まくろんの秘密
日曜日の午前八時過ぎ。
桜は異空間部屋で魔法の特訓に励んでいたが、集中力が切れたのと同時に小腹が空き、休憩を取ることにした。
部屋を出て一階に上がると、キッチンでイリスが朝食を作っていた。オーブントースターでパンを焼き、手動のコーヒーミルで豆を挽き、棚から食器を手際よく取り出していた。
途中で桜に気づくと、イリスは忙しそうに微笑みながら声をかけた。
「あ、桜ちゃん、お疲れ様。もうすぐ準備できるから、座って待っててね」
桜はその言葉に従い、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
少し待っていると、イリスがキッチンとダイニングを何度も行き来しながら朝食を運んできた。パンと淹れたてのコーヒー、フルーツヨーグルトが並ぶと、桜は静かに手を合わせて「いただきます」と呟いた。
パンを一口かじりながら、桜はふと問いかけた。
「イリス、まくろんはどこにいるかわかる?」
イリスは黙ってリビングを指差した。視線を向けると、まくろんがソファに寝転んでいた。
「ニャピー、ニャピー」と、まくろんはかわいい寝息を立てていた。
朝食後、桜はリビングのソファで寝ているまくろんの隣に腰を下ろした。起こさないようやさしく頭を撫でていると、桜も睡魔に襲われた。少しだけ目を瞑るつもりが、あまりの心地良さに、桜はそのまま眠りに落ちた。
静かに目を覚ました桜は、掛け時計に目をやった。午前十時を過ぎていた。
桜はソファから立ち上がり、背筋を伸ばしていると、まくろんも目を擦りながら目を覚ました。
「ニャ~、桜……出掛けるニャ?」とまくろんは尋ねた。
「うん。ちょっと散歩に行こうと思って……まくろんも行く?」
「もちろんニャ!」まくろんは飛び起きた。
二人は玄関でイリスに見送られ、散歩に出かけた。と言っても、ただの散歩ではない。街のどこかで天使が暴れていないかの見回りも兼ねている。
しばらくの間、何事もなく普通に散歩していた。
人通りの多い色神駅前を歩いていたとき、桜はある男の姿を視界に捉え、足を止めた。少し遅れてまくろんも立ち止まった。
その男は壁に寄りかかって腕を組み、行き交う人々を鋭い眼差しで眺めていた。二十代前半の整った顔立ちをしていた。ただ人間観察をしているだけに見えるが、桜は彼を見た瞬間、微かな違和感を覚えた。
天使には人間に擬態する能力があり、強さに比例してその擬態も巧妙になる。上級以上ともなると見分けはほぼ不可能で、七代天使ともなればなおさらだ。数千年間見つけられないのはそのためだ。噂では、人々に紛れて普通に生活しているという。
桜は男に気づかれないよう注意しながら見据えていた。すると、男が動き始めた。
男は駅から出てきた若い女性に声をかけ、笑顔で会話を交わし、その後一緒に行動し始めた。どうやら二人は待ち合わせをしていたらしく、これからデートのようだった。男が若い女性をエスコートしていた。
桜とまくろんは、足音を立てないよう注意を払いながら、慎重に尾行を開始した。
街中をしばらく歩いていると、男が突然若い女性の手を強く引き、ひとけのない路地へと連れ込んだ。
桜とまくろんは距離を保ったまま壁に背を寄せ、路地の中をそっと覗き込んだ。まるでプロの探偵のようだった。
若い女性は、路地に入った途端、不安そうな表情を浮かべたが、男の「こっちの方が近いから」という言葉を信じてついて行った。だが、そのときの男は、女性に見えないところで不気味な笑みを浮かべていた。
男の足取りが徐々に速くなり、若い女性はついていくのが精一杯だった。不安が限界に達した女性は、掴まれた手を振り払い立ち止まった。気つけば、そこは人影がまったくない薄暗い路地裏だった。
若い女性は恐る恐る辺りを見回したが、薄暗い路地の静けさが不安をさらにかき立てた。正面に立つ男と目が合った瞬間、彼の不気味な微笑みが視界に焼き付く。あまりの恐怖に彼女の足はすくみ、ついにはその場に尻もちをついてしまった。
男は恐怖する女性を見て満面の笑みを浮かべた。次の瞬間、男の額にうっすらと目が現れた。その目が開くと、体が急激に大きくなり、着ていた服が音を立てて破れ散った。頭上には天使の輪が輝き、背中からは白い羽が広がり、本来の姿――三つ目天使へと変貌した。上級天使並みの力があった。
その姿を見た若い女性は、目に涙を浮かべ、悲鳴を上げた。だが、その悲鳴は虚しくこだまし、大通りには届かなかった。三つ目天使が不気味な笑顔で一歩近づくたび、若い女性は必死に足をバタバタさせ逃げようとした。しかし、腰が抜けて逃げられなかった。
三つ目天使は一歩、また一歩と、ゆっくりと女性に歩み寄り、まるで獲物を狙う猛獣のようだった。女性の目の前で立ち止まり、冷たい笑みを浮かべながらそっと手を伸ばした――その瞬間、まくろんが疾風のような速さで二人の間に割って入り、すかさず拳を放った。
三つ目天使は反射的に体をのけ反り、まくろんのパンチを躱すと、後ろに跳んだ。
少し遅れて桜も到着し、二人は三つ目天使の前に立ち塞がった。
桜はすぐさま恐怖に震える若い女性に眠りの魔法をかけ、同時に防御魔法の障壁を展開した。ふと周囲を見渡すと、粉々に散らばる衣服の破片に気づいた。それも、結構な量の子ども服や大人服の破片が散らばっていた。無惨に切り裂かれたような状態だった。
「貴様ら……いつの間に……!」三つ目天使は驚愕の表情を浮かべながら、低い声で呟いた。
「お前を消す前に、一つ聞きたいことがある……」
桜は表情を変えずに言ったが、怒りが静かに滲んでいた。
「――ここに散らばっている服の破片は、お前の仕業か?」
桜は凍てつくような声で問いかけた。
数秒の沈黙のあと、三つ目天使は不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「……ああ、そうだ。ここはおれの食堂だ。今まで何人もの人間を――」
三つ目天使が答えている途中、桜は素早く杖を構え、光弾を放った。
三つ目天使は素早く後ろに跳び、光弾を躱した。
「フハハハ! なかなかの攻撃速度だ。だが、そんなもの、おれさまには通用しない!」三つ目天使は嘲笑を浮かべた。
「その目……ただの飾りじゃないようだね」と桜は冷静に言い放った。
「気づいたか……」
三つ目天使は額の瞳を親指で示し、不敵に笑った。
「この目がある限り、おれは最強だ!」
すかさず桜は杖を構えると、背後に魔法陣が現れた。
「アポロン」
小さく呟き、魔法陣から無数の光弾が放たれ、放物線を描きながら三つ目天使に襲いかかった。
三つ目天使は軽やかな身のこなしで光弾を次々と躱した。すべての軌道を完全に見切っているようだった。
「無駄だ。その程度の攻撃、おれには当たらない!」と三つ目天使は挑発的に言った。
桜は三つ目天使の言葉を無視して、杖を構え直した。直後、三つ目天使の周囲にいくつかの小さな魔法陣が現れ、取り囲んだ。
「ロキ」
桜が小さく呟くと、小さな魔法陣から火球が次々と放たれ、不規則な軌道を描く攻撃が三つ目天使に襲いかかった。
三つ目天使は軽やかに火球を躱しつつ、次々と手で撃ち落とした。三つの瞳には、すべてを見透かしたような光が宿っていた。
「本当に懲りないな……おれには貴様の動きが止まって見えるぜ!」
三つ目天使はそう言い放つと、地面を強く蹴り、一瞬で桜との間合いを詰めると、鋭い拳を繰り出した。
桜は咄嗟に身を引きながら防御魔法を展開しようとしたが、その動作よりも早くまくろんが割って入った。
まくろんは、三つ目天使の拳に対抗して拳を突き出した。
拳が衝突した瞬間、火花が散り、凄まじい衝撃波が辺りを揺らし、地面を裂いた。
衝撃で二人は弾け飛んだが、まくろんは巧みに体勢を整えて着地し、三つ目天使も余裕を見せるように軽やかに着地した。
「フン、いいペットを飼っているようだな」と三つ目天使は余裕な態度で言った。
「まくろん、ありが――」
桜はまくろんの背中を見た瞬間、思わず言葉を止めた。
まくろんは、滅多に見せない怒りをむき出しにしていた。周囲に散らばる服の残骸を見て、その瞳に強い憤りが宿り、三つ目天使を睨みつけた。
「桜……こいつは、まくろんが相手をしてもいいニャ?」とまくろんは怒りを滲ませた声で尋ねた。
「……いいよ」
桜が答えると、まくろんは「ニャ!」と気合を入れた。
桜は数歩後退し、若い女性のそばに控え、まくろんは前に一歩出て、三つ目天使を鋭く睨みつけた。
「ん? なんだ? まさか、ペットがおれの相手をするのか?」と三つ目天使は嘲笑った。
「お前ニャんか、まくろん一人で十分ニャ!」とまくろんは鋭く言い返した。
三つ目天使は苛立ちの表情を浮かべた。
「フン、生意気なネコが……おれがたっぷりしつけてやる!」
まくろんと三つ目天使は地面を強く蹴り、互いに突撃した。拳がぶつかり合い、強烈な衝撃波が辺りに広がった。その衝撃で、二人の足元に大きな窪みが刻まれた。
二人は目にも留まらぬ速さで動き回り、互いの動きを鋭く見極めつつ、拳をぶつけ合った。
薄暗い路地裏で重い衝突音が響き渡る。今のところ二人のスピードは五分五分。だが、まくろんは怒りの表情、三つ目天使は余裕の笑みを浮かべていた。
まくろんが怒りに任せて渾身の大振りパンチを放つと、三つ目天使は余裕の表情で軽やかに躱した。
その隙をつき、三つ目天使はまくろんの顔面に強力な蹴りを叩き込んだ。
まくろんは激しく地面に叩きつけられたが、すぐにくるりと後方回転して起き上がると、続けて繰り出された踵落としを後方に跳んで回避した。
踵落としが地面を抉り、瓦礫と砂塵が舞い上がる。
一瞬の静寂ののち、三つ目天使がまくろんに視線を向けて呟いた。
「あの蹴りで死なないとは、頑丈に作られているようだな」
「ニャンだと!?」まくろんは拳を握りしめ、耳をピクリと動かした。
「まくろん!」
桜が声をかけると、まくろんは振り返り、視線を交わした。
「一旦落ち着いて……」
桜が冷静に助言すると、まくろんは頷き、胸に手を当てて息を整えた。冷静さを取り戻すと、その場で軽くステップを踏み、キリッとした目つきで三つ目天使を見据え、構え直した。
沈黙が流れ、冷たい風が吹き抜けた。
「ふふ、お前はまだ見ているだけか? このままでは、ペットが死んでしまうぞ」と三つ目天使は嘲笑った。
「人の心配より、自分の心配をした方がいいよ」と桜は冷静に返した。
「なんだと……?」
「お前の動きは、すでに見切ったニャ!」まくろんは断言した。
「なに……?」三つ目天使の眉がひそみ、次第に苛立ちが浮かぶ。「フン……そんなハッタリで、おれが動揺すると思ってんのか!?」
三つ目天使の言葉が終わるや否や、まくろんは閃光のごとき速さで一気に距離を詰め、鋭い拳を顔面へ繰り出した。
驚愕の表情を浮かべた三つ目天使は、咄嗟に腕で防ごうとしたが、そのまま打ち抜かれ、壁へと吹き飛ばされた。コンクリートの壁に叩きつけられ、「ガフッ!」と血を吐き、意識が飛びかけながら膝から地面に崩れ落ちた。
少しして、三つ目天使は意識を取り戻し、すぐに立ち上がろうとするが、思いのほかダメージを負い、膝たちがやっとの状態だった。三つの瞳が血走り、荒い息をつきながら、三つ目天使は地面を睨みつけていた。
「はぁ、はぁ……チッ、一瞬だが……油断した……」
三つ目天使は力を振り絞って立ち上がり、まくろんを鋭く睨みつけた。
まくろんは左右に軽いステップを踏みながら、鋭い目つきで敵を見据え、身構えていた。その姿はまるでボクシング選手のようだった。
三つ目天使は呼吸が落ち着くと、地面を強く蹴って突撃した。
再び目にも留まらぬ二人の攻防が始まった。だが、今度は状況が逆転していた。
まくろんは冷静に三つ目天使の攻撃を見極めて受け流していた。
一方、三つ目天使は怒りに駆られ、次々と無謀な攻撃を繰り出していた。三つの瞳をフル稼働させ、まくろんの動きを見切ろうとしながら拳を放った。だが、まくろんには一発も届かなかった。
二人の間には、明らかに実力差があった。三つ目天使の動きが疲労で鈍くなると、まくろんはその隙を見逃さず、攻めに転じた。
容赦ない連撃で三つ目天使を圧倒し、腹部に強烈な膝蹴りを叩き込み、最後に頭部へ鋭い踵落としを振り下ろした。
三つ目天使は地面に叩きつけられ、深いクレーターの中で身動き一つ取れなかった。荒い息をつきながら、「はぁ、はぁ……バカな……このおれが……このおれがぁぁぁぁ……!」と喚き散らし、現実を受け入れられない様子を見せた。血眼をぎょろりと動かし、まくろんを睨みつけた。次の瞬間、三つ目天使の怒りが爆発し、全身から異様なオーラが噴き出す中、力任せに立ち上がった。
「――貴様なんかに、負けるはずがないんだぁぁぁぁ!」
そう言い放ち、三つ目天使は空高く跳んだ。上空から見下ろすと、三つの目が金色の光を放ち、次第にエネルギーが集まり始めた。
「これで終わりだ!」
三つ目天使は鋭い視線でまくろんを見据えた。
「アイ・キャノン!」
咆哮するや否や、三つの瞳から黄金のエネルギー波が解き放たれた。
三つのエネルギー波は途中で融合し、一本の強力なエネルギー波になって、まくろんに迫った。
まくろんは右拳を左手で包み込み、肘を引いて、下半身をしっかりと踏ん張った。
「ま~く~ろ~ん……ス~パ~~……」
低く響く声とともに、右拳に眩いオーラが集まり始めた。
「ウルトラパーンチ!」
力強く叫びながら、強烈な拳を突き出すと、衝撃波が発生し、三つ目天使のエネルギー波と衝突した。その瞬間、エネルギー波は弾け飛び、まくろんの放った拳の衝撃波がその先にいた三つ目天使を貫いた。
三つ目天使は目を見開き、驚愕の表情を浮かべ、「そ……そんな……おれさまが……こんな奴に……負ける……なんて……!」と悔しさを滲ませながら、塵となって消えた。
「ニャハハ、完・全・勝・利ニャ!」
まくろんは胸を張り、ドヤ顔を浮かべた。
桜はまくろんのそばに歩み寄り、柔らかい声で言った。
「お疲れ、まくろん」
その後、現場に駆けつけた後処理部隊に若い女性を託し、桜とまくろんは静かにその場を後にした。
家に帰る途中、桜とまくろんが喫茶『色神の森』の前を通りかかると、店の前で落ち着かない様子のヴラドを見つけた。
ヴラドは『色森』の看板をちらちら見上げ、ため息をついては店の前をうろうろしていた。その仕草には、入店をためらう微妙な葛藤が滲み出ていた。
桜は静かに歩み寄り、静かに声をかけた。
「ヴラド、何してるの?」
ヴラドはビクッっと肩を揺らし、ゆっくり振り向いた。
「桜……と、まくろん……」
「ニャ!」と、まくろんは手を挙げて軽く挨拶した。
「こんなところで何してるの?」と桜は改めて尋ねた。
「ちょ、ちょっと散歩していただけだ! べ、別に“色森”なんぞ気にしておらん!」とヴラド言いつつも、その視線は“色森”を何度もチラ見していた。
桜はヴラドの気持ちを察し、口を開いた。
「今からここで少し休もうと思ってるんだけど、ヴラドも一緒にどう?」
「なっ……い、いいのか!?」ヴラドは目を輝かせ、身を乗り出した。
ついでにまくろんも「ニャ!?」と驚き、目を輝かせて桜を見つめた。以前来たときに食べたケーキを思い出したようで、よだれを垂らした。
「うん、ちょうど誰かと話したいなって思ってたから……」と桜は答えた。
「そ、そうか。それなら、余が付き合ってやろう!」とヴラドは嬉しそうに言った。
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
「ウム」
「ニャ!」まくろんも飛び跳ねて喜んだ。
桜たちは店に入り、しばらく入り口で待っていたが、店員はなかなか接客に来なかった。
茉田莉モカと青山流香は、他の客と談笑していた。桜たちの来店に気づいた様子だが、二人は接客に来る気配がなかった。
桜は軽く手を挙げてモカを呼ぼうとしたその瞬間、目の前に人の気配を感じ取った。ヴラドとまくろんもその気配に気づき、前を見据えた。
姿は見えないが、はっきりと気配を感じる。
桜は自分とまくろんに魔法をかけ、ヴラドは赤い目を見開き、正面をじっと見つめた。三人の目には、はっきりと少女のシルエット――チョコ・バレンタインの姿が映った。チョコ色三つ編みツインテールのかわいい少女だった。
チョコは無言のままペンを走らせ、メモを一枚書き終えると、丁寧に破って桜たちに差し出した。
『いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ』とメモに記された文字を、桜が静かに読み上げた。その丁寧な文字には、どこか温かな雰囲気が漂っていた。
桜は店内を見渡し、静かに空いた四人掛けテーブルを見つけた。ゆっくりと歩き出すと、ヴラドとまくろんもその後を静かに追いかけた。
四人掛けテーブルに着くと、桜とまくろんが隣同士、ヴラドは桜の正面に腰を下ろした。
三人が座ると、チョコがお冷とおしぼりを運んできた。それを三人の前にそっと置き、チョコはメモを取り出した。
素早くペンを走らせたあと一枚破り、テーブルの端に静かに置いた。
メモには『ご注文がお決まりでしたら、ベルでお呼びください』と書かれていた。
三人はメモを見てから、視線を上げ、チョコを見つめた。
チョコは笑顔で一礼し、カウンターの奥へと戻っていった。
ヴラドはチョコの背中をじっと見つめ、眉間にシワを寄せながら呟いた。
「なぜ、あの者は姿を隠しているのだ?」
「さあ、どうしてだろうね」と桜は答えた。
桜がメニュー表を手に取り、テーブルの真ん中で開いた瞬間、ヴラドの関心がチョコからメニューに向いた。
ヴラドは目を輝かせながら、まるで宝の地図を見るかのようにメニュー表を隅々まで眺めた。
「よし、余はこれに決めたぞ!」と満足げに頷き、桜に目を向け、続けて尋ねた。
「桜とまくろんは決まったか?」
「うん」
桜が頷くと、ヴラドは力強く呼び出しベルを押した。
しばらくすると、光学迷彩で姿を消したチョコがやってきた。
チョコは、すでに用意していたメモをテーブルの端にそっと置いた。
『ご注文をお伺いします』
「わたしはオリジナルブレンド」と桜は柔らかい口調で言った。
「余はレッドベリーソーダと……この“シェフの気ままなスイーツ”とやらを頼む!」とヴラドは胸を張って誇らしげに告げた。
チョコは新たなメモに注文をしっかり書き留めると、あらかじめ用意していた『ご注文承りました』のメモをテーブルに置き、笑顔で一礼して去っていった。
ヴラドがスイーツを楽しみに待っていると、チョコがドリンクを運んできた。
周りの客から見れば、突然ドリンクがテーブルの上に現れたように見えるが、桜たちはチョコの一挙手一投足がすべて見えていた。何度も視線を交わしていたが、チョコは自分の姿が見えているとは思っていない様子だった。
桜が静かにコーヒーを味わっていると、ヴラドも笑顔でレッドベリーソーダを飲んでいた。まくろんは両手でコップを持ち、ゴクゴクと水を飲んでいた。
「ヴラドってベリー系が好きなんだね。前もベリー系を頼んでたよね?」と桜が不意に問いかけた。
「ああ、大好きだ! ベリーは甘さと酸っぱさのバランスが絶妙で素晴らしい!」とヴラドは目を輝かせて即答した。
「他は何が好きなの?」
「そうだなぁ……」
ヴラドは少し考え込むと、指を一本ずつ折りながら答えた。
「トマト、イチゴ、スイカ、マグロ、それと……」
「全部赤い食べ物だね」
「そう言われればそうだな。特に意識したつもりはないが……」
「人の血は飲まないの?」
「たまに飲むぞ。半年に一回ほどだけどな……」
「それってやっぱり、首元に噛みついて吸うの?」
桜は冗談めかして、自分の首元を軽く指でなぞった。
「そんなことはせん! 今は、冷蔵庫に保存した輸血パックを、飲みたいときにコップに注いで飲むのだ」
「へぇー、そうなんだ。言い伝えとは違うんだね」
「昔は、たしかに言い伝え通りだったらしい。人間の首に噛みついて血を吸っていたと聞いたことがある。だが、時代が進むにつれ、そんな行為は目立ちすぎるようになり……今ではコンプライアンスの関係で、ほとんどの者が輸血パックを使っている」
「ヴァンパイアにもコンプライアンスってあるんだ」
「ああ……昔と違い、人間の数が圧倒的に増えたこの世界で、余らが目立たずに暮らすためには、仕方のないことだ」
「……そうだね」
桜とヴラドはドリンクを一口含んだ。
沈黙が流れた。
カウンターでコーヒー豆を挽く音や客たちの話し声が響いた。窓からは日の光が差し込み、店内を明るく照らしていた。
「この街での暮らしはどう? 慣れた?」桜は話題を変えた。
「ああ……」
ヴラドはグラスを静かに置き、桜の目をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「最初はこの街の喧騒に圧倒されたが、日本支部の者たちが親切にしてくれたおかげで、快適に暮らせている。美味しい料理が食べられる店や、愉快に過ごせる場所もたくさん教えてもらった」
「そっか……よかった」
「それに、自然豊かな場所は空気が澄んで水も綺麗だ。良い休憩場所になる。時々そこで休んでると、実家を思い出す」
「ヴラドの実家って、自然が多いんだ」
「ああ……余の実家は自然に囲まれた場所でな。木々が生い茂り、庭には四季折々の花が咲き誇る。そして、広大な敷地の中心に立つ大きな屋敷には、二十を超える部屋があって、書庫には歴史的な書物が並び、遊戯室にはビリヤードやダーツの台が揃っている――そんな場所だ」
ヴラドは誇らしげに胸を張った。
「――今は、妹のラドゥ、付き人のシンファ、それと、ぬいぐるみのツェペシュとともに四人で暮らしている」とヴラドは微笑みながら話を締めくくった。
「……妹が居たんだ」と桜は少し驚いた。
「……ああ」ヴラドの表情が一瞬曇った。
桜は、その微妙な反応を見逃さなかった。
(この話題は、避けた方がいいかも……)
桜は心の中でそう呟いた。
他の話題を振ろうとしたその瞬間、ヴラドは真剣な表情を浮かべ、続きを語り出した。
「余の妹は――」
「ヴラド。話したくないなら、無理に話さなくていいよ」
桜はヴラドが話し出す前に言った。
「いや……ぬしには、話しておきたい。余のことを、もっと知ってほしい」
ヴラドはまっすぐ桜の目を見つめた。その瞳には、静かな覚悟と信頼が宿っていた。
桜はその真剣な眼差しを受け止め、静かに頷いて話を聞く姿勢をとった。
読んでいただき、ありがとうございます。
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