第三章 弟子品(1) 舍利弗の座禅と目連の説法
爾時長者維摩詰自念寢疾于床世尊大慈寧不垂愍佛知其意即告舍利弗……
さて維摩詰長者は、病床で世尊のことを考えていた。
そのデンパをテレパシーでピピッとキャッチしちゃったブッダは、
「こりゃー見舞いにいかねばなるまい。でも自分はスケジュール詰まってるし……代理で弟子を誰か使者に遣るとしようかナ。難しいおつかいをこなすとその経験で本人も成長するものだしネ」
と思い、ちょうどそこにいた弟子の舍利弗に言った。
「キミ、私の名代で維摩詰の見舞いに行ってきてくれないか」
ところが舍利弗は
「世尊、私は見舞いの任に堪えません。なぜかというと……忘れもしません、昔、私がある林の樹の下で座禅していたときです。維摩詰が来て、こう言ったんです」
『舍利弗先輩。その座禅、ちょっとまずくないでしょうか? 座禅するときは、三界(現象世界)に心と体があっちゃダメなんですから。
『不起滅定(生じることも無くなることもない座禅のしかた)で威儀を現して座らなければ。
『真理の中に没入したままで普段の生活に現れるように座らなければ。
『心が自分の中に留まらず、しかし心が外を出歩くこともないように座らなければ。
『間違った見方も含めてものの見方を変えないままで三十七道品を修行するように座らなければ。
『煩悩を断たないままで涅槃に入るように座らなければ。
『と、そんなふうな座禅をすれば、ブッダも認めてくれますって♪」
「世尊、こう聞いた私は何も言葉を返せませんでした。彼とは格が違いますから、私には見舞いの役を果たす自信がありません」
「ふむぅ」
ブッダは考え込んでしまって、次に、目連に……
目連、または大目建連。古代インドの雅語でマゥドガリャーナ、またはマハーマゥドガリャーナ(「摩訶」は英語の「グレート」とだいたい同じ意味です)、俗語の発音ではモッガラーナと呼びます。
舍利弗の親友でブッダの十大弟子の一人です。宿命通の神通力に優れていたそうで「神通第一」と呼ばれました。また目連尊者は、夏のお盆の行事の起源となった「盂蘭盆経」の主人公としても知られています。
名前に「偉大な」と称号がつけられたように、目連尊者は歴史的にはやはりものすごい占い師で宗教家としても優秀だったようですが、大乗経典では舍利弗と同様、「未熟な弟子」という役どころが多いようです。
「それじゃ目連くん、私の代理で維摩詰の見舞いに言ってきてくれ」
んが、目連も、
「尊い先生、私も、見舞いの任にゃあ堪えません。なぜかっつーと……忘れもしません、昔、私が毘耶離の町の広場で教養人たちに法を説いていたときです。維摩詰が来て、こう言ったんですよぅ」
『偉大な目連先輩、俗人のために教えを説くなら、先輩のその説明のやり方はまずくないでしょうか? 法は、ブッダのようなやり方で説くべきでは?
『法(真理)は衆生には無く、衆生の汚れから離れたものだからです。
『法は個人の自我には無く、個人の汚れから離れたものだからです。
『法に寿命は無く、生死を離れたものだからです。
『法は人には無く、前後(大きさ)に限界なんか無いからです。
『法は常に静かでさまざまな現象を寂滅するものだからです。
『法は現象を離れ、存在する縁(原因と結果)もないものだからです。
『法は文字で表現できず、言葉を離れたものだからです。
『法は説明で理解できるものじゃなく、思考や直感から離れたものだからです。
『法は世界に充満していて、虚空のようなものだからです。
『法は戯論(形/色/性質など)が無く、空の境地にあるからです。
『法は自分には無く、自分から離れたものだからです。
『法は分別(思考判断)には無く、人間に認識できないものだからです。
『法は比べられるようなものがなく、相対的なものではないからです。
『法は何にも支配されず、何の縁(原因と結果)も生じさせないからです。
『法がみな同等なのは、さまざまな法の中にあるからです。
『法はあるようにあり、何にも従わないものだからです。
『法は現実の中にあってまったく変わることのないものだからです。
『法は六塵(6種の感覚)に影響されず、動くことがないからです。』
悪く言うと「六塵」、ふつうに言えば「六感」ですね。たぶんご存知でしょうが、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の五感に「直感」を加えた、6種類の感覚のこと。
『法はどこかから来たものではなく、ここにずっとあるものでもないからです。
『法は空にしたがい、形は無く、作用もありません。
『法は好悪とも関係ない。増減とも関係ない。生滅とも関係ない。場所とも関係ない。眼・耳・鼻・舌・体・心で知覚できるものでもない。上も下も無い。
『法はまったく動かないもので、すべての動きや知覚から離れています。
『偉大な目連先輩、法とは言葉で説明できるようなものなのでしょうか? 法を説くとは、何も説いてないのと同じことです。聴いた人も何も聞くことが出来ず、理解することもできません。
『たとえれば、存在しない幻影の人が、やはり幻影の人に説明しているようなものです。
『ですから、法を説こうというならまずは衆生の根の利鈍(理解能力)をよく把握しなければいけません。智慧をもって正しく見て、相手の苦しみを自分も感じる大乗の心を起こして、三宝(仏・法・僧)を忘れず仏の恩に報いることを念じ、そうしてから法を説かなきゃ……先輩もそう思いますよね?』
「維摩詰がこの法を説いたとき、800人の教養ある人々が阿耨多羅三藐三菩提心(真剣に真理を求める心)を起こしました。私にはあそこまでの弁舌はありゃあしません。ということで、格が違うから彼の見舞いを果たす自信がありませんです」
「ふむぅ」
ブッダは次に大迦葉に……
---つづく