでください」
私は左サイドに結われた自らの髪を手に取り、それを眺めて溜息をつく。
「私だって奴らと変わらない異形のものね。髪が緑に光るなんて」
「そんなことありません。お嬢の髪は、今も昔も美しいです」
「でもあなたはもう収まっているのね。髪も目も元の色だわ」
秀の髪は、既にあの透き通るような白ではなく日本人らしい黒の柔らかな髪に戻り、瞳も黄色に光ってはいない。
「お嬢も瞳はもう落ち着いていますよ」
「そう、私は一体何色だったのかしら」
「赤色にございます」
赤か、まるで鮮血ね。からだからそれを求めているとでも言いたいのかしら。まぁ、考えても仕方のないことね。
私にはそれを受け入れることしかできない。髪や瞳が輝くなんていうのは、もはや人ではなくなってしまったっいうことの証明でしかないのだから。
「少しずつ落ち着いてきましたよ、髪の色。すぐ元に戻るでしょう」
「えぇ、よかったわ」
「そのうち、素早く切り替えられるようになるでしょう。力を使う時と、使わない時の」
ありがとう、秀。慰めてくれているのね。駄目だな、主人がこんなに揺らいでちゃ。
「いつか、そのうち、元にすら戻らなくなるかもしれない」
卑屈な笑みを浮かべ、川に吐き捨てる。こんな情けない言葉は流れて消えてしまえばいい。
「その時は、俺も一緒です」
隣に座る秀の肩に無言で寄りかかる。
私はこんなところでくじけていられない。先に進まなければいけないんだ。例え目指す先が、血に塗れた醜い世界だとしても。
ここから始まる、私たちの、人を離れし者の妖殺しの日々が。
ここまで読んでいただきありがとございます。
頻繁に更新していくつもりはありませんが、一話読み切りで時系列など関係なく二人の様々な話を書いていけたらなと考えております。
今後もどこか切なげな二人の、人の心を持った妖の、戦闘にご期待ください。
それではまた。
2016年 1月22日(金) 春風 優華




