表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あなたと僕とわたしと俺と私とぼくの生活

 

 あなたは、朝の教室にいる。

 外は、くもっていて、ちょっとだけ寒い。

 あなたは、ゆううつそうな感情を認識する。

 男の子が、机に座って、先生の話を聞きながら、考え事をしている。


 僕は、朝の会に出ている。

 最近、学校に行くのは、あまり楽しくない。

 僕は、いじめられているんだろうか。

 体育の時間が憂鬱だ。

 別に、なにか罵声をあびせられるわけじゃないけど、あいつが僕を嫌っている気がして、憂鬱なんだ。

 それに、罵声は確かにないけど、いやなことを言われたりするんだ。

 これ、だれかに相談したほうがいいのかな。

 でも、これが、いじめかどうかなんて、わからないしな。

 恐喝されているんだったら、すぐに動けるんだけど。

 なぐられたりするんだったら、迷わず先生に相談するんだけど。

 犯罪行為なら、警察に行ってもいいんだけど。

 僕は、運動とかよくできないから、ちゃんとやれよといわれても、自分なりにやっているっていうのを言うのが気がひける。

 自分なりにちゃんとやっているにもかかわらず、いろいろ言われるのは理不尽だ。

 でも、足をひっぱっている人間が、足をひっぱっていてもいいじゃないっていうのは、勇気が要るよね。

 僕は、たしかに、運動が出来ないし、球技は特に苦手だ。

 できないから、いろいろ不満などを言われる。

 言われるっていっても、言うのは、あいつひとりだけど……。

 不満を言われると、怖くて萎縮してしまう。

 ますますできなくなる。

 すると、ますます怒られる。

 でも、本当は怒られたくなんてないんだ。

 僕だってがんばっているのに。

 なんだか、泣きたくなってきた。

 どうすればいいんだろう。

 とりあえず、頭を切り替える。

 チャイムが鳴る。

 今日の最初の授業は国語だ。

 勉強は好きだな。

 自分のペースで出来るし、だれにも怒られないし。

 体育なんて、なければいいのに。



 あなたは、休み時間にいる。

 心配そうな女の子。

 女の子は、机に座っている。

 今日の最初の授業で出た国語の宿題を、早めに解いている。

 しかし、手が止まって、ふと考え事をしてしまう。


 わたしは、命くんのことが心配だ。

 命くんは、なんだか、つらそうにしている。

 体育のせいだ。

 体育のときに、いろいろなことを言う、あの人のせい。

 たかはしみことくん。

 命くんは、高橋命。

 わたしは、高橋美琴。

 同じ名前だから、なんだか、親近感がわいてしまう。

 心配だよ。

 なんで、あんな風に、ストレスをあたえるようなことを言うんだろう。

 無神経だと思う。

 かわいそうな、命くん。

 なんとかしたい。

 なぐさめたい。

 大丈夫だよ、って言いたい。

 ぎゅっと抱きしめて、頭をなでてあげたい。

 もし、できたら、一緒に先生のところに言いにいこうよって出来るのに。

 それが、いやだっていうなら、愚痴を聞くぐらいさせてほしい。

 今日も体育がある。

 何かおこらないか、心配だ。

 どうして、運動のできる人の中には、残酷な人が多いんだろう。

 それは、見えやすいだけかな。

 勉強は個人プレイだけど、体育はチームプレイがあるから。

 弱いものいじめする、運動の出来る人は、めだつのかも。

 勉強ができる、弱いものいじめをする人は、めだたないだけかも。

 でも、本当に心配。

 あんなに我慢することないよ。

 無理することない。

 自然体でいい。

 いやだと思うことは、他の人にとっていやじゃなくても、いやだっていっていい。

 みんなで本当に幸せになるには、いやなときにいやって言わなくちゃ!

 大丈夫、命くん、わたしがついてるぞ!



 体育の時間。

 あなたは、バスケットボールを見ている。


 くそが。

 あいつめ。

 殺してやる。

 うざってぇ。

 俺を、馬鹿にして。

 許せない。

 なにか言っている。

 パス?

 うぜえな。

 出してやるもんか。

 俺は、パスの声を無視して、走る。

 おい! とかなんとか、恫喝するような声がする。

 相手プレイヤーに、ボールが、うばわれる。

 なにか、痛みのようなものを感じる。

 痛みを無視して歩く。

 あいつが、にらみつける。

 あんな馬鹿、死ねばいいのに。

 ふと、手を見る。

 つめが、はがれていた。



 職員室

「えーっと、それは、男女別で、出席番号順に並べてあるはずだから。たかなしみさと、ちかまつりさこ、なしきまり、ああ、あった。はい、どうぞ、梨木さん」

「ありがとうございます、先生」

「そういえば、高橋くんが怪我してたみたいだけど、梨木さんは何か知っている?」

「あ、高橋命くんですか? 体育のときに怪我したみたいですよ」

「そっか。なにかトラブルではないのね?」

「わたしの知る限り、そうですけど」

「わかった。ありがとうね」

「はい、失礼します」

「またね」



 夕暮れの保健室。スクールカウンセラー用の部屋。

 あなたは、白いベッドを見ている。

 高橋命と、スクールカウンセラーがいる。

 スクールカウンセラーは、高橋命の話を聞く。


「今日は、何があったのかな?」

 私は、命くんに、そう質問をして、カウンセリングをはじめた。

「なにから話せば、いいのかな」

 命くんは、そういって口ごもる。

 私は、にこりと笑って、だまって待つ。

「ええっと、何から話せばいいのか、わかんないんですけど」

 そういって、いったん、目をふせて、また上げる。

「なんか、体育が、いやなんですよ、僕」

 考え考え、言葉を選ぶようにして、命くんは、しゃべる。

「それは、どうしてかな?」

「うん、なんていうか、いやなことを、言う人がいるんです」

 私は、うなづく。

「それが、ぼく、いやで、だから、体育が、いやなんですよ」

 うーん、と命くんは、言う。

 なんていったらいいのかな。

 なにをいいたいかっていうと、ええっと。

 自分でも、適切な言葉がなかなか見つからずに、試行錯誤しながら、命くんは、言葉をつむぐ。

「なんか、それがいやだから、なんとかしたいっていうか」

 でも、どうすればいいのか、自分でもわからないっていうか。

 命くんは、そう言う。

「そもそも、何が問題なのかも、いまいちわからないような気もして、どうすればいいのか、よくわかんないんですよ。自分がどうしたいのかも」

 自分なりに、いろいろ考えてきているみたいだ。

 でも、煮詰まっちゃっているって感じかな。

「命くんの言いたいのは、体育の授業中、いやなことをいってくる人がいて、授業がつらい。そのつらさを、なんとかしてほしい。これであってる?」

 しばらく、命くんは、考え込む。

 そして、十秒くらいの沈黙のあとで、

「ええ、はい、そうですね。それで、あってる、と思います」

 と言った。

「なるほど。それでは、それを、とりあえずの目標にしましょう」

「目標?」

「そう。カウンセリングは、続けようと思ったら、好きなだけ続けることもできるけど、とりあえず、区切りをつけておくのがいいからね。だから、体育の授業のつらさを、なんとかする。これを、当面の目標にしようかと思うんだけど、どうかな?」

 また、命くんは考える。

 吟味する。

 自分のやっていることが、行こうとする方向性が、正しいかどうか、点検する。

「はい、それでいいです」

 じゃあ、それでいきましょう、と、私たちは笑いあう。

「命くん自身は、何か、この問題に対して、こうしたいっていうアプローチはある? その、ひとつじゃなくて、複数あるかもしれないけど」

 今度は、けっこう長い沈黙が続いた。

「我慢すればいい、のかな、っていうのも、思ったんですけど、我慢がいやだから、ここに来ているのかな、って気がして。でも、先生に相談するのも、勇気がいるっていうか。もしかしていじめかも、って思いつつ、いじめじゃないかもって」

「うーん、そうだねえ。たしかに、我慢するだけなら、ここにくる必要はないのかもしれない。でも、我慢するを選択しても、ここに愚痴を聞きにきてくれて、全然問題はないよ。ただ、そうだな。いじめの分類については、以前に聞いたことがあるんだけど、こういうのがあったな」

 役に立つかわからないけどね、と前置きして、私は話す。

「いじめって言葉は、今の法律だと、されたほうがいじめだと認識すればいじめになるようになってる。だから、自分で認めれば、それで法的な定義としては、完成するんだけど。それでも、かつあげと悪口は、ちょっと凶悪さの度合いが違うかもしれない。学校の外で行われたら犯罪であるようないじめを、『校内犯罪』、それ以外で、精神的・肉体的苦痛を与えるものを、『いじめ』、精神的・肉体的苦痛まではいかないけれど、いやだな、って思うものを、『いじめの芽』、定義の名前は違うかもしれないけど、たしかこんな風に、三種類にわける考え方があったよ。説明したこと、わかる?」

 はい、わかります、と命くんは言う。

「たぶん、校内犯罪、じゃないと思います。かつあげとかされているわけじゃないから」

 でも、と命くんは、口ごもる。

「いじめの芽、には、入っていると思います」

「いじめ、の中には?」

 しばらく、また、長い沈黙。

「はいっている、かも」

「そっか」

 これは、あくまで私の考えだから、それはやりたいことじゃないと思ったら、もちろんこんなことしなくていいんだけど、ちょっと私から、一言、いいかな。

 そういって、私は、命くんに、自分の考えを話す。

「うーん、我慢するのも、ひとつの有力な手段だとは思う。ここに来てくれれば、愚痴も聞くし。しかし、その悪口を、抜本的に解決するには、やはり、もうそういうことを言うのを、やめてもらうのが、一番だと思う。本人に直接言うのが、難しいなら、体育の先生や、担任の先生に言うのがいいと思うし、私としては、それをおすすめしたい」

 抜本的な解決が不可能なケースもあるけれど、これは不可能とまではいえないかもしれないと思うからだ。

 もちろん、その行動には、ある程度のストレスが、かかるとは思うのだが。

「そう、ですね……理にかなった行動、だと思います」

 はあっ、と、大きく息を吐く。

「でも、怖いんですよ。だって、僕、わりと笑っているし」

「いじめられているやつだっていわれるのいやだし」

「どんな顔して先生に相談すればいいかわかんないし」

「職員室は人がたくさんいて、どうやって先生にこんなプライベートな話をしていいかわかんないし」

「職員室だけじゃなくて、体育教官室も同じだし」

「ちょっと相談があるんですけど、二人で、なんて恥ずかしい」

「みんな、僕がいやな気持ちでいるなんて、そんなに気付いてないはずですよ」

「だって、出してないんだもん、おもてに」

「すると、みんな、僕が、普通に暮らしているっていうイメージを持っているじゃないですか」

「すると、僕が、その他人のイメージを壊すことになる」

「それ、怖いんですよ」

「なんか、自分の、今の、この世界が壊れちゃいそうで」

「他人のイメージに自分が、本人みずからが、しばられるべきじゃないっていうかもしれません。それは正しいと思いますよ」

「でも、やっぱり勇気がいりますよ、なんでかわかんないけど」

「自分で自分をしばっているみたいで、自分でもいやだけど」

「慣れた行動を変えるのって、なんか、すっげー難しいっていうか」

「そもそも、そんなイメージ、他人が持っているかどうかなんて、わからないって考えもありますよ」

「たしかに、そりゃ正論です、間違いない、僕が勝手に考えている、他人が僕に対して持っているだろうイメージですよ」

「でも、それでも、僕にとっては、リアルなんだ」

 うんうん、と、私は、命くんの話を聞く。

「仮に、友達が、命くんと同じような状況におちいっているとして、命くんなら、どうするかな。命くんが、その友達は、普通に暮らしていると思っていたら、実はそんなことはなくって、つらいんだけど、命くんのイメージを壊したくなくて、だまっているとしたら?」

「いや、つらいんだったら、つらいんだって、いってほしいですよ」

 私は、にっこり笑う。

「きっと、命くんの友達も、そう思っているんじゃないかな」

「でも、もし、そう思わなかったら?」

「それは、別に友達というわけではなかったということなのかも。あるいは、理解力のない友達、だとか、ね。ちょっと、きつすぎる言い方だったかな」

 命くんは、だまって、考えているようだった。

「あの、とりあえず、考えてみます」

「うん、また来るといいよ」



 保健室

「せんせー、怪我しちゃいましたー」

「あらあら、元気ねえ。若いわねえ」

「えー、せんせーだって十分わかいよー」

「あらあら。こんなおばあちゃんにお世辞ねえ」

「え、実際、先生って何歳なの?」

「それは、秘密。でも、見てのとおり、白髪が出るくらいの歳よ」

「へえ~。でも、その歳だと、保健室の仕事、大変じゃないですかぁ?」

「まあ、そんなに大した仕事をしているわけではないわね、今のところは。今日は、ちょっとつめがはがれちゃった子が来たけど」

「うへぇ。なにそれ痛そう」

「本当にね。そうそう、来年からは、新しくスクールカウンセラーの人も来るから、仕事の分担、できるかもね。今は全部わたしひとりでやっているから。といっても、本当に、大した仕事じゃないんだけど」

「でも、それっていいことでしょ?」

「まったくね。みんな元気ってことだもの」



 あなたは、夜、自分の部屋にいる。

 白いベッドに、コンピューター。


 恐怖を克服できない。

 僕は弱い。

 先生に、担任の先生か、体育の先生に、相談しようと思うのに、怖さをなくすことができない。

 いろいろ考えてしまう。

 今までの人間関係が変わってしまうのではないかという恐怖。

 今の人間関係には、いやなところは体育の授業のあいつとの関係だけなのだから、自分が我慢すればすむことだという思考。

 でも、それは自分を自分で傷つけている。

 しかし、もし、だれかに相談したら、それが、今の望ましい人間関係にも悪影響をあたえるのではないかという心配。

 頭の上では、たぶん相談したほうがいいのだろうと思う。

 しかし、怖い。

 怖いだけでなく、自尊心の問題もある。

 自分が困った立場にいるんです。

 僕はいじめられているんです。

 僕は困っているんです。

 かっこわるい。

 自分が、そんな、だれかに助けを求めなくてはならない場所にいるなんて、かっこわるい。

 とても、認めたくない。

 自分が認めることさえなければ、僕が感じているものは、いじめにはならない。

 僕が認めることがなければ、このつらさはつらさじゃない。

 全然、傷ついてない。

 全然、困ってなんかない。

 こんなもの、トラブルのうちにも、はいらない。

 そうすれば、そう思っておけば、僕の誇りは保たれる。

 でも、本当は、つらい。

 本当は、なんとかしたいと、思っている。

 ネットの掲示板で、相談もした。

 相談の選択は、慎重にした。

 あまりにも、いろいろな人が簡単に答えられるような場所は、真剣に答えを求めるには、むいてない。

 そういう場所は、パソコンの問題とか、思い出せない映画の題名を聞くのには有効だが、そうじゃないものについては、偉そうに上から目線で説教をたれてなんのアドバイスもしない人間や、中傷をする人間がむらがるので、価値感や道徳に関わるような、答えがひとつに決まらないような質問は、するのにむかない。

 だから、個人サイトの、お説教する人が書き込みをしていないような場所に書き込んだ。

 やはり、相談するのが、一番に手っ取り早く、事態を良い方向に向かわせる可能性も高い、今打っておける中で、かなり良い一手であるだろうと、僕が再確認するに足るだけの返信がついた。

 そうだ、掲示板に書いたのは、後日談を書かなくてはと自分を追い込むためでもあるのだ。

 別に顔が見えないんだから、義理はないといえばないのだが、なんとなく、その後、問題がどうなったのか、書き込まなくてはならない気がする。

 その、自分が勝手に抱いている義務感を利用して、先生に相談するための勇気の燃料にしようと思ったのだ。

 でも、怖いものは怖い。

 考えすぎるからか。

 夜だから、いろいろ考えちゃうのか。

 こういうのは、何も考えず、一気にいったほうがいいのか。

 だけど、何も考えていないつもりでも、ねっとりと心と体に抵抗感がまとわりつく。

 何もしないのが、もしかしたら習慣になっているのかもしれない。

 もう、寝よう。

 いったん、寝よう。

 そして、すっきりした頭で、そのまま、相談しにいこう。

 理想の自分を思い描く。

 理想の自分なら、こういうとき、どうするだろう。

 できるだけリアルに思い描く。

 そして、自分には、潜在能力があって、ちゃんと、理想に近い動きができるのだと、自分に何度も言い聞かせる。

 そのうちに、僕は、眠ってしまった。



 あなたは、朝の学校の廊下を歩いている。

 恐怖や不安はある。

 しかし、あなたは、その恐怖や不安を認識している。

 「自分が恐怖している」。「自分が不安を抱いている」。

 流れ出る思考と感情の中で、恐怖や不安は、出ては消え、また出ては消えを繰り返す。


 ぼくは、失礼します、と言って、職員室のドアを開ける。

 少し、怖い。

 頭を切り替える。

 担任の先生のところまで、歩いていく。

 もしかして、ぼくは興奮しているのか?

 余計な思考を追い払う。

 頭を切り替える。

「すみません、先生、ちょっとお話があるのですが」

「あら、高橋くん。どうしたの?」

「実は、ちょっと、二人だけで話したいんですけど、大丈夫ですか?」

 ちょっとおどろいたような顔をしながらも、先生はうなづく。

 壁に行って、どこかの部屋のカギを取る。

 空き教室のものだろう。

 ああ、怖いなあ。

 この思考に集中するな。

 頭を切り替える。

 そのまま、ぼくは、二人で、廊下に出た。


 あなたは、朝の廊下を、体育館に向けて歩いている。

 あなたは、担任の先生と話して、問題を確定させた。

 あなたは、担任の先生と相談する中で、体育の先生にも、話をすることを決めた。

 だから、あなたは、廊下を、体育館に向けて歩いている。


 朝の練習で人がいる。

 人がたくさんいる中を歩くのは、緊張する。

 みんな幸せそうに見える。

 ぼくも幸せでなくてはならないような錯覚に襲われる。

 幸せには導かない思考だ。捨てることにする。

 頭を切り替える。

 とびらを開ける。

「すいません、ちょっと相談があるんですけど」

 別に、ここでは、二人で話す必要は無い。

 授業の時間が変われば、先生も変わるのだから。

 ぼくは、自分が、さっき一人に話したことで、勢いがついているのを感じる。

 もうどうにでもなれという気持ちになるのを感じる。

 幸せなイメージや、自尊心についての考えが、一瞬にしてわきあがる。

 そこに集中する必要は無い思考の流れ。

 頭を切り替える。

「実は、体育の授業で、一人の男の子が、ぼくに、いやなことをいろいろ言ってきて、困っているんです。なんとかしてもらえませんか」

 言えた。


 あなたは、タルパやアバターについて少しだけ聞いたことがあった。

 あなたにとって、それは、「もう一人の自分」を作り出す作業に思えた。

 あなたは、日常生活を送るための自分を作って、その後ろに、その自分を観測する自分を置くことにした。

 そのことによって、日常生活を送っている自分に与えられる精神攻撃や、広い意味での精神操作が、観測者であるあなたに、直接的に伝わらないようにするためである。

 そうすることで、もっと落ち着いて、物事に対処できるようになるはずだと、あなたは考えた。

 しばらくして、ひとつだけではなく、複数の人格を作ってもいいのではないかと、あなたは考えた。

 観測者、観察者である、「あなた」。

 だれにも、直接的に傷つけられないための、上位の自己。ハイアーセルフ。ゲームでいうなら、プレイヤーの自分。

 観測するために、感情や思考は、あなたができるかぎり減らした。

 感情や思考は、あなたの仕事ではなく、他のみんなのすることだからだ。

 日常生活を送るための人格である、「僕」。

 あなたが、日常生活で、動くために必要なアバター。日常生活で生きていくために、あなたが動かす人間。オンラインゲームで言うなら、メインアカウント用のキャラクター。直接的に、攻撃や他人からの操作を受ける存在。

 女性的な要素と思われるものを組み合わせて作った、「わたし」。

 精神の調節や、癒しの役割を担うことになった。オンラインゲームで言うなら、サブアカウント用のキャラクターのひとつ。

 自分の中の攻撃的な要素、暴力的な要素、憎しみや凶暴性を具現化した、「俺」。

 けんかのときや、爆発力が必要なときなどの、暴力が必要になったときに、呼び出すことにしようと、あなたは思っていたが、だれかを傷つけたい純粋な気持ちだから、コントロールが一番しにくい。

 これもまた、サブアカウント用のキャラだといえるだろう。

 自分との、内的な対話用の、「私」。

 直接に、思考や感情を受けて、流されてしまいやすい「僕」だけでは、問題が起こったときに、自力で対処しにくい。

 あなたが、落ち着いて操作することもしにくい状況のときに、「僕」と相談するための人格。

 まるで、カウンセラーの先生のように、「僕」を導いて、冷静な判断で客観的で、温かみのある、バランスの取れた意見を言うための人格。

 ともすれば、自分をないがしろにする傾向のある「僕」に対して、自分をもっと大切にするようにと、「他人」の立場からいうための、問題の解決策を考えるときのための人格。

 そして、実際に、問題解決をになうのが、「ぼく」。

 あなたと同じように、余計な思考や感情は、なるべく排して、恐怖にくもっていない判断のもとで、問題の解決にあたる、「理想の自分」。

 本当に自分のしたいことがわかっているとしても、得体の知れない恐怖やためらい、今までの習慣によって、動きが取れなくなることの多い、以前のあなたが、それを克服するために作り出した、問題解決用の人格。

 あなたは、観測するだけ。

 それによって、すべての人格のバランスを取っている。

 だが、それでは、問題が起こったときに、動ける存在がいない。

 だから、「ぼく」が必要なのだ。

 自分の中にある潜在能力や、勇気、冷静さ、理想の自分だったらこうするだろうということを、実際にするための人格。

 あなたは、この技術を、便宜的に、「仮想多重人格」と呼んでいる。



 あなたは、「どこか」にいる。

「よかったね、おめでとう。とりあえず、ひとくぎりついたみたいで、私もうれしい」

「はい、ありがとうございます。体育の先生と、その人と、僕が一緒に話して、変なことは言われなくなりました。今のところは、ですけど」

「おかしなことになったら、俺がぶんなぐる」

「ええ、だめだよ、わたしは暴力反対だな」

「できるだけ、話し合いで解決できるときは、その方法でいくのがいいと思うし、その仕事は、ぼくにまかせてよ」

「それでも、駄目なときはぶんなぐる」

「まあまあ。でも、本当にみんなありがとう。問題が解決したのは、みんなのおかげだよ。僕の生活も、案外、変な風にはなってないし、また何か問題があったらよろしくね。それと、『あなた』も、ありがとう」

 あなたも、答える。

 僕とわたしと俺と私とぼくと、そしてたぶん、あなた自身に、ありがとう、と。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ