翠と美食の祭典①
四月二八日、木曜日の午後一時前。
翠は流香と仲良く手を繋ぎ、色神学園の敷地内を歩いていた。
流香の肩にはコーヒー豆の妖精『オマール』が腰を下ろしていた。
「翠ちゃん、付き合ってくれてありがと」流香は笑顔で言った。
「いえ……わたしの方こそ、誘っていただきありがとうございます」翠は笑顔で返した。
翠が色神学園に足を踏み入れた理由は、一時間前に遡る。
正午、翠はいつも通り、『色神の森』に出勤した。
翠が店内に足を踏み入れた瞬間、青山親子の言い争う声が聞こえてきた。声のするカウンター奥へ向かうと、流香が鋭い目つきで青山一を睨んでいた。
一方、青山は心配そうな表情で見つめていた。
「流香は一人で大丈夫だから、父はついて来ないで!」と流香ははっきりと言い放った。
青山は必死に抗っていた。
「そんな悲しいこと言わないで、お父さんも一緒に――」と言いかけたが、「絶対嫌だ!」と流香に強く言われ、言葉を遮られた。
青山は珍しく真剣な顔つきで、頭を抱えた。
二人のやり取りは、店内の空気をピリつかせていた。メルは気まずさを感じ、仲裁しようとしたものの、どうすればいいのかわからず戸惑っていた。
その間、オマールはホールでトランプマジックを披露していた。数字当てに柄の変化、コインの瞬間移動……客たちの注目を集め、なんとか場の空気を和ませていた。
翠はメルにそっと歩み寄り、静かに声をかけた。
「おはようございます、メルさん」
メルは翠に気づくと、「あ、おはよう、翠ちゃん」と小声で返した。
「これは、一体どういう状況ですか?」と翠は冷静に尋ねた。
「それがね……」とメルが言いかけた――その瞬間、流香が翠に気づいた。
「あっ、翠ちゃん! おはよー」と流香は明るく挨拶した。
「おはようございます、流香さん」翠も微笑んで返した。
流香はしばらく翠をじっと見つめていたが、やがてハッと何かを思いついたように顔を輝かせ、彼女に駆け寄った。そして、ガッシリと腕を組むと、青山を見据えて言い放った。
「流香は、翠ちゃんと一緒に行く!」
「え……!?」
翠、メル、青山は思わず声を揃え、一斉に流香に視線を向けた。
続けて、翠は問いかけた。
「流香さん、一体どこへ行くのですか?」
流香は目を輝かせながら答えた。
「色神学園だよ」
「色神学園……ですか?」
「……今日、一時から調理実習があるんだけど、誰でも自由に見学できる公開授業なんだ」
「公開授業……そういうのもあるんですね」
「うん」流香は頷くと、組んでいた腕を解き、説明を続けた。
「それで、父が見に行きたいってしつこいの」
「そうですか……」と翠は呟き、青山に目を向けた。
「だって、娘が料理してる姿が見られるんだよ。父として、見に行かないわけにはいかない!」青山は目を輝かせた。
流香は呆れたような目で青山を見つめた。
翠は冷静に問いかけた。
「……流香さんは、店長に来てほしくないのですか?」
「うん」と流香は即答した。
「どうしてですか?」
「だって……」流香は目を伏せ、顔を赤らめた。
その姿を見た瞬間、翠は流香の気持ちを察した。
(あっ、流香さんはたぶん、店長に見られるのが恥ずかしくて……)
しかし、翠の推測は的外れだった。
流香はジト目で翠を見つめ、ため息混じりに断言した。
「父、ウザいんだもん」
流香が冷たく言い放つと、青山はショックを受け、胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
翠は顎に手を当て、冷静に考えた。
もし青山が色神学園に行けば、調理中に娘へ派手な声援を送り、場の空気を乱すだろう。さらには女子生徒に声をかけられるなど、厄介な展開も予想できた。
「たしかに、それは困りますね」
翠が納得したように呟くと、メルも同意するように頷いた。
「ふ、二人まで……!」青山は肩を落とした。
「だから……!」流香は真っ直ぐ翠を見つめ、力強く言い切った。「翠ちゃんと一緒に行くの! ううん、翠ちゃんと一緒がいい!」
しばしの間、翠は真剣に考えた。
正直、色神学園には極力近づかないようにしていましたが、流香さんにここまで頼まれては、断るわけにはいきませんね。七万人以上の生徒がいるのですから、滅多に会うことはないはず。わたしが注意を怠らなければ、きっと大丈夫でしょう。ただ――。
「わたしは構いませんが――」と翠は言い、青山に目を向けた。
目が合うと、青山はため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「……わかった。そこまで言うなら……流香のことは、翠くんに任せる」
青山は険しい表情で拳を握りしめ、苦渋の決断を下した。
流香はぱっと明るい笑顔を浮かべた。「やったー!」と喜びの声を上げ、再び翠と腕を組んだ。
「お店は大丈夫ですか?」翠は冷静に問いかけた。
「ああ、人手は足りている」と青山は答え、さらに言い添えた。「それと、翠くんも出勤扱いにしておくから、安心してくれ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、準備してくるね。ちょっと待ってて!
「はい」翠が返す間もなく、流香は嬉しそうに自室へ向かった。
一段落し、メルはホールに戻り、翠は出かける準備を整えようとしたそのとき――「翠くん!」と青山に呼び止められた。
青山は真剣な表情で翠をじっと見つめた。
翠は思わず警戒心を抱き、尋ねた。
「な、なんですか?」
青山はゆっくりと翠に歩み寄ると、口に手を当て、囁くように言った。
「流香の勇ましい姿を頼んだよ」
「あ、はい……」翠は拍子抜けした声で頷いた。
しばらく待っていると、制服を身に纏った流香が走って戻ってきた。
「翠ちゃん、お待たせ! 行こっ!」と流香は声を弾ませた。
「はい……」翠が応じると、二人はそろって青山の方を向いた。
「では――」と翠が言い、「行ってきます!」と二人は声を揃えた。
「いってらっしゃい」青山は少し寂しそうな表情を浮かべつつ、穏やかに言った。
流香は出口へ向かう途中、「オマール!」と呼んだ。
その声に応じて、オマールはテーブルに広げたトランプを素早くかき集め、カウンター奥へ片付けに向かった。急いで戻ってくると、「とうっ!」と飛び上がり、椅子、テーブルの順に伝い、最後に流香の肩にそっと着地した。
「お待たせしました、流香様」オマールは頭を垂れた。
準備が整い、翠と流香は店を出た。
流香はまず駐車場の一角にある『ほうき場』――ほうき型ドローンを立てかける専用スペースへ向かい、翠もすぐ後を追った。立てかけられている数機のほうきの中から、流香はコーヒー色のほうきを手に取ると、振り返り、翠を見つめて言った。
「じゃあ、行こっか!」
翠は気まずそうな表情を浮かべた。
「あの、流香さん」
「ん?」
「大変申し訳ないのですが……」翠は言いづらそうに言葉を繋いだ。「実はわたし、ほうきに乗れないんです……」
「え、そうなの?」
「はい……高所恐怖症で……」
「知らなかった……あっ! だからいつも歩いて来てたんだ!」
翠は小さく頷いた。
「そっか……」流香は小さく呟くと、ほうきを元の場所に戻した。
「すみません」と翠は申し訳なさそうに謝り、「車を呼びますので、少し――」と続けた。
だが、流香は「それじゃあ、歩いて行こう!」と笑顔で提案し、手を差し出した。
「……歩きで、いいのですか?」
「うん!」
「……ありがとうございます」翠はやさしく流香の手を握り返した。「では――」
「しゅっぱーつ!」流香は手を元気よく突き上げた。
「進行ォォォォ!」オマールも勢いよく拳を突き上げた。
だが、その声があまりに大きすぎたため、流香はすかさず「うるさい!」と一喝し、黙らせた。
オマールはしょんぼりと肩を落とし、それから学園に着くまでずっと無言だった。
一方、流香はオマールの落ち込みなど気にも留めず、翠と楽しげに会話を弾ませていた。気づけば、二人は色神学園の校門前に着いていた。
校門前では、二台の蜘蛛型ロボット――アトラクとナクアが待ち構えていた。
翠はわずかに緊張の色を浮かべ、慎重に歩を進めた。イリスから、二台のロボットが玄と天に関わりがあると聞いていたため、自分の正体がバレないように細心の注意を払った。
(大丈夫、きっと上手く切り抜けられる……)
翠の鼓動が速まり、じわりと手に汗が滲んだ。
そのとき、流香がそっと翠の手を握った。驚いて目を向けると、流香は穏やかに微笑んでいた。その柔らかな笑顔に、翠の緊張もふっと緩んだ。そのまま二台の隣に差しかかると、アトラクとナクアは気さくに「オハグモ!」と挨拶をした。
「オハグモ!」と流香は元気よく返し、翠は丁寧に一礼した。
「コヒコヒー!」オマールも独特な挨拶で応じた。
こうして、翠は無事に色神学園の敷地内へ足を踏み入れた。
校内を歩いていると、すれ違う生徒たちの会話が、ふと翠の耳に届いた。
「ついに待ち望んでいた日が来たな!」
「ああ! 今日はすべてを出し切るぞ! 復習もバッチリだ!」
「おれも準備万端だ! 全力で応援する!」
「あ~、早く七時になんねーかな……」
二人の男子生徒が興奮気味に会話していた。
周囲を見渡すと、同じように気持ちの昂った生徒たちがちらほら目に入った。
彼らはモカ色のTシャツや、コーヒーのイラストがプリントされたパーカーを身につけていた。
気になった翠は、流香に尋ねた。
「流香さん、今日は何かイベントがあるのですか?」
「イベント?」流香は周囲を見渡し、冷静に答えた。
「あー、多分モカちゃんの――」
流香が言いかけた、そのとき、不意に二人の正面からのんびりした声が響いた。
「あー、ルカルカとみどりんだぁ!」
二人が視線を向けると、モカ色Tシャツを着た茉田莉モカがゆっくりと歩み寄ってきた。
「お疲れ様です、モカさん」翠はいつも通りに挨拶し、「モカちゃん、おつー」と流香は気さくに言った。オマールも軽くお辞儀をした。
「お疲れ~、こんなところで会うなんて、奇遇だねー。ていうか、みどりんと学校で会うの、初めてじゃない?」とモカは少し嬉しそうに言った。
「そうですね、初めまして……」翠は冗談めかして言った。
「初めまして~じゃない! 『色森』で何回も会ってるでしょ!」モカは軽くツッコんだ。
「そうでしたね。すっかり忘れていました」
「みどりんも冗談が言えるようになってきたね!」
「お陰様で」
翠とモカのやり取りを見て、流香は目を輝かせた。
モカは話題を切り替えた。
「ところでー、みどりんたちは今、何してるのー?」
「わたしは――」
翠が答えようとした瞬間、モカが「あー! もしかして、モカのライブを観に来てくれたのー?」と食い気味に問いかけた。
「モカさんの……ライブ?」
「あれれー? 違うのー?」
「翠ちゃんは、流香の付き添いだよ。このあと、調理実習があるんだ」と流香が答えた。
「そうなんだぁ! 頑張ってねー、ルカルカ」
「うん!」流香は大きく頷いた。
一瞬の沈黙が流れ、モカはわずかに気を落とした。
翠はそれを敏感に察知し、すかさず問いかけた。
「モカさんは、このあとライブがあるのですか?」
「そうだよぉ! 十九時から、ライブハウス《IROGAMI》で単独ライブなんだぁ!」
「単独ライブですか、すごいですね!」
「ふっふっふ~、すごいでしょー?」モカは誇らしげに胸を張った。
「ちゃんとしたアイドル活動もしていたんですね! 知りませんでした」
「モカちゃん、すっごく人気なんだよ!」
流香がそう言うと、オマールがすかさず目を光らせた。次の瞬間、宙にモカの情報が映し出された。そこには、これまでのモカの経歴や、熱狂的なファンの応援コメント、ライブでの盛り上がる様子が映し出された。
翠は素早く目を通し、おおよそのことを理解した。ふと周囲を見渡すと、いつの間にかモカのファンに囲まれていた。
彼らは一定の距離を保ち、騒ぎ立てることもなく、ただ崇拝するようにモカを見つめていた。直視できずに目を逸らす者や、視線が合っただけで感極まり、倒れ込む者すらいた。
モカは時折、周囲に目を向け、ウインクや小さく手を振ってファンサービスをしていた。そのたびに、ファンの心はますます惹きつけられていった。
「学校でも変わらず人気者ですね、モカさん」翠は感心したように言った。
「当然だよー! だって、モカはみんなのアイドルなんだから!」モカはあざとく笑った。
「そうですね」
翠は微笑み、頷いた。しかし、モカの表情をじっと見つめると、笑顔の奥に隠れたわずかな不安や緊張が感じ取れた。「大丈夫」「頑張って」――そんな言葉をかけても、一時的な気休めにしかならないだろう。
翠はそう思い、率直に感じたことを口にした。
「モカさんのライブ、きっと楽しいんでしょうね」
すると、流香が間髪入れずに言い添えた。
「すっごく楽しいよ!」
二人の様子を見て、モカは気軽に提案した。
「それじゃあ、二人もモカライブ観に来ないー?」
「……そうですね」
翠は少し考えたあと、流香に目を向けた。流香が大きく頷くのを確認すると、モカへ視線を戻して口を開いた。
「では、行かせていただきます」
その返事に、モカの目がぱっと見開かれた。次の瞬間には、満面の笑みに変わっていた。先ほどまでの不安や緊張が吹き飛んだように、彼女の顔には隠しきれない喜びが溢れていた。
「もー、しょうがないなぁ。みどりんとルカルカには、いつもお世話になってるから、特別に招待してあげる!」
モカは声を弾ませ、嬉しそうにホログラムチケットを宙に投影した。キラリと光る二枚のチケットを掴み、満面の笑みで二人に差し出す。
「はい、どうぞ!」
翠は一瞬、手を伸ばしかけて止めた。(こんなに気軽に受け取ってもいいんでしょうか……?)と迷うが、隣では流香が素直にチケットを受け取り、「ありがとう!」と笑顔で感謝を伝えた。モカも満足そうに微笑んだ。
そのやり取りを見て、翠は考えすぎていることを自覚した。少し遅れてチケットを受け取り、「ありがとうございます」と感謝を伝えた。
「それじゃあ、モカは準備があるから、そろそろ行くね!」
「はい。では、また後ほど……」と翠は返し、「ライブ、頑張ってね!」と流香が明るく声をかけた。
「最高のライブにするから、楽しみにしててね!」モカは自信満々にそう言い残し、くるりと背を向けて歩き出した。
しばらくの間、翠と流香は手を振りながら見送った。やがて、「わたしたちも行きましょうか」と翠が言い、「うん!」と流香が頷いた。
翠は流香に案内され、調理学科の校舎に到着した。
二人は地上五階建ての建物に入り、一階の休憩スペースへと向かった。そこの自動販売機でそれぞれ飲み物を買った。翠はお茶を、流香はカフェオレを選び、それぞれ一口含んで喉を潤した。
そこへ、二人の少女がやってきた。
一人は赤紫色のショートヘアの少女で、眉をひそめ、苛立ちを隠す気配すらなかった。
もう一人は、マスカット色のパーカーを着て、ドラゴンの頭のフードを被った少女で、穏やかな口調で友達をなだめていた。
「チッ、あの野郎……久しぶりに顔を見せたかと思えば、途中で棄権しやがって!」赤紫髪の少女は舌打ちし、怒りをあらわにした。
「まあまあ、そんなに怒らないで……かわいい顔が怖くなってるよ」パーカー少女は落ち着いた声でなだめた。
「しかも、こがねまで……!」赤紫髪の少女は聞く耳持たず、拳を握りしめ、声を張り上げた。「ベスト四のうち、二人も棄権するなんて、前代未聞だろ!」
「……きっと何か事情があったんだよ」
「優勝賞金一億円の世界大会だぞ? そんな簡単に棄権なんて、ありえるか?」
「それは……本人たちしかわかんないよー、フルツちゃん」
「その名前で呼ぶな!」赤紫髪の少女は即座に言い返した。
「あっ、ついゲームのノリで呼んじゃった……。ごめんね、古都ちゃん」
「今はリアルだ。気をつけろよ、ミュスカ」
赤紫髪の少女は軽く釘を刺し、それ以上は追及しなかった。
そのとき、流香がふと二人に気づき、声を弾ませた。
「あっ、古都ちゃん、ミュスカちゃん!」
その声に反応し、二人は同時に流香の方を振り向いた。
「流香ちゃん!」とミュスカが声を上げた。
現れたのは、調理学科専攻の木ノ実古都と、ミュスカ・ブルゴーニュだった。
二人は流香に歩み寄った。
「サリュ!」ミュスカが気さくに挨拶すると、「サリュ!」と流香も気軽に返した。
さらに、流香は続けて問いかけた。
「もしかして、二人も調理実習?」
「はい!」とミュスカは笑顔で答え、「ああ」と古都は重ねて言った。
「『二人も』ということは、流香ちゃんも?」とミュスカは尋ねた。
「うん」
「そっか!」
楽しげに話し始める二人を見て、翠はそっと距離を取った。そのとき、首元のペンダント型デバイスがわずかに振動し、緑色に点滅し始めた。
翠はイリスからの連絡だとすぐに察し、流香たちに背を向けた。ペンダントトップに軽く指を当てると、そこから光が伸び、小さなホログラムが宙に浮かび上がった。それは、イリスが収集した古都とミュスカの情報だった。イリスがわざわざ二人の情報を調べたのは、翠に知らせるべき重要なことがあるからだ。
翠はすぐに目を通し、色付きで強調された一文に目を留めた。
『木ノ実古都とミュスカ・ブルゴーニュは、ゲーム内で“柴乃”と親交あり! 気をつけて!』
翠はその一文を黙読し、冷静に考えた。
ゲーム内での関係なら、わたしたちの現実の姿は知らないはず……。それに、柴乃さんの話し方は独特なので、気づかれる可能性はかなり低い。
翠は確信を深め、そっと小声で礼を言った。
「イリスさん、ありがとうございます」
すると、ホログラムは消え去り、ペンダントの点滅も止んだ。
翠が向き直ると、流香とミュスカの会話がちょうど一区切りついた。
会話の途中、流香は古都の険しい表情を何度も気にしていた。その理由を知りたいという純粋な好奇心を抑えられず、タイミングを見計らって問いかけた。
「古都ちゃん、何か嫌なことでもあった?」
古都はわずかに目を見開き、すぐに表情を引き締めて問い返した。
「……何でそう思う?」
「だって、顔が怖いから」流香は迷わず即答した。
「なっ……!?」古都は思わず狼狽えた。
「ほら、言ったでしょ! 怖い顔になってるって!」ミュスカはすかさず言い添えた。
「う、うるさい!」古都は顔を赤らめてそっぽを向き、無理に平静を装おうとした。
その間、ミュスカは古都が不機嫌な理由を小声で教えてくれた。
「あのね……実は昨日、とあるゲームの大会があったんだけど、優勝争いをしていたライバルが途中で棄権したから、怒ってるの」
その瞬間、翠の胸がひときわ強く脈打った。
「どうして、ライバルは棄権したの?」と流香は尋ねた。
「詳しくはわからないけど、多分、事情があったんじゃないかな? 本当は先週の金曜日が大会だったんだけど、緊急事態で準決勝と決勝が延期になったの。それで昨日になったんだけど、四人のうち二人が棄権しちゃって……」
「それは……しょうがないね」流香は同情し、気の毒そうに古都を見つめた。
「古都ちゃん、久しぶりにグレープちゃんと戦えるのを楽しみにしてたから、ショックが大きかったんだと思う……」
「ミュスカ、余計なことを言うな!」古都は恥ずかしそうに声を張り上げ、制止した。
翠はミュスカの説明を聞き、確信した。
やはり、柴乃さんのせいでしたか……! 申し訳ないですが、こればかりはどうにもなりません。でも――。
翠は古都とミュスカに穏やかな目を向け、心の中で感謝の気持ちを呟いた。
柴乃さんと仲良くしていただき、ありがとうございます。
そのとき、古都が翠の視線に気づき、慌てて話題を切り替えた。
「そ、そんなことより、さっきから気になってたんだが……あんた、流香の友達か?」
「え……? あ、はい、翠です……。今日は流香さんの付き添いで来ました」
翠は突然の問いに一瞬たじろいだが、すぐに丁寧な口調で挨拶し、冷静に答えた。
「翠ちゃんは『色森』で一緒に働く大切な仲間で、今日は流香の応援に来てくれたんだ」流香は嬉しそうに紹介した。
「そうか……」
古都が納得したように呟くと、ミュスカが肘で彼女を小突いた。
古都はミュスカに促され、気恥ずかしそうに名乗った。
「木ノ実古都だ」
「ミュスカ・ブルゴーニュです。よろしくね!」とミュスカは元気良く言った。
「よろしくお願いします」翠は微笑んだ。
軽い挨拶を終えると、流香が誇らしげに言い添えた。
「翠ちゃん、すっごく料理が得意なんだよ!」
その瞬間、古都の様子が一変し、強い視線で翠を見据えた。
「へぇ、そうなんだ!」ミュスカは興味津々で目を輝かせた。
「いえ、得意と言えるほどではありません。趣味の範囲です」翠は控えめに言った。
「ううん、翠ちゃんの料理は、どれも絶品なんだから!」流香は自慢げに言った。
「絶品かぁ……食べてみたいなぁ」ミュスカは羨ましそうに呟いた。
「そこまで言うなら――あんたの腕前、見せてくれよ」古都は鋭い視線で言った。
「え……?」と翠は思わず声を漏らした。
「ちょうど今から調理実習だ。あんたも参加しろ!」と古都は提案した。
翠は驚きで言葉を失った。流香とミュスカも一瞬固まったが、すぐに興味津々の笑顔を浮かべた。
「それ、いいね!」
流香は乗り気で賛成し、ミュスカも頷いた。
翠ははっと我に返り、慌てて口を開いた。
「いきなり参加しても……大丈夫なんでしょうか?」
「それは……」古都は言葉を詰まらせた。
すると、朗々とした声が場を割った。
「問題ありませんわ!」
その場にいた全員が、一斉に声のした方へ視線を向けた。そこには、一色こがねと〈フリーデン〉ナンバーエージェント――ツェーンこと、神無月十和の姿があった。
「一色さん……!」と翠は驚き、「こがね……」と古都は小さく呟いた。
一色は優雅な笑みを浮かべながら歩を進め、上品に挨拶した。
「ごきげんよう、皆さん」
十和は一色の隣で軽くお辞儀をしたが、どこか落ち着かない様子で、周囲を警戒していた。
「何でお前がここに……?」古都は怪訝な顔で尋ねた。
「あら? わたくしがここにいては、おかしいですか?」と一色は余裕の笑みで問い返した。
「……別に」古都は顔を背けた。
一色は向き直り、翠に歓迎の言葉をかけた。
「ようこそお越しくださいました、翠さん」
「え、ええ……」翠はやや面食らいつつも、礼儀正しく応じた。
「先ほどのお話は、すべて聞かせていただきましたわ」
一色は真っ直ぐな目で翠を見つめ、少し興奮気味に言った。
「――是非とも、翠さんも調理実習に参加してくださいませ!」
「でも、いきなり参加するのは迷惑では――」
翠が言いかけた瞬間、一色は重ねてはっきりと言い切った。
「そんなことありませんわ! 一人増えたところで、何の問題もありません!」
翠は一色の勢いに気圧された。
「せっかくだし、やってみようよ!」流香は期待に満ちた目を輝かせながら言った。
翠は少し考えたが、流香の真っ直ぐな眼差しに押され、ため息をついた。
「……わかりました。参加させていただきます」
翠が頷くと、一色、流香、ミュスカの三人は満面の笑みを浮かべ、古都も小さく口元をほころばせた。
こうして、翠は急遽、調理実習に参加することとなった。
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