第二章 方便品(1) やっと主人公のご紹介
爾時毘耶離大城中有長者名維摩詰已曾供養無量諸佛深植善本得無生忍……
そのころ。毘耶離の町に維摩詰長者という有名な富豪がいた。宝積の父親だ。
彼は過去世で数々のブッダを供養して善根をかさね、すでに「無生忍(ものは無から生じることなどないという悟り)」と無限の英知弁才を得、さまざまな神通力をもてあそぶこともできた。
畏れずに魔を降しても怨まれること無く、深く法門に入ってよく智度(智慧の完成)を実行していた。たくみに方便を駆使して大願を実現し、衆生が望むところをよく知ってもいた。
……この後も延々と褒め言葉が続くけれど、かいつまんでいえば、居士(上位の在家信者)のままで悟りを開いて聖者となってしまったスゲーおじさんということです。
とにかく仏弟子にも天の神々にも尊敬されてるほどスゲかった維摩詰は、人々を悟りへと向かわせるための方便として毘耶離の町に住んでいたのだった。
……この後も褒め言葉の洪水。でも、以下の文章から「当時の仏教徒が理想とした在家信者の姿」が明確にイメージできますので、こっちは省略しないで翻訳してみましょう。
とにかく財産はどんどん貧民に施すし、人々を救える身となるために戒律も清らかに守ってる。
怒り狂ってるやつがいればガマンできるようにさりげなく落ち着かせてやるし、怠けてるやつがいれば自ら努力する気になるようにハッパをかける。
混乱してるやつがいれば集中して考えられる方法を教えるし、無智なやつに正しいことを教えられるだけの智慧を得るための勉強と修行をいつもしている。
白衣(着飾った俗人の衣類のこと)を着ていながら沙門(出家修行者)と同じく清浄な言動を心がけ、自宅を持っていても家に執着しておらず、妻子があっても常に清らかに修行していて、一族と一緒に楽しんでいても歓楽に心を奪われることがない。
衣服に宝石を飾っていても内部では仏陀のような相好(三十二相+八十随好=聖者の身体的特徴)を持ち、普通に飲食しているように見えても実は生きるエネルギーは禅定から得ている。
……。
食事をせず水だけで何年も過ごすヨガ師は現代でもインドにいるようで。日本人でも、それをやれたことがあるという老宗教家先生に会ったことがありました。
なんでも、若いころに満州で道教や仏教の修行をしながら牧場を経営していたところ、終戦のとき、軍人でもないのにソ連に抑留され戦犯容疑を受けたそうで。シベリアで入牢させられた1ヶ月間、食事を与えられず足元に溜まってた水をすするだけで……ほかの人たちはこの拷問にたいてい病死するか戦犯と認めて刑を受けるかしたそうですが、本人は瞑想の効果で肉体がまったく衰えず、罪を否認し続けたままソ連軍を諦めさせてしまい、とうとう釈放され、その後も生き延びてついに日本に帰ることができたのだとか。
といっても本人には断片的なことしか聞けず、ほとんどは他の書物で読んだ情報ですけどね。
もしこの話を信じるとしたら……主観的には、この経典に描写されてる維摩詰と同様に瞑想でカロリーを補給していたと言えるでしょう。こういう人たちは、大地とか太陽とかからエネルギーをもらう方法を知ってるらしく。その牢には鉄格子の窓があり、この老先生もわずかながら太陽光が入ってきたのでその光を「食べて」いたとの話でした。
でもこういうの、客観的にはどうなの? というと……「腸内の微生物の働きでカロリー補給できるのでは」という仮説をネット上で見たことあります。けれど、科学的に完全な解明はまだされてないようです。そりゃ、生きてる健康な人間を解剖するわけにもいかないしなあ。
どっちにしても自分で確かめることができたわけではいないので、どこまで信憑性があるか筆者は保証しません。
ただ、90代半ばを過ぎてたその老先生は山小屋に住み、山芋や玄米粥を弟子の皆さんの主食とし、小屋に通電する夕食どきにはTVで某美少女戦士のアニメなど見て「おしおきよ!」というセリフを真似して笑ったりもしつつ、毎朝4:00から読経と禅定をして、天気のいい日は千m級の山々を歩きまわって修行する、「ほぼ仙人」としか表現できない生活をしてまして。
当時20代前半、名古屋から京都まで自転車で1日で走った筆者も体力的にまったくついていけなかったという、とんでもない健康体であったことは間違いないんですが。
ともあれこの時代のインドではそういう能力を持つことが理想とされていたようです。
ということで、維摩詰長者のヨイショの続きを。
……彼は平気で賭場なんかにも出入りするけれど、それが、欲をかいた結果で苦しんでいる人々を救い出すきっかけとなる。
他の宗教や思想からも学べるところは学ぶけれど、正しい信仰が揺らぐことは無い。世間的な知識(ここではマジナイとか呪文などの俗信こと)についてよく知ってはいても、基本は常にブッダの教えだ。普通に商業を生業としてはいても、お金儲けしたり得したりなどにこだわってはいない。
あちこちの町中に現れて人々の益になる言動をし、必要があれば政治にも関わって人々を助けようとする。人々を大乗の教えに導くような話を語り、あちこちの学校で子供たちに知識を教えていたりもする。
風俗店やソープにも平気で出入りするが彼らの性への欲求を利用して真理への興味を起こさせたりし、酒場にも出入りするが酔っ払うことしか楽しみの無くなった人に希望を与え新しい志を立てさせたりもする。
徳を保っているから商人となれば商人の中でもっとも尊敬される。
貪りを断っているから居士となれば居士の中でもっとも尊敬される。
耐え忍ぶことを教えるから武人となれば武人の中でもっとも尊敬される。
増上慢を除いているから聖職者となれば聖職者の中でもっとも尊敬される。
正しく法を実行するから大臣となれば大臣の中でもっとも尊敬される。
忠義と孝行を示すから王子となれば王子の中でもっとも尊敬される
宮女たちを正しく指導するから宮内官となれば宮内官の中でもっとも尊敬される。
徳と力を示すから庶民となれば庶民の中でもっとも尊敬される。
智慧にすぐれるから梵天となれば梵天の中でもっとも尊敬される。
諸行無常を示現するから帝釈天となれば帝釈天の中でもっとも尊敬される。
衆生を守るから守護神となれば守護神の中でもっとも尊敬される。
維摩詰長者は、このようにかぎりない方便を駆使して衆生を益する、超ウルトラスーパーデラックス在家信者なのだった。
しかしあるとき、重い病気にかかってしまって……。
---つづく