第三章 弟子品(4) 富楼那の初心者指導と迦旃延の教法解釈
佛告富樓那彌多羅尼子汝行詣維摩詰問疾富樓那白佛言世尊我不堪任詣彼問疾……
ブッダは、次には富楼那彌多羅尼子に
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってきてくれ」
すると富楼那が言うには……
あ、富楼那(ふるな)尊者と似た名前の人はこの時代に何人も出てくるんで気をつけてください。
在家信者なのに物凄い勢いで布教して、ブッダの在世中に西アジアまで仏教を広めてしまったという旅の商人・富楼那や、六師外道の一人で因果論を否定し未来志向を主張した富蘭那迦葉師は、十大弟子の阿羅漢・富楼那尊者とは別人です。(実は筆者も、この作品の下書きで一部の事跡を混同してしまってた前科が。)
富楼那尊者は「説法第一」と呼ばれ、弁舌巧みだったようです。「十六羅漢」で尊像を見た記憶もある。
そんな方でも、この維摩経では……。
「あーっ、堪忍してくらはい! 尊い先生、わてに維摩詰の見舞いやなんてよーできゃしまへんわ。なんでやってゆうたらですな……忘れもしまへんわ、あるとき、わては林の木の下で新米の比丘(出家者)に法(教え)の説明をしとったんですわな。そこへ維摩詰はんが来て、こう言いおったんですわ」(なぜ大阪言葉?)
『富楼那先輩。相手をよく見定めてから説法してください。上等の皿に貧相な料理を盛るようなことしちゃダメですよ。
『そのお坊さんの心がどこにあるかを知って、同じ透明でもガラスと水は区別するように、人も区別しなきゃ。
『先輩には解からないんでしょうか? 衆生がつまるところどういうものか。小乗のやり方では解からないのでしょうか。傷もないところにわざわざ傷を作ったり、大通りへ行きたいって人に裏の小道を教えたりしちゃダメですよ。牛の足跡の水溜りは大海にはならないし、蛍の光じゃ太陽の役目を果たせませんものね。
『富楼那先輩、この新米のお坊さんは、「衆生(生きとし生けるものすべて)を苦しみから救いたい」という大乗にすでに入ってるんです。輪廻転生して生まれ変わったときにそれをちょっと忘れちゃっただけ。それなのに、自分が救われるための小乗に導いたんじゃ、彼の前世からの念願を実現できないでしょ?
『小乗にも智慧はあるけれど、私が思うに、それはまだ浅くて、盲人が手探りでゾウのようにでかいものを理解しようとしてるようなものです。だから、衆生の根(生まれつき)の利鈍の違いを見分けられないんじゃないでしょうか?』
「そこまで言うたら維摩詰はんは立ったまんま一瞬で三昧(非常な集中力の深い瞑想)に入って、その新米比丘の過去と未来を見て取りおったんですわ。いわゆる宿命通の神通力っつーモンですわ。」
『なんと……前世までに500回も、悟りを開いたブッダたちに会い、徳を積んでこられたのですね。阿耨多羅三藐三菩提(究極の悟り)を自分ではなく他の人々に得さしめ(回向し)て、自分が救われるのはその後にしようと。なるほどー。』
「そしたら新米の比丘の脳裏にもそのイメージがはっきりと伝わりまして、比丘は前世まで何をしていたかを思い出しまして。ほりゃもうびっくらこいて、その場にうずくまって、維摩詰の足に額をつける稽首礼をしおったんですわ。そこまでされてもうたら礼儀として維摩詰も懇切丁寧に法の説明をせななりません。せやけどそれだけで比丘は阿耨多羅三藐三菩提の一歩手前の、不復退轉の悟り(不還果)を開いてしもうたんですわ。わては声聞の弟子として、あんじょう行き着くとこまで行かせてもろうてますけど、あっこまで相手の機根を見抜いて的確に法を説くことなんかそらもうでけしまへんわ。こんだけ格が違いますよって、わてはあんひとの見舞いなんぞはでける自信ありまへんわ、そらえらいことですわ、すんまへん」
「ううむ……」
ブッダは溜息をついて、今度は摩訶迦旃延に
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってきてくれ」
すると迦旃延が言うには……
あ、摩訶迦旃延(まかかっせんねん)尊者も十大弟子の一人です。子供のころから聡明で、どんな難しい講義でも一回聴いたら暗誦でき内容も理解できたというほどの頭脳を持っていたとか。
お兄さんがいまして、こちらもかなり博学なバラモン教の先生だったそうですが、迦旃延少年の知力に嫉妬し、ついには殺意にまで発展してしまった様子。
危険なので迦旃延少年は阿私多仙人に預けられました。この仙人はのちにゴータマ=ブッダとなるゴータマ=悉陀王子が生まれたときに、釈種族の都・劫比羅城にやってきてその未来を予言した人です。ただし自分は老人で悉陀王子の成長まで生きられないことを悲しみ、侍者の那羅童子にその弟子となるよう言い残して亡くなりまして。
『ブッダ』(手塚治虫)では冒頭部で那羅童子の物語がドラマチックに描かれております。一瞬、那羅童子がこの作品の主役なのかと間違えたほど詳しく。反面、摩訶迦旃延尊者については完全に省略されてしまい……。
さて迦旃延はなまじ知力に優れていたために、増上慢が原因でなかなか悟りを開けなったようです。しかし、自我か崩壊しそうな挫折を味わった末に最後にはブッダの弟子となり自らを改めて、ようやく阿羅漢となることができ、「論議第一」で十大弟子の一人となったのでした。
ブッダはその摩訶迦旃延に
「キミ、維摩詰の見舞いに行ってきてくれ」
すると迦旃延が言うには、
「世尊、我、その任に堪えず。何の所以に……念を憶するに、昔、仏、諸比丘に法の要を略説し、その直後に我、その義(内容)を敷演(自分の言葉に言い直)せり。謂、無常の義、苦の義、空の義、無我の義、寂滅の義なり。時に維摩詰、来たりて我に言う。」(なぜ書き下し調?)
『迦旃延先輩。実相(存在)の法(真理)を説こうとするなら、発生たり消滅したりする法は説いちゃダメですよ。諸法(真理)は究極であり、発生したり消滅したりしない。これが無常ってことでしょ?
『五蘊(人間の五官)は洞穴みたいなもので、穴はつまりそこに空気しかないから穴なのに、「穴」という「物」があるように思ってしまう。これが苦ってことでしょ?
『諸法(真理)を極めたとしても、法はその人のものになんかならない、つまりその人は何も得ていない。これが空ってことでしょ?
『我(自分の存在)と無我(自分が存在しないこと)は同じこと。これが無我ってことでしょ?
『法(存在)はもともと無いんだから、無いものは消滅もしない。これが寂滅ってことでしょ?』
「是の法の説かれし時、かの比丘の心はいっぺんに解脱を得。ことほど左様に格が違うゆえに我、彼の見舞いに行く任に自信なし」
「やれやれ、キミもか」
ブッダは溜息をついて、阿那律に……
---つづく




