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魂送の天④

 四月二十七日、水曜日。

 午前六時半、天は目を覚ました。上体を起こして伸びをした瞬間、白い光が目の前に収束し、3Dホログラムのイリスが現れた。

「おはよう、天ちゃん」とイリスは言った。

「おはよう、イリスちゃん」と天は返した。

天はベッドから足を下ろして立ち上がると、イリスと向かい合った。

イリスは目を光らせながら天の全身を見回して健康状態を調べ始めた。すべて調べ終えると、「うん! 今日も問題ないよ!」と笑顔で告げた。

「ありがとう、イリスちゃん……」と天は返し、じっとイリスを見つめた。

視線に気づいたイリスが、首を傾げて「どうしたの?」と尋ねた。

「イリスちゃん……怪我は……良くなってる?」と天は心配そうに尋ねた。

イリスは一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑みを見せた。

「もう少し時間がかかりそうだけど……でも、心配しないで! 前よりも進化して戻って来るから!」

天は安心したように胸にそっと手を当てた。顔を上げ、笑顔で言った。

「待ってるね!」


 二時間後、天は準備を整え、玄関で靴を履いていた。背後に浮かぶ3Dホログラムのイリスが「何かあったら、すぐに呼んでね!」と、何度も念を押した。

 天は立ち上がり、振り返った。

「うん……でも、今日は一人で頑張ってみる!」と宣言し、軽く拳を掲げた。「じゃあ、行ってきます」

 心配そうな表情を浮かべるイリスを背に、天は色神学園に向けて足を踏み出した。イリスをいつでも呼び出せるスマートネックレスを首に掛けていたが、靴箱に置いていた霊符には気づかずに、出発してしまった。

色神学園が見えてくると、天は鼓動の速まりを感じて拳を握りしめた。緊張で汗が滲み、徐々に不安感が増していた。周囲を見渡すと、校門前に佇む二台の蜘蛛型警備ロボットが目に入った。

蜘蛛型ロボットたちはアームを軽く上げ、生徒たちと気さくに挨拶を交わしていた。まるで友達同士のように、学園の入口には和やかな雰囲気が漂っていた。

 その光景を見た天は、こう思った。

 わたしが校門をくぐったら……あ、あのロボットに呼び止められて、誰もいない教室に連れて行かれて、尋問されるかも……! 今日はイリスちゃんもいないし、もし本当にそうなったら、どうしよう……。

 天は勝手に想像して恐怖心を抱きながらも、足を進めていた。すると、蜘蛛型ロボットたちが天に気づき、慌てた様子で駆け寄ってきた。

「えっ!?」

天は驚きの声を漏らし、思わず身を引いて顔を背けた。

 みんな、ごめん! わたしたちの秘密、バレちゃうかも……!

 天が心の中で叫んだ。

その瞬間、蜘蛛型ロボットたちは急ブレーキをかけて地面を滑りながら天の目の前で止まると同時に、頭部を低く下げ、声を揃えて謝罪した。

「この前は、本当に申し訳ありませんでしたー!」

「え……?」

天はぽかんとした表情で蜘蛛型ロボットを見つめた。

「生徒を守る身でありながら、逆に傷つけてしまいかねない事故を起こし、大変申し訳ありませんでした」と、ボディに『Atlachアトラク』と刻まれた蜘蛛型ロボットが言った。

「この失態は取り返しがつきませんが、深く反省し、今後に活かしてまいります。しかし――」と、ボディに『Nachaナクア』と刻まれた蜘蛛型ロボットが続けた。

「天様がお許しくださらないのであれば、ボクたちは処分される覚悟でございます」とアトラクが続けた。

「何なりとお申し付けください」とナクアが言った。

 天は突然の告白をすぐには理解できず、困惑した。すると、首元のスマートネックレスの宝石が青く光り、そこからイリスの声が聞こえた。

「天ちゃん……この二人、この前の事故のことを謝りたいみたい。それと、天ちゃんに処罰を決めてほしいって」とイリスが冷静に説明した。

「しょ、処罰……?」天は戸惑いの声を漏らした。

「つまり、天ちゃんがこの二人の未来を握ってるってこと。データを消すこともできるし、リサイクルに回すこともできるんだよ」とイリスは淡々と告げた。

「そ、そんなことしないよ!」

「じゃあ、それをちゃんと伝えようね」とイリスはやさしく促した。

 天は低い姿勢の蜘蛛型ロボットに視線を向けた。

アトラクとナクアは、微かに全身を震わせながら、天の言葉を待っていた。

「そんなに謝らなくていいよ。誰だって失敗するし、これから気をつけてくれれば大丈夫と天はやさしく微笑んだ。

アトラクとナクアは驚いたように視線を上げた。

「それと、きみももとに戻れてよかったね」と天はアトラクを見つめて微笑んだ。

 アトラクとナクアは思わず「女神様……」と呟き、天を見つめたまま硬直した。天の発言に驚いた様子で、目を点滅させながら頭の中で必死に計算しているようだった。

しばらくして、「ピピッ!」という電子音が鳴ると、二人は互いに見つめ合い、頷いてから天に視線を戻した。

「天様の寛容なお心に感謝いたします」アトラクは丁寧に一礼した。

「そ、そんなに畏まらないで……!」

天は恥ずかしそうに頬を染め、手を突き出して振った。周囲を一瞥すると、登校中の生徒たちが物珍しいものを見ているような目を向けていた。

そんな周囲の状況を一切気にせず、ナクアは宣言した。

「もし、何かお困りごとがございましたら、いつでも“ボク”にお申し付けください。天様のためなら、この“ナクア”、命を懸けてお守りします!」とナクアはアームで自分を指し示した。

 その発言にアトラクがムッと反応し、ナクアに視線を向けた。

「ナクア、まさか自分だけ天様の好感度を上げるつもりですか?」と鋭く問い詰めると、ナクアは図星をつかれたようにビクッと震えた。

「そんなこと、許しません!」天に視線を戻したアトラクは、強気に言い切った。

「この“アトラク”、天様が色神学園で安全に過ごすため、すべての危機を事前に解決いたします」

「そんなの無理に決まってるだろ! ボクより弱いくせに……!」とナクアは言った。

「それは聞き捨てなりません! ボクはナクアよりもはるかに高性能なんですから!」とアトラクは即座に反論した。

「なに!? なら、やってみるか!」ナクアは内蔵された銃を構え、ドリルを展開した。

「望むところです!」アトラクも同様に、内蔵された銃を構え、盾を展開した。

 睨み合うアトラクとナクアを目の前にして、天はどうしていいかわからず困り果てていた。

「ふ、二人とも……喧嘩はやめて……」と小さな声で制止するが、二人の聴覚器官には届いていないようだった。

さらに周りの視線も気になって、天の身体は次第に縮こまっていった。

二人が衝突しかけたその瞬間、天のスマートネックレスから突如、イリスの低い声が響いた。

「二人とも、いい加減にしないと……ただじゃおかないよ」

その声には圧倒的な威圧感が滲んでいた。

 その言葉を聞いた瞬間、アトラクとナクアはピタリと動きを止め、一瞬身を震わせた。静かに天の首元に視線を向け、まるで小動物のように怯えながら武器を収めた。

「ま、まあ、今日はこのくらいにしておこう」とナクアが声を震わせながら言い、「そ、そうですね……」とアトラクも力なく頷いた。

 天は安堵のため息をつき、二人を見つめると、「アトラクちゃんとナクアちゃん、これからよろしくね!」と笑顔で言った。

「はいっ! よろしくお願いします!」アトラクとナクアは声を揃えて、元気よく答えた。

「じゃあ、またね」

天は向き直り、一歩ずつ色神学園へと足を踏み入れていった。

 アトラクとナクアは、天の背中を見つめながらアームを振り、その姿が見えなくなるまで見送った。


 待ち合わせ場所の中央広場に着くと、すでに神楽がベンチに腰を下ろして待っていた。

神楽は正面の空間に向かって誰かと話していた。

そこに幽霊の奏がいるとは知らず、天はましろんを左手に装着して、駆け寄った。

「おはニャ!」とましろんは言った。

「おはよー」と神楽は返した。

「ごめんニャ、待たせちゃって」

「わたしも、ちょうど来たところよ」

 ましろんは周囲を見渡し、口を開いた。

「今日は、かニャでさん、いニャいニャ?」

「ん……? ここにいるけど……」神楽は虚空を示した。

「え……?」天とましろんはそこに視線を向けたが、何も見えず戸惑いの色を浮かべた。

「もしかして……」神楽は天の額にそっと触れた。「やっぱり、霊符がはがれてる」

「ニャっ、いつの間に……!?」

 天は慌てて額を押さえたが、指先には肌の感触しかなかった。

「おかしいわね……霊力のない人は、触れないはずだけど……」神楽は怪訝な表情で天を見つめた。

 その言葉で、天ははっと気づいた。

(あ……たぶん、桜ちゃんがはがしたんだ。まずい、怪しまれてる。どうにかして誤魔化さないと……でも、どうすればいいの!?)

 天は心の中で取り乱し、表情にも滲み出ていた。

 神楽は天の焦る姿を見てため息をつき、ゆっくりと口を開いた。

「……きっと何かの拍子にはがれたのね。もう一度貼り直すから、少しこっちに寄って」

 天は、神楽のやさしい声に従って身を寄せ、静かに目を閉じた。

 神楽は胸元から霊符を一枚取り出し、天の額にそっと貼った。次の瞬間、天の体が淡く光り、霊符はふっと消えた。

「これでよし。もういいわよ」

 その言葉で、天はゆっくりと目を開け、神楽と奥に立つ半透明の奏を見つめた。

「あ、奏ニャン。おはニャ」とましろんは軽く一礼した。

「おはようございます」と奏も丁寧に返した。

「それじゃあ、行こっか」と神楽は言い、歩き出した。

 天と奏も、そのあとを静かに歩き出した。


 天たちは色神スーパーアリーナの隣を歩いていた。

天はその壮大な外観に思わず目を見開いた。

アリーナ周辺では、大人気ロックバンド――ヒルシカのライブ準備が進み、多くの人々が慌ただしく行き交っていた。

少し先に、ヒルシカの彗星と那歩、そして奏音がいた。

 天たちは足を止め、アリーナの物陰に身を潜めて静かに見つめた。

「お願いだ。もう奏音しかいねぇんだよ」と那歩は手を合わせて何かを頼み込んでいた。

「おれには無理だ。お前もわかってんだろ」と奏音は少し悔しそうに返した。

 彗星は険しい表情を浮かべ、悩んでいるようだった。

 ヒルシカの二人は、明らかに何か困っている様子だった。

 神楽は様子を見て、小さく呟いた。

「何か困ってるのかしら?」

「そんな感じニャ……」とましろんも目を細めた。

 そのとき、彗星がふと天たちのいる場所に視線を向けた。そして、ましろんに気づくと、慌てて駆け寄ってきた。

「スイ、どうした!?」と那歩が呼びかけたが、その声は彗星には届かなかった。

 天たちは慌てて身を隠したが、すでに遅かった。

 彗星は天を見つけると、「おはよー!」と明るく言った。

「お、おはニャ」とましろんは少し気まずそうに返した。

「こんなところで、何してるの?」

「えーっと……ちょっと、お散歩中だったニャ……」

「……そっか」彗星はわずかに笑ったが、すぐに目を伏せた。

「……今日のライブ、楽しみにしてるニャ」とましろんは言った。

 彗星はわずかに肩を落とし、気まずい沈黙が流れた。

(えっ!? な、なんでそんなに落ち込むの!? もしかして、わたし、何か変なこと言っちゃった!?)

 天が心の中で焦っていると、彗星は重い口を開いた。

「……実は今、とっても困ってて……」

 彗星は事情を聞いてほしそうな目で天を見つめた。

「……ど、どうしたんニャ?」とましろんは慎重に尋ねた。

 彗星はゆっくりと説明した。

「……ライブで演奏予定だったギターとキーボードが、体調不良で来られなくなったの。ギターなら那歩くん一人でも大丈夫だけど……代わりのキーボードがどうしても見つからなくて……それで、奏音くんにお願いしてるんだけど、“無理だ”って断られて……」

「そ、そうニャんだ……」

 彗星は気持ちを切り替え、真っ直ぐに天を見つめて言った。

「そこで、天ちゃんにお願いがあるんだけど……! わたしたちと一緒に、ライブで演奏してほしいの!」

「ニャ……ニャニャ!?」

 天とましろんは目を丸くし、言葉を失った。

「……天ちゃんの演奏なら申し分ないし、すぐに合わせることもできると思う。ね、どうかな?」と彗星は手を合わせて頼み込んだ。

 わずかな沈黙のあと、天はようやくはっと我に返り、ましろんが戸惑いながら口を開いた。

「す、すごく光栄ニャことだけど、いきニャりライブ演奏ニャんて、さすがに無理ニャ!」

「そんなことないよ! 天ちゃんならきっとできる。……それに、わたしたちのライブは顔も出さないから、身バレの心配もないよ」

 彗星は身を乗り出す勢いで天に迫った。

 天は彗星の圧に耐えられず、身を引いて目を逸らした。

(憧れのスイさんにそう言ってもらえるのは、嬉しい……でも、人の多いところで演奏なんて、絶対に無理! もし失敗したら、大変なことになっちゃう!)

 天の心は、嬉しさと戸惑いがせめぎ合っていた。

 そのとき、神楽がそっと身を寄せ、天の耳元で囁いた。

「ねぇ、これってチャンスじゃない?」

「ニャ……?」とましろんは返した。

「あなたが申し出を受け入れて、西奏音を誘えば、きっと断らないはず……それで、一緒に

演奏すれば、彼もまたピアノを弾けるようになるかもしれないわ」

「そ、そんニャ簡単にはいかニャいニャ。それに、天ニャンも人前で演奏するのは苦手ニャ」

「天ならきっと大丈夫。ね、やってみましょう!」

「い、いやニャ~」

「そんなこと言わずに、ね?」

 その間、那歩と奏音も、天たちのもとへやってきた。

「何やってんだ、スイ?」と那歩が尋ねた。

「今、大事な交渉中だから、ナブはちょっと黙ってて!」と彗星は素っ気なく返した。

「お、おう……」那歩は口を閉じた。

 一方、奏音は目を見開き、興味ありげに天を見つめた。

「シエルの生演奏か……見てみたいな……」

 奏音の言葉を聞き、神楽は天に詰め寄った。

「ほら! 奏音くんも天の生演奏に興味があるから、さっきの作戦で行きましょう」

「い~や~ニャ~」とましろんはそっぽを向きながら拒否した。

 すると、奏がふわりと近づき、真剣な表情で言った。

「天さん、わたしからもお願いします」奏は頭を下げて頼んだ。

「か、かニャでさん!?」とましろんは思わず声を上げたが、すぐに手で口を塞いだ。慌てて奏音に目を向けると、彼は考え事に集中して聞こえていなかったようだ。ましろんはほっと息をつき、奏に視線を戻した。

 奏は顔を上げ、真っ直ぐな眼差しで天を見つめながら言った。

「……天さんの演奏を間近で聴けば、奏音も何かを掴めるかもしれません。それに、天さんがそばにいるだけで、安心してピアノと向き合えると思うんです」

「で、でも……」

「どうか、お願いします」奏は再び丁寧に頭を下げた。

 やがて、天は屈し、ましろんがため息をついて静かに口を開いた。

「……わかったニャ。そのお願い――天ニャンが引き受けるニャ!」

 その瞬間、彗星はぱっと明るい表情で言った。

「ありがとう、天ちゃん!」

「その代わり……ひとつ、条件があるニャ!」

「……条件?」

 ましろんは奏音を指差して言った。

「……かニャとくんも、天ニャンと一緒に演奏してほしいニャ!」

 視線が奏音に集まった。

「なっ……!?」と奏音は思わず声を漏らし、目を見開いた。

「それが、参加の条件ニャ」とましろんはきっぱりと言い切った。

「ちょっと待て! なんでおれまで……? あんた一人でも十分だろ!」

 ましろんは首を横に振った。「天ニャン一人じゃ、物足りニャいニャ」

「そんなわけあるか! てか、おれが弾けないの、あんたも知ってんだろ? ライブ演奏なんて無理に決まってる!」奏音は悔しそうに唇を噛みしめた。

 天は思わず身を乗り出し、手を伸ばして奏音の手をそっと握った。

「なっ……!?」奏音は一気に頬を赤らめた。

「大丈夫……あなたなら、きっとできる」と天は囁くように呟いた。

 その言葉に、奏音は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、不思議と安心したように肩の力を緩めた。やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……わかった。そこまで言うなら、やってやる」

 奏音の瞳には、迷いを断ち切ったような覚悟の光が灯っていた。

「ただし、どうなっても知らねぇからな!」と奏音は言い放った。

 こうして、天と奏音は――人気ロックバンド『ヒルシカ』のライブでともに演奏することになった。

「任せたわよ、天」と神楽は託し、奏も一礼して、天を見送った。

 天たちは会場に足を踏み入れ、他の出演者たちに軽く挨拶したあと、すぐに音を合わせた。限られた時間の中で、ライブの内容をすべて頭に叩き込まなければならないため、誰もが必死に励んだ。

 奏音の手はまだ強張り、途中で音が途切れることも多かった。そのたびに演奏は止まり、空気が張りつめた。

 奏音は悔しげな表情で、諦めを口にした。

「やっぱり、無理だ……。このままじゃ、ライブを台無しにしちまう」

 彗星と那歩は、眉をひそめ、かける言葉が見つからないようだった。

 そんな奏音の様子に、天の胸にじわりと焦りが広がった。

(ま、まずい……奏音くんが弱気になってる。せっかくやる気になってくれたのに……なんとかして励まさないと……!)

天はやさしく声をかけた。

「大丈夫……もう一回、やってみよう」

一瞬、沈黙が落ちた。だが奏音は小さく息をつき、天を信じて、再び鍵盤に指を滑らせた。

 その様子を、神楽と奏は会場の端で黙って見守っていた。

しばしの休憩中、天は楽譜を念入りに見つめ、奏音は真剣に鍵盤に向かっていた。奏音の肩は不自然に上がり、緊張が指先まで伝わっていた。

そのとき、一色が慌てた様子でアリーナに駆け込んできた。

「天様!」

 その声で、天は手を止めて目を向けた。一色が近づいて来るのを見て、慌ててましろんを装着した。

 一色は天のそばで足を止め、息を整えてから丁寧に挨拶した。

「おはようございます、天様、ましろん様」

「おはニャ」とましろんは返した。

「本日も色神学園にお越しいただき、誠にありがとうございます」

「お邪魔してるニャ」

「……ところで、天様」

「ニャ……?」

 一色は目を輝かせ、身を乗り出す勢いで迫った。

「……今宵、ヒルシカさんのライブに出演なさるとお聞きしましたが、どうやら本当のようですわね!」

「ニャニャ……ニャンで一色ニャンが知ってるニャ!? まさか、どこかで情報が漏れて、天ニャンの正体も――!?」

 一色は胸を張って断言した。

「ご心配には及びません。知っているのは、わたくしだけですわ!」

「そ、そっか……」ましろんは胸を撫でおろした。「でも、一色ニャンは、どうやって天ニャンのことを知ったんニャ?」

「うふふ、秘密ですわ」

一色は笑って誤魔化したが、ふと天の胸元に目を留めた。その瞬間、ネックレスが微かにキラリと光った。

一色は天の手をそっと握り、笑顔で言った。

「今夜のライブ、楽しみにしていますわ!」

「ニャ……一色ニャンも見に来るニャ?」

「色神学園の生徒が出演するライブですもの。当然ですわ」

「一色さんは、毎回必ず見に来てくれるんだよ」と彗星が補足した。

「そうニャンだ……!」

「彗星さんの透き通る美しい歌声は、いつ聴いても心の奥に響いて、わたくしを癒してくれるのです」

「えへへ……それほどでも……」彗星は照れ笑いを浮かべ、頭を掻いた。

「今日も応援していますね」

「うん、頑張る!」

 和やかな雰囲気の中、一色は奏音に目を向けた。

「……ところで、まさか、あなたまで出演なさるとは思ってもみませんでした。西奏音さん」

「……なんか文句でもあんのか?」と奏音は眉をひそめ、不愛想に言った。

「いいえ、むしろ嬉しく思っていますの。あなたが人前で演奏する姿をまた見られるので……」

「フン……!」

「あ、そうですわ。あなたが最後まで無事に演奏できるように、神様に祈りでも捧げましょうか?」

「んなもんいらねぇよ! 練習の邪魔だ、もう帰れ!」

「言われなくても、そのつもりですわ。では、天様、失礼いたします」

 一色は一礼し、会場を後にした。

 その後、天たちは最後のリハーサルに全力を注ぎ、そして――開演の午後六時を迎えた。


 色神スーパーアリーナの客席は、主に若者を中心に満員となっていた。アルカナ・オースの仲間や〈フリーデン〉のエージェント、ウィッチサバイバル部のメンバーや『色神の森』のスタッフなど、それぞれの人格と顔見知りの姿がちらほらとあった。

 ヒルシカのライブでは、演者の顔が客席から見えないようになっているため、天の正体に気づく者はいないはずだ。

 開演前、天は舞台袖から客席をそっと覗き込んだ。あまりの人の多さとざわつきに圧倒され、身を縮こまらせた。

「ま、ましろん、どうしよう……人がいっぱいいるよ」と天は小さな声で言った。

「ヒルシカのライブは、いつもこれくらいニャ」とましろんは冷静に返した。

「そ、そうだけど……なんか、すごく緊張してきちゃった……」

「天ニャンニャら、絶対に大丈夫ニャ!」

 ましろんは天の肩にそっと手を乗せた。

 天の胸の奥に、じんわりと安心感が広がった。天は深く息をつき、笑顔で言った。

「ありがとう、ましろん」

「ニャ!」とましろんは返したが、すぐに真剣な表情で奏音に目を向けた。

「それより、かニャとくんの方が心配ニャ……」

 奏音は険しい表情でわずかに震える自分の手を見つめていた。その様子から緊張が伝わってくる。結局、リハーサルでもまともに演奏できず、本番を迎えてしまい、悔しさともどかしさを滲ませていた。

 気づけば、天は一歩踏み出し、奏音に歩み寄ると、彼の手をそっと両手で包み込んだ。

「なっ……!?」奏音は頬を赤らめ、言葉を失った。

 天は目を閉じ、祈るようにやさしく呟いた。

「大丈夫、怖がらないで。ピアノは、あなたの味方だよ」

 奏音は一瞬目を見開いたが、次第に緊張がほぐれ、手の震えも治まった。

 天は手を離し、笑顔で言った。

「ライブ、楽しもうね!」

「お、おう……」

 奏音は拳を握りしめ、真っ直ぐに前を見据えた。その瞳には、覚悟が宿っていた。

 ステージに上がる直前、天たちは舞台袖で円陣を組み、気合を入れた。

「ここまで、本当にいろいろあったけど……今日、こうして集まれた。それだけで、もう最高だ。このメンバーなら、絶対にいいライブになる。みんな、楽しんでいこうぜ!」

 那歩の声かけに、全員が「オー!」と応じ、それぞれステージに上がった。

 天は電子ピアノの前に立ち、隣のピアノには奏音が並び立った。

それぞれが配置に着くと、会場が静寂に包まれた。やがて朗読が流れ出し、約二時間にわたるライブが静かに幕を開けた。

 朗読が終わると、場内の照明がすっと落ち、次の瞬間、重低音の効いたロックサウンドがステージから炸裂した。観客席を震わせた音は、一瞬で会場の空気を熱気に包んだ。

ステージ後方のスクリーンには、穏やかな波打ち際の映像が映し出され、旋律に合わせて流れる水面や吹き抜ける風へと切り替わっていく。映像と音楽が溶け合い、観客はまるで夢の中を漂っているかのような感覚に包まれた。

 天は喉の奥に緊張を感じながらも、深く息をつき、鍵盤に意識を集中させる。続けて奏音も和音を重ね、二つの旋律が溶け合う。

彗星の透明な歌声が重なると、空気はさらに澄みわたり、観客の心を静かに震わせていった。観客の中には、知らず涙を浮かべる者もいた。

 出だしは完璧だった。限界まで重ねた練習の成果が、音の一つひとつに宿っていた。

 だが、二番に差しかかったその瞬間――奏音の指が一瞬止まり、音が途切れた。

 天は一拍も遅れずに気づき、滑らかな旋律で奏音の隙を埋めた。

観客の中には、一瞬の静寂に気づいた者もいたかもしれない。しかし、天の滑らかな旋律がすぐに繋がりを取り戻し、音楽の流れは決して途切れなかった。

奏音は歯を食いしばり、拳を握りしめた。その手は鍵盤からわずかに浮いたまま、動けずにいた。その瞬間、隣で演奏するピアノ旋律が、奏音の耳に響いた。隣を見ると、楽しげにピアノに向き合う天の姿が目に映った。

ふと目が合うと、天の表情は穏やかで、まるで「大丈夫」と言っているかのようだった。その瞬間、奏音の中で何かが解けた。再び指を鍵盤へと滑らせる。今度は迷いがなかった。

天と奏音の旋律は、まるで対話するように絡み合い、力強さと繊細さを同時に奏でていく。

二人の電子ピアノが生み出す音は、バンドの演奏と彗星の歌声と混ざり合い、会場全体をやさしく包み込んでいった。

そして――一曲目が終わる。最後の和音が静かに響き終わると、一拍遅れて会場が拍手に包まれた。しかし、余韻に浸る間もなく、次の曲へと突入した。今度はアップテンポなナンバーだ。ドラムのリズムに合わせて、照明が点滅し、会場が再び高揚感に包まれた。

その曲の途中でも、奏音は手が緊張し、音が止まりそうになったが、なんとか踏ん張って指を滑らせた。いつの間にか、彼の演奏には力強さと楽しさが滲んでいた。

天もまた、身体を軽く揺らしながら鍵盤を叩き、音楽を心から楽しんでいた。

二曲目が終わると、朗読が始まり、一息つくことができた。

 天と奏音は互いに視線を交わし、満足げに頷き合って、ピアノと向かい合った。

すぐに次の曲が始まるため、気を抜く暇もなかった。だが、天を含む全員がライブに夢中で、もはや緊張すら力に変えていた。

それから半分の内容を終えた頃、奏音はすっかりとピアノを弾けるようになっていた。途中で手が強張る様子もなく、むしろ生き生きと楽しげに演奏し続けていた。

その様子に、天、彗星、那歩、神楽、一色は静かに微笑んだ。

奏は目尻を潤ませながら、ただ静かに奏音の演奏を見守っていた。

朗読が流れる間、天はそっと席を離れ、控えていたギターを肩にかけた。そして次の曲からは、ギターを弾き始めた。

ピアノはすでに、奏音ひとりで十分な響きを奏でていた。そこで天は、もう一人欠けていたギターを埋めるように音の流れに加わった。那歩のギターを邪魔しないようにしつつ、超絶テクニックを披露して、観客を沸かせた。

最後の一曲を弾き終え、朗読で締めくくると、多くの観客たちが満足げな表情で拍手を送った。

拍手が鳴り止まぬ中、天たちはステージ上で深く一礼し、静かにその場を後にした。

 舞台袖に戻ると、彗星、那歩、奏音、そして他の演者たちも、ライブの成功を噛み締めながら喜びを分かち合っていた。

 一色も心から拍手を送り、それぞれを称えた。

 興奮の余韻を残したまま、舞台袖に戻ってきた天は、次の瞬間、力が抜けたように前のめりに崩れかけた。だが、寸前で足を前に出して踏ん張ったのは、翠だった。

 天の意識は活動限界を迎え、強制的に切り替わった。天はすでに『アルカンシエル』の自室で眠りに落ちた。

「お疲れ様でした、天さん」

翠はやさしく呟き、すぐに視線を上げて周囲を見渡した。即座に状況を把握し、一色に歩み寄って小声で言った。

「一色さん、わたしはこのまま帰りますので、あとはお願いします。皆さんに、“誘ってくださってありがとうございました”と伝えてください」

 一色ははっと気づき、小声で返した。

「承知しました、お任せください」

 翠は一色に託し、影のように会場を後にした。

 しばらくすると、奏音は周囲を見渡し、天がいないことに気づいた。

「ん? おい、天はどこだ?」

 彗星や那歩も辺りを見渡し、天を探し始めると、一色が冷静に説明した。

「天様は、お帰りになられましたわ」

「えっ、もう帰っちゃったの!?」と彗星が声を上げた。

「初めてのライブ演奏で、お疲れになられたようです。皆様に『誘ってくれてありがとう』とおっしゃっていましたわ」

「お礼を言いたいのは、わたしたちの方なのに……」

「感謝の気持ちは、また今度、直接伝えましょう」

「うん……そうだね」

 一色の自然な促しに、みんな渋々納得したようだった。


 星が輝く夜空の下、翠は一人で色神学園の並木道を歩いていた。

「まさか、天さんがあんなに多くの人たちの前で演奏するなんて、とても驚きました」翠は驚きつつ、嬉しさを滲ませた。

 スマートネックレスから、イリスの声が響いた。

「成り行きで決まったことだけど、天ちゃんも心から楽しんでくれてよかった」

「そうですね」

 そのとき、背後から少女の声が聞こえた。

「ねぇ、ちょっと待って、天!」

 翠は足を止め、ゆっくりと振り返った。視線の先に、神楽が立っていた。彼女の肩には、白鳩のひみこが静かに乗っていた。どうやら、ひみこが翠を見つけ出したようだった。

(彼女はたしか……呉橋神楽さん。まずいですね……誰にも気づかれずに出てきたつもりでしたが、彼女の目だけはごまかせなかったようですね。さて、どうしましょう)

 翠は冷静に考え込んだ。

 神楽は静かに歩み寄り、真っ直ぐに見つめながら口を開いた。

「ほんっっっとにありがとう、天! あなたのおかげで、西奏音がまたピアノを弾けるようになったわ!」

 翠は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐに冷静に返した。

「い、いえ、わたしは何もしてません。彼の努力が報われただけです」

「そうかもしれないけど、そのきっかけを作ったのは、間違いなくあなたよ」

「……それなら、よかったです」

「奏さんを魂送するための、大きな一歩になったわ。この調子で、頑張りましょう!」

「え、あ、はい……」

「次は、いつが空いてる?」

「あ……えーっと、来週の水曜日なら……」

「来週の水曜ね。待ち合わせは、色神学園でいいかしら?」

「うん」

「了解……。それじゃあ、あなたも疲れているでしょうし、今日はここまでね。また来週、よろしくね!」

「……うん、よろしく」

「じゃ!」

 足早に立ち去る神楽を、翠は軽く手を振って見送った。神楽の姿が見えなくなるや否や、一気に緊張をほどき、深く息をついた。

「ふぅー、どうにかバレずに済みました」

「お疲れ様、翠さん」とイリスが労いの言葉をかけた。

 翠は素早く周囲を見渡し、警戒を滲ませた声で呟いた。

「また誰かに見つかる前に、早く帰りましょう」

「そうだね」とイリスも同意した。

 翠は速やかに色神学園を後にした。



読んでいただき、ありがとうございました。

次回もお楽しみに!

感想、待ってます!

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