第三章 弟子品(2) 大迦葉が貧しい村で托鉢していると
佛告大迦葉汝行詣維摩詰問疾迦葉白佛言世尊我不堪任詣彼問疾所以者何……
ブッダは次に、大迦葉に……
大迦葉、または摩訶迦葉。古代インドの雅語でマハーカーシャパ、俗語でマハーカッサパ。
元は異教の神官でブッダとの法力勝負に負け弟子になった迦葉三兄弟の長兄……という説と、その3人とは別人という説とがあるらしく。
たとえば『ブッダ』(手塚治虫)では前者の説で描かれていました。
とりあえず十大弟子の一人で悟りを開いた阿羅漢だったのはたしかでして。「頭陀第一」といいますから、エライさんなのに態度は低姿勢で少欲知足、人々が思わずお布施をしたくなるような癒される空気を持っていた僧侶だったのではないでしょうか。
ブッダの入滅後に経典結集(「第一結集」)が行われたとき、弟子たちのリーダーとして場を仕切り、トラブルや諍いを解決した長老がこの大迦葉尊者でした。実質上の後継者だったのかもしれません。
実際に禅宗系統で摩訶迦葉は、「拈華微笑」という事件のときにブッダの真意を、言葉を使わずに以心伝心で理解できた唯一人の弟子、つまりはブッダの正統後継者と目されてるようです。
ところで経典結集とは……ブッダの入滅後に、その教えを勝手に変える者などもいたため、「ブッダが生前にどこでどんなことを言ったのか」を999人の阿羅漢+まだ悟りに達してなかったけど記憶に優れていた阿難陀尊者の計1000人で確認し、それを詩や散文の形にして決定版を作ったという事件です。一説では1000人ではなく500人だったともいい、この人々を「五百羅漢」と呼んだりもしますが、ともあれこの方々は「上座部」と呼はれました。
一方で、この集まりから除外されてしまった僧俗が「ブッダは在家信者も阿羅漢も平等に扱ってくれたのに、これは差別だ」と、別の集まりを催して「大衆部」の経典結集をしたという話もあります。
これを「経典の第一結集」と申します。第一があるということは、100年後の第二結集とか400年後の第四結集とかもあるわけですが、その辺は摩訶迦葉の話とはあんまし関係ないので省略して。
(注:「大衆部」の成立についての上記の話は「宗教上の伝承」であり、実際には第二結集のときに戒律の改革にいての意見対立から上座部と大衆部とに分かれたという解釈が歴史学の定説です)
いずれにせよ、そうやってできたものがいわゆる「修多羅(縦糸)」、日本語で言う「お経」です。
時代が過ぎてもいつまでも伝えられるべきものという意味で「縦糸」と呼ばれたたそうで。「経」という文字はその直訳でしょうか。
そういう事情でできた「修多羅」が原型となったため、お経の多くは「如是我聞(このように私は聞きました)一時仏在(そのときブッダは~にいて)……」という言葉から本文が始まっています。
ですが……第一結集のときにできた経典は……現存する、漢文にして計2億文字を超える経典のなかに、かなりゆるく見積もってもせいぜい5%以下ということが、現代文献学の常識でして。
第一結集のときにできたお経と確実に言えるものがどれなのか、はっきり後世の作といえるものはどれなのかについては……異説もあるし危険な話になるのでここではやめさせてください。
興味ある方は原典を読み比べて自分で調べてみるのも面白いかと。
参考までに、文献学では判断基準の尺度のひとつとしてファンタジー度が挙げられてます。つまり内容のファンタジー度が高すぎるものは……以下略。
え? それじゃこの維摩経は実話なのかフィクションなのか? お前はどう思ってるんだ、って? えーっと……、、、
……。
……しかしたとえ後世の作で「思いっくそファンタジー」な内容でも、経典には哲学や教訓としての存在意義があるわけで。つまり小説と同じレベルで読めば得るものはあるのです。
また、筆者のわずかな体験取材からも言えますが、瞑想における感覚は理屈を超えております。まれに、理屈では説明しにくい感覚が生じて、それが現実にフィードバックしたります。たとえば、一定の手順で瞑想に入ると知りえるはずのない他人のプライベートや、本人もまだ知らない隠れた病状を瞑想中に幻影の形で見てしまうことがまれにあり、あとで確かめてみるとそれがほぼ正しかったようで驚かれたり……仏経で言うところの「天眼通」ですな。こういうことが、ちゃんと修行した先生に就くと趣味レベルのヤツにもたまに起こる。
だから経典内のファンタジー描写も、ただの妄想ではなく瞑想修行のヒントになるようにイメージが書かれてる可能性がありまして。科学的に言うなら「ブラシーボ効果」みたいなものもしれませんけど、効果があるなら積極的に利用した方がおトクなわけで。
たとえば佛國品の日よけ傘巨大化や世界キンキラキンのエピソード……あのへんは、単なる趣味人にすぎない筆者にさえ「もしかするとアレのことを言いたいのでは……?」と想像できたくらいに露骨でした。
なので、経典のファンタジー描写も何かの遠まわしな表現かも知れず、「単なるウソ」とか「権威付けのためのフィクション」等と軽視してしまうと、書かれた意図を読み間違うこともあると思うのでした。
また、経典自体に法力があるという信仰も存在しており……。
たとえあきらかな偽経であっても、ファンタジー描写まですべて真実と信じて読唱すると、何らかの力が発揮されるものもある……とされてます。いわゆる「ご利益」とゆーやつですね。
もし「諸法空相(すへての存在は空)」という前提が正しいなら、偽物も本物も本質的な違いはないと言えてしまう。だからそれが「成仏」できた人の瞑想経験で得た悟りを真面目に語った言葉なら、偽の経典にもご利益が生じることはありえる……という理屈が成りたってしまうわけで。
これは想像ですけど、後世の修行者が瞑想中に心の中でブッダの魂に出会って、そこで語られた言葉や見た事件を経典として書き残した例が多かったのではないでしょうか?
瞑想で見た幻や夢は、本当と妄想との区別が難しいから、本人は「とりあえず本当」と信じてしまうものです。現代では、妙な妄想を本当と信じて変な新興宗教を始めてしまう例もありますが(宗教的な言い方をすると「低級霊に騙された」という状態)……。
ともあれ昔の人も、瞑想で見た幻や夢を記録し、そのうち修行や学問の役に立った文献が信仰されて経典として後世に残ったんじゃないかと。
日本とインドでは「記録」に対する認識がかなり違うし、宗教の目的は人間の苦しみを軽減することであって記録としての正確さは二の次三の次ですから(=方便)、こういうのを一概に「捏造」と責められないのが難しいところです。
……と、えー、まぁ何を言いたいのかというと……よーすれば宗教ですんで、書かれてることが実際にあったと信じるか信じないかは個人の自由、ということでして。
それにこの作品の目的は布教とか説教とかではなく、筆者がへんてこな小説の中でウンチク語りを楽しみ、読み手さんにも「なんじゃこの妙ちくりんなウェブノベルはw」と笑ってもらいたいという目的で、ファンタジー小説として書いてるのですからまーいいやってコトで!
だいぶ横道にそれましたけど、自分への言い訳もできたところで、大迦葉のエピソードにもどりましょう。
さて、ブッダが大迦葉に
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってくれ」
ところが迦葉が言うには。
「尊い先生、私はその任に堪えません。なぜかというと……忘れもしない、昔、私が貧しい村で托鉢していたとき、維摩詰が来まして、……」
僧侶は生産活動を戒律で禁じられていましたので(現代日本では必ずしも禁じられてませんが)、食物は「托鉢」で得るしかありませんでした。前述のように禅定の力で食事をとらないという選択肢もあったんですが、それの出来る人はほとんどいないし。
また沙門(出家修行者)に食物を「お布施」すると、それが一般人にとっては善行、つまり「布施波羅蜜」の修行になるという考え方があって、沙門は善行の機会を「布施」するためにわざわざ托鉢で食物を得るのでした。
この托鉢行為を「乞食」とも言います。漢字で書くと「乞食」と区別しにくくて紛らわしいけど。この文字からもわかるように、本来、沙門には食べ物以外を受け取ることは禁じられておりました。上座部仏教では今でもそうらしいです。
が、大乗仏教では戒律が緩和され、現金等を受け取ることも許されるようになりました。もっともゼニのお布施もOKになったことで今では「仏教で一儲け」なんてことも可能なわけですけど……そのへんツッコむのは今回はやめときますね。
で、迦葉尊者が貧しい村で托鉢中に維摩詰と出会って、何を言われたのか。
『大迦葉先輩、金持ちを捨ておいて貧民に対してばかり食を乞うなんて、慈悲の心が不公平ではありせんか? 迦葉先輩、乞食は、法(真理 または 教え)の平等を前提とするものでしょ?
『食べないために食を乞うのですよ。和合の状態を壊すために食べ物を取るのですよ。貰わないために食べ物を貰うのですよ。
『村はカラッポな場所だと思って入らなければ。景色や町並みも(色=視覚)、人の声や物音も(声=聴覚)、風にただよう香りも(香=嗅覚)、食べ物の味なども(味=味覚)、触れることのできる物体なども(触=触覚)、すべて無いと思わなければ。
『さまざまな法(存在)は幻のようなもの、それ自体が固定して存在してるのではなく、たまたま今そういう形をとってるだけで、すぐに消えてなくなってしまう、と知らなければ。
『迦葉先輩。食べるとは……八邪(8種の誤った行為)を捨てないまま八解脱(8段階の悟りを開く方法)に入り、誤りの形をもったまま正法(正しい教え)を知り、そのわずか一食をあらゆる衆生と仏と聖人たちに捧げてから、その後ではじめて自分も食べる。
『このように、食べるという行為は、煩悩によるものでも煩悩を離れたものでもいけないんですよ。
『禅定に入ったまま食べるのでも禅定から出て食べるのでもないし。
『自分が世界の中に存在して食べるのでも涅槃(世界から消滅した状態)で食べるのでもないし。
『食べ物を施した者は、大きな福徳を得るわけでも小さな福徳を得るわけでもありませんし、何かを得るのでも何かを失うのでもありません。
『これがまさに仏道に入るということです、声聞(小乗)のやり方とは違いますよね?
『迦葉先輩。このように食べるならば、食べ物を施してくれた人の行為を空しくしてしまわないですむ、そうですよね?』
大迦葉はここまで話して溜息をついた。
「尊い先生。私は彼の話を聞いて実にすばらしいと思い、すべての菩薩への敬意をいだきました。思うに、在家の信者からでもこれほどの智慧と弁才をもって説明されれば、菩提心を起こさない人がいるでしょうか。私は彼の説に従うことにし、以後は小乗の辟支佛(自分だけ悟って他人は救わない聖者)になるための努力をやめようと思いました。そんなわけで、格が違いますから見舞いの任を果たす自信がありません」
ブッダは考え込んでしまって、次は須菩提長老に……
---つづく