第一章 佛國品(4) 舍利弗の疑問で仏国土が出現!?
爾時舍利弗承佛威神作是念若菩薩心淨則佛土淨者我世尊本爲菩薩時意豈不淨……
さて、ここで登場しました舎利弗。『西遊記』で有名な玄奘三蔵の翻訳では舎利子と書かれております。古代インドでは、雅語でシャーリプトラ、俗語の発音だとサーリプッタ。『ブッダ』(手塚治虫)には俗語の名前で登場してました。
舍利弗尊者は歴史上で確実に実在したと考えられるブッダの直弟子の一人です。
8才のころから哲学者としての名声があり、長じてサンジャヤ学派(六師外道の一つ、詭弁論)を学んで百人ほどの門弟を教える若き指導者となっていましたが、王舎城の町でたまたま行き会った馬勝比丘がつぶやいた偈に「たしかにそのとおりだ!」と感動した勢いで初歩の悟り(シュダオン果、だったかな?)を開いてしまいまして。速攻、馬勝の師匠の名を確認して、親友の目連(雅語だとマゥドガリャーナ)も誘い門弟たちごとブッダに入門してしまいました。
その後、わずか半月の修行で最後の悟りまで開いて阿羅漢となってしまい「智慧第一」と呼ばれました。「十大弟子」に数えられた高弟なのですが……若くしてブッダより先に、禅を組んだままの姿勢で涅槃に入ってしまったとの由。
史実としてはたいへんに優秀な哲学者であり、他宗教の人たちからも一目置かれていたみたいです。
しかし大乗仏典では……多くは「ブッダの真意を理解できない未熟な弟子」の代表みたいなイメージで登場してまして、教えの聞き手になったり間違えた質問をして叱られたりする損な役廻りです。それはこの維摩経でも例外ではありません。
なんでそーなった……。
とにかくその舎利弗に、ひとつの疑問が浮かんだ。
「(もし菩薩の心が浄いから仏土も浄いってんなら。ブッダが悟りを開く前の修行中、つまり菩薩だったころになんでこの世は不浄だったんだろ? 悟りを開いた今でさえ浄土には見えないし……?)」
ブッダは、彼がそう考えたことを察知してこう語りかけた。
「舎利弗くん、どうかな? 盲人は何も見ることできないけど、それは太陽や月の光りかたが足りないせいだと思う?」
「違います、先生。それは太陽や月のせいではありません。(見ることができないのはその人の目に視力が無いからです)」
「舎利弗くん、それと同じなんだ。罪のある衆生に仏土が浄く見えないのはブッダのせいじゃないんだよ。私のこの国も充分に浄いんだけど、残念ながら君にはそうは見えていないんだねぇ……ガクッ」
そのとき、梵天の……
梵天とは、天地創造をしたエネルギーが擬人化された神様で、多重構造の天界のいちばん高いところに住んでいるという設定になっております。ムチャクチャに偉いけど、遠くにいすぎて人間とはあんまし関わらないらしい。
その梵天の王である螺髻が、舎利弗に語りかけた。
「この仏土を不浄やなんて、せんないこと言わんといてくだはいな。そないな考えあきまへんえ舎利弗はん。ウチらには、釈迦牟尼はんの仏土はごっつ清浄に見えますわ。どこもかしこも他化自在天の宮殿みたいにきれいですえ?」(なぜ京言葉?)
舎利弗は困ってしまいまして、
「しかし私にはこの地は……丘あり窪みあり、イバラの藪あり、荒地あり、土石の積もった山あり、と、汚れであふれてるように見えてるんですよ」
螺髻は舎利弗にツッコミチョップをかましつつ
「あんさん、心に高下の差別をお持ちやおまへんか? ブッダの智慧を信じきってはらへんのとちゃいます? この地が不浄かどうかよー見てみなはれ、舎利弗はん。菩薩はすべての衆生をみ~んな平等に見てはって、心は浄く、ブッダの智慧を全面的に信頼してはるさかい、この地は清浄に見えるはずですわ~」
その会話を聞いていたブッダは、座から足を出して地に付けた。そのとたん、この三千大千世界(地球300万個ぶん)の全土が、数え切れないような珍しい宝で装飾されてしまった。どこを見てもキンキラキン&宝石だらけ、宝荘厳如来という他の世界のブッダの、無量の功徳により装飾された「宝荘厳浄土」のようだった。
その場にいた一同は驚いたのなんのって。何しろみんなもいつのまにか、一人残らず巨大な白い蓮華の花の上に座ってたってんだから。
で、そのキンキラキンの中でブッダ(釈迦牟尼のほうね)が舎利弗に言うには、
「どうかな、仏の浄土が見えたかな?」
舎利弗は答えて、
「はい先生。見えたとか聞いたとかではなく、今ここに仏の浄土が現れました」
「舎利弗くん。私の仏土はいつもこんな感じなんだよ。でもね、衆生にいきなりこんなの見せたら、調子に乗って、増上慢や無気力になっちゃう。だから普段は、劣った人たちのために、わざと欠点があって汚い所に見えるようにしてるんだよ。天人たちが、同じ宝器に同じ食べ物を盛られても、それぞれが過去に積んできた徳によってゴハンの味が違ってしまうようなものさ。だからね、舎利弗くん。人の心が浄ければこの地も功徳にあふれて荘厳な浄土になるんだ」
こうして荘厳な仏国土が現れたとき、宝積と500人の若者は「無生法忍(真理は無から生じたのではないという中級の悟り)」を得た。
そして8万4千人ほどの人々が阿耨多羅三藐三菩提心(菩提心と同じ意味、本気で悟りを求める心)を起こした。
ブッダが足を地から離すと、たちまち世界は元の穢土にもどってしまった。
それを見て声聞乗(日本でいう小乗)に属する3万2千の人間たちや天人たちは、「諸行無常(形あるものは壊れる)」を思い知って法眼浄の境地(真理に対して汚れの無い目を持つ心境)に達した。
また8千の比丘(出家した男性)たちがこれにより漏尽通(執着をなくし煩悩の流出を止める神通力)を得た。
維摩詰所説經 仏国土品第一 終わり
---つづく