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【悲報】運命の恋を信じたら全財産を奪われました。――でも大丈夫、私には「奪う側」の才能があったみたいです。

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/05

――人は、恋をすると。


都合の悪い真実が、見えなくなるらしい。


 


私は、エルナ・ローゼライト。


ローゼライト侯爵家の、一人娘だ。


王都でも指折りの名家。

広大な庭園。

白亜の屋敷。

使用人は三十名以上。


生まれた瞬間から、“恵まれている側”の人間だった。


……それなのに。


私はずっと、自分を「不幸な魂」だと思っていた。


 



「ねえ、エルナ」


午後のテラス。

紅茶の湯気が、春風に溶けていく。


カイルは、私の指先にそっと触れながら微笑んだ。


「前世でさ……僕たち、引き裂かれた恋人だったんだって」


「……またその話?」


私はくすっと笑う。


「本当だよ」


彼は真剣な顔で続けた。


「だから今世では、何があっても君を離さない」

「君だけを、幸せにするって決めてる」


その言葉を聞くたび。

胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


――ああ、この人だ。


私は、この人のために生まれてきたんだ。


本気で、そう思っていた。


 



私には、前世の記憶がある。


……と言っても、はっきりした映像ではない。


夢のように曖昧な断片。


雨の中で泣く私。

手を伸ばしてくる誰か。

届かない声。


そして、いつも最後に残る感情。


――「後悔」。


 


だから私は、誓っていた。


今度こそ。

運命を、逃さないと。


 



カイルとは、幼い頃から一緒だった。


乳母の息子として屋敷に住み込み。

いつも私のそばにいてくれた。


本を読めば隣に座り。

転べば手を引き。

泣けば、黙って寄り添ってくれた。


「身分なんて関係ないよ」


そう言ってくれたのは、彼だけだった。


 


だから、婚約を決めた時も。


誰よりも反対されたのに。

私は迷わなかった。


「この人じゃなきゃ、嫌なの」


――今思えば。


その時点で、もう詰んでいた。


 



婚約後。


私の世界は、完全に“彼中心”になった。


朝は彼の予定に合わせ。

服は彼の好みに合わせ。

交友関係も、自然と狭まっていった。


「エルナは、僕だけ見ていればいい」


そう囁かれるたび。


私は、嬉しくてたまらなかった。


 




「資産管理? 難しいよね」


ある日、書斎で帳簿を眺めていると、カイルが言った。


「僕がやってあげるよ」

「君は、もっと大事なことに集中して」


「……大事なこと?」


「僕を愛すること」


冗談めかして言われて、私は赤くなった。


「もう……」


結局、帳簿は彼に預けた。


それが、最初の“譲渡”だった。


 




気づけば。


私の知らない支出が、増えていた。


宝石商からの請求書。

高級仕立て屋の明細。

聞いたこともない別荘管理費。


「これ、何かしら?」


そう尋ねると、彼は笑った。


「ああ、それ? 仕事関係だよ」

「君に心配かけたくなくてさ」


その一言で、私は納得した。


――だって、信じているから。


 




時々。


ふと、不安になる瞬間もあった。


彼の指に、見覚えのない指輪があった時。

香水の匂いが違った時。

帰りが遅い夜が続いた時。


でも私は、首を振った。


「疑うなんて……最低よ」


自分にそう言い聞かせて。


真実から、目を逸らし続けた。


 




ある夕暮れ。


庭園の薔薇が、燃えるように赤く染まる中。


カイルは、私を抱きしめて言った。


「エルナ」


「僕には、君しかいない」

「君がいない人生なんて、考えられない」


その胸に顔を埋めながら。


私は、幸せで、満たされていて――


同時に。


とても、脆かった。


 


――この時の私は、まだ知らなかった。


この腕の中が。

やがて、牢獄になることを。



 


――違和感は、ずっと前からあった。


私は、それを見ないふりをしていただけだ。




きっかけは、些細な出来事だった。


ある日の朝。

書斎の整理をしていた時のこと。


いつも鍵のかかっている引き出しが――開いていた。


「……?」


胸が、ひくりと鳴る。


中に入っていたのは、帳簿と契約書の束。


本来なら、カイルが管理しているはずのもの。


なぜ、ここに――?


私は、震える指で一冊を開いた。


 




最初は、理解できなかった。


並ぶ数字が、現実味を持たなかったのだ。


桁が、多すぎた。


別荘購入費:金貨三万枚

宝石購入:金貨一万五千枚

個人口座送金:金貨二万枚


……合計。


私の年間収入を、軽く超えている。


「……うそ……」


喉が、からからに渇く。


何度見ても、名義は私。


署名も、私の筆跡――そっくりだった。


偽造。


その事実に気づいた瞬間、背筋が凍った。


 




「エルナ様……!」


扉が、勢いよく開いた。


侍女のリナが、青ざめた顔で飛び込んでくる。


「これを……ご覧ください……」


差し出された封筒。


中には、数枚の写真。


 


そこに写っていたのは――


夜の高級レストラン。

寄り添う男女。

互いを見つめ合う、甘い視線。


カイル。

そして、見知らぬ令嬢。


いや――違う。


王都社交界で最近噂の。


男爵令嬢、パトリシア・ダルトン。


 


「……は……?」


視界が、ぐらりと揺れた。


 



その日の午後。


私は、震える足で、指定されたサロンへ向かった。


「話があるの」


そう伝えると、カイルはあっさり了承した。


……まるで、隠す気もないように。


 


部屋に入ると。


そこには、すでに二人の姿があった。


カイルと。

パトリシア。


 


彼女は、淡い桃色のドレスをまとい。

小動物のように、か弱く微笑んだ。


「初めまして、エルナ様……」


上目遣い。

控えめな声。

震える指先。


彼女はまるで被害者かのように見えた。


 


「……どういうこと?」


私は、写真を机に置いた。


 




「まあ……」


パトリシアは、口元に手を当てた。


「誤解ですわ」

「私とカイル様は……ただの相談相手で……」


「……キスしている写真が?」


「そ、それは……!」


涙ぐむ。


その仕草すら、計算に見えた。


 


カイルは、ため息をついた。


「エルナ、落ち着いて」


「君は、考えすぎなんだよ」


「……考えすぎ?」


 


私は、今度は帳簿を出した。


「このお金は何?」


「どうして、私名義でこんな送金が?」


沈黙。


一瞬だけ。

彼の表情が、歪んだ。


 


「……ああ、そこか」


次の瞬間。


彼は、笑った。


心底、面倒そうに。


「仕方ないな」


「もう、バレたなら言うけどさ」


 


「当然だろ?」


 


その言葉が。

私の胸を、深く抉った。


 


「君は侯爵令嬢」

「金は腐るほどある」


「僕は? 乳母の息子だ」

「何も持ってない」


「……だから?」


「だから、補ってるだけ」


平然と言い放つ。


「君の金は、僕の金」

「家族なんだから、当たり前だろ?」


 


……家族?


 




パトリシアが、くすりと笑った。


さっきまでの怯えた表情は、消えていた。


「エルナ様って、本当におめでたいですわ」


「愛されてるって、本気で思ってたんですね」


その目には、露骨な嘲笑。


 


「私、ずっと思ってましたの」

「高貴な生まれなだけの、空っぽのお人形だって」


「だから――」


「奪うの、簡単でしたわ♡」


 




頭の中で、何かが音を立てて崩れた。


 


「……私……」


声が、出ない。


心臓が、冷たい水に沈んでいく。


 


カイルは、腕を組んで言った。


「正直さ」


「君って、ちょろすぎ」


「前世だの運命だの……」

「都合よく信じてくれるし」


「最高の金ヅルだよ」

「今後も、よろしくね」


「君には運命の人が必要だろ?」

 




――ああ。


これが、真実。


 


私の恋は。

私の信頼は。

私の人生は。


全部、金に換算されていた。


 




「……わかりました」


私は、ゆっくりと立ち上がった。


声は、不思議なほど落ち着いていた。


「今日は、ここまでにします」


「え?」


カイルが、怪訝そうに眉をひそめる。


 


私は、微笑んだ。


かつての、恋する令嬢の笑顔ではない。


氷のように冷たい、仮面の笑み。


 


「……必ず」


「すべて、取り戻しますから」


 


二人は、その意味を理解していなかった。


 


――まだ、この時は。



 


――人は、本当に壊れる時。


涙すら、流れなくなる。


 




この日の夜。


私は、自室のベッドに座ったまま、動けずにいた。


カーテン越しに差し込む月光が。

床に、細い影を落としている。


カイルの言葉。

パトリシアの嘲笑。


何度も、頭の中で繰り返された。


「……ちょろすぎ」

「金ヅルだった」


 


胸の奥が、じくじくと痛む。


まるで、心臓にひびが入ったようだった。


 




――コン、コン。


静かなノック。


「……エルナ様」


聞き慣れた声。


マーサ。


私を幼い頃から育ててくれた、乳母。


 


「……どうぞ」


掠れた声で答える。


扉が開き、彼女はいつものように、優しく微笑んでいた。


「大丈夫ですか……?」


「お茶を、お持ちしましたよ」


その姿に。


私は、縋るように言った。


 


「……マーサ」


「私……どうすればいいの……?」


 




彼女は、私の手を包み込んだ。


温かい。


あまりにも、優しい。


「エルナ様……」


「お可哀想に……」


「裏切られて……お辛いでしょう」


その声に、胸が詰まった。


 


「……私、馬鹿だった……」


「みんな……私を……」


言葉にならない。


 


その時。


机の引き出しが、半開きになっているのに気づいた。


 




――あれ?


 


私は、ゆっくりと視線を向けた。


中には、あるはずの物が――ない。


 


日記。


 


「……マーサ?」


喉が、ひくりと鳴る。


「私の……日記……知らない?」


 


一瞬。


ほんの、一瞬だけ。


彼女の視線が、泳いだ。


 




「……ああ」


やがて、彼女はため息をついた。


「……もう、隠しても無駄ですね」


 


その声は。


いつもの、優しい乳母のものではなかった。


 




「エルナ様」


「あなた、自分がどれだけ恵まれてるか、分かってる?」


 


冷たい声音。


ぞくりと、背中が震える。


 


「生まれた瞬間から、侯爵令嬢」

「何もしなくても、愛されて」

「将来も安泰」


「……そんな人生」


「不公平だと思わない?」


 




私は、言葉を失った。


「……何を……言って……」


 


彼女は、嗤った。


「日記なら、全部読んだわ」


「あなたの前世の夢も」

「恋の悩みも」

「不安も」


「……全部」


 


頭が、真っ白になる。


 


「……どうして……?」


 




「どうして?」


マーサは、肩をすくめた。


「決まってるでしょう」


 


「カイルのためよ」


 


その一言が、すべてだった。


 




「うちの子は、賢くて、優しくて」

「本当なら、もっと上に行ける人間」


「なのに……」


「あなたみたいな“生まれだけの娘”の影に埋もれて」


「悔しくて、悔しくて……」


 


歪んだ愛情、狂った母性がそこにはあった。


 


「だから、使わせてもらったの」


「あなたの心も」

「秘密も」

「弱さも」


「全部」


 




「……前世の話も……?」


「ええ」


彼女は、平然とうなずいた。


「あなたが寝言で言ってたのよ」


「“また失うのが怖い”って」


「……便利だったわ」


 


私の中で、最後の何かが、音を立てて崩れた。


 




「……私……」


声が、震える。


「……信じてたのに……」


 


マーサは、鼻で笑った。


「信じる方が悪いのよ」

「でも信じ続けてね。

 可愛い私のカイルのために」


「大丈夫よ。寝て起きたら、

 また元通りの世界になっているわ」

「あなた一人で、何もできやしないのよ」

「おやすみなさい。可愛いお人形さん。」

 




その瞬間。


世界が、色を失った。


 


ここは、私の家だった。

私の居場所だった。

私の、唯一の安全地帯だった。


 


――全部、嘘だった。


 




私は、床に崩れ落ちた。


膝が、支えきれない。


「……もう……いや……」


「……誰も……信じられない……」


 


視界が、滲む。


呼吸が、できない。


胸が、締めつけられる。


 




「……私は……」


「ひとり……なんだ……」


 


誰にも守られていない。

誰にも愛されていない。

誰にも、必要とされていない。


 


そう思った瞬間。


心が、完全に折れた。


 


――この夜。


私は、生まれて初めて。


「生きているのが、つらい」と思った。


 



 


――泣き疲れて眠ったのか。

それとも、意識を失ったのか。


 


目を覚ました時、私は、自室の天蓋付きベッドに横たわっていた。


薄いレースのカーテン越しに、朝の光が差し込んでいる。


……朝。


世界は、何事もなかったかのように続いていた。


 




喉がひりつくように痛んだ。


体も重く、思うように動かない。


けれど――


胸の奥にあった激痛だけは、消えていた。


代わりに残っていたのは。


何も感じない、冷たい空白。


 


「……空っぽ……」


自分の声が、他人のもののように聞こえた。


 



――コン、コン。


控えめなノック。


「……エルナ」


低く、落ち着いた声。


 


聞き慣れた声だった。


幼い頃から、何度も聞いてきた声。


 


「……入るぞ」


返事を待たず、扉が開く。


 


立っていたのは、シリル・ヴァランシエル。


ヴァランシエル公爵家の次男。

王国屈指の名門に生まれながら、今は――


私、エルナ・ローゼライト専属の護衛騎士をしてくれている。


 


幼い頃、同じ庭で遊び。

同じ教師に学び。

同じ未来を夢見ていた。

シリルもカイルと同じように、幼馴染のうちの一人だ。


 

王宮や軍の中枢にいてもおかしくない立場なのに、

なぜか私のそばで護衛騎士をしてくれている。


あまりに私が頼りなくて、

心配してくれていたのかもしれない。


 




今日シリルは、騎士服ではなかった。


簡素な私服姿。


けれど、背筋はまっすぐで、眼差しは鋭い。


――いつもと変わらない、守る者の姿だった。


 


「……体調は」


「……大丈夫よ」


嘘だった。


でも、泣かなかった。


もう、弱さを見せる気はなかった。


 




シリルは、無言でテーブルに鞄を置いた。


ずしり、と重い音。


 


中から取り出されたのは――


分厚い書類の束。


一つ。

二つ。

三つ。


机の上に、整然と並べられていく。


 


「……何、これ……?」


 


「証拠だ」


短く答える。


 




「数か月前から、集めていた」


「君の金の流れが、不自然だった」


「……婚約前からな」


 


私は、息を呑んだ。


「……そんな前から……?」


 


「護衛として当然だ」


淡々と言う。


 


……違う。


私は知っている。


彼がどれほど忙しい立場か。

公爵家の次男として、どれほどの責任を背負っているか。


それでも。


私のために、時間を削ってくれていた。


 




私は、書類に目を通していった。


送金履歴。

偽造署名。

改ざん契約。

証言書。


どれも、公的に通用するものばかり。


 


「……これ……全部……」


 


「裁判でも使える」


「逃げ道はない」


 


胸の奥で、何かが切り替わる音がした。


 




「……どうして……」


私は、小さく尋ねた。


「そこまで……してくれたの……?」


 


シリルは、少しだけ視線を逸らした。


 


「……幼馴染だからな」


「……放っておけなかった」


 


それだけだった。


 


けれど。


その一言に、何年分もの想いが詰まっていることを、私は知っていた。


 




部屋に、静寂が落ちる。


窓の外では、鳥がさえずっている。


平和な朝。


――私の世界だけが、壊れていた。


 




「……私」


ゆっくり、口を開く。


 


「復讐したいわけじゃない」


 


彼は、黙って聞いている。


 


「でも……」


「奪われたものは、取り戻す」


「踏みにじられたまま、終わらない」


 


声は、もう震えていなかった。


 




私は、背筋を伸ばした。


 


「私は、ローゼライト侯爵家の娘」


「……もう、守られるだけの存在でいたくない」


「――裁く側に、戻るわ」


 


シリルの目が、わずかに見開かれた。


 




「……覚悟はあるか」


 


「あるわ」


即答だった。


 


「すべてを失っても」

「……誇りだけは、失わない」


 




彼は、小さく息を吐いた。


 


「……なら、俺は最後まで護衛を務める」


「公爵家の立場より」

「……君を優先すると誓うよ」


 


それは、騎士として。

幼馴染として。

一人の男としての、誓いだった。


 




書類の山を前に。


私は、静かに微笑んだ。


 


もう、泣かない。

もう、縋らない。

もう、騙されない。


 


この日。


“傷ついた令嬢”は、終わった。


 


代わりに――


“自分の人生を取り戻す女”が、生まれた。




 


――その日。


王都は、異様な熱気に包まれていた。


 


「ローゼライト侯爵家が、告発するらしい」

「婚約者の横領事件ですって?」

「しかも、公開裁判だとか……」


 


貴族街のサロン。

王宮の回廊。

高級茶館。


あらゆる場所で、同じ噂が囁かれていた。


 




裁判当日。


王都中央裁判所の大法廷は、早朝から満席だった。


貴族。

官僚。

商人。

記者。


そして――


野次馬。


 


全員が、固唾を呑んで待っていた。


 


「侯爵令嬢エルナ・ローゼライトが、元婚約者を告発」


その一文だけで、人は集まる。


 




私は、証言席に立っていた。


深紺のドレス。

無駄な装飾はない。


髪は、きっちりまとめた。


――戦場に立つ者の装い。


 


背後には、護衛として控えるシリル。


公爵家の次男。

そして、私の盾。


その存在が、私の背中を支えていた。


 




「では、被告。カイル・ノーヴァ」


裁判官の声が響く。


「横領・詐欺・背任の罪について、認めますか」


 


「……ち、違います!」


カイルは、勢いよく立ち上がった。


顔は青白く、額には汗。


 


「全部……誤解です!」


 




私は、合図を送った。


書記官が、書類を配る。


 


送金履歴。

偽造契約。

署名鑑定書。

証人陳述。


 


「……な……」


カイルの顔から、血の気が引いた。


 




「さらに――」


「被告は、第三者と共謀し、財産を不正流用していました」


証人として呼ばれたのは、元使用人。


震える声で、すべてを語る。


 


法廷は、ざわめきに包まれた。


 




「エルナ……!」


突然、彼が叫んだ。


 


「頼む……信じてくれ!」


「僕は……君を……愛してた!」


 


その声は、哀れだった。


 




私は、ゆっくりと前に出た。


 


「……愛?」


静かな声。


法廷が、凍りつく。


 




「あなたは」


「私の信頼を盗み」


「私の人生を売り」


「私の未来を換金した」


 


一つずつ、言葉を刻む。


 


「それを、愛と呼ぶのなら――」


 


「私は、一生、あなたの愛など要りません」


 




カイルは、崩れ落ちた。


「……エルナ……お願いだ……」


 


私は、もう見なかった。


 




「続いて、共犯者――」


裁判官が告げる。


 


パトリシア。

マーサ。


二人の罪状が、読み上げられていく。


 


偽証。

共謀。

機密漏洩。


 


顔色は、灰色だった。


 



「判決を言い渡す」


 


法廷が、静まり返る。


 


「被告、カイル・ノーヴァ」


「懲役十五年」

「全財産没収」


 


「パトリシア・ダルトン」


「爵位剥奪」

「国外追放」


 


「マーサ・ノーヴァ」


「終身追放刑」


 




木槌が鳴った。


 


――コン。


 


終わった。


 




その瞬間。


傍聴席から、小さな拍手が起こった。


やがて、それは波のように広がる。


 


貴族も。

民も。

記者も。


 


誰もが、理解していた。


正義が勝ったのだと。


 




私は、静かに目を閉じた。


 


もう、悔しくない。

もう、悲しくない。

もう、迷わない。


 


ただ。


終わったのだ。


 




法廷を出ると、眩しい光が待っていた。


 


「……終わったな」


シリルが、低く言う。


 


「ええ」


私は、空を見上げた。


 


「でも……ここからです」


 


誰かに奪われた人生ではなく。


 


――この瞬間、自分の意思人生を始める覚悟をした。




 


――朝の光は、いつもより、少しだけ優しかった。


 


ローゼライト侯爵邸の庭園に、柔らかな陽射しが降り注ぐ。


噴水は、静かに水音を立て。

薔薇は、風に揺れている。


あれほど騒がしかった日々が、嘘のようだった。


 




私は、窓辺の椅子に腰かけ、書類に目を通していた。


事件から、三か月。


屋敷には、ようやく静けさが戻ってきている。


使用人たちの足音も穏やかで。

誰も、怯えた顔をしていない。


 


――この平穏を、守りたい。


 




机の上には、新しい事業計画書。


・女性の財産管理支援制度

・孤児院支援基金

・地方教育改革案


すべて、私自身が考えたものだ。


もう、誰かに任せたりしない。


 




「……少し、休んだ方がいいんじゃないか?」


低い声が、背後から聞こえた。


振り向くと、シリルが立っている。


今日も、護衛任務中。


変わらない距離。

変わらない姿勢。


 


「ありがとう。でも、大丈夫よ」


私は、微笑んだ。


 




彼は、窓の外を見ながら言った。


「……前より、強くなったな」


 


「そう?」


 


「前は……」

「誰かの言葉に、すぐ揺れていた」


「今は、違う」


 


私は、少し考えてから答えた。


 


「……弱かったわ」


「でも、弱かったから、学べたの」


 




「……ねえ、シリル」


私は、ふと思ったことを口にする。


 


「もし、あの時……あなたがいなかったら」


 


「……考えないでいい」


彼は、即答した。


 


「過去は変えられない」

「今と、これからを守るだけだ」


 


その言葉に、胸が温かくなる。


 




私は、そっと息を吸った。


 


「……今はね」


「恋とか……まだ、分からない」


 


彼は、何も言わない。


ただ、静かに聞いている。


 


「でも……」


「誰かに依存する恋は、もうしない」


「自分の足で立てるようになってから」

「その時、考えたい」


 


彼は、小さく頷いた。


「……それでいい」


 




午後。


私は、庭園を歩いた。


 


かつては、誰かの腕に縋っていた道。


今は、一人で歩いている。


 


不思議と、不安はなかった。


 




王都では、私の改革案が話題になっている。


「若き女侯爵の挑戦」

「貴族社会の風を変える存在」


そう呼ばれることも増えた。


 


けれど。


私は、ただ思う。


 


――当たり前のことを、しているだけだ。


 




夕暮れ。


屋敷のバルコニーに立つ。


空は、茜色に染まっていた。


 


私は、胸に手を当てる。


 


かつて。

運命にすがっていた少女は。


もう、ここにはいない。


 


いるのは――


自分の人生を選び続ける、一人の女性だ。


 




「……私は、私として、生きる」


 


誰かの影ではなく。

誰かの所有物でもなく。

誰かの夢の一部でもなく。


 


私自身として。


 




背後で、足音がした。


振り返ると、シリルがいた。


 


「……行きましょう」


「次の会議です」


 


「ええ」


私は、まっすぐ前を向く。


 


光の中へ。


 


未来へ。


 


――歩き出すために。


 


  完




 






 



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