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第三章 弟子品(3) 須菩提の山盛りご飯

 

 佛告須菩提汝行詣維摩詰問疾須菩提白佛言世尊我不堪任詣彼問疾……


 さて、四人目に登場した仏弟子は須菩提スブーティ尊者。「すぼだい」または「しゅぼだい」、古代インド語でスブーティ。名前の意味を翻訳して「善見」と書かれていることもあります。

 この人も十大弟子の一人で、祇園精舎を寄付した須達多スダッタ長者の甥にあたります。悟りを開いて阿羅漢となってからは「解空第一」と呼ばれました。つまり「空」の理解にとても優れていた、ということでしょう。

 しかし第一結集のときは……「ブッダの入滅後にマハーカッサパが仕切ってた教団の中で、微妙な立場(窓際長老?)にされちゃった」という説もありました。もし本当なら現代でもよくあるお話。政治/武道/宗教など諸団体で、カリスマ的指導者が亡くなったときなどその後継者と疎遠だった非主流派の幹部が窓際長老にされてしまい、あるいは独立せざるを得なくなったりしてますからね。

 が、須菩提の事情について、詳細は筆者もよく知りません。手近な手段では調べてみても限界がありました。物置から資料が出てきてあとでわかったら加筆修正するかもしれませんが、今はこれで許して。

 ともあれ、須菩提長老は「空」をよく理解していたということで、金剛般若経など「空」の悟りを説く経典で教えの聞き手としてしばしば登場してます。ところが維摩経では……。


 ブッダは、次には須菩提スブーティ

「キミ、維摩詰ヴィマラキールティの見舞いに行ってきてくれ」

 すると須菩提は

世尊ヴァガボン、私はその任に堪えません。なぜかといいますと……忘れもしません、昔、彼の家に乞食こつじきに行ったことがあるんですが。そのとき維摩詰は私の鉢に温かいご飯(ライス)をたっぷりと盛ってくれまして。それからこう言ったんです」


『須菩提先輩。もしこの食物からダルマの平等であることを知り、法の平等において食物も平等であることを知っておられるなら、どうぞこのご飯(ライス)を召し上がってください。

『しかし須菩提先輩。もし、貪欲・怒り・疑いを断たないままでそれらと共にあるのでもないのでなければ。また、我が身は我がものという考えを打破しないままで真理に向かうのでなければ。疑いや拘りを断ち切らないままで正しい智慧を起こし、五逆(「父を殺す/母を殺す/阿羅漢を殺す/仏を傷つける/教団の和を乱す」の、問答無用で無間地獄に落とされるという五種類の罪)を行うことで解脱を得るのでなければ、食べちゃダメです。

『開放されておらず束縛されてもおらず、四諦(聖なる4段階の悟り)を知らず四諦を知らなくもなく。悟りを得ておらず悟りを得てなくもなく。凡夫(聖人ではない一般人)ではなく凡夫でなくもなく。聖人ではなく聖人でなくもなく。すべての真理を体現していても全ての真理から離れている。

『そうであるなら、これをぜひ召し上がってください。

『仏を見ず、法(教え)も聞かず。かの六師外道……富蘭那(プーラナ=)迦葉(カッサパ)末伽梨(マッカリ=)拘舎梨子(ゴーサーラ)刪闍夜(サンジャヤ=)毘羅胝子(ペーラティプッタ)阿耆多(アジタ=)翅舍欽婆羅(ケーサカンパラ)迦羅鳩駄(カクダ=)迦旃延カッチャーヤナ 、尼乾陀(ニガンダ=)若提子(ナーダプッタ)

『この六人に従って出家し、彼ら先生の行くところにあなたも常に従う、というのであれば、これをぜひ召し上がってください。』


 六師外道とは。

 ブッダと同時代にそれぞれ悟りを開いて教えを説いていた、他の6人の宗教家のことです。

 宗教とは人の悩みや苦しみを和らげるためにあるはずですが、この時代、旧来のバラモン教がいろいろ変形してしまい、かえって人々に苦痛を与えていた状況へのアンチテーゼとして発生した新宗教という点が、仏教と似ております。

 6人の教祖様の教義はそれぞれ、仏教と同様に広大で難解で、筆者なんぞに完全な理解ができるものではないのですが……手持ちの資料を参考に、もんのすごーくかいつまんでサワリだけ説明してみましょう。


 プーラナ=カッサパ(富蘭那(プールナ=)迦葉カーシャパ)師の教えは業否定論。

 魂の不変不滅(輪廻転生)を前提とした上で、「現在の行為は未来に影響しない」という考え方でした。「道徳や犯罪などは未来の自分に跳ね返ってくる」という因果論を完全に否定していたため、無道徳論とも呼ばれます。

 ひとことで言っちゃえば、何事も「カンケーねーよ!」。

 たしかに、あらゆる事柄をこの一言ですべて言い切ることは可能です。某大学の武道系クラブでも、質問や反論をしたときに先輩から「カンケーねーよ!」と言われたら後輩は「押忍おす……」と答えて引き下がるしかなく、「究極の理由」「万能の説得」などとも言われていましたが。

 と言っても富蘭那迦葉(プーラナ=カッサパ)師は、体育会の先輩のように権威で強引に言いくるめたわけでも、悪事を無制限に許容したわけでもなく、「魂はやたらと汚れたりしない。つまらない過去や因習に束縛されてるから悩むんであって、大切なのは過去よりも未来これからどうするかだ。だから未来志向で、もっと自由な精神を持とうぜ!」と教えていたのでした。

 仏教徒から見ると、因果論(「ものごとにはすべて原因と結果がある」という考え方)を否定し魂を不滅としたこの考え方は納得しにくいでしょう。逆に富蘭那迦葉(プーラナ=カッサパ)師の信者からは、仏教徒は「『業』だの『因果』だの、ありもしないものにおびえて無意味なことをしてるな~」という感じに見えたかも。


 マッカリ=ゴーサーラ(末伽梨(マスカリー=)拘舎梨子ゴーシャリープトラ)は宿命論。

 「過去も未来もすでに決まっていて、自分の意志さえも実はあらかじめ決定されている」という考え方でした。解脱さえも、宿命によって決まった時期までは誰もできないのだから、「あらゆることをありのままに受け入れようぜ」「何事も、なるよーにしかならねー」という教えです。

 この考え方にくわえ「唯一で全知全能の絶対神」の存在を前提とした宗教がアージーヴィカ教でした。が、絶対神が宿命を決めると考えたのか、それとも宿命という真理を人格化したものが絶対神だったのか、そのへん、筆者は不勉強でよくわかりません、、、ごめん。

 いずれにせよ、「あらゆる問題は宿命とか絶対神とかのせいであり、自分には責任がない」ということになります。こう考えればまぁ気楽ではあるでしょう。

 けれどこれは仏教徒から見ると「あきらめが早すぎる」という感じでしょうね。拘舎梨子ゴーサーラ師の信者から見れば仏教は「お前らが解脱できるのはそういう運命だったからにすぎないヨ」あるいは「神様がそう望んでただけだヨ」ということになりそうですが。


 サンジャヤ=ペーラティプッタ(刪闍夜(サンジャイ=)毘羅胝子ヴァイラティプトラ)は詭弁論……または不可知論、懐疑論。

 「宇宙の真理だの自然現象だのいうものは、とどのつまり人間にとって完全に理解することなんか不可能だっ!」という考え方です。人間の認識能力は限られたもので、ある事物について1人の人間が厳密に100%完全に知ることはたしかに不可能ですね。

 たとえばそこにモルタルの壁があるとします。その壁は……1km先から望遠鏡で見た場合、5mの位置から見た場合、1mから見た場合、10cmから見た場合、1cmから見た場合、虫眼鏡で見た場合、光学顕微鏡で見た場合、電子顕微鏡で見た場合、分子レベルで見た場合、原子レベルで見た場合、素粒子のレベルで見た場合……で、すべて違って見えてしまいます。「その壁についてよく知ってる、作るところから見ていたから内部のことまで知ってるよ」という人でも、「カルシウム原子はいくつ含まれてます?」とか「超遠視の人が太陽系の外から見た場合、どんな印象を受けるでしょうか?」とかいう質問にはまず答えられないはず。(この説明、完全に、上座部の有名な某長老先生の受け売りですが)

 つまり、どんな理屈であろうと人間の考えである限りは不完全ということであり、疑いだせばいずれは根拠が崩れてしまうので、あらゆる理屈は仮の説明=仮説に過ぎない。突き詰めれば最後には成り立たなくなってしまう……だから質問も主張も思索もすべて無意味、深く考えても何であれ「意味ねーし」。そういう教えだったようで。

 たしかに、考えても意味ないことは考えないほうが楽だ。

 舍利弗サーリプッタ尊者はブッダと出会う前には刪闍夜サンジャヤ師の弟子でした。仏教に転向して悟りを開き阿羅漢となった後で、舍利弗は元師匠の刪闍夜サンジャヤ師を訪ね、ブッダに会ってみるよう奨めたそうです。が、その機会が来る前に刪闍夜サンジャヤ師は亡くなってしまって、けっきょく会見は実現しなかったとのこと。

 もし両教祖が会っていたら、どんな会話が交わされたでしょうね。ブッダも理屈のための理屈は嫌ってましたから、ひょっとすると意気投合したかも……?

 とはいえ仏教徒から見ればこの思想は「詭弁で言い訳してるだけじゃん」と見えたでしょう。刪闍夜サンジャヤ師の信者からは仏教徒の方が「余計な理屈をこねてインテリぶってる」と見えたかもしれません。


 アジタ=ケーサカンパラ(阿耆多(アジタ=)翅舍欽婆羅ケーシャカンパラ)は、地水火風の四大元素による唯物論。

 魂さえも四大元素の集まってできたものに過ぎず、人が死ねばそれぞれの元素に四散して魂も消滅するという考え方でした。よって、元素の働きが生み出す快楽を肯定しており、感覚的唯物論とか快楽論とも呼ばれました。

 つまりは、「死んだらそこですべてが終わりになる。だから人生、無理せず、楽しく♪」という教えでしょう。たしかに楽しくやってる間は苦しみや悩みを忘れることも可能ですから、ずっと楽しくしてれば苦しむ時間は減ることになりますね。

 が、仏教徒から見ると「快楽追求を無条件で肯定するなんて暴走だよ、反動が恐い」というところでしょう。この翅舍欽婆羅ケーサカンパラ師の信者から見れば仏教は「せっかくあるものを楽しまないなんて勿体無いヤツら」という感じになるでしょうが。


 カクダ=カッチャーヤナ(迦羅鳩駄(カラクダ=)迦旃延カーティヤーヤナ)は七大元素による唯物論。地水火風の他に、「苦しみ」「楽しみ」「生命」という3つの元素を認めていました。が、逆にいえば「人間がどんな活動をしようと宇宙にある元素の量は一定なのだから、人間の行為や精神は宇宙に何の影響も与えない」という考え方でもあり、無因論的感覚論と呼ばれます。

 自分自身も宇宙の一部ということで、「生き物は宇宙に生かしていただいているにすぎない、だから意思によって何かを変えようなんてしても無駄」「自然のままが一番じゃ……」という教えのようです。

 翅舍欽婆羅ケーサカンパラ師の教えと似た唯物論的思想なのに、迦旃延カッチャーヤナ師は快楽主義ではなく諦観に到達してしまったところが興味深い。

 仏教徒から見ると「こいつらやる気なさすぎ」という印象になりそうですね。迦旃延カッチャーヤナ師の信者から見ると仏教は「そんなことしても何も変わんねーのに」という感じ?


 最後にニガンダ=ナーダプッタ(尼乾陀(ニルグランダ=)若提子ジニャーティプトラ)、この人は「マハーヴィーラ」という名でも知られ、その教え「白衣びゃくえ外道」は21世紀にもインドに現存していて「ジャイナ教」と呼ばれています。

 他の、現代では法統の絶えてしまった「六師外道」とはそこが違う!

 なおジャイナ教とは「勝者ジナの教え」という意味で、仏像と似たジナ像を作りますが、「男の、ピーッ」がきっちり表現されてる点で仏教の仏像と見分けがつくとの由。

 ジャイナ教では「魂の周囲に物質(カルマ=穢れ)が集まって生命体になっている」と考えており、つまりその穢れを落とせば純粋な魂となれる。よってキレイな魂の「勝者ジナ」となるために、快楽とは正反対の「徹底した斎戒と激しい苦行」を奨めました。

 輪廻転生と因果論を認めており方向性は仏教と近いのですけども、快楽を徹底的に否定した勢いで苦行による自己練磨を強調し、さらには「苦行によって死ぬことが解脱」とするなど、仏教よりも体育会系的です。「気合だ気合だ気合だ!」「努力と根性コ・ン・ジョオーーーッ!!」という感じ。

 たしかに、意図的に自分に苦痛を与えていると人間は適応してしまい多少の苦痛なんか屁でもなくなります。苦痛を感じると人間の体内では脳内麻薬が分泌されますので、かえって快感になってくる場合もあったりしますし……唐辛子好きなんかもその一種で。

 また、単なるマゾでなく目的意識を持ち理論的な方法で苦痛を行うなら、人並み優れた精神力・体力・自信などを得るトレーニングともなります。そして、多くの場合は苦しんだり自己犠牲したりした分だけ、後で嬉しいことが何かある。

 ジャイナ教の考え方を徹底しますと「植物も命なのだから、食べてはいけない、着てはいけない。食べたり着たりすれば罪となるからできるだけ避けろ。それで苦しいのは自分だけなんだからいいじゃないか!」というレベルにまでいくそうで……そう決心したときが、解脱への断食修行の始まり。教祖のマハーヴィーラこと若提子ナーダプッタ師も断食修業で入滅したという話が、『ブッダ』(手塚治虫)に1コマだけ出てきました。

 ジャイナ教の出家者は、空気中の微生物を呼吸で殺したりしないようにマスクをしたり、素っ裸で生活したり、泥水に漬かったまま生活をするとか立てた釘のベッドで寝るとか、とにかく徹底して苦しむことで魂を清めるそうです。

 仏教徒から見るとジャイナ教は「おまいら、やりすぎ! かえって逆効果!」、ジャイナ教徒から見ると仏教は「そっちはユルいよ、中途半端!」という感じでしょうか。



 以上の説明はけっこーエエ加減なので、正確に知りたい人はご自身で調べてください。もしもテストでこのとおりに答えたらたぶん「サンカク/もっとがんばりましょう」という評価になってしまうし、信者の人に見られたら「解釈が浅い!」と苦情を言われるでしょう。


 しかし……


 富蘭那迦葉(プーラナ=カッサパ)師  「人生、カンケーねーよ!」

 拘舎梨子ゴーサーラ師  「人生、なるよーにしかならねー;」

 刪闍夜サンジャヤ師  「人生、考えても意味ねーし」

 翅舍欽婆羅ケーサカンパラ師  「人生、無理せず楽しく♪」

 迦旃延カッチャーヤナ師  「人生、自然のままが一番じゃ……」

 若提子ナーダプッタ師  「人生、努力と根性ォーッ!!」


 これら六師外道の主張のそれぞれは、ひとつの人生観としてはアリですよね。これらも当時の人々を悩みや苦しみから救うために発生した宗教で、現代人をもこの考え方で救済することは可能かもしれません。

 いや現代にもこれらとそっくりの思想があります。小説や漫画なんかにはこれらと似た主張が頻繁に出てくるし、諸宗教……仏教の諸宗派の中にさえもある。

 でも元祖「ブッダの教え」は六師外道とは違ってたわけで。


 で、維摩詰は、須菩提長老に「これらの異教の信者になるというなら、これを食べてもいい」と言ったんでしたね……ううむ……読み間違いではありません、たしかに、漢文訳にも現代日本語訳にもそう書いてあります。

 でもそんな理屈がありえるのでしょうか?


 ブッダは、ジャイナ教から改宗した弟子に「偉大なる(マハー)ヴィーラ(若提子ナーダプッタ師の尊称)も解脱を求めて真面目に修行したんだから、悪口を言っちゃダメだよ?  キミは過去にお世話になったんだから、機会があればジャイナ教のご出家たちにもお布施して恩返ししなさいナ」とか言ったそうです。


 でもさすがに異教の教祖様に入信して、その行くところ(=行うことや主張)にすべて従えとまでは……そんなこと本気で言う宗教家がいるのでしょうか?

 ……維摩詰はいったい何を言いたいのか? 続きを見てみましょう。


『もしも須菩提先輩。あらゆる間違った考えを持って彼岸(悟り)には到らず、八難(8種類の不運な生まれつき)の中でそれを避けずに生きて、また煩悩の中で清浄な法(真理)から離れ、あなただけでなく一切の衆生が争いのない境地を得ていて、あなたに施す人は何の功徳もなく、あなたに親切にする人は死後に三悪道(地獄/餓鬼/畜生)に生まれ変わり、他の人々の努力を悪魔たちといっしょに邪魔をし、あなたは悪魔と一体になってすべての衆生に恨まれ、あらゆる仏(悟った人)と法(教え)と僧(悟ろうと努力している人)を罵り、ついに涅槃に入ることもない……というのであれば、これをぜひ召し上がってください。』


 うわ、さらにエスカレートしとるし。


 須菩提はがっくりと肩を落としまして、

「これを聞いて私は茫然自失、世界中が真っ暗になったような気持ちとなり、どう答えていいかもわかりませんでした。無意識に鉢をそこへ置いてしまい、彼の家から立ち去ろうとしたんです。すると……維摩詰が後ろから呼びかけてきました。


『須菩提先輩~、ビビッちゃダメです、鉢を忘れないで! もしも、こんなことを言ったのが如来タターガタ(ブッダ)の化身だったら、先輩はビビりますかーッ?』

 私は立ち止まり、振り向いて思わず

『……いいや?』

 と答えていました。

 そうなんですよ。よくよく考えてみれば、もしブッダが言ったのなら恐がるような話でもないんです! そしたら維摩詰は

『すべての法(真理)は幻のようなもの……つまりは私も幻のようなもの。先輩、幻のような、ビビる必要のないものにビビることはないんです。なぜかというと、言葉もすべてそれと同じで、智者は文字や言葉にこだわらず、恐れたりしないものだからです。言葉は要するにただの記号でしかなく、それは言葉という実体ではなく、解脱は言葉に支配されてなんかいないからです。』


 ということで、須菩提長老は


「維摩詰がこう説明したとき、その近辺にいた200柱の天子(神霊)が法眼浄の境地(菩薩の心眼)を得ました。このように、格が違いますから私は彼の見舞いをはたす自信がありません。」

「ううむ……」


 ブッダは溜息をついて、今度は富樓那プールナ彌多羅尼子マイトラーヤニープトラに……




 ---つづく

 


 

 この作品を書いてるうちに疑問点がいくつか出てきまして……あんまし不正確なまま知ったかぶりしてもいけませんから、気になることを調べながら書いてるんですけど、手軽なネット検索や近所の図書館では限界もありました……といって修行^h^h取材の旅に出れる状況でもなく、更新が低調になってしまってます。

 続きを楽しみにしてる方(たぶんネ友の2~3人くらいしかいないとは思うけど)もしおられましたらごめんなさい、、、

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