ヴラド・トランシルヴァニアの秘密
ヴラド・トランシルヴァニアには二歳年下の妹がいる。名はラドゥ・トランシルヴァニア。彼女もまた、ヴラドと同じくヴァンパイアとしての力を受け継いでいた。
ラドゥは輝く銀髪に、右目が深紅、左目が青いオッドアイを持つ。小柄な体格はヴラドとほぼ同じだが、姉とは対照的に純白のゴスロリ風の衣装を纏い、その手には愛らしいコウモリのぬいぐるみ――ツェペシュをいつも大切そうに抱えている。
ヴラドとラドゥは非常に仲が良い。テラスに並んで座り、景色を眺めながら紅茶を楽しむこともあれば、ボードゲームで盛り上がり、静かに本を読む穏やかな時間を共有することも多い。
しかし、ヴラドが任務に出ると、ラドゥは屋敷で留守番することになる。
彼女はある理由から、屋敷の外に出ることを禁じられていた。任務に出かけるヴラドを、ラドゥはいつも心配そうに送り出していた。
屋敷はとある森の中にあり、周りを強力な結界――目隠しと探知を兼ね備えた結界で覆われている。屋敷の周囲には、アルカナ・オースの護衛が数人常在し、ラドゥを守っていた。
ラドゥは人々との交流が少ないため、今では信頼できる人が姉のヴラド、ぬいぐるみのツェペシュ、側近警護のシンファ(星華)しかいない。
ラドゥが屋敷から出られない理由は、天使から身を隠すためだ。ラドゥの体には特別な血が流れており、それゆえ天使たちに狙われている。過去に、天使に襲われたことがあった。そのため、ラドゥは屋敷から出られないことに関して、仕方がないと自分に言い聞かせていた。
十年前、当時六歳のヴラドと四歳のラドゥは、両親とともにヨーロッパの片田舎で穏やかで幸せな日々を送っていた。
両親はアルカナ・オースに所属しており、父親は魔法使い、母親はヴァンパイアの末裔だった。二人ともとてもやさしく、娘二人を心の底から愛していた。小さな一軒家で、家族四人は笑顔の絶えない日々を過ごしていた。
しかし、ある日、四人が暮らす家に突然女の天使が現れた。
天使は煌びやかなドレスを身に纏い、身長と同じ長さの金髪を輝かせ、ガラスの靴を履いていた。
女天使は、まるで普通の来客のように、玄関のドアをノックして現れた。
父親はドアを開け、「どちら様でしょうか?」と落ち着いた声で尋ねた。
「ここに『希少なる血』を持つヴァンパイアがいると聞いて、訪ねてきたでありんす。……そいつは、誰でありんすか?」と女天使は淡々と問いかけた。
その言葉を聞いた瞬間、父親は反射的に魔法の杖を手に取り、女天使に向かって強力な攻撃魔法を放った。同時に母親は、娘二人を抱きかかえて部屋の隅に連れて行き、そこで覆いかぶさるように匿った。突然のことに驚き、恐怖で身体が震える二人を、母親は強く抱きしめた。
ヴラドは頭を低くし、冷静になろうと深呼吸を繰り返した。一方、ラドゥは恐怖に怯え、体を震わせながら、ぬいぐるみのツェペシュを、まるで命綱のように強く握りしめていた。
玄関は煙と砂埃が舞い上がり、ドアは粉々に砕け散っていた。窓は割れ、壁にもひびが入っていた。
視界が晴れると、無傷の女天使が悠然と姿を現した。
「まったく、いきなり砂を巻き上げるなんて、失礼極まりないでありんすね」
女天使は、何事もなかったかのように、優雅な仕草でドレスについた砂埃を払った。
その圧倒的な強さを悟った父親は、即座に娘たちを振り返り、緊迫した表情で「逃げろ!」と声を張り上げた。
母親はすぐさま状況を察し、娘二人を強く抱きかかえると、迷わず壁を突き破り、外に飛び出して全速力で駆け出した。次の瞬間、背後で家が激しく爆発し、炎と煙が立ち上る。その中で、父親と女天使の激しい魔法の応酬が始まった。
ヴラドとラドゥは、女天使に向かって魔法を放ち続ける父親の背中を見つめていた。やがて父親の姿が遠ざかり、その背中が小さくなるにつれ、二人の胸には「もう会えないかもしれない」という恐怖がじわじわと広がっていった。
ヴラドとラドゥは遠ざかる父親に向かって懸命に手を伸ばした。だが、その手が掴んだのは虚しい空気だけだった。二人の目から涙が止めどなく溢れ、視界が滲んだ。その様子に母親も気づいていたが、唇を強く噛みしめながら悔しさを押し殺し、決して足を止めなかった。やがて、父親の姿は完全に見えなくなった。
数分後、家から十数キロ離れた地点で、母親がふと立ち止まり、家のあった方角に視線を向けた。その瞳には涙が滲む一方、深い決意の光が力強く宿っていた。
その表情を見たヴラドとラドゥは、父親の死を悟り、堰を切ったように涙を流した。
母親は抱きかかえていた二人をそっと地面に降ろし、静かに膝をついて同じ目線になった。やさしく肩に手を置き、「ここから先は、あなたたち二人で逃げなさい」と、努めて落ち着いた声で言った。だが、頬には止まることのない涙の跡が流れていた。
「え!?」二人は声を揃えて驚いた。続けてラドゥが「母上はどうするの!?」と不安な表情を浮かべ、尋ねた。
「お母さんは、お父さんの手伝いに行ってくるわ」
「それなら、ラドゥも行く!」ラドゥは母に身を寄せた。
「ダメよ! あなたたちは全力で逃げなさい!」
「ヤダ、母上と離れたくない!」
「大丈夫。天使をやっつけたら、お父さんと一緒に迎えに行くから」母親は涙を浮かべながら微笑んだ。
「ヤダー!」ラドゥは声を張り上げ、必死に母親の腕を掴んだ。小さな手に力を込め、(ここで別れたら、もう二度と会えない)と本能で悟っていた。その胸を刺すような痛みは、ヴラドの心にも深く突き刺さっていた。
母親も決して譲らなかった。ここで自分があの女天使を足止めしなければ、家族全員殺されると悟っていた。
母親はラドゥの瞳をまっすぐに見つめ、肩を掴む手にやさしい力を込めた。
「ラドゥ……お母さんは、あなたのやさしいところが大好き。これからもそのやさしさを大切にしてね」と母親は涙を浮かべながらも微笑んで言った。
次にヴラドに視線を向けた。
「ヴラド……あなたの純粋なところが、お母さんは大好き。ラドゥを頼んだわよ!」
母親は娘二人を両腕でしっかりと抱きしめた。二人もそれに応え、ギュッと抱きしめた。
ラドゥは「ヤーダー」と泣き喚き、ヴラドは大粒の涙を流しながら、唇を強く噛みしめていた。
「二人とも……お母さんは、ずっとずっと大好きよ。いつまでも、あなたたちを愛しているからね!」
母親は涙を堪え、最後に二人をぎゅっと抱きしめると、ゆっくりと手を離し、覚悟を決めた表情で立ち上がった。静かに宙に浮き上がると、振り返り、閃光のような速さで来た道を戻っていった。
ラドゥは泣きながら母親の後を追って行こうとしていたが、ヴラドが彼女の手を掴み、引き止めた。
ヴラドは心の奥底に痛みを抱えつつ、冷静さを装っていた。泣きじゃくるラドゥを見つめるたびに胸が痛み、その苦しさに耐えながら、彼女の首筋にそっと手刀を当てて眠らせた。涙を流し続けるラドゥを抱きかかえ、その場から一気に飛び去った。
小一時間、ヴラドは全速力で飛び続けていた。体力が消耗し、視界もかすみ始めていた。次第に飛ぶスピードが遅くなり、途中で「プツン」とエネルギーが切れ、二人は地面に落ち始めた。落下速度が徐々に加速し、地面が目前に迫ったその瞬間、暗闇の中から黒い影が疾風のごとく現れた。その影が、地面に衝突する寸前の二人をしっかりと抱きかかえた。
ヴラドは黒い影の腕の中で、かすれゆく視界の中、彼の顔を見た。
「ヴラド! 大丈夫か!? しっかりしろ、ヴラド!」
彼の力強い声が、遠くから聞こえてきた。しかし、ヴラドの体はもう限界だった。
ヴラドはかすれた声で「サ……タ……ン……」と名を呼び、視界が完全に暗転する中で、静かに意識を失った。
ヴラドが目を覚ますと、視界に映ったのは見慣れない白い天井だった。自分がベッドの上で横たわっていることに気づき、ゆっくりと上体を起こして周囲を見回す。隣のベッドではラドゥが眠っており、彼女の小さな腕はツェペシュをしっかり抱きしめたままだった。頬には乾ききらない涙の跡が残っていた。
二人はアルカナ・オースの本部に運ばれていた。
ヴラドはベッドから降りて、寝ているラドゥのそばに歩み寄り、ベッドに腰を下ろして頭をやさしく撫でた。すると、ラドゥが「んっ、ん~」と小さく寝言のような声を漏らしたが、目を覚ますことはなかった。
そのとき、部屋のドアが静かに開いた。目をやると、高身長の若い男が部屋に入ってきた。
「ヴラド、目を覚ましたのか!」と彼は声を上げた。
「サタン……」
ヴラドが返すと、サタンはすぐさま駆け寄り、片膝をついて目線を合わせた。
「大丈夫か!? どこか痛むところはないか?」
彼の声には心配とやさしさが滲んでいた。
「大丈夫……」ヴラドは弱々しい声で答えた。
「そうか……」サタンは小さく息をつき、安堵の色を滲ませた。
サタンはアルカナ・オースで両親の信頼を得ていた仲間で、引き締まった体格と整った顔立ち、艶やかな黒髪が印象的だった。彼はトランシルヴァニア家が天使に襲われているという報告を受け、真っ先に助けに来たのだった。
「助けてくれて、ありがとう……」ヴラドはか細い声で感謝を伝えた。
「……いや、たいしたことはしてない。二人をここまで運んだだけだ」とサタンは答えつつも、どこか気まずい表情を浮かべた。
二人の間に静寂が訪れた。
サタンの曇った表情を見た瞬間、ヴラドの心の奥に重い現実が押し寄せた。まだ何も聞いてないのに、すべてを悟ってしまったかのような胸の痛みが彼女を襲った。心臓を締め付けられるような苦しさを感じながらも、ヴラドは必死にそれを飲み込もうとした。
「サタン、聞いてもいい?」ヴラドは真っ直ぐな目でサタンを見つめた。
「……ああ」サタンはヴラドの覚悟を悟った様子で見つめ返した。
「父上と母上は……無事なのか?」
サタンは眉をひそめ、苦しげな表情を浮かべた。ヴラドの視線を受け止めながらも、一瞬だけ目を逸らし、唇を噛みしめた。重苦しい沈黙が部屋を包み込む中、彼は深く息を吸い、絞り出すような声で告げた。
「……二人は……天使に……殺された……」
すでに悟っていたことではあったが、それが言葉となって突きつけられた瞬間、押し込めていた悲しみが一気に溢れ出した。これまでラドゥの前で必死に堪えていた涙が一瞬で決壊し、激しい嗚咽が止められなかった。
サタンは無言のままそっと腕を広げ、泣き崩れるヴラドをやさしく抱きしめた。その温もりに背中を預けたヴラドは、心の奥底から湧き出る悲しみを隠すことなく、ただサタンの胸の中で泣き続けた。
ヴラドの嗚咽が部屋に響き、ラドゥがその音に反応して目を覚ました。小さな手で目を擦りながらゆっくりと上体を起こし、ぼんやりとした表情でヴラドとサタンに視線を向けた。そして、不安げな声で尋ねた。
「お姉様……どうして泣いてるの?」
ヴラドはその声で、はっと我に返り、反射的に泣き止んだ。滲む涙を拭い、サタンから急いで離れると、精一杯の笑顔をつくってラドゥに微笑みかけた。
「おはよう、ラドゥ」
ラドゥは周りの異様な静けさに気づき、ヴラドとサタンの表情を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が押し寄せた。その予感が現実のものだと察したとき、ラドゥは大きな瞳から次々と涙をこぼし、悲しみと絶望に押しつぶされるようにベッドの上で泣き叫んだ。
ヴラドは急いで駆け寄り、ラドゥを力強く抱きしめた。家族と過ごした幸せな日々が走馬灯のように頭によぎり、自分も泣きたい衝動を必死に堪えていた。
二人を見つめるサタンは、その痛みが自分の胸にも突き刺さるのを感じた。彼は静かに目を伏せ、じわりと涙が目の端に浮かぶのを抑えきれなかった。
数日後、二人の心の傷はまったく癒えていなかった。特にラドゥの落ち込みが酷く、食事がまったく喉を通らず、笑顔も消え去り、生きる気力を完全に失っていた。
ラドゥは、自分の「レアブラッド」という特異な血が原因で両親が命を落としたと信じ込んでいた。その罪悪感は、彼女の幼い心を深く蝕み、悲しみだけでなく、自己嫌悪と絶望をも生み出していた。
やがて、アルカナ・オースの本部で両親の葬儀が行われた。サタンをはじめ、多くの仲間が深い悲しみに沈んでいた。
ラドゥは葬儀の間、終始泣き続けていたが、ヴラドは一滴の涙も流さなかった。母の最期の言葉が何度も脳裏をよぎり、そのたびに、その言葉を胸の奥深くに刻み込んでいた。
「妹の前では、絶対に涙を見せない。そして、あの天使を――必ず討つ!」
ヴラドは心に炎のような決意を灯し、復讐という冷たい刃が静かに研ぎ澄まされていった。
後に行われた調査報告によると、トランシルヴァニア家を襲撃したのは、七代天使の一人――ラプレラの可能性が極めて高いことが判明した。外見的特徴だけでなく、希少なものに強い関心を示す性格などから、過去に集められた七代天使の調査資料と完全に一致していた。今回は希少な血を持つラドゥを狙っての犯行だと、上層部は結論付けた。
両親の葬儀から一ヶ月が経過した。
ヴラドとラドゥは、アルカナ・オースの本部に匿われたまま毎日を過ごしていた。天使に狙われているラドゥにとって、ここが世界で一番安全な場所だった。
この一ヶ月の間、ラドゥは相変わらず落ち込んだままだったが、ヴラドは己を鍛え上げるための厳しい修行に励んでいた。サタンをはじめ、本部の仲間たちに次々と声をかけては、武器の扱い方から戦術、さらには天使の特性に関する知識まで、貪欲に学んでいった。すべては妹ラドゥを守るため、そして、両親の仇である七代天使――ラプレラを討つために。
ヴラドは痛みも疲労も意に介さず、限界を超えるまで己を追い込み続けた。その瞳には、悲しみを呑み込んだ冷徹な決意が静かに燃えていた。
それから二年の月日が流れた頃、ヴラドはアルカナ・オースの任務に参加していた。
力をつけたヴラドは、下級天使相手なら余裕で倒せるまでに成長していた。任務の傍らでラプレラの情報を探り続け、修行にも励んでいたヴラドは、さらなる強さを目指していた。
一方、ラドゥは少し回復し、食事をとれるようになっていた。しかし、表情はまだ暗く、決して笑わなかった。
そんなある日のこと、ヴラドは任務中に初めて上級天使と遭遇した。
天使は異様な姿をしていた。硬質で鈍く光る鎧のような皮膚が全身を覆い、ぬめりのある八本の長い脚が不気味に蠢いていた。頭上には天使の輪が煌めき、背中には純白の羽が広がっていたが、その神々しさとは対照的に、全体から漂う威圧感は禍々しいものだった。
ヴラドは決して油断することなく、初めから全力で臨んだ。だが、上級天使の力は圧倒的だった。ヴラドの血を活かした鋭い攻撃は、ことごとく躱され、力の差を思い知らされた。ヴラドがどんな攻撃を繰り出しても、上級天使の動きは常に一瞬先を読み、容易く躱してしまう。かろうじて命中した一撃も、鎧のように硬い皮膚に阻まれ、その衝撃をすべて無効化された。
ヴラドが強力な技を放つために力を溜め始めたその隙に、天使に一瞬で距離を詰められ、強烈な突き蹴りを叩き込まれた。その一撃でヴラドは重傷を負い、絶体絶命の危機に陥った。天使が目の前まで迫り、とどめの一撃を繰り出そうとしたその瞬間、空間を引き裂くような轟音が響き渡った。
風のような速さで駆けつけたサタンが、天使の背後から一瞬で急所を貫いた。
上級天使の動きはその瞬間で止まり、巨大な体が音を立てて崩れ落ちた。
意識を失ったヴラドは、そのままアルカナ・オース本部へと緊急搬送された。
目を覚ますと、かすれた視界の中に涙を浮かべたラドゥの顔が微かに見えた。左手に強く握られている感覚があった。
ヴラドはかすれた声で「ラドゥ……」と呟き、わずかに顔を左へ向けた。
「お姉様!」
ラドゥは身を乗り出し、両手でその左手をしっかりと握って、自分の額にそっと押し当てた。
「よかった……お姉様が無事で……本当によかった……!」とラドゥはすすり泣きながら言った。
「ラドゥ……ごめんね。お姉ちゃん、弱くて……」
「ううん。お姉様は弱くなんかない! この世界で誰よりも強くて、一番かっこいい!」とラドゥは声を震わせつつも、はっきりと言い放った。
「ありがとう……でも、このままじゃ、ダメだ……もっと強くならないと……ラドゥを守れない……!」ヴラドは悔しさを滲ませた。
「そんなことない。お姉様はいつもラドゥを守ってくれてる! ……ダメなのは、ラドゥの方だよ!」
「ラドゥは――」
ヴラドが言いかけたその瞬間、ラドゥは手をぱっと離して立ち上がった。
「ごめんなさい!」とラドゥは声を張り上げ、深々と頭を下げた。
「え……?」ヴラドは驚きで目を見開いた。
「いつもお姉様に、迷惑ばかりかけて……」
ヴラドは一瞬驚いたが、すぐに気持ちを切り替え、やさしい声で言った。
「迷惑だなんて、一回も思ったことないよ」
「違う……!」
ラドゥは強く首を横に振り、続けて言った。
「――ラドゥ、お姉様に甘えてた……お姉様は、あの日からずっと一人で頑張ってたのに、ラドゥは何もできなくて……現実から逃げてばかりだった!」
「そんなことは……!」
「でも、やっと気づいた。ラドゥのそばには、まだ大切な人が……お姉様がいるってことに!」
「ラドゥ……」
「お姉様が大怪我したって聞いたとき、胸が張り裂けそうなくらいつらかった。もし、お姉様までいなくなったら、耐えられない!」ラドゥは目に涙を浮かべた。
そんなラドゥを、ヴラドはやさしい目で見つめていた。
ラドゥは続けた。
「――だから決めたの。もう逃げない。ラドゥも強くなる。そして今度は、お姉様を守る!」
ラドゥの瞳には、長く失われていた強い輝きが戻っていた。奥底に宿る闘志が、両親を失ったあの日から閉ざされていた光を呼び覚ました。それは、ただの希望ではなく、生きる力そのものだった。
ヴラドの胸には、言葉にならない思いが込み上げていた。ラドゥの前では決して涙を見せないと誓っていたはずなのに、この瞬間だけはその誓いを破ってしまった。一粒の涙が頬を伝った。それは悲しみではなく、胸に溢れた喜びと安堵の証だった。
ヴラドは胸の奥で密かに(これはセーフ)と自分に言い聞かせ、涙を拭った。
二人はベッドの上で強く抱き合った。互いの温もりが、心の傷にそっと触れていく。もう一人じゃない――二人でなら、きっと乗り越えられる。そう確信したとき、胸に刻まれたのは、失った家族の代わりに支え合って生きていくという、静かで揺るぎない誓いだった。
五年の月日が流れる中で、ヴラドはさらに修行を重ね、上級天使との戦いにも技術と魔力を駆使して確実に勝利を収めるほどに成長していた。
ラドゥもまた、自身の潜在能力を引き出し、戦闘技術と魔力制御の両面でヴラドと肩を並べるほどの力を身につけていた。
二人が身につけたのは力だけではなく、強い精神力も備えていた。ヴァンパイアの性質ゆえに、二人の外見は年月が経ってもほとんど変わらなかった。まるで時が止まったかのように、美しさと強さを保ち続けていた。
ある程度実力を身につけた二人は、アルカナ・オース本部からの引っ越しを決意した。新たな住まいへの引っ越しは、二人にとって“自立”を示す大きな節目となった。
ラドゥは戸惑いながらも、新しい生活に向けて前向きな気持ちを抱き、ヴラドは妹とともに新たな一歩を踏み出す覚悟を決めた。
当然、上層部から反対されたが、サタンが支持してくれたおかげで、引っ越しすることができたのだった。ただし、制約は多かった。上層部も二人を心配してのことなので、仕方のないことだった。
新しい住まいは、サタンが見つけておいた場所だった。
実は、サタンは二人がいつか本部を離れて自立する日が来ることを見越し、数年前から理想の物件を探し始めていた。彼の深い計画性と配慮が、自然豊かな森の中にあるこの新たな屋敷へと二人を導いたのだった。それが現在も暮らしている森の屋敷だ。
二人が屋敷に引っ越した当日、ラドゥはツェペシュに魔力を与え、自由に動けるようにした。さらに、チャイナドレスにお団子ヘアという特徴的な姿のシンファも加わり、四人での生活が始まった。
シンファの鋭い眼差しと堂々とした立ち振る舞いは、ヴラドとラドゥに強い印象を与えた。中国拳法の達人であるシンファは、まるで嵐のような存在感を持ちながらも、芯には温かい人間味を感じさせる少女だった。
ヴラドは、シンファとともに修行を重ねる中で、深い絆を築いていった。
二人は互いに強さを追い求める同志として、日々の訓練に打ち込み、限界を超えるために切磋琢磨した。
シンファの中国拳法はヴラドにとって新鮮で、彼女もヴラドの能力を尊敬していた。
四人暮らしでは、ヴラドがアルカナ・オースの任務、ラドゥが家事全般、ツェペシュがその補佐、シンファが側近としての警護を担い、それぞれの役割を楽しみながら過ごしていた。
屋敷には広い書庫があり、そこには大量の本が並んでいた。ラドゥが退屈しないようにと、サタンが用意してくれたものだ。
サタンは定期的に新しい本を買って、寄贈してくれる。そのため、ラドゥは本を読んで過ごすことが多くなった。
シンファは修行三昧で、読書に興味なかった。
数ある本の中で、ラドゥが特に気に入ったものがあった。本のタイトルは、『スノーホワイト』。はるか昔に実在したとされる伝説的な大魔法使いの物語だった。
スノーホワイトが描かれた本は、古い革表紙に金の細工が施され、まるでそれ自体が魔法の力を宿しているかのような風格を持っていた。
ラドゥはその物語に惹き込まれるたび、スノーホワイトの勇気と覚悟を自分に重ねて、心の支えとしていった。
スノーホワイトは、白雪のように美しい容姿と強大な魔力を持ち、悪事を働く天使たちに立ち向かい、数々の壮絶な戦いを繰り広げたという。
ラドゥはその勇敢さに心を奪われ、何度も繰り返し物語を読み耽るようになった。
サタン曰く、「これは実話をもとにして書かれた本だよ」ということだった。
ラドゥは目を輝かせながらその本をヴラドに紹介し、ヴラドもすぐにその物語に惹かれていった。
ヴラドは、笑顔で楽しそうに本の話をするラドゥの姿を見て、自然と微笑んだ。一度は生きる気力を失いかけた妹が、ここまで回復してくれたことに、心の奥底から喜びを感じていた。
しかし、ヴラドの心の奥には、どんなに笑顔を見せようとも消えない影が潜んでいた。それは、自分の手で妹を自由にしてやるという執念だった。ラプレラを含む七代天使を打倒するという使命――それが、妹の未来を切り開く唯一の道だと信じていた。
その道が二人にどれほどの代償をもたらすのか――ヴラド自身も、その答えをまだ見つけられずにいた。ラドゥの穏やかな日常を守るため、ヴラドはその執念を胸に、今日も天使たちを追い続けた。
数年の月日が流れ、現在のとある日、ヴラドはアルカナ・オース本部でアリス・キャメロットを探していた。これまでいくつもの任務をともに遂行し、仲良くなっていたが、ここ数日姿を見かけていなかったため、心配していた。
通路でサタンと出くわすと、ヴラドは「お疲れ、サタン」と気さくに声をかけた。
「お疲れ様、ヴラド」とサタンは返し、続けて「誰か探しているのか?」と尋ねた。
「ああ、アリスを探しているんだが、知らないか? 最近見かけないから、ちょっと気になってな」
「アリスなら、今頃、日本にいるはずだ」
「日本……? どうしてそんなところに?」
その瞬間、サタンの表情が一変した。目を見開き、思わず口元に手をやる。普段冷静な彼がこうした動揺を見せることは極めて珍しい。それがヴラドに、何かただならぬ事態を予感させた。
ヴラドは敏感に察知し、「……何か隠してるな?」と鋭い眼光で、サタンの顔を下から覗き込みながら問い詰めた。
サタンは目を逸らしたが、ヴラドの圧倒的な眼差しに耐え切れず、口を覆っていた手を下ろして、深いため息をついた。真剣な表情でヴラドを見つめ、ゆっくり口を開いた。
「七代天使が……日本にいるという噂を聞いたことあるか?」
その瞬間、ヴラドは目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「なん……だと……!?」
「その様子じゃ、聞いてないようだな」
「それは本当なのか!?」ヴラドは身を乗り出して問いかけた。
「あくまで噂だ。信ぴょう性に欠け、本当かどうかわからない……だが、あり得ないとも言い切れない」
サタンは一呼吸おいて続けた。
「……上は調査することを決め、アリスが志願したんだ」
サタンの説明を聞くうちに、ヴラドの鼓動は速まり、わずかに震える指先を必死に抑えようとしていた。これが本当に七代天使へと繋がるのか、確信はまだ持てなかったが、落ち着いていられなかった。
(ついに……七代天使の尻尾を掴んだのか!?)
ヴラドが心の中で呟いていると、サタンが目を丸くして「ヴラド……?」と声をかけた。
しかし、その声はヴラドの耳には届かなかった。次の瞬間――彼女は通路を駆け出していた。
「ヴラド!」とサタンが呼び止めるが、ヴラドは振り返ることなく、そのまま本部を勢いよく飛び出した。
屋敷に戻ると、ラドゥとツェペシュが出迎えたが、ヴラドは二人の間を疾風のように駆け抜け、自室へと向かった。
部屋に着くと、すぐに日本へ飛び立つ準備を進めた。
キャリーケースに荷物を詰めていると、ラドゥが目を丸くして歩み寄り、「お姉様、何をしてるの?」と尋ねた。
「日本に行く準備だ!」とヴラドは即答した。
「にほん……?」
「はるか東の国にある島国だ」
「えっ、お姉様、外国に行くの!?」
「ああ……そこに、七代天使がいるかもしれない!」
その言葉に、ラドゥは目を見開き、一瞬硬直した。姉を失うかもしれないという不安と、自ら戦いの運命を選び続ける姉への尊敬が入り混じり、胸がざわついた。
「――十年ぶりの貴重な情報だ。このチャンス、逃すわけにはいかない!」とヴラドは興奮気味に言った。
ラドゥははっと我に返り、心配そうな表情を浮かべた。
「それって、本当なの……?」
「わからない。だが、確かめる価値はある。それに、余の直感も、そこに奴がいると告げている!」
「……大丈夫なの? 七代天使は今までの敵とは違うんだよ……!」
「心配するな。余は強くなった。必ず七代天使を倒してみせる!」
ヴラドは自信たっぷりに言ったが、ラドゥの心配そうな表情が変わらなかったため、さらに続けた。
「――大丈夫だ。日本にも頼れる仲間がたくさんいる――なんでも、あの“伝説の大魔法使い――スノーホワイト”に匹敵する力を持つ仲間もいると聞く」
「えっ、それってほんと!?」
「ああ……スノーホワイトのような仲間がいるなら、どんな敵でも恐れることはない!」
ヴラドが断言すると、ラドゥの表情が和らいだ。
「ついでに、東洋のスノーホワイトがどれほどの実力か、余がこの目で確かめてやろう」とヴラドは冗談っぽく言った。
「えっ……? どうやって?」
「そいつに会ったら、まずは先制パンチで挨拶してやる」
ヴラドが拳を突き出して言うと、ラドゥは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「フッ」と吹き出して笑った。「お姉様、本気で言ってるの?」と半分呆れたように言い、続けて「……会えるといいね」と微笑んだ。
準備を終えたヴラドは、キャリーケースを引いて玄関へと向かった。
ラドゥとツェペシュは、言葉もなくヴラドの背中を見つめ、その後を静かに追った。ヴラドの強さを信じている――それでも、胸の奥に芽生えた別れの予感が、二人の足を少しだけ重くしていた。
玄関を出ると、シンファが立ちはだかった。腕を組み、鋭い目つきでヴラドを見据えるその姿は、どこか冷気を纏ったような威圧感を放っていた。
ヴラドは足を止め、キャリーケースから手を離し、シンファを鋭い目つきで睨み返した。
二人の視線が交錯し、まるで空気が凍りつくかのような緊張感が場を支配した。
先に沈黙を破ったのは、ヴラドだった。
「シンファ、そこをどくのだ!」とヴラドは言い放った。
「その前に、行先を教えてくれアル」とシンファは返した。
「日本だ」
シシンファは驚いた様子を一切見せず、まるですでに知っていたかのように、真剣なまなざしでヴラドを見つめた。
「それは……任務、アルか?」
「ああ……余にとって、最も重要な任務だ!」
「そうアルか……」
シンファは目を閉じ、一瞬の静寂を作ったあと、ふっと肩の力を抜いたかに見えた。だが次の瞬間、驚くべき速さで顔を上げ、一閃の風のように間合いを詰めて、ヴラドの顔面へ鋭い拳を突き出した。
拳はヴラドの顔すれすれ、わずか数センチのところでピタリと止まり、その風圧が彼女の髪を大きく揺らした。
ヴラドはまったく動じることなく、その場に立ち続け、シンファの鋭い目を真っ直ぐに見つめ返していた。
後ろにいたラドゥとツェペシュは、目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
「どうして、避けなかったアルか?」とシンファは低く、感情を抑えた声で尋ねた。
「殺気がなかった。止まるとわかっていたからだ」ヴラドは静かに、確かな自信を滲ませて答えた。
一瞬の沈黙のあと、「フッ……アハハハハ!」とシンファが笑い出した。その笑い声は、緊張を一気に解き放つかのように響いた。
シンファは拳を引き、表情を和らげた。
「――参ったアルよ、ヴラドお嬢様。本当に強くなったアルね!」
「当然だ。余はヴラド・トランシルヴァニアだぞ!」ヴラドは胸を張った。
「フフ、そうだったアル」
ヴラドはキャリーケースに手を伸ばし、歩みを進めた。途中で足を止め、そこで振り返った。シンファはラドゥの隣に並んだ。
ヴラドとラドゥ、シンファ、ツェペシュは短い沈黙の中で視線を交わし、まるで言葉以上の想いを交換しているかのようだった。
「それじゃあ、行ってくる……」
ヴラドは力強く言いつつも、どこか名残惜しそうにラドゥを見つめた。
「うん……いってらっしゃい、お姉様」
ラドゥは、笑顔を浮かべながらも、その瞳には小さな涙が浮かんでいた。
二人は静かに歩み寄り、しっかりと抱きしめ合った。お互いの温もりを感じながら、無言で思いを伝え合うように、その瞬間を大切に噛み締めた。
ヴラドは抱擁を解いたあと、ツェペシュとシンファに視線を送り、「二人とも、しばしの間、ラドゥを頼んだぞ!」と力強く言った。
「任せておけアル!」シンファは親指を立てて笑顔を見せた。
「ラジャー!」ツェペシュは背筋を伸ばし、真っ直ぐに敬礼した。
三人に見送られながら、ヴラドは胸に決意を秘めて屋敷を後にした。
森を抜け、結界の外に出た瞬間、冷たい風が吹き抜けた。そこには、まるでヴラドの到来を予期していたかのように、サタンが静かに佇んでいた。
ヴラドは立ち止まり、キャリーケースからそっと手を離した。
二人は互いを鋭い目で見据え、無言の圧をぶつけ合った。
「余を見送りに来たのか? サタン」とヴラドは低い声で尋ねた。
サタンは深いため息をつき、その鋭い目が少しだけ和らいだ。言葉にできぬ感情を吐き出すように、ぽつりと漏らした。
「……正直、こうなるとは思っていた。話を聞けば、有無を言わずに日本に向かうだろうと……だから、黙っていた。すまない」
サタンは申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝る必要はない、気にするな」
ヴラドはそう返しつつも、サタンの表情が変わらないことに気づき、少し語調をやわらげた。
「――それに、余とラドゥのために考えてのことだろう? そんな奴を責めるわけがない」
サタンはゆっくりと顔を上げ、「ヴラド……」と小さく呟いた。
「だが、余は行かねばならぬ。七代天使を倒すために!」
ヴラドは拳を握りしめ、意志を込めて宣言した。
サタンの表情が一変し、真剣な眼差しをヴラドに向けた。
「ラドゥのことは心配するな。必ず守ってみせる」とサタンは低く、だが揺るがぬ決意を込めて言い放った。
「任せた!」とヴラドは真剣な顔で託した。
「行ってこい、ヴラド!」とサタンは微笑み、ヴラドの行く道を指し示すように手を差し伸べた。
「ああ!」
ヴラドはキャリーケースをしっかりと握り直し、迷うことなく駆け出した。遠い国、日本へと向かう決意を胸に、彼女の背中はまるで不屈のように見えた。
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