フィーアの秘密②
八年前、四宮卯月は、脳科学者の両親と楽しく日々を過ごしていた。
両親の研究は、人間の脳を量子レベルでスキャンし、脳内の『記憶』を映像・音声・感覚として再現する装置――『記憶観測装置』の開発だった。この技術が完成すると、認知症やPTSD、植物状態などで苦しむ人たちを救うことができる、と両親は信じ、日々、研究に励んでいた。
両親の背中を見て育った卯月は、当然のように科学に興味を持った。頻繁に研究室を訪れては、両親や研究仲間に可愛がられ、護衛たちとも気さくに会話し、遊んで仲良くなった。
わからないことがあると、すぐに質問して教えてもらい、卯月はみるみるうちに知識を深めていった。両親が研究で忙しいときは、AIに教わりながら一人で勉強に励み、その成果で、両親を何度も驚かせた。新しい知識を得るたびに、卯月の胸は高鳴った。
ある日、『記憶観測装置』――ヘルメット型のプロトタイプが完成し、その性能を確かめる実験が研究室で行われた。研究リーダーの父が代表してヘルメットを被り、実験用の台に横たわった。
父は目を閉じ、深く息をついて、心を静めた。やがて静かに眠り、小さく寝息を立て始めた。それを確認した母が記憶観測装置のスイッチを入れ、卯月や研究仲間たちとともに静かに見守った。
しばらくして、正面の巨大スクリーンに父の記憶が断片的に映し出された。それは、幼い卯月が両親と公園で遊ぶ、柔らかな陽だまりのような記憶だった。父目線の光景では、卯月が満面の笑みを浮かべていた。その他に、研究に没頭している母の姿や、家で食事をしているシーンなどがまばらに映し出された。
五分後、母がスイッチを切り、父の肩を揺らして目覚めさせた。父が「どうだった?」と恐る恐る尋ねると、母は微笑んだ。その表情を見た父は、実験が無事に成功したことを察し、その場にいたみんなとともに喜び合った。幾多の失敗を乗り越え、ついに――最初の一歩を踏み出した瞬間だった。
それから、何度も成功と失敗を繰り返しながら、少しずつ着実に進んでいた。苦しくてつらい日々も多かったが、それ以上に、嬉しさや喜びに包まれる日々もあった。そんな毎日を送る彼らとともに過ごすことが、卯月にとってかけがいのないものだった。
こんな毎日が、ずっと続けばいいのに……。
卯月は心の底から、そう願っていた。
だが、そのささやかな願いは、あまりにも唐突に――容赦なく砕かれた。
ある日の夜、卯月は目を輝かせ、『記憶観測装置』の試用版実験に心を弾ませていた。前回と同じく父が実験を担い、息を凝らして見守る中、装置は正常に作動した。研究室は歓声に包まれ、成功の余韻に沸いた。卯月も思わず飛び跳ね、心から喜んだ。
しばらくしても興奮が冷めず、気分転換に休憩を取ることになった。研究員の数名は、ドリンクを買ったり、トイレに行ったりなどで、研究室を出た。
両親は研究室に残り、実験データを入念にチェックし、卯月はそれを静かに見つめていた。そのとき、突然施設全体が停電し、暗闇に包まれた。すぐに復旧して明るくなったが、卯月は驚いて母に抱きつき、手を震わせた。
母は卯月をやさしく抱きしめ、頭にそっと手を添えて、「もう大丈夫よ」と穏やかに微笑んだ。
母の手の温もりとやさしい声に包まれ、卯月の胸に安堵が広がった。
だが、その一瞬の静けさを引き裂くように――。
「ドンッ!」
研究室のドアに何かが激しくぶつかる音が響いた。
父が確かめに向かってドアを開けた瞬間、血まみれの研究員がよろめきながら倒れ込んできた。
「なっ!?」
父は驚きながら彼を支え、母はその光景を卯月に見せないように、咄嗟に抱き寄せた。
「おい、どうした!? 何があったんだ……!?」
父が問いかけると、彼は朦朧とした意識の中、わずかに口を開いた。
「に……げ……て……」
その言葉を最後に、彼の身体はガクンと力を失い、崩れ落ちた。
彼の死を目の当たりにした父は、すぐに事態を悟った。彼をそっと寝かせ、立ち上がると、ドアに背を寄せ、恐る恐る外を覗いた。
通路の奥、ほの暗い光の中に、奇怪な道化師が音もなく姿を現した。床に点々と残る血の痕をなぞるように、ゆっくりと、だが確実に歩み寄ってくる。
「くっ……〈フリーデン〉はどうしたんだ!?」
父の言葉に、卯月は(〈フリーデン〉……?)と心の中で呟いた。
父は咄嗟に振り返ると、切羽詰まった目で母を見た。
母は父の思いをすぐに察し、黙って頷くと、卯月を抱きかかえ、研究室の奥の部屋に足を踏み入れた。その部屋のキャビネットに卯月を入れると、真っ直ぐな目で見つめた。
「卯月……何があっても、ここから絶対に出てきちゃダメ!」
そう言うと、母は扉を閉め、足早に研究室へ戻っていった。戻る際、棚の上に置いてあったカッターを手に取った。
卯月は言葉を失い、声すら出せなかった。血まみれの研究員を目にした瞬間、恐怖で胸が締めつけられ、呼吸すらままならなかった。激しい鼓動が耳鳴りのように響き、思考すら追いつかず、その場にうずくまるしかなかった。
しばらくして、研究室の方から父の声が響いた。
「お前たち……一体、何者なんだ?」
「……そんなこと、今さら知ってどうする?」
返ってきた声は低くも高くもなく、不思議な響きを持っていた。男か女か、判別のつかない声だった。
道化師の左胸に刻まれたマークが、父の目に留まった。
「……そのマーク、まさか……『ロイヤルフラッシュ』!?」
「おや、ボクらのことを知っているとは、意外だね。もしかして、キミたちを護衛していた奴から聞いたのかな?」
道化師の言葉に、父の顔が引きつった。
「……わたしたちの研究に不満がある者が大勢いることは知っている。『記憶観測装置』が完成すれば、犯罪者を逃がすこともなくなり、お前たちのような暗殺者が困る……だから、始末しにきたのだろう?」
「……ご明察。褒美にボクの名を教えてあげよう」
道化師は不気味なほど丁寧に姿勢を正し、芝居がかった動きで頭を下げた。
「ボクの名は“ジョーカー”。――そろそろ、命をいただこうか」
道化師が鋭く二人を見つめた瞬間、父が突撃し、タックルして組み付いた。同時に母も隠し持っていたカッターで迫った。母のカッターが道化師の喉元に迫った、その瞬間――道化師がニヤリと笑い、何かが閃いた。次の瞬間、父と母の身体は宙を舞い、無残にも壁へと叩きつけられた。全身から血を噴き出し、そのまま崩れ落ちた。
静寂が満ちる中、道化師は床に広がる血だまりを、まるで絵画でも眺めるように無表情で見下ろしていた。そのとき、道化師に連絡が入った。すぐに応じると、男の声が響いた。
「こっちは、片付いた」
「お疲れ、ジャック。ボクの方も、終わったよ」と道化師は返した。
「こんな連中、おれ一人で十分だっただろ? なんであんたまで来たんだ、ジョーカー」
「……こいつらを護衛していた奴らが、少し気になってね」
「あんたが珍しく警戒していた奴らか……何かわかったのか?」
「何も……。脅しても口を割らなかったから、すぐ殺しちゃった。たいした相手じゃなかったし、心配するほどでもなかったね」
「無駄な心配だったな。そもそも、おれたちとまともにやり合える奴が、この国にいるわけねぇだろ」
「そうね」
道化師はそう言いながらも、どこか腑に落ちない様子だった。そのとき、突然二人の間に割り込むように色気のある女性の声が響いた。
「二人とも、お疲れ様」
「クイーンか、どうした?」と道化師が返した。
「なんか得体の知れない連中が、そっちに向かってるわ。急いで離れたほうがいいわよ」
「もう嗅ぎつけられたのか……!? 早いな!」とジャックは驚いた。
「……おそらく、護衛の仲間だろう」道化師は冷静に呟いた。
「あと十分ほどで着きそうだけど、エースとキングを向かわせようか?」クイーンは提案した。
「いや、すでに任務は完遂した。これ以上、騒ぎを起こす意味はない。……ジャック、早くここから離れるぞ」
「了解」とジャックが返し、通話は切れた。
道化師はシンボルマークのシールを壁に貼り付け、研究室を見渡したあと、静かに背を向けた――が、その瞬間、微かな物音が耳に届いた。反射的に振り返り、奥の部屋から聞こえたと察した。ゆっくりと歩を進め、ドアを開けた。
微かにドアが開く音が聞こえた瞬間、卯月は反射的に(見つかった!)と悟った。咄嗟に口を手で塞ぐ。真っ暗なキャビネットの中で必死に息を潜め、敵が立ち去るのを願った。
道化師は部屋の中を見回した。誰もいないように見えたが、微かな気配を感じ取っていた。キャビネットに目を留めた瞬間、道化師の口元がニヤリと歪んだ。道化師は足音を立てずに歩み寄り、扉にそっと手を掛けた次の瞬間、バッと勢いよく開けた。
その刹那、卯月は咄嗟に手を突き出してキャビネットから飛び出した。道化師の股下を転がるようにすり抜けると、手探りのように床を蹴って、夢中で走り出した。だが、研究室に足を踏み入れた瞬間、床に横たわる両親の無惨な姿が目に飛び込み、卯月の足はその場で凍りついた。
「お母さん……お父さん……」
卯月が悲痛な表情で立ち尽くしていると、背後から道化師がゆっくりと近づいてきた。
「そんなに悲しまなくていい。キミもすぐ、お父さんとお母さんに会えるからね」
微笑を浮かべたまま卯月を見下ろしていた道化師は、静かに振り返った卯月の涙に気づくと、その表情をさらに不気味に歪めた。
卯月は悲しみと苦しみが限界を超え、胸に激痛が走った。息が詰まりそうになる中、道化師の顔を見た瞬間、煮えたぎる怒りが胸の奥から込み上げ、全身を突き動かした。
床に落ちたカッターを掴み取り、怒りと絶望の入り混じった顔で道化師に飛びかかった。しかし、卯月が太刀打ちできるはずもなかった。道化師の軽い足蹴で吹き飛ばされた卯月の体は、壁に叩きつけられ、力なく崩れ落ちた。腕を上げることすらできず、視界もかすれ、意識が遠のいた。
道化師はゆっくりと歩み寄り、床に転がったカッターを拾い上げた。卯月の目の前で立ち止まり、冷酷な瞳で見下ろして言った。
「さようなら、小さな科学者ちゃん」
そう告げると、道化師は躊躇いなく卯月の喉元に切りかかった。
「お母さん……お父さん……ごめんなさい……」
死を悟った卯月の口から、自然と謝罪の言葉が漏れた。抵抗する力も残っていないため、すべてを諦めたように目を伏せた。
だが、カッターが卯月の喉元に迫った、その瞬間――横合いから鋭い一閃が走った。
道化師は直前で気づき、反射的に後ろに跳んで回避した。
卯月はかすむ視界を必死にこらえ、顔を上げた。ぼやける視界の中、黒髪のロングストレートをなびかせた少女――シュバルツが静かに立っていた。
シュバルツは自分の背丈ほどもある刀を構え、鋭い目つきで道化師と対峙した。落ち着いているように見えるが、その瞳の奥には静かな怒りが宿っていた。
「報告より早いな。それに、なかなか強そうだ」
道化師は冷静に分析し、わずかに口元を緩めた。
シュバルツは道化師の左胸のマークに気づき、静かに口を開いた。
「あなた……『ロイヤルフラッシュ』ね?」
「そういうキミは、一体何者だ?」
「おとなしく捕まってくれるなら、教えてあげる」
「そうか……」
道化師は目を伏せ、一拍置いてから顔を上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「……残念だ」
そう呟いた次の瞬間、道化師は床を砕く勢いで蹴り、突撃した。間合いを一気に詰め、両手の指に三本ずつ挟んだナイフを閃かせながら、嵐のような連撃を繰り出した。
シュバルツは冷静に刀で捌くが、その嵐は止むことなく、容赦なく迫った。斬撃の余波が、壁や機材を無造作に切り裂いていく。
シュバルツが、背後の卯月に目をやったその瞬間、道化師は手のひらを開き、隠し持っていた煙幕弾をばら撒いた。
「ちっ……!」
シュバルツは瞬時に卯月のそばでしゃがみ込んで構えた。
煙幕弾が床に落ち、「ボフッ!」という鈍い破裂音とともに、白煙が一気に噴き出した。視界は瞬く間に奪われ、研究室内は一瞬で白煙に覆われた。
シュバルツは視界を奪われた中でも冷静に気配を探り、どこから襲われても即座に対応できるよう構えていた。だが、どこにも敵の気配はなく、やがて白煙が晴れると、そこに道化師の姿はなかった。
静けさに包まれる中、シュバルツはゆっくりと立ち上がった。
「逃げられたか……」
小さく呟き、周囲を見渡した。悲惨な光景を目にした彼女の顔に、胸を締め付けられるような悲痛な表情が浮かんだ。背後で崩れ落ちた卯月に気づき、反射的に振り返ると、急いで彼女のそばに駆け寄った。
次第に意識が薄れていく卯月の視界には、悲しげな表情のシュバルツが映った。
卯月は助けてくれた少女に、かすれた声で「あ……あなたは……」と呟いた。だが、その続きを言いかけたまま、卯月の意識は完全に途切れ、視界は闇へと落ちていった。
翌日の朝、卯月はベッドの上で目を覚ました。起き上がろうとした途端、全身に激痛が走り、思わず身を沈めた。頭には包帯が巻かれ、全身の傷には丁寧な処置が施されていた。
状況が呑み込めずにいる卯月の目の前に、突然、軍服姿の少年――テュールの3Dホログラムが現れた。
不意に現れたテュールに驚く卯月の前で、今度は部屋のドアが勢いよく開き、指揮官が姿を現した。
「目を覚ましたか!」
指揮官の登場に卯月はさらに驚愕した。その動きで全身に痛みが走り、「いたっ!」と思わず声を漏らした。
指揮官は卯月のそばに歩み寄った。
「驚かせてすまなかった。応急処置は施したが、まだ動ける状態じゃない。しばらくは安静にしていろ」
指揮官は落ち着いた声で説明したが、卯月の疑いの視線に気づくと、少し声の調子を変えて励ますように言葉を続けた。
「でも、心配はいらない。完治するまで、ここでゆっくりと過ごすといい」
それでも、卯月は警戒心を解かなかった。
指揮官は腕を組んで小さく息をつき、思案に沈んだ。すると、横からテュールが割り込み、落ち着いた口調で名乗った。
「わたしは『テュール』。あなたに危害を加えたりしませんので、ご安心を……!」
卯月は不信な目で二人を見つめていたが、やがて深く息をつき、じっと見据えた。
「……助けてくれて……ありがとう」卯月は小さく呟いた。
テュールはほっとしたように表情を緩め、指揮官も穏やかに応じた。
「無事で本当に良かった」
その後、卯月はテュールからこれまでの詳しい経緯を聞いた。『記憶観測装置』の開発に関わった者全員が、『ロイヤルフラッシュ』という暗殺組織に殺され、記録データはすべて削除され、防犯カメラにも証拠は一切残っていなかった――テュールは、その事実を淡々と伝えた。
信じたくない現実に直面し、卯月の胸は張り裂けそうなほど痛んだ。両親の笑顔が脳裏によぎり、溢れる涙を抑えられなかった。
「キミの大切な人たちを守れなかったこと、大変申し訳なかった」
指揮官とテュールは深く頭を下げ、悔しさを滲ませた。
しばらく沈黙が流れたのち、卯月は落ち着きを取り戻し、「顔を上げて……」とかすれた声で呟いた。
二人はゆっくりと顔を上げた。その表情には、申し訳なさと無念が滲んでいた。
その悲しげな顔を見た瞬間、卯月の脳裏に、かつて親しくしてくれた護衛の姿がよぎった。
「……施設にいた護衛……あなたたちの仲間だったんでしょ?」
指揮官が小さく頷いて返すと、卯月は続けて言った。
「悲しいのは……みんな同じ。だから、もう……謝らないで……」
卯月のやさしさに、指揮官は心を打たれたように感謝の眼差しを向け、静かに視線を落とした。少しして視線を上げると、気持ちを切り替え、言いにくそうな表情でこう告げた。
「……唯一の生き残りであるキミは、今後、『ロイヤルフラッシュ』に命を狙われる危険がある」
「そう……だよね」
卯月は諦めの表情で、そっと目を伏せた。
その様子を見た指揮官は、すぐに言い添えた。
「そこで……キミにいくつか提案がある」
「提案……?」卯月は小さく首を傾げた。
一呼吸置き、指揮官は真っ直ぐに卯月を見つめた。
「……わたしたちの仲間になってくれないか?」
「……え?」
「もちろん、強制するつもりはない。でも、互いにとってメリットは大きいはずだと、わたしは思っている。キミの安全は確保できるし、教育に必要なものも提供できる」
突然の提案に戸惑う卯月を見て、指揮官はさらに続けた。
「すぐに決めなくていい。じっくり考える時間が必要だろう。返事はそれまで待つ」
卯月は控えめに尋ねた。
「……大丈夫なの? あたしを匿ったら……また、彼らが攻めてきて、仲間が殺されるかもしれないのに……」
「次は、絶対にそんなことさせない!」指揮官ははっきりと言い切った。
その力強い言葉が、卯月の胸に深く染み込んだ。
「……説得力がないかもしれないが、それでも……信じてほしい!」指揮官は真剣な表情で頭を下げ、テュールも続いた。
その瞬間、卯月の脳裏に、シュバルツの凛々しい姿がよぎった。彼女に会いたい、直接感謝を伝えたい、という想いが込み上げた。
「……わかった」と卯月は小さく呟いた。
二人が顔を上げると、卯月はさらに続けた。
「……あたし、あなたたちの仲間になる!」
卯月の力強い宣言に、指揮官は「ありがとう」と深く礼を述べた。そして、凛とした瞳で彼女を見つめ、言った。
「改めて、ようこそ〈フリーデン〉へ!」
こうして、卯月は〈フリーデン〉の一員として、新たな一歩を踏み出した。
次の日、しっかり休んで全身の痛みが和らいだ卯月は、〈フリーデン〉本部を見て回った。テュールの案内で、司令室や訓練場、食堂、休憩所など各所を巡った。そのたびにシュバルツの姿を探したが、どこにも見当たらず、わずかに胸がざわついた。
数日後、月曜日。
全快した卯月が本部の回廊を歩いていると、ついに――シュバルツと鉢合わせた。
二人は同時に気づき、視線を交わした。戸惑う卯月に、先に声をかけたのはシュバルツだった。
「怪我はもう治ったの?」
「え……あ、うん。もう大丈夫……」
「そう……よかった」
シュバルツは安心したように息をつき、続けて言った。
「でも、まだ無理はしないで。しっかり休むのよ」
そう言って悠然と立ち去ろうとするシュバルツを、卯月は呼び止めようとしたが、なかなか言葉が出てこなかった。ようやく勇気を振り絞って「あ、あの!」と声を出すと、シュバルツは足を止め、振り返った。
「……助けてくれて、ありがとう」
卯月の言葉に、シュバルツは一瞬、目を見開いて驚いた。わずかに口元を緩め、「……あなたが無事で、ほんとうによかった」と言い、再び歩き出した。
卯月の胸に、稲妻のような衝撃が弾けた。瞬く間に心拍が跳ね上がり、全身が熱を帯び、高揚感が胸を満たしていった。
その日をきっかけに、卯月はシュバルツを敬愛し始めた。勉学や訓練に励み、『フィーア』というコードネームを授かり、任務にも加わるようになった。
やがて、〈フリーデン〉随一の科学者と呼ばれるまでに成長し、多くの成果を上げるようになった。
そして、二〇五〇年、四月二六日、現在。
指揮官が静かに語り終えると、部屋の中を沈黙が支配した。フィーアの過去を聞き、重苦しい沈黙の中、ドライが口を開いた。
「あいつがシュバルツに入れ込むのは、そういうわけか」とドライは納得したように呟いた。
「命を助けられたのなら、惚れてしまうのも無理はありませんね」ノインが小さく微笑んだ。
「つーか、そんな小っこい頃から、シュバルツはもう実戦してたのかよ!」アハトは驚きと感心が混じった様子だった。
「さすが、シュバちゃん!」とツェーンが感嘆を漏らした。
わずかな沈黙のあと、ゼクスが話題を戻した。
「それより、このままフィーアを放っておいていいんですか? コマンデュール! あの様子だと、もし敵の居場所を特定した場合、一人で乗り込みますよ」
「相手はプロの暗殺集団……さすがに一人で相手をするのは危険だな」とツヴァイが呟いた。
指揮官は短く息を吸い、口を開いた。
「そんなことはさせない。だが、『やめろ』と言っても、おそらくフィーアは止まらない。だから、邪魔しない程度に見張りをつけるつもりだ。フィーアも、わたしたちと情報を共有した方が得策だと考えているはず……断りはしないだろう」
その言葉に、それぞれが安堵を漏らした。
指揮官は静かにテュールに視線を送った。
テュールはひとつ頷き、半歩前へ出ると、凜とした声音で告げた。
「では、これより、対ロイヤルフラッシュに向けての具体的な作戦を報告します」
全員の視線が集まる中、テュールは淡々と説明した。
フィーアは寮の自室に戻っていた。様々な実験道具が並ぶ部屋で、壁に掛けた白衣に袖を通した。表情は獲物を射抜く猛禽のそれ。瞳に宿る光は凄烈だった。ロッド型の天候操作デバイス『ヴェターシュトク』を手に、部屋を後にした。
そして――フィーアは静かに姿を消した。
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