花待月のプラシーボ
手挽きのミルから、中挽にしたコーヒー豆を濾過紙に移す。笠間焼の黒いカップにセットして、IHのレンジから、湯気を噴き上げる純銀色のケトルを引き上げる。濾過紙の中のコーヒー豆に鎌首をもたげた細い注ぎ口を近づけて、かすかに濡れる程度にお湯を滴らす。
それが出来ると、僕はほっと息をつく。これから豆が湿る二十秒ほどはすでに至福の時間なのだ。
何しろ、このときに、ふわりと薫る焼き菓子のような甘い香りは、手挽きの豆でコーヒーを淹れる人間だけが味わえる特権なのだから。飲むときにはこのふわっとした香りは、もう喪われてしまう一瞬の幸せだ。
親父が経営しているこの店には、業務用のローストマシンがある。普段はほとんど店にいず、あてのない海外放浪に人生を費やす親父のお蔭で僕はこの機械の使い方をしっかりと憶えてしまった。
ちなみに僕が好きなのは、中煎りのアメリカンローストだ。まだ明るいレンガ色ほどのこの煎り方は酸味が勝つコーヒー豆でやると、思わず笑顔になるほど美味しいのだ。
さてと、時間だ。豆が蒸れたら、僕はケトルでお湯を注す。ふっくりと水分で膨らんだコーヒー豆の山を、枯山水を整えるみたいにして崩していくのだ。ドリップすると、濡れた海の砂を思わせるコーヒーの山が、さりさりと音を立てながら沈下していく。穴が出来た分、周囲は切り立った山になる。後はその山を崩しては山を見つけての繰り返し。こつを掴めばそう、難しいものじゃない。
こうして出来るコーヒーが一杯、三百二十円。山の手にほど近い横浜元町の一等地にしては、破格の値段だと思う。個人通関の資格を持っている母が仕入から販売まで一手に引き受け、僕が顧客管理をしつつネット通販の開拓をしなければ、お店だけではとても食べてはいけない。よく毎月生き残っているものだ。
三月の売上もさんざんだった。お蔭で僕は、店番をしながら大分受験勉強が進んで助かったのだが、そもそも進学できない経済状況になったりすることもあり得る。ともかくもうちょっと、気候がよくなればなあ。僕は思わず三月の冷たい雨に打たれている、街灯の下で咲く白梅を恨めし気に眺めた。
今は深夜だ。がらんとしたフロアの奥の席に、僕はカップを持って座り込んだ。モバイルを開いて、諸々メールの処理を行う。アドを区別していないので、お客さんのメールと個人連絡が混じってるから大変だ。父親は海外に知り合いが多すぎる。そのほとんどがどうでもいい連絡や消息の問い合わせばっかで正直迷惑している。そんな親父も、今、フロリダの知り合いからのメールで、ようやく生存が確認された。どうもワニ肉を使ったジャーキーの輸入を画策しているらしい。また夫婦喧嘩だ。
熱く香るコーヒーを飲んで一気にストレスを吐き出す。
受験勉強の合間の残務処理もこれで、あらかた済んだ。商品の発送メールは送ったし、返信もいくつか済ませたので後は、山のようなDMをゴミ箱に捨てるだけだ。削除ボタンをクリックしながら、スクロールで流していると、いらないメールの間に、いつもは見慣れない一通が紛れ込んでいるのを見つけた。
件名:や・っ・と・帰・国☆
僕は急いでメールを開いた。心当たりがあったのだ。やっぱり、待っていた連絡だった。親父に返すはずのメールもそっちのけに、僕は文面に目を走らせた。誰にも言えない。それは僕が、寒い冬が終わって桜が咲くのと同じように、待ち焦がれていた約束についてのものだったのだ。
僕はふと、向かいのテーブルに視線を移した。あの袋小路のコーナーの一角、土壁を背にした二人掛けのテーブルの、壁側が彼女の定位置だった。
名前は園城みくるさん、と言う。
みくるは何と、本名だ。ラノベやアニメに出てくる美少女みたいなキラキラネーム。だけどもう二十八歳だ。しかし、中身も外見も、アラサーと言う言葉からもっとも遠いところにいる人、と言えば、何となく伝わる。いまだ十歳年上とは思えない人だ。
職業は、なんと漫画家さんである。僕が知っているだけで、二、三本の連載は抱えているはずだ。しかし放浪が趣味なので、しょっちゅうヨーロッパに古城を探訪に出かけ、妖精を探していて戻れなくなった、黒魔術の霊媒師に帰るな、と言われた、などの奇天烈な言いわけで〆切を飛ばし、編集者の人に怒られている。
あの席でネーム(下書き作業)をやっている以外は、ほとんど編集者に追いこまれていると言っていい。どう見ても、なってはいけない社会人の見本である。
「お店、行こうと思ったら捕まっちゃいました。なので今日は行けません。原稿、また落としちゃうかも☆」
しょうもないテンションの文章に僕は頭を抱えた。この人に反省と学習の二文字は、通用しない。他人事ながら、ため息が出る。いや、今回は他人事じゃないんだった。
僕は、こんな人を好きになってしまったのだ。
元々、みくるさんはチェコかルーマニアかの山道で、親父が拾ってきたのだ。まるで魔女が出そうな鬱蒼とした森を車で流していると、一見高校生かと見間違うような三つ編みで眼鏡の女の子が、バックパック一つでヒッチハイクをしていたと言う。
「人さらいから、逃げて来たのかと思ったよ」
父親の第一印象は、そのまま僕が見たみくるさんだ。
お店に初めて来た日のことを、僕はよく憶えている。その頃まだ、みくるさんは、ただのヨーロッパおたくのバックパッカーだった。
ほっそりした手足や肩幅がえらく華奢で、人形のようだった。大人の色気ゼロな容姿のせいもあって、ひどくちんまりしていて、遠くから見かけるとほとんど高校生くらいの女の子にしか見えない。イメチェンと言う言葉を知らないのか、いつもアプリコットブラウンに軽くブリーチをかけた髪を束ねて、後ろに二本、三つ編みにして垂らしている。デニムかカーディガンの上っ張りの下は、大体、丈が長くて動きにくそうな暖色系のふわふわスカート。
昨今、ヨーロッパは人身売買の犯罪が流行っているそうだ。僕が誘拐犯のメンバーならみくるさんを、十数秒で拉致する自信がある。
驚くべきことに、さらには方向音痴だ。この地元横浜でもスーパーに買い出しに出ると、ちょくちょく徘徊しているみくるさんに出くわすことがある。〆切に追い詰められてパニックになったみくるさんは、自力で仕事場にも帰れないのだ。
よく何度も単独で海外を放浪できるな、と思う。だがそれくらいの情熱があるからこそ、日本で漫画家と言う職業が成り立っているのは、彼女にとっても幸運と言う他ない。一般社会人の生活は、天地がひっくり返っても無理だ。
と、傍らに置いてあるスマホが震えた。このタイミング、まさかと思って見ると、やっぱりみくるさんからメールが入ってる。
「コミックスの直しなう。はは、忘りてた☆」(タイトルなし)
はは、忘りてたじゃねえよ。どんだけ仕事素っ飛ばしてるんだよ。
ちなみに園城みくると言う作家の名前は、ウェブ上では『炎上みくる 園城ミスる』のキーワードで検索すると、本人のオフィシャルサイトより前に出てくる。爆弾発言なんかしないのに、絵的にそれほど間違いの多い人なのだ。ファンサイトの一部では、みくるさんのトンデモ間違いを集めたコミュすらある。それでもヨーロッパを舞台にした考証部分は確かだし、それだけ、注目を集める作家なんだろうけど。
ともかくとりあえず、おかえりくらいは言うべきなのだろう。死ぬほど忙しいから、電話は出来ないだろうけど、メールくらいは返しておこう。
とか思っていると、またスマホがバイブする。今度は着信だった。こんな真夜中に。僕はあわてて通話を押した。
『やっほう、へーたくん。やあっと、帰って来たよ』
これだけ追い詰められてるのに、呑気な人だ。ちなみに僕の名前は、一野谷平太と言う。どう考えても園城みくるのインパクトには勝てない名前だ。
「おかえりなさい。何か忙しいみたいだね?」
『うーん、到着階のロビーで待ち伏せされちったよー。そのまま強制連行。編集の林原さん。あの人、本当にしつっこいから』
その担当の人なら知っている。うちの店で、みくるさんを待っている間、よく胃薬を飲んでいる姿を見かける。かわいそうに。
「じゃ、今は東京?」
『うんにゃ。拝み倒して、横浜には帰してもらった』
林原さん、成田から横浜まで強行軍だ。このように鉄道ミステリの刑事並みの追跡力と忍耐力がないと、みくるさんの担当は務まらない。
『仕事場行ったら、藤野ちゃんも応援に来てくれてたんだ。さすがに逃げられなくて』
「ちゃんと仕事しなよ。こっちはいつも通りだからさ」
藤野ちゃん、と言うのはよく応援に駆り出される漫画家さんだ。一度、お店で挨拶されたことがある。フリルのついた服の好きな、とっても女の子っぽい人だ。やっぱりかわいい動物が出てくる作品を書くらしい。
『こんばんはあ、藤野です~』
替わらなくていいのに、藤野さんも挨拶してくれる。普通の人の半分くらいのスピードでゆっくり話す人だ。第一印象から無理な頼みでも断れない人だと言うことが分かる。
『隙を見て藤野ちゃんと、絶対そっちに行くから。何かお腹に溜まって美味しいもの、二人前よろしく』
「え、今日一人だよ」
うちはレストランじゃないし、せめて母親がいないと、まともな料理も出せないのだ。僕一人じゃ、鍋に入っているポトフを温めるか、サンドウィッチを作るかぐらいが関の山だ。
『うん、それでいいよ。あったかいポトフに、ローストビーフサンド。ピクルスつけあわせで、オレンジピールの入ったユーラシアビール!絶対美味しそう☆』
朝からビールかよ。まあ、ローストビーフはある程度作り置きがきくので、新しいのが冷蔵庫にあったので大丈夫だが。
『両方特盛ね』
「うち、牛丼屋じゃないんですけど」
女二人のけたたましい笑い声が聞こえた。
『うん!へーたくん、相変わらずツッコミの間完璧だねえ!才能あるよ』
「嬉しくねー…」
二人とも深夜突貫工事だから、妙なテンションだ。眠気をおして、付き合う方は中々追いつけそうにない。僕は小あくびを漏らして、深夜笑いの神が立ち去るのを待った。
「じゃ、切るよ。仕事忙しいんだろ」
『あ、待って』
まだあるのかよ?
『食後は、へーたくんのコーヒー忘れずに』
みくるさんは、大きく息をつくときっぱり言った。
『あーれが美味しいんだ』
不覚にも。そのしみじみしたみくるさんの声に、僕は言葉に詰まってしまう。この人、たまに真面目になるから、油断できない。
「忘れてないって。さっき自分で淹れたけど焼いた豆、もう飲み頃になってるから」
『ひゃっほう。藤野ちゃん、極上のブツだってよ』
誰がそこまで言ったんだ。そう突っ込もうかと思ったら、なぜか急に相手が替わった。
『あ、藤野ですう』
「え、藤野さん?なんですか?」
『コーヒーも、特盛でお願いしますう』
ジョッキで淹れてやろうか。
そのとき、林原さんが買い出しから帰って来たらしく、電話はお祭り騒ぎのまま切れた。辺り構わず爆笑していた近所迷惑な二人は、たぶん、叱られたに違いない。
この分だと、みくるさんは憶えていないに違いない。たかだか僕との約束なんか。
「僕と、ちゃんと付き合ってほしいんだ」
「にゃっ」
僕としては、一世一代のつもりで思い切って言ったつもりだった。しかし考えてみれば、にゃっ、って答える大人の人に、真顔で話しかける勇気を振り絞らなきゃならない僕の身にもなって欲しい。
「みくるさんが、好きだから本気で付き合ってほしいんだ」
まだ恥ずかしい。でも、今だって店で一人考えていると、そのときのみくるさんが問いかけてくる。
「へーたくん、本気で言ってる?わたし、大分年上だよ?普通に先におばーさんになるよ?」
「知ってる」
とてもそう見えないけど、分かってる。
「毎日仕事だし、お店にだって中々来れないし、へーたくんほっといてヨーロッパ行っちゃうよ?」
「それでもいい」
それでもいいんだ。
「お料理も洗濯もお掃除も出来ないし、迷惑かけちゃうよ?」
「そう言うのは、全部僕がやるよ」
「結構いい年だけど、仕事ミスるしドジっ子だよ?」
「仕事は自分で何とかしろ。でもいいよ、僕といるときは」
ぴったりあのときと同じ、一問一答を再現する。
うん。それでも答えは一緒だった。
「とにかく僕は、みくるさんと真剣に付き合いたい。だめかな?」
最後の問いかけは、返ってはこない。だって、みくるさんは、黙り込んでしまったからだ。言葉に詰まり、切なげに瞳を泳がせたみくるさんは、いつものみくるさんじゃなかった。
僕が、人生で初めてきちんと見た女の人の顔だった。
「分かった。へーたくんのこと、真剣に考える」
みくるさんが突然言い出したのは、それからしばらくのことだった。
「次の桜が咲くまでに、絶対戻ってくるから。そのときはちゃんと、へーたくんに、わたしの気持ち話すね。だから待ってて」
「分かった」
僕は答えた。春までの辛抱だ。どうせ待つのは慣れてる。
「気持ちは嬉しかったよ。ありがと、へーたくん。じゃあ、わたし、勝負してくるね!」
「勝負?」
うっし、とか妙な気合いで決意したみくるさんは、林原さんの待つテーブルに戻った。ええええっ!?と林原さんが絶叫していた。とにかくヨーロッパ旅行へいくのに、僕をダシに使っているわけじゃないことを、ここで祈るしかなかった。
「馬鹿だな。みくるだって、大人の女だぞ?あいつ、ヨーロッパに彼氏がいるんじゃないか?」
みくるさんがヨーロッパに逃亡してから、たまに帰って来た親父に相談した。即座にぐさりと痛いことを言われた。
「まだ分かんないだろ」
みくるさん処女説、と言うのがある。この店に集まるおじさんたちが、まことしやかに真偽を語り明かし、要はいい酒の肴しているのだ。
「あのな、んなこと本気で信じてるの、童貞のお前だけだよ。二十八だぞ、アラサーだぞ?男いなかったらしょっちゅうヨーロッパ行くか?」
ああう、反論できない。
「まあ、おれとしては付き合うのは構わねえよ。けどさ」
くそ親父、バーボンラッパ飲みしながら適当にしめやがった。
「お前と彼女は違うんだ。そこは、理解しろよ。お前にとっちゃ、初めての恋愛でも、向こうにしてみれば、パターンが見えたオファーかも知れないんだ。それに三十近くなったら本当にお前と生活できるのかを含めて、色々考えなくちゃだけど、お前にとってみれば恋愛ってまだ、ただの言葉でしかないだろ?」
こいつと同じ、酔って冷めたら忘れちまう。
そう言いたげに、親父はベンチマークのボトルの中の液体をひけらかす。かっこつけやがって。
「いい子だけどな。あいつのこと気遣うなら、相手の都合のことから考えな」
恋に恋する年頃か。
こちとら平成男子だ。昭和の少女漫画じゃあるまいし。
でも後で自分に、こう言い換えると、ずきっときた。
お前はただ、恋愛したいだけなんだ。でも、みくるさんはもう違うんだ。
(本当に愛してる、のとは違うのかな)
今でも判らない。でも同じ場所で、気持ちがずっと足踏みしているのは、誰にも表現しきれない気持ちを、確かにみくるさんに感じたからだ。
十二月に入ったばかりの冷たい雨の夜のことだ。出版社のパーティに出席したみくるさんは、酔っ払ったまま、うちに来た。もうとっくに閉店してたけど僕は店を開けた。大迷惑だった。結局泥酔したみくるさんを抱えて僕は、ソファのある二階のフロアまで上がらなければいけなくなった。
親父の部屋のあまり使われないベッドに、みくるさんを寝かしつけた。色んなことがゆるゆるなみくるさんだが、こんなにお酒に呑まれることはまずない。何か嫌なことでもあったのか、酔っ払っているその日のみくるさんは珍しく、すごく無口で素直だった。
ベッドに下ろそうとすると、突然、強い力で抱きしめられた。
「お願い」
彼女は絞り出すような声で、言った。
「いやかも知れないけど、しばらくわたしと一緒にいて」
闇の中で、曇った眼鏡の中の瞳が、確かに潤んでいた。その眼差し。それが信じられないくらい美しく、みくるさんのものとはとても思えなくて。今でも思い出すたびに胸が切なくなる。
その晩はそのまま、僕はみくるさんに寄り添った。もちろん僕が眠れるはずはなかった。僕の胸にしがみついたみくるさんからは、アルコールで温かく蒸れた甘酸っぱい花の匂いがずっとしていた。
気の利いた男だったら、ここで一発やれたかも知れない。悔しいけど、童貞の僕には無理だ。
(これで、良かったんだよな?)
まあ実際、何度も血迷いそうになった。でも、出来なかった。まるで生まれたばかりの子猫のようにもろくて限りなく温かい、みくるさんにそんなこと出来るわけない。ああやっぱダメ元で、キスくらいしたい。二人いる自分と格闘しながら、僕はずっと冷たい冬の雨の音が戸外でさんざめくのを朝まで聴いていた。
そんな晩のみくるさんに僕は、出会ってしまった。
それから決心した。
だったらもう、好きになるしかないじゃないか。
でも、逆にこうも思う。僕はただそのとき、勘違いしただけ、なんじゃないかと。
あの晩、初めて、女性のみくるさんに会った。
あの眼差し、抱きしめられた力の強さ、寄り添った身体の体温。
要は僕は、ただそれを誤解しちゃってるだけ、とりあえず好きになってみたいだけなのかも知れない。
薬が効いたふりをしているだけ。本当は女の子なら、誰でもいいのだ。ドジっ子なみくるさんがただ、そのスイッチを間違って押しちゃっただけなのだ。
「まるで恋のプラシーボだねえ」
今日の昼、ラジオの恋愛相談を聴いていたら、すかした番組のDJがふざけたことを言っていた。いらっときたのにその場で調べた。プラシーボとは、暗示で効くはずのない薬に効果が出てしまう現象を言う。日本語では偽薬効果と言うらしい。
人の気も知らないで何が恋の偽薬効果だ、半笑いしながら言いやがって。
でもそれがずっと、心に引っかかってた。
僕はちゃんと、本当のみくるさんのことを見ることが出来ているのだろうか。彼女のことを考えた上で告白に踏み切ったのか。
ずっと答えは出ないままだ。
そう言えば今度のヨーロッパ旅行には、特別な用事があると、みくるさんは言っていた。要は僕への返事は、それが片付くまで待って、なのだ。
確認しなかったけど、親父が言ってた彼氏かな、とぴんと来た。もしかしたらその人と、話をつけるのか、説得されるのか。みくるさんの性格も考えて、可能性は五分だ。いや、もっと分が悪いかも知れない。仕事延びないかな。まだ会いたくない。
そう思ってるとコンコン、と、店の入り口横のサッシが鳴った。
残りのコーヒーを口に含み僕がふと、そちらに視線をやるとスマホを持ったみくるさんがまさに立っていた。コーヒー噴きそうになった。
「うにゃあ!さむうい!とっとと開けろお!」
近所迷惑だ!
「なっ!?ななななあにやってんだよ!?こんなとこで!」
あわてて僕はみくるさんを招き入れた。カーディガンひっかけただけの薄着だった。
「いやあ、上手く逃げられたよ。実にいい作戦だった」
どうやら、あの状況下を脱出してきたらしい。林原さんは厳戒態勢だったはずだ。どんな作戦だったんだ。
「いいのかよ、藤野さんと来るつもりだったんだろ!?」
「藤野ちゃんはいいんだよー、だって、あいつがいたら返事出来ないじゃん」
僕の息が、ぴったり停まった。みくるさんは目を丸くした後、言った。
「憶えてるよ!なにっ、へーたくんは忘れたの!?」
「忘れるわけないだろ!」
僕が言い返すと、みくるさんは本当に嬉しそうに笑った。
「待っててくれてありがとう。じゃあ答えを言います」
言葉を切ると、みくるさんは、はっきりと僕に向かって言った。
「ちゃんと付き合おっか、わたしたち」
この瞬間、ピントがボケていた何もかもが、はっきりとした気がした。こんなに真剣に長い間考えて答えをくれた、目の前のみくるさんしか見えなかった。迷いに迷ってたのが、嘘みたいだった。
「いいのっ!?」
正直ヨーロッパ人の彼氏じゃ、絶対勝ち目ないと思ってた。でもみくるさんはまた、はっきりと頷いて見せた。確かにOKだった。
「こっちの台詞なんだけどなあ。いいのかよー、こんなわたしで」
「当たり前だろ」
そんなみくるさんがいいのだ。
確信を持って言える。もう迷ったりしない。僕は、紛れもなく彼女を好きになった。あの晩出会ったみくるさんも含めて、そこにいる、みくるさんの全部が。もう、みくるさんの代わりはいないのだ。
「ならほい、お土産」
言うことを言うとみくるさんは、何か包みを渡してきた。開けてみると、中から紐で編んで作った不思議な文様のお守りが出てきた。タペストリーみたいに、異様にでかかった。
「これなに?」
「運命のお守り。お揃いだから。わたしと、へーたくんの」
さらっと言うとみくるさんは、デジカメで撮ったデータ見せてきた。そこに、白装束のやけに無表情な男が、満面の笑顔のみくるさんと映っていた。
「それ作ってもらうの、苦労したんだよー。いやあ、ドイツの山奥でさ、この業界じゃ有名な白魔術師さんなんだから!」
「もしかしてヨーロッパに用事って、それ…?」
当然だと言うように、みくるさんは頷いた。彼氏じゃなかった。彼女の好きな中世オカルトまっしぐらだった。
「みくるさんってさ、ヨーロッパに彼氏いるんじゃなかったの?」
「なに言ってるの?わたし、そんなこと誰にも言った憶えないよ?」
みくるさんは当然のように答えた。
「そもそも彼氏作ったら、放浪できないじゃん!」
そりゃそうだけどさ。もしや恋愛未経験?とか、これ以上は、怖くて確かめられなかった。だって処女…かもしれない。いや、処女でも僕は全然構わないけどさ。
「さ、じゃ用事も済んだところで、コーヒーでも淹れてもらって帰ろうかな。この分だとまだまだ、藤野ちゃんと来れそうにないしね」
みくるさんはいつもの席に座った。それが、ぴったり絵にはまる。やっぱりあそこは、みくるさんの居場所なのだ。
「ちょっと待っててね」
僕は残りのお湯を沸かした。豆も、さっき使った分がまだ残っているはずだ。確かめると、十分に一人前あった。紛れもなく今日淹れるのが一番美味しい、コーヒー豆を彼女にご馳走できる。
「一杯、飲んだらすぐ帰るから」
「うん」
とにかく、丁寧に淹れようと思った。これを飲んだら、みくるさんは帰ってしまうのだ。
だがそのときだ。
「にゃあっ!?」
みくるさんのスマホが、テーブルの上から勢いよくダイブした。定番の風景ではあるが一大事だ。故障を心配しながら、あわててみくるさんは出ると、やっぱり林原さんだ。ぺこぺこ謝っていた。林原さん、捕獲の準備を完了してもうすぐそこまで迫っているらしい。
「ごめんコーヒー飲めない!!」
「またゆっくり来なよ」
あわてて出ていくみくるさんの背に、僕は言った。
そう焦る必要はないのだ。
だってそのときはもっとちゃんと、僕が飲んだ残りじゃなくて。
みくるさんのためだけに、丁寧に煎った豆で淹れるから。
もう、あわてないで。僕も疑わない。だって。
寒い風の日が終わって桜が咲いたら、もう、僕たちの時間なのだ。
みくるさんのために淹れたコーヒーを、僕は飲んだ。
大丈夫だよ。
春咲く花を待つこの季節、まだそこにみくるさんはいなくてもいい。すでに僕は、そこを明け渡してある。まだぽっかりと心に空いたみくるさんの場所を守って、僕はただ待ってられるから。
まだ、君をみんな飲み込めてはいない。でも確かに効いている。
僕はふと思った。
今の僕は。
花待月のプラシーボなのかも知れない。