第三章 弟子品(8) がんばれ後輩弟子・阿難くん
佛告阿難汝行詣維摩詰問疾阿難白佛言世尊我不堪任詣彼問疾所以者何……
ブッダは、次には阿難に
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってきてくれ」
阿難、または阿難陀。ブッダの従弟で……戒律に関する意見対立により教団から分派独立した題婆達多の弟です。
ブッダが悟りを開いた日、浄飯王はそのことをデンパでピピッとキャッチしちゃって「エラい、でかした! さすが予の息子!」と浮かれていたのでしたが、そこへ弟の斛飯王子が、次男の誕生を報告しに来ました。
目出度いことが重なりメチャクチャにはしゃぎまくった兄弟は、その勢いで赤ん坊に「目出度い」と名づけてしまったそうで……同じ王孫という立場でありながら、「障礙」と名づけられた羅喉羅尊者とは逆の結果ですね。
しかし阿難はオメデタイ奴どころか苦悩するイケメン青年に成長してしまいまして、意図せずして女性のハートを次々と射抜き続けることになり、女難に苦しんだようです。
それは出家してからも続きまして……手塚治虫先生は『ブッダ』で阿難の前半生を兄の題婆達多とあちこち入れ替えて脚色したとのことでしたが、映画『釈迦』には、出家した阿難が恋愛トラブルを起こしてしまうエピソードが印象的に登場してました。
さて当時の僧侶は、「糞雑衣」と申しまして、墓地やごみ捨て場などで拾った布片をつなぎ合わせた、非常に質素で布の少ない服を着ていました。その形式だけは現在の日本でも「袈裟」という布に残っていますが、要するに中の着物ナシで、裸に糞雑衣だけ、というのが初期の比丘たちの姿で……日本式の袈裟よりは危ないとこが隠されてたと思われますが、おそらくスリランカなどの上座部のお坊さんや、不動明王などの服装にに近かったのではないでしょうか。
しかし阿難だけは、特別に広い布を使った衣が許されていたそうです。なぜなら、セックスアピールがありすぎるから、不動明王みたいに胸元が露出してると危険ということで。
しかしこういう深刻な業を抱えていたために阿難はなかなか悟りを開けず、25年も側にいながらとうとうブッダの入滅までに阿羅漢とはなれなかったのでした。
さて、2月15日にブッダが涅槃に入りますと、ぎりぎりで駆けつけて最期を看取ることのできた高弟の大迦葉は、
「これから弟子たちが堕落してしまうのでは……」
と心配になりました。案の定、その日のうちにもうさっそく
「ブッダがいなくなったら楽になるな。もう戒律を破っても文句言われない」
なんてこと言い出した連中がいたもんですから、
「これは……非常にヤバい」
と、「過去の浮気者ぶりが恋人にバレた時のバン■ラン少佐」のごとく真剣な表情で危機感をあらわにしまして。
そこでその年の5月15日に摩竭国の首都・王舎城にて、五百羅漢、別説では1000人の阿羅漢を集め、経典結集を行うことにしました。
生前のブッダがどんなことを語ったか、そのときの記憶を全員で確認し、制定文にして、ブッダの教え(経)や教団のルール(律)を正確に伝承させたいと思ったのです。
前にも触れました「摩訶迦葉の第一結集」です。
経と律の他には僧尼や在家信者が仏教の解釈を説明したもの(論)もありまして、これらをあわせて「経・律・論の三蔵」と呼ひます。一般にはいっしょくたに「お経」とか「経典」と呼んでしまってますが、厳密には3種類の仏典があります。
この三蔵を脳内に蔵した(つまり丸暗記した)お坊さんを「三蔵法師」と呼びます。
法華経や維摩経などを漢文に翻訳し日本の仏教に大きな影響を与えた中央アジアの鳩摩羅什三蔵、従来の訳文の正確さに疑問を感じ原文を確認しにインドへ行って大般若経や唯識論などを漢文訳して『西遊記』のモデルとなった玄奘三蔵、同時代にインドから中国へ80才の高齢なのに旅して大日経などを漢訳した善無畏三蔵、などが有名です。
そういえば奈良~平安時代の日本人で、元皇太子の高丘親王、出家し弘法大師空海の弟子となった真如上人も、大反対していた母親が他界してから60歳代でインドに向かって旅立ったと伝えられています。残念ながらマレーシアで亡くなったとの由ですが。真如上人を主人公にした小説『高丘親王航海記』が作者他界により未完結で終わってしまったのも残念……いつの日か筆者も、このお坊さんの話を脚色して書いてみたく、機会があれば関係地に取材に行ったりしております。
また漫画『玄奘西域記』(諏訪緑)には、玄奘三蔵が留学したインド北東部のナーランダー寺院の学長で正法蔵様というスチャラカ高僧が登場しまして。遠くからやってきた新しい弟子に影響されたのか、もう入滅すると言ってたほどの老齢を省みず、玄奘たちをつれて南インドへ取経を兼ねたランナウェイ旅に、なんて展開が……。
『玄奘西域記』のエピソードはおそらくフィクションでしょうけれど、あの時代にはこういった冒険心のある老僧がときどきいたのかもしれませんね。
さてブッダの教えをもっとも数多く耳にした弟子は、25年もお側に仕えていた阿難でした。そのため十大弟子の中で「多聞第一」と呼ばれています。
が、経典結集の日になっても阿難はまだ阿羅漢になれていませんでした。
大迦葉は、経典結集の参加資格を「阿羅漢のみ」と定めていましたので、阿羅漢ではない阿難は500人めor1000人めとなれず、締め出されることになってしまいました。
「特別に参加させてあげてもいいんじゃない?」という意見もあったろうと思われますが、リーダーというものは安易に例外を認めてはいけないのです。いちど認めると次から次へと例外を認めなければならなくなり、なし崩し的にそのルールは無意味になってしまうから。日本の法律とかでもありますね、そういうの。
たとえば、西暦710年に日本で制定された大宝律令では「公地公民制」と申しまして、土地はすべて国家の公有とされておりました。この法律は、形の上では明治時代の大日本帝国憲法制定まで有効だったのですが……奈良時代中期以降に荘園制が広まって以降は土地の私有が普通に行われ、事実上でほとんど空文となってました。かろうじて生きていたのは「牛や猿を食べてはいけない」という決まりと、朝廷の官位制度くらい。
もっと最近の例では罰金500円の決闘禁止法(『決闘ニ関スル法律』)など廃止されてはいなくてもほとんど空文に近い存在ですし、さらによく知られている例が日本国憲法・第……おおーっと、拙者ちとトイレへ、! ゲフン、ゲフン。
……………………。
ともあれ大迦葉はこんな風にルールが空文化することを危惧しまして、一時の利便を捨てることにしたのでした。そのいきさつを、『大唐西域記』(玄奘三蔵)にあった記述を参考に描写してみますと、
大迦葉「阿難、キミはまだ愛欲の煩悩を断ち切っていないだろ。阿羅漢の悟りを得た人々の集まりから出て行きなさい」
阿難「ちょ、ちょっと待って! 如来にお仕えして幾星霜、教法についての集まりに欠席したことなんか1度もない僕ですよ? ブッダのお言葉の人間データベースというのが僕の存在意義なのに、その能力をもっとも生かせる会議から追い出されちゃったら、如来がもういない以上、僕にはもう生きるよりどころさえないです!」
大迦葉「大袈裟な心配はしなさんな。キミはたしかにブッダの近くに長くお仕えして、お言葉をたくさん聞いている。だけど愛欲が尽きておらず煩悩の匂いをプンプンさせてるんだ。そんな未熟者をここの皆さんと対等の立場で参加させるわけにいかないだろ? 阿羅漢でない以上は、出て行きなさい」
阿難はガックリと肩をおとし、会議場を離れて静かな原野に向かいました。そこで座禅を組み、なんとしてでも今日中に阿羅漢果を得ようと必死に瞑想したのです。
……が、業が深かったのでしょうか、どうしても悟ることはできませんでした。
長時間の集中で消耗した阿難は、
「このまま禅定を続けても疲労が重なるだけで、かえってよくないです」
と思い、仮眠をとることにしました。ところが、横になり、地に頭をつける、その寸前。
いきなり脳内で何かがはじけ、悟りを開いてしまったのです。
ありますよね、こういうこと。ウンウンうなって考えてる間はいい考えが湧かないのに、トイレや風呂でリラックスするといきなり「おお、これはスゴい!」というアイディアを思いつく。あるいは、必要な参考文献を探してる間はぜんぜん見つからないのに、諦めたとたんに寝床の横に積んであった本が崩れて中から出てくる。この小説を書いててもそういうことがありました。
阿羅漢果を証した(悟りを開いた)阿難はソッコーで会場に戻り、門を叩きました。
大迦葉「なに、もう煩悩がなくなった? ……もしキミが阿羅漢なら、扉などあっても無いのと同じだ、わざわざ開けずとも中に入れるだろう。本当に阿羅漢ならやってみろ、オラァ!」
これを聞いた阿難は神通力で鍵穴からスーッと会場の中に入ってしまい、気がついたときには阿羅漢たちの末席に座っていたのでした。数学で言うところのトポロジーを、人体でやっちゃったんですね。
甲賀流の忍者……少なくとも昭和40年代までは実際に活動していた証拠があり、第二次世界大戦のときもビルマ戦線や四川省でスパイ工作し陸軍中野学校の教官にもいたという……忍者たちは、トボロジーの原理を人体に応用でき、屋根瓦1枚の広さの穴を通り抜ける方法を知っていたと聞きました。が、それを可能だったと言われてる最後の人が方法を弟子に伝えずに亡くなっちゃったので確かめようがない。
阿羅漢にはそれをさらにエスカレートした能力があるのでしょうか?
さて、ウソかマコトか、とにかく扉を開かずに中に入ってきた阿難を阿羅漢と認めた大迦葉は、一同にむかい
「阿羅漢のみなさん。よく考え、はっきりと聴いていただきたい。
「阿難がブッダの言葉をたくさん聞いて正確に記憶していることは、ブッダも賞賛されてました。ですから阿難に、修多羅(経蔵)の編集長になってもらいましょう。
「それから、優波離が戒律をよく保持して研究していることは、みなさんもご存知の通り。ですから優波離に毘那耶(律蔵)の編集長になってもらいましょう。
「そして私、迦葉は阿毘曇(論蔵)の編集責任をつとめましょう。どーですかッ、お客さ……もとい、阿羅漢のみなさんッ!?」
一同「おお~~~~」(パチパチパチ☆)
大迦葉が「ダーーーッ!」と拳を挙げて応えたかどうかまではわからないが、こうして提案は一同の賛成を得ることができまして。その後、三ヶ月にわたって経典の内容確認が行われ、仏典の決定版が作られたのでした。
この第一結集の際に「弟子たちは涙で墨をすり、その墨で妙法蓮華経(法華経)を書き写したのだった」みたいな記述を、とある宗教団体の冊子で見たことありますが……この時代、経典はまだ紙に墨で書かれてはいません。
経典が文字に書かれるようになったのは400年後の第四結集の前後から、それ以前には集団での暗誦により伝えられていたというのが定説です。
なのであの冊子の描写は、墨と硯が普及している日本の人が想像した「創作ファンタジー」と思われます。4ヶ月が過ぎてもまだぼろぼろ泣いて悲しんでるようじゃ、とてもフッダの直弟子とは言えませんしね。
なので、該当する宗派の信者さん以外は「ファンタジー小説」として楽しむのがよいでしょう、筆者の脚色したアントニオ大迦葉と同じレベルで。
おっと注意! 信者の人は信じなければなりません。仮に嘘だったとしても、宗教の指導者が信者に読ませるために書いたなら何かを教える意図のある「方便」かもしれませんから。有名な、法華経の「火宅の喩」を思い出しましょう。
けれど信者さんも別説があることも一応知っておけば、指導者先生の意図を理解するヒントにはなるんじゃないかと思います。
さて、こんな経緯で阿難を責任者としてまとめられたブッダの説法記録、修多羅(経)は「伝えるべきもの」とも呼ばれました。日本では「阿含経」という名の漢文訳と、「南伝大蔵経」という名の日本語訳で読むことができます。「阿含」は「アーガマ」をそのまま音写した漢字ですね。
アーガマ系の経典には大乗仏典と比べると現代人にも納得し易い具体的な教えが多く、また、いわゆる「原始仏教」について知りたいときに頼りになる貴重な文献……ではあるのですが。
長阿含経、中阿含経、雑阿含経、増壱阿含経(後の3つは「長」阿含経より長い)ほか、いくつかの異なるバージョンがあり、またその中の一部だけ抜粋したような経典もたくさんあったりなど、後世に消長したさまざまな部派・宗派の教義による加筆修正もされてると考えられていて、研究する場合には多少、注意も要します。
ところで、前述のように……アーガマを編纂した人々を上座部と呼びましたが、締め出されてしまったその他の弟子たちや在家信者たちが、王舎城から7~8kmほど西で別の経典結集を行い、大衆部と呼ばれたという説もありまして。
上座部ではその説を認めていませんでしたが、大衆部ではそう伝えられたたようです。
そして大乗仏教はほとんどが大衆部系の仏教宗派ということになります。
この説を信じるとしたら維摩経も、「大衆部の経典結集で弟子たちの記憶に基づいて結集された」ということになり……
あッ!
もしかすると、仲間はずれにされた悪印象が影響して、大迦葉尊者はじめ十大弟子の扱いが悪くなっちゃったのか!!?
……もっとも、そんな伝説は信じないという場合は以上も「創作ファンタジー」と受け取ってください。これも前述しましたが歴史学の定説では……。
第一結集から約110年後、時代に合わせて戒律の改訂をするかどうかについて意見が対立したとき、阿難の弟子たちや孫弟子たちの長老が中心となって第二結集を行いまして。「昼メシの終了時間を12時ちょうどから12時15分くらいまでOKにしよう」「いやそれは許されん」とか、「肉食は全面的に禁止しよう」「いや条件付で充分だ」とか、そんな感じの些細な問題の10項目くらいでずいぶんとモメたようですが……とうとう合意に達することができず、保守的な上座部と革新的な大衆部に分裂してしまった、とされてます。
これがいわゆる「根本分裂」です。このときから仏教にははっきりと「部派/宗派」が生じ、さまざまに分派していくのであります。その各系統についてはメチャクチャにややこしいのでここではいちいち紹介しませんが、そのうちの一系統だけが生き残って現在「上座部」と呼ばれている南方仏教となり、また北方仏教の大乗仏典は根本分裂の後で作らた、というのが歴史の定説です。
この説が19世紀に起こった「大乗非仏説論」の根拠となりました。この説をとればたしかに「ブッダが説いたのは原始仏教だけで、大乗仏教は後世の大衆部系仏教徒がブッダに仮託して経典を作ったもの」という結論になっちゃいますから。
……18世紀以前の日本ではそんなこと考えもよらなかったわけで、歴史の定説というものは、新たな発見や統計的研究があるとどんどん変わっていってしまうももの、まさに「実体の無い『空』」といったところではありますが。
少なくともこれが定説である間は、大衆部の伝説を信じてる信者さんも、歴史のテストでこの問題が出たときには「方便」としてでいいのでこう答えといてくださいね。
「すべての経典は、釈迦牟尼本人が段階的に説いたもの」という五時教判説をとる方は、信じなくてもいいですがこういう別説もあるということもご参考になされば、布教中に反論されて戸惑ってしまい一瞬固まるなんてことも無くなるでしょう。
さて、悟りを開くのは遅れても一生懸命さでは人後に落ちなかった阿難。彼と維摩詰が会ったときには……。
ブッダは次には阿難に言った。
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってきてくれ」
しかし阿難は
「尊いせんせー、ムリでーす。なぜというと……忘れもしません、昔、尊いせんせーがちょっと体調悪そうで、牛乳が必要だなと思ったとき。僕、鉢を持って、いそいでお金持ちの婆羅門の屋敷の門の前に行ったです。」
婆羅門とは……インドの身分制度でもっとも上に位置する、専門の司祭階級です。中には仏教徒もいましたし、たとえ宗教が違っても托鉢のお坊さんにはなにがしかの施しをする習慣があったようで。
「で、そのときに維摩詰が来て、こう言ったです。
『阿難さん。こんなに朝早くから何をしに、鉢なんか持ってこんなところへ?』
「僕は答えたです。
『おはようです維摩居士。ブッダの体調がちょっと悪そうだから、あったかい牛乳でも飲んだら消化にいいだろうと思って。それでここへもらいに来たです。』
「すると維摩詰は、
『やめてください、やめてください阿難さん、そんなこと言うのは。如来の体は金剛級に頑丈です、悪いところなんかわずかでもあるわけがない。ブッダに何の病気があり何の悩みがありえるもんですか。
『何も言わずお帰りなさい、如来の悪口ですよ、それは。そんなこと他人に聞かれたらマズいですよ、大きな威徳のある天部の神や、他の浄土の菩薩たちに聞かれたら恥ずかしいじゃありませんか。』
『転輪王(全インドの覇王)でさえ、わずかな福徳があれば病気にはかかりません。ましてや、何ものにも勝る無量の福徳のある如来が。
『さあ行きなさい阿難さん。どうか私たちに恥かしい思いをさせないで。外道の人々や異教徒がこれを聞いたらどう思うでしょうか? 「なんだ、あそこの師匠は。自分の病気も治せないのに、他人の病を救えるわけないだろ」 悪いうわさは一気に広まります。
『阿難さん、わかってください。如来は誰でも、法身(宇宙そのものの体)であって、欲身(食べ物を素材として出来あがった動物の個体)ではないんです。
『ブッダというものは、過去・現在・未来にずっと存在している。ブッダには煩悩は最初から無いから、煩悩が無くなることもない。ブッダとは、数えることも定義することもできない存在なんです。我々の体みたいに、病気だの悩みだのなんてあるもんですか。』
「こう聞いたから、僕は尊いせんせーについて誤解していたのかも? と恥ずかしくなったです。ブッダの近くにいつもいながら、その言葉を理解できてなかったんじゃないか、って。すると突然、空中からなぞの声が響いてきたです。
『阿難よ、維摩居士の言うとおりだよ。けれどブッダはこの五濁の悪世に現れ、病気みたいな現象をわざと見せることで、君たち衆生に何かを気付かせたり学ばせたりし、救おうとしているんだ(つまり方便)。だから行きなさい、阿難。君は恥かしく思わなくていい。ブッダのために牛乳をもらってきなさい。ブッダが君にそうさせたことには、ちゃんと意味があるんだよ♪』
「なぞの声が言ったとおり、僕はこのときに維摩詰さんと会ってひとつ勉強できたから、感謝してるです。ただ維摩詰さんの智慧と弁舌はすごすぎて、僕とは格が違うです。だから、僕には彼の見舞いに行く自信がぜんぜんないです。」
こんな調子で、500人の阿羅漢の高弟たちはみんな、見舞いの代理を頼まれても維摩詰とのやりとりの記憶をブッダに話し、全員辞退してしまったのだった。
……ブッダの声聞(直弟子)で、悟りも開いたんでしょ~。もっとしっかりしてくださいよ、阿羅漢の皆さん……とほほ。
まぁ、あれですかね。小学生が悩みながらやってる宿題を見ると中学生は「こうやりゃ解けるのになにやってんだ!」とまどろっこしくなってくるとか。自動車教習生のたどたどしい運転を見てると教官は「なにトロトロやってんだ!」とイライラしてくるとか。素人の迂闊な山登りを見てるとベテランの山男は「危ねえだろ死ぬぞバカ!」と怒鳴りたくなってくるとか。そういうような心理状態になってしまい、ひとこと言わずにいられなくなったんでしょうね、維摩詰もきっと。
でも、自分は昨日すでに学んだからといって、今日学んでる人より特別に偉いわけじゃない。
相手が人格者ならば時には恥をかいてもらったり敗北感を味わってもらったりも、お互いの成長につながるとは言うものの……維摩詰が目腱連に言ったように、相手を見定めずにやっちゃえば納得も得られぬまま反発が生じて後に憎悪が残るだけ。
自分の信じる正論を吐き相手の誤りを正さんとするときは、闘争心や優越感を発揮しての論破ではなく……たとえビンタや精神注入棒を使うことになったとしても、慈悲と愛情を以って説得するように心がけなければ。
ここが難しいところで、筆者も、書いたり喋ったりした後で「しまった……見下しが混じってしまってた!」と慙愧することも多いのでありますが。
イエス=キリストの時代より少し後の人で、『大智度論』『中論』などを著し「八宗の祖師」と呼ばれた竜樹菩薩(龍猛菩薩、とも言う)のお弟子さんに、題婆という高僧がいたのですが。この人も実は一度、公開論争のときにうっかり闘争心を発揮してしまいまして……論破し恥をかかせた相手に恨まれ、後に暗殺されてしまいました。
『ブッダ』(手塚治虫)に登場する、ちょっと理屈っぽい修行僧ディーバには、どうもこの題婆のイメージが入ってるんじゃないかという気がするのですが……エピソードとかから。でも確認はできてません。
とにかく修行を積んだエライお坊さんでも油断するとこういうことがあるくらいなので、凡人の筆者などはいっそう気をつけなきゃ。
『葉隠』には、こういうとき「過去の自分の失敗談などをして、相手が自分の力で間違いに気がつくようにしてあげなさい」と奨められていました。けれども、相手の器が小さいと、自分を棚に上げて説得者の過去の失敗を見下し、バカにしてきたりもします……反省ではなく優越感が生じちゃうんですね。
たとえばそんな場合には、万言の理屈よりもゲンコツ一発の方が、問題の存在を早く深く理解してもらえるから困ったもの。斎佛和尚の悟りなどもそういう例だったのかもしれませんが。
ブッダは相手の理解力と性格に合わせて8万4千通りの法門(教え方)を使い分けたと言われ、そのさまざまな例が約400MBのテキストデータになるお経というわけでありますが。
相手を見定めるのはなかなか難しいものです。
維摩詰のおじさんも、自分が得た「悟り」を高僧たちにどう納得させたものか、プロがアマチュアに誤りを指摘されることで生じるプライドの傷を最小限にできるよう、言い方を工夫してる様子が見て取れます。皮肉や揚げ足取りに見えてしまうかもしれませんが、それは筆者の翻訳が下手なせい、どうか許してくだいませ。
さて、次は弥勒菩薩の登場です。次代のブッダになると予言されている方で、歴史学では実在説と架空説の両方がありますが……今度は期待できるかな?
維摩詰所説經 弟子品第三 終わり