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百鬼阿修羅の秘密

七年前、阿修羅は祖父の夜行に修行をつけてもらうのが日課だった。山奥に籠り、日々鍛錬の毎日。八歳の子ども相手でも、夜行は一切手を抜かなかった。

ある修行では、一二〇メートルの高さがある滝の上から突き落とされることもあれば、縄でグルグル巻きにされたまま熊と対峙させられることもあった。さらに、重さ何トンにもなる巨大な岩を転がして斜面を登らされ、頂上に着くと夜行に岩を蹴り飛ばされ、また振り出しから登り直す、などの厳しい修行を阿修羅は必死にこなしていた。

その中でも特に厳しかったのが、夜行との組み手稽古だった。夜行の容赦ない攻撃に、阿修羅はなすすべなく、あざだらけの毎日だった。しかし、阿修羅は決して挫けなかった。両親を天使に殺された怒りで、強くなることを願っていたからだ。夜行もそんな阿修羅の想いを汲み取り、厳しい修行をつけてくれていた。だが、夜行の想いはそれだけではない。阿修羅が自分の身を守れるようにと願ってもいた。

その成果は、しっかりと実践で出ていた。修行を始めて数ヶ月、阿修羅は一人で中級天使を倒すまでに成長していた。アルカナ・オースに所属する同年代と比べても、飛び抜けた強さだった。

そんなある日、夜行が任務で早朝から遠征に行ったため、阿修羅は一人で山に籠り、修行をしていた。先の尖った岩山の上に木の板を敷き、その上であぐらをかき、目を瞑って精神統一をしていた。動きを完全に封じた静止状態は、小鳥が肩に止まるほどだった。

しかし、突然、大地を揺るがす轟音が響き、驚いた小鳥たちが一斉に飛び去った。同時に、阿修羅は邪悪な気配を感じ取った。徐々に地響きの音が大きくなって近づいてくる。

阿修羅はゆっくりと目を開いた。すると、目の前に巨大な人型天使が立っていた。

大きさは約五〇メートル、目、口、背中の翼のみが白く、頭上の天使の輪は金色、それ以外はすべて漆黒、まるで影のような姿だった。放たれる威圧感から、明らかに上級天使の力を持っていた。

影天使は阿修羅を見つけるとニヤリと笑い、低い声を響かせた。

「あー、ラッキー! おもちゃみっけー」

阿修羅は静かに立ち上がると、鋭い視線を影天使に向けた。

「なんだー、その目はぁ? 気に入らないなー」

影天使は不快な表情を浮かべ、阿修羅に手を伸ばし、掴み取ろうとした。

 阿修羅は高速で影天使の巨大な手を躱し、その腕を駆け上がると、渾身の拳を顔面に叩き込んだ。

 影天使は後ろに吹き飛び、頭から地面に倒れ込んだ。その衝撃で周辺の山々が激しく揺れ、隠れていた熊や鹿も走って逃げた。

 阿修羅は近くの木に着地し、倒れた影天使を見下ろした。

「おー、イテテ……」

影天使は殴られた頬をさすりながら、立ち上がり、阿修羅に視線を向けた。

「貴様ぁ、なかなか面白そうなおもちゃだなー。もっと遊んでよー」と不気味な笑みを浮かべた。

阿修羅はその発言に苛立ち、低く「ぶっ飛ばす……!」と唸った。次の瞬間、高速で移動し、岩山に立てかけていた『鬼丸』――表面に無数の突起がある金棒を手に取り、地面を強く蹴って影天使に突撃した。

 一瞬で距離を詰め、鬼丸の一撃を影天使の胸に叩き込んだ。影天使がよろけている間に、阿修羅は高速で背後に回り込み、もう一撃。阿修羅の鋭い攻撃と閃光のようなスピードに、影天使は手も足も出ない様子で、ただ攻撃を受けるだけだった。

阿修羅は一切の容赦なく、全力で金棒の一撃を繰り出し続けた。相手が上級天使なので、決して手は抜かない。攻撃の手応えも感じていた。鬼丸を叩き込むたび、影天使は「グゥ!」と痛みに悶える声を漏らしていた。

阿修羅が手に力を込め、渾身の一撃を顔面に叩き込むと、影天使は宙を舞い、地面に激しく叩きつけられた。

静寂の中、阿修羅が荒い息をつきながら見下ろしていると、影天使は「イタタ……」と頭をさすりながらゆっくりと立ち上がった。阿修羅を見据えると、不気味な笑みを浮かべた。ダメージを負っている様子もなかった。

「あれー? もう疲れたのー? つまんないなー」と影天使は残念そうな表情を浮かべた。

阿修羅は鬼丸を握る手に力を込め、再び突撃した。影天使の顔面に真っ直ぐ向かいながら、鬼丸を振り被った。

「地獄の王、壱の裁き――」と呟き、間合いに入ると、叫んだ。

秦広一閃しんこういっせん!」

閃光のような一撃を繰り出した瞬間、影天使はニヤリと笑みを浮かべ、片手で鬼丸を軽々と受け止めた。衝撃波が四散し、周囲の山々の頂上を吹き飛ばした。

「なっ!?」阿修羅は思わず驚愕の声を漏らし、目を見開いた。

 影天使は鬼丸を掴むと、腕を振り回し、阿修羅ごと投げ飛ばした。

 阿修羅は空中で体をひねり、巧みに体勢を整えて岩山の斜面に着地した。すぐさま、顔を上げ、影天使を鋭く睨みつけた。その瞬間、すでに目の前に黒い巨大な拳が迫っていた。

阿修羅は寸前で躱したが、バランスを崩し、地面に転がり落ちた。黒い拳は、岩山を粉々に砕き、その破片が飛び散った。

 阿修羅が地面を滑りながらすぐさま体勢を立て直し、影天使に目を向けた瞬間、彼は歪んだ笑みを浮かべていた。次の瞬間、突然影天使の姿がスッと消え去った。

「なに!?」

阿修羅は慌てて周囲を見渡すが、どこにも姿がなかった。だが、邪悪な気配は残ったまま。必ず近くにいることだけは確信していた。

深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻し、静かに目を閉じて気配を探った。邪悪な気配を感じ取った瞬間、素早く空を見上げ、はるか上空の影天使の姿を捉えた。

影天使は右足を突き上げ、超スピードで落下しながら、阿修羅に迫っていた。

「まずい!」

阿修羅は咄嗟に横に跳んだ。

直後、影天使の巨大な黒い踵落としが地面に振り下ろされた。その衝撃で大地が激しく揺れ、砂塵と岩の破片が舞い上がった。

 岩の破片が阿修羅の頭をかすめ、そこから血が滲んだ。阿修羅はそれを拭う間もなく、胸の前で腕を交差してガードを固めた。次の瞬間、巨大な黒い拳がガードの上から阿修羅に叩き込まれ、吹き飛ばした。

阿修羅は背中から岩山に激突し、「ガハッ!」と吐血した。地面に落ちると、崩れた岩々押しつぶされた。

わずかな沈黙が流れた。

 阿修羅は“鬼力”を一気に解放し、その爆発的な衝撃で岩の山を吹き飛ばした。すぐに立ち上がろうとしたが、結構なダメージを負ったため、ふらついて膝をついた。顔を上げると、嘲笑うかのような表情で影天使が見据えていた。

阿修羅は唇を噛み締め、残された力を振り絞って、ゆっくりと立ち上がった。

「はぁ~、もう壊れたのかー、つまんないなー」と影天使が不満げに肩を落とした。

 阿修羅は苛立ちに身を震わせながらも、右手からは力が抜け、鬼丸を抱えることさえできなかった。集中しようとしても指先から握力が逃げ、むしろ手は微かに震えていた。圧倒的な力を前に、阿修羅の体は無意識に恐怖を刻まれていた。

阿修羅は左手で頬を強く叩き、恐怖を振り払った。震える右手を左手で押さえ込むようにして、鬼丸を両手で担ぎ上げる。その目は鋭く輝き、決して折れない意志が宿っていた。夜行との過酷な修行の日々が、彼の内なる強さを支えていた。

 しかし、影天使との実力差が覆るわけでもなく、どうやっても今の阿修羅では勝てない。

「もういいやー、終わらせよー」

影天使は無邪気に言い放ち、阿修羅に向かって手を伸ばした。

 阿修羅は鬼丸を振りかぶり、迫り来る巨大な手に渾身の一撃を叩き込もうとした。

「ウォォォォ!」と咆哮を上げ、全身の力を込めて鬼丸を振り抜いた――その瞬間。上空から突如、眩い白光が迸り、影天使の巨大な手が消し飛んだ。

「グワァッ!」影天使は凄まじい声を上げ、後ろによろけながら尻もちをついた。

 阿修羅は素早く上空に視線を向けた。そこには、桜色の髪を静かに揺らしながら、冷たい眼差しで杖を構える少女の姿があった。

 影天使は消し飛んだ自分の手を見つめ、「うわぁぁぁぁ! ぼくの手が……! ぼくの手がぁぁぁ!」と、泣き喚きながら地面を叩きつけた。上空の魔法少女を睨みつけ、激昂した。

「貴様かー! ぼくの手を消し飛ばしたのはー!」

直後、超速再生で手をもとに戻すと、すぐさま立ち上がり、魔法少女に襲いかかった。

 魔法少女は冷静に杖を構え、抑えた声で「ゼウス」と呟いた。その瞬間、空間が震えるような音とともに、彼女の頭上に無数の紋様が輝く巨大な魔法陣が出現した。眩い白光が雷鳴を伴って迸り、一直線に影天使を襲いかかる――その一撃は、まるで天罰そのもののようだった。雷光は真っ直ぐ影天使に向かい、一瞬で胸を貫いた。

 影天使はその衝撃でのけ反ったが、倒れる寸前で踏ん張り、すぐに体勢を立て直した。一瞬の出来事だったため、影天使には自分に何が起こったのかわからないようだった。ふと胸に手を当て、大きな穴が開いていることに気づき、「イヤァァァァ!」と泣き喚いた。

泣きながら超速再生を済ませると、次の瞬間にはスッキリした表情を浮かべた。魔法少女を鋭い目つきで睨みつけ、叫んだ。

「もう許さない! 貴様の身体をぐちゃぐちゃにしてやるー!」

影天使は足を一歩前に出そうとしたその瞬間、自分の足が動かないことに気づいた。視線を下げると、足に大きな木が何本も絡みついていた。まるで拘束具のように影天使の足を締め付けていた。

「な、なんだ、これは!」と影天使は驚きの声を上げた。

「終わりだよ」

魔法少女は淡々と杖を掲げた。すると、影天使の頭上に巨大な魔法陣が現れた。

 影天使は頭上の魔法陣を見上げ、目を見開き、瞬時に危機を察知した。すぐに足元に視線を戻すと、慌てて絡まった木々を力ずくで振り解こうともがき出した。だが、すでに手遅れだった。

「トール」

魔法少女が小さく呟き、杖を振り下ろすと、魔法陣から円柱型の白くて太い雷が鋭く落ち、影天使を一瞬で包み込んだ。

「ギャァァァァ!」と影天使は叫び声を上げ、やがて跡形もなく塵となって消えた。

山肌には、底の見えないほど深く、完璧な円形の穴がぽっかりと穿たれていた。

 阿修羅は、目の前の圧倒的な光景と、静かな威厳を纏った少女の美しさに息をのんだ。しばらく見つめていると、ふと魔法少女と目が合った。

彼女はふわりと阿修羅のそばに舞い降りた。

「その怪我、大丈夫?」と魔法少女は冷静な声で尋ねた。

「え、あ、ああ……! これくらい、たいしたことない」

阿修羅は必死に平静を装ったが、全身を貫くような痛みに、胸の奥で呻き声を押し殺していた。

「そう……」

魔法少女は阿修羅の怪我の具合を確かめるような目で見回し、続けて口を開いた。

「ごめんね。わたし、治癒魔法は……得意じゃないんだ」

「え……?」

「だから……治してあげられないの」

「あ、いや、あんたが謝ることじゃない。むしろ、助けられて感謝してるんだ。本当にありがとう」阿修羅は心からの感謝を伝えた。

「無事でよかった」魔法少女の表情がようやく和らいだ。

 その言葉を聞いた瞬間、阿修羅は胸の奥で「ドクン!」という大きな鼓動が鳴ったのを感じた。突然の動悸に驚き、思わず胸に手を当てた。原因もわからないまま魔法少女と目が合うと、鼓動はさらに激しくなり、頬が熱くなるのを感じた。一気に体温が上がった気がして、阿修羅は慌てて視線を逸らした。だが、胸のざわめきは一向に治まらない。

(な、なんだこれ……!? 身体が熱い……胸が、苦しい……! 一体、何が……?)

 阿修羅が困惑を浮かべていると、魔法少女が覗き込みながら尋ねた。

「どうしたの……? 毒でも回った?」

「い、いや、なんでもない! 気にするな!」と阿修羅は必死に取り繕った。

彼女はしばらく阿修羅を見つめたあと、「そっか……」と納得したように頷いた。そして、何かに気づいたような表情を浮かべた。「――じゃあ、わたし、行くね」

「あ、ああ……」

「……怪我、ちゃんと治してもらってね」

魔法少女は静かに背を向け、ふわりと宙に浮いた。そのまま桜色の髪をなびかせながら、風に溶けるように遠ざかっていった。

「あっ!」と阿修羅は思わず声を上げた。

魔法少女はふわりと空中で動きを止め、ゆっくりと振り返った。

「……どうしたの?」

 その問いかけに、阿修羅は真っ直ぐに見つめながら言った。

「……おれは阿修羅、百鬼阿修羅だ! ……きみの名は?」

「……桜」と彼女は小さく答えた。

「桜……」と阿修羅は小さく繰り返した。

「じゃあまたね、阿修羅」

「ああ、またな、桜!」

 これが、阿修羅と桜の出会いだった。

 桜が立ち去ったあと、修復部隊が現場に到着し、崩壊した山を目の当たりにして思わず息をのんだ。地面に開いた巨大な穴や焼け焦げた木々を前に、誰もが言葉を失い、しばらく立ち尽くした。やがて、彼らの視線は阿修羅に集まり、怒りが渦を巻くように湧き上がった。すべて阿修羅がやったことだと思われ、こっぴどく叱られたのだった。

叱られている最中、阿修羅はふと疑問に思った。

 もしかして、桜はこの騒ぎになることを予測して、さっさと立ち去ったのか……?

 そう思ったが、阿修羅は決して桜の名前を口に出さなかった。命を助けられた恩を仇で返すわけにはいかない。阿修羅のプライドがそれを許さなかった。

 遠征を終えて急いで現場に駆け付けた夜行に話をすると、彼はすぐにすべてを見破った。阿修羅は問い詰められても決して桜の名前を出さなかった。だが、夜行は、阿修羅の傷跡や疲労具合を見て、彼が上級天使を倒すにはまだ実力不足であることを即座に見抜いた。そして、山に開いた巨大な穴を眺めると、彼の目が鋭く光った。

「この魔力……まさか、桜ちゃんの仕業かのう」と顎髭に触れながら呟いた。

「桜を知ってんのか!?」と阿修羅は思わず声を上げた。

「当たり前じゃ……桜ちゃんは、アルカナ・オースの希望じゃ……」

阿修羅は一歩踏み出し、夜行の目を真っ直ぐに見つめた。

「じじい……お願いだ、桜を怒らないでくれ!」

「は……?」

「桜は、おれを助けてくれたんだ! この責任は、おれがすべて受け止める!」

 夜行は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐに頬を緩め、豪快に笑った。

「ハッハッハ……!」

 阿修羅は目を丸くし、慌てて口を開いた。

「な、なにが可笑しい!?」

「……わしが桜ちゃんを怒るじゃと? そんな訳ないじゃろう。アッハッハッハ……!」

夜行は桜を叱るつもりなどまったくなく、むしろ心の底から感謝していた。

「……そうか」

阿修羅は胸の奥から力が抜けるような感覚に襲われ、大きな息をついた。

その後、夜行が桜にお礼を言いに行くというので、阿修羅もついて行こうとしたが、許してもらえなかった。

「そんなことより修行じゃ! 今のおぬしに必要なのは、それだけじゃ!」と夜行にはっきりと言われ、阿修羅は反論することもできなかった。

悔しさと、「もっと強くならねぇと……!」という強い決意が阿修羅の胸を燃やした。

阿修羅は歯を食いしばり、燃え上がる決意を胸に、さらに厳しい修行の道へと足を踏み入れた。


 二〇五〇年、四月二十四日、日曜日の午前十一時過ぎ。

住宅街にある公園の砂場で帽子を被った少年が遊んでいた。

少年はプラスチック製のバケツやスコップを使いながら、砂の家を建てていた。スマートウォッチで空中に3Dホログラムを投影し、指でタップしながら細部を確認し、まるで一級建築士のような雰囲気をまとい、一人で黙々と作業をしていた。表情は明るく、楽しそうだった。

周りには滑り台やジャングルジム、ブランコや鉄棒などで遊ぶ子ども、鬼ごっこやかくれんぼで遊ぶ子どもたちもいた。

公園の入り口付近にはロボットが待機し、上空はドローンが飛び回り、子どもたちを見守っていた。子どもが怪我をしたり、怪しい人物が現れたりすると、ロボットとドローンが助けてくれる。安全管理の整った公園だった。

公園の入り口に一人の男が現れた。サングラスにコート姿の男は、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと立ち止まった。その動作は異様なほど静かで、まるで影が実体を持ったかのようだった。

男は公園内を見渡しながら、不気味なまでにじっくりと砂場を見定めた。しばらく眺めたあと、無言のまま砂場に向かって歩き出した。ロボットとドローンが反応しないため、不審者と認識されていなかった。むしろ、存在すら気づかれていないようだった。

男は砂場近くのベンチに腰を下ろした。両腕を開いて胸を張り、背もたれに体重をかけ、足を組んだ。そこから帽子の少年を見据えた。

少年は、男の視線をまるで感じることなく、夢中で作業を続けていた。その無垢な姿が、男の冷笑をより際立たせていた。

五分後、立派な砂の家が完成した。

少年は、砂の家の細部をじっくりと見渡し、満足げに頷いた。そっと帽子を脱ぎ、額の汗を手の甲で拭った。短く息をつき、再び帽子を深く被り直した。その仕草には、どこか職人のような慎重さが漂っていた。

そのとき、拍手の音が響いた。少年が音のする方に目を向けると、ベンチの男が不気味な笑顔で拍手を送っていた。

「――見事な出来だな、少年」

低く冷ややかな男の声が、砂場の空気を切り裂いたように響いた。

「え、ど、どうも……」

少年は、一瞬手元の砂を握りしめたまま、警戒心に満ちた目で男を見た。不意に感じた異質な空気に、体が自然と硬直していた。

「よし……」

男はベンチからゆっくりと立ち上がり、わざとらしいほど大げさに手を差し出した。

「――完成祝いに、ジュースでも奢ってやろう。おれについて来い」と命令するように言った。

「え……いきなり何言ってんの、おじさん。別にジュースなんかいらないけど……」

少年は戸惑いを隠せず、後ずさりした。

「まあ、そういうな、少年」

男は不自然な笑みを浮かべながら、ゆっくりとサングラスを外した。彼の冷たい視線が少年に突き刺さり、「お前は黙って、おれについて来ればいい……」と冷たく言い放った。その声には、有無を言わせぬ威圧感があった。

 男と少年は、数秒間目を見開き、視線を交わした。すると、少年がゆっくりと腕を伸ばし、男の手を握った。

男はニヤリと笑った。

 二人は手を繋ぎ、静かに公園を後にした。少年の足は、自分の意思とは無関係に、静かに男の後を追っていた。目には、どこか空虚な闇が宿っていた。

二人は住宅街を抜け、ひとけのない路地裏に出た。周りをコンクリートの壁に囲まれた薄暗い場所だった。そこで男は繋いでいた手を離し、少年の背中を軽く「ぽん!」と押した。

少年は軽く押された衝撃で前によろけたが、踏みとどまった。その瞬間、薄暗い路地裏の冷たい空気が肌に触れ、全身に鳥肌が立った。

「ここはどこ……?」少年の声は震え、心臓の鼓動が耳の奥で強く響いていた。

「ようこそ」と男は口元を歪めるように、薄く不気味な笑みを浮かべた。その笑みは冷たく、何か邪悪なものを感じさせた。

 少年は、その声に反応するかのように瞬時に振り返った。

「さっきの……おじさん?」と呟き、思わず後ずさりした。

「そう警戒するな。すぐに終わる」

「おじさん……悪い人?」と少年は声を震わせながら問いかけた。心の中ではすでに答えを知っていたが、それでも確認せざるを得なかったようだ。

「いいや……」

「じゃあ、ぼくをどうするつもり?」

男は歪んだ笑みを浮かべ、「決まってるだろ。食べるんだよ」と冷たく言い放った。

 少年は全身に走る寒気を感じた瞬間、反射的に体を翻し、全力で走り出した。だが、次の瞬間、男が目の前に現れ、行く手を完全に塞いだ。その動きは、まるで疾風のようだった。

少年は驚きで足がもつれ、後ろに転び、地面に尻もちをついた。

「メーメッメッメ……では、いただくとしよう」

男の笑みが限界まで歪むと、その体が急激に膨れ上がった。皮膚がブチブチと不気味な音を立てて裂け、まるで内側から異形の何かが溢れ出すようだった。次の瞬間、そこには巨大な一つ目の怪物が立っていた。

怪物の頭上には光る天使の輪が浮かび、背中には白い羽が広がっていた。その姿は、天使という言葉から連想される優美さとは正反対の、狂気と邪悪に満ちたものだった。

 少年の体は恐怖で完全に硬直した。心臓は喉まで跳ね上がるように脈打ち、全身が冷たい汗に包まれた。声を出そうとするも、喉がまるで塞がれたかのように絞り出せず、ただ震える唇だけが微かに動いていた。足は地面に縫い付けられたように動かず、逃げたいという意志だけが空回りしていた。

 一つ目天使はゆっくりと、まるでその時間を楽しむかのように、少年に向かって一歩一歩歩みを進めた。

少年は震えながら、その恐怖から目を背けようとしたが、視線が天使から離れなかった。

恐怖に怯える少年の顔を、一つ目天使は恍惚とした笑みを浮かべながら、じっと見つめていた。

距離を詰めると、一つ目天使は、少年の頭にそっと手を伸ばした。

その手が、少年の顔まであと数センチと迫っていたその瞬間、突然、空気が裂けるような音が響き、猛烈な疾風が二人の間を駆け抜けた。次の瞬間、少年の姿は消え、そこにはただ風の残響だけが残っていた。

「なっ……!? どこだ、どこへ消えた!?」

一つ目天使は慌てて周囲を見渡し、背後の男に気づくと、素早く振り返った。

そこには、一人の男――百鬼阿修羅が立っていた。

緋色の和服に草鞋を履き、背には圧倒的な威圧感を放つ金棒“鬼丸”を背負っていた。彼の鋭い視線が天使を捉えると同時に、その腕には少年がしっかりと抱きかかえられていた。

「悪い、遅くなった」

阿修羅は少年にやさしい声で言った。その瞬間、少年の目から大粒の涙が溢れ出した。震える手で阿修羅の胸元を強く握りしめ、顔をうずめた。恐怖と安堵が交錯する中、少年は阿修羅の温もりにすがりついた。

「もう大丈夫だ。あとは、おれに任せろ……!」

阿修羅は少年の頭をそっと撫で、静かな声で言った。その声には、安心感を与えるとともに揺るぎない自信が込められていた。

少年はその言葉に安心したように、ゆっくりとまぶたを閉じ、深い眠りに落ちた。

 阿修羅は少年を抱きかかえたまま、静かに視線を上げ、一つ目天使を鋭い目つきで睨みつけた。全身から怒りの赤いオーラが溢れ出ていた。

 その鬼迫を目の当たりにした一つ目天使は、一瞬身がすくんだ。だが、すぐさま取り繕う。

「貴様……おれの邪魔をして、ただで済むと思うなよ」と一つ目天使は強気に言い放った。

「それはこっちのセリフだ。お前はおれがぶっ飛ばす!」と阿修羅も鋭く言い返した。左腕で少年をしっかりと抱えながら、右手で鬼丸を引き抜いた。

「赤い髪にその金棒……貴様、鬼だな?」

 阿修羅は黙ったまま鋭く見据えた。

 一つ目天使は狂気の笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。地面を強く蹴り上げ、凄まじいスピードで突進する。

その瞬間、阿修羅は鬼丸を一閃。空間を裂くような轟音が響き、一つ目天使の体が宙を舞った。次の瞬間、コンクリートの壁に激突し、鈍い音とともに粉砕される。

天使の体は爆ぜるようにバラバラになり、その破片が風に舞った。運よく形を保っていた瞳には、何が起こったのか理解できないという驚愕が浮かんでいた。

徐々に掠れゆく視線の先に、金棒を振り切った阿修羅の姿を捉えた。それを目にした一つ目天使は、ようやく事態を悟った。自分があっけなく負けたのだと……。

 阿修羅は、悔しそうな表情を浮かべる一つ目天使を最後まで睨みつけていた。やがて、一つ目天使が完全に塵となって消滅しても、阿修羅はまだ警戒心を解かなかった。

「まだいるな……」

阿修羅は低く呟き、気配を探るように辺りを見渡した。

周囲の空気が異様に重くなった。コンクリートの壁にじわじわとひび割れが走り、その割れ目から無数の目が次々と現れた。壁が生き物のように蠢き、不気味極まりない光景だった。

すべての目が、阿修羅を嘲笑うかのように見つめていた。一つひとつの目から、確かな気配が伝わってくる。一つ目天使が五百体に分かれて壁に潜んでいるようだった。

「ちっ、うじゃうじゃと気持ちわりぃ……」阿修羅は口元を歪めた。

 壁に張り付く無数の目が、歪んだ笑みを浮かべながら一斉に光を帯び始めた。その光が不気味に収束した、次の瞬間、すべての黒目から極太のビームが一斉に放たれた。

無数の光線が交差しながら阿修羅を飲み込むように襲いかかり、爆風とともにその場を激しく揺るがせた。

 爆煙が舞い上がる中、壁の目が一斉に視線を上げた。視線の先のビルの上空に、阿修羅の姿があった。

 阿修羅はビームに当たる直前、跳んで回避していた。もちろん、両手でしっかりと少年を抱えていた。

 壁の目は不気味に笑いながら、一つの点に向かって滑らかに移動し始めた。目が次々と融合し、その中心で闇の渦が形成された。渦は凄まじい速さで回転し、周囲に閃光が奔った。空気が裂け、世界が軋むような轟音が響き渡る。そして、光が収束したその場所に、全身を羊毛のような毛で覆われた巨大な一つ目天使が姿を現した。その体から放たれる邪悪なオーラは、先ほどの下級天使の比ではなかった。五百体の下級天使が合体し、一気に上級天使へと進化してはるかに力を増していた。

 一つ目天使は壁を蹴り、阿修羅の正面ビル屋上まで軽く跳んだ。軽やかに着地すると、不気味な笑みを浮かべ、邪悪なオーラを纏い、阿修羅を見つめた。

 阿修羅は少年を片腕でしっかりと抱き寄せ、新たな天使に鋭い眼光を向けた。圧に満ちた殺気を正面から浴びても、その目は微動だにしなかった。怯えどころか、逆に獲物を見定めるような鋭さが宿っていた。

 静寂が流れ、冷たい風が二人の間を吹き抜けた。緊張感が漂う中、先に仕掛けたのは、一つ目天使だった。

一つ目天使は、地面を砕く勢いで足を踏み込み、雷のようなスピードで阿修羅に拳を繰り出した。その一撃には、周囲の空間を揺るがすほどの破壊力が込められていた。

阿修羅は瞬時に鬼丸を構え、その拳を寸分の狂いもなく受け止めた。

激突の瞬間、凄まじい衝撃波が四方八方に広がり、足元の地面が砕け、ビル全体が不気味な音を立てて揺れた。

一つ目天使はすかさず二撃目、三撃目と繰り出すが、阿修羅は冷静にそのすべてを見切り、鬼丸で受け流す。受け流すたび、周囲の壁が削られ、無数の亀裂が走り、空までも引き裂かれた。まるで周囲の空間が崩壊していくかのようだった。

一つ目天使は、攻撃が当たらないことに苛立ちを覚え、一度後退した。すぐに次の行動に移ったが、攻め方を一変し、超スピードを活かして阿修羅の周りを、円を描くように動き始めた。その動きは、まるで嵐の中を駆ける稲妻のようだった。周囲に残像を残しながら、高速で移動する姿は、目で追うことすら困難だった。だが、一つ目天使の顔には、どこか焦りの色が滲んでいた。

一方、阿修羅はまったく動じず、一つ目天使の動きを冷静に見極めていた。背後から鋭い突き蹴りが繰り出されると、わずかに腰を落とし、最小限の動きで見事に躱した。全身から無駄な力が抜け、攻撃の流れを見切るたびに、阿修羅の動きはさらに研ぎ澄まされていった。斜め上から迫りくる拳に対しては、体を捻じって回避した。さらに、足元を狙った蹴りには、軽く跳んで躱した。その後も、阿修羅は一つ目天使の猛攻を最小限の動きだけで回避し続けた。

しばらくすると、一つ目天使が動き緩め、やがて止めた。激しく動き回ったにもかかわらず、息一つ乱れていなかった。まだ余裕があるようだ。

「メーッメッメッメ……なかなかやるな、貴様」と一つ目天使は阿修羅の実力を認めた。

「お前はたいしたことないな」と阿修羅は鋭く言い返した。

「……挑発のつもりか?」

「いや、本心だ」

 一つ目天使の表情が険しくなった。小刻みに身体を震わせ、明らかに苛立ちが漏れていた。だが、途中で気づくと、息を整え、落ち着きを取り戻した。鋭い眼光で阿修羅を睨みつけると、両手を高々と掲げ、一気に腰のあたりに引き寄せた。全身に力を込め始めると、黒く邪悪なオーラがその身体を包み込み、まるで闇の炎が燃え上がるように一気に膨れ上がった。その力に呼応するかのように、一つ目天使の身体も徐々に巨大化し、周囲の空気すらも歪ませるほどの圧力を放ち始めた。

 凄まじい風圧が襲いかかるのを感じた阿修羅は、すぐさま少年を胸に引き寄せた。その腕には決して少年を傷つけさせまいという強い決意が込められていた。上半身でしっかりと覆いかぶさり、少年を完全に守り抜くその姿は、まるで岩のように揺るぎなかった。

 一つ目天使が力を解放しきると、静寂が訪れた。

 阿修羅は真っ先に少年が無傷であることを確認し、ホッと息をついた。すぐに顔を上げ、一つ目天使に視線を向けた。

 一つ目天使は、一回りどころか二回りほど巨大化していた。全身を覆っていた羊毛が燃え上がり、真っ黒な灰となって空中に舞い散る。鋼鉄の彫刻のように隆起した筋肉が露わになった。その肉体は闇そのものを纏い、不気味に輝く一つ目が星形の光を脈動させ、見る者の心に直接恐怖を刻みつけた。

「メーッメッメッメ……これがおれの本気の姿だ!」と、一つ目天使は自信満々に言い放った。

「きめぇ!」と阿修羅は軽く顔をしかめながら、思わず口にした。その言葉には、あまりの醜悪さに対する呆れと嫌悪感が滲んでいた。天使の禍々しい姿を前にしても、一切動じることなくその感想を口にする阿修羅の姿は、まさに圧倒的な自信の表れだった。

 その言葉は、一つ目天使の怒りに火を注いだ。天使の一つ目が真っ赤に燃え上がり、全身から黒い炎のようなオーラが立ち昇った。周囲の空気が一瞬で凍りついたかのような緊張感が広がる中、天使は今にも爆発しそうな勢いで阿修羅を睨みつけた。

次の瞬間、一つ目天使は地を強く蹴り上げ、空高く舞い上がった。その衝撃でビル全体が悲鳴を上げるように揺れ、大きなひびが建物に走った。数秒後、轟音とともに崩壊が始まり、粉塵と瓦礫が嵐のように広がった。

阿修羅は地面を蹴り、一瞬で瓦礫を飛び越えて安全地帯へと着地した。その動きは滑らかで無駄がなかった。だが、次の瞬間、空気が裂けるような音とともに、一つ目天使が猛然と迫ってきた。まるで巨大な猛獣が全力で獲物を仕留めようとするかのような勢いだった。

一つ目天使が拳を放つと、阿修羅は鬼丸で受け止めた。

一つ目天使はすかさず、二撃、三撃と次々と拳を繰り出した。その拳が鬼丸に直撃するたび、凄まじい衝撃が周囲を揺るがし、まるで大地そのものを引き裂くかのような力が伝わった。衝撃波が阿修羅の腕を通じて全身に響き、抱えている少年にも伝わってしまうほどだった。

阿修羅は素早く鬼丸を背中に戻し、天使の攻撃を躱すことだけに集中した。

一つ目天使の拳が空を切るたび、まるで竜巻のような風圧が周囲を薙ぎ払い、瓦礫や鉄骨を無造作に吹き飛ばしていった。

その威力を把握した阿修羅は、最小限の動きで攻撃を躱し続けた。無駄な動作を避け、冷静な目で天使の動きを見切りながら、少年を守ることを最優先に考えていた。

不利な状況であるにもかかわらず、阿修羅は冷静だった。表情一つ変えずに、ただ天使の攻撃を躱し続けた。

一方、一つ目天使は徐々に冷静さを欠いていき、攻撃が次第に雑になり始めていた。力任せに放った拳を、阿修羅は瞬時に見極めた。

しゃがんで拳を躱すと、阿修羅はすかさず天使の腹に膝蹴りを叩き込んだ。

「グフッ!」

一つ目天使が腹を両手で押さえながら悶えている一瞬の間に、阿修羅は蹴りを顔面に叩き込んだ。

一つ目天使は勢いよく吹き飛び、コンクリートのビルに激突。壁面を砕きながら崩れ落ち、瓦礫の下敷きとなった。

わずかな静寂のあと、「阿修羅!」という少女の声が響いた。

阿修羅が振り返ると、“ドールマスター”アリス・キャメロットが操る騎士人形――ケイとガラハッドの二人が駆けつけた。

二人はまるで生きた人間のような精巧な動きで、戦場へと颯爽と駆けつけ、阿修羅の隣に並んだ。ケイは剣を抜き、ガラハッドは盾を構えた。

「遅くなってすまない」とガラハッドが言った。

「助太刀するわ」とケイが続いた。

阿修羅は少年をそっと抱きかかえたまま、ケイとガラハッドに歩み寄った。

「この子を頼む」阿修羅は短く、しかし力強い声で言い、少年を二人に託した。

「え……?」ケイは剣を収め、ガラハッドも盾を背負い、少年をしっかりと支えた。

「ちょっと、いきなり渡されても困るんだけど……」ガラハッドは戸惑いの声を上げたが、阿修羅の放つ圧倒的な鬼迫に気圧され、すぐに口をつぐんだ。ケイも同じく黙って見守った。

そのとき、瓦礫の山が爆発し、無数の破片が四方に飛び散った。その中心から、一つ目天使がゆっくりと姿を現した。全身に纏う黒いオーラはさらに濃さを増し、一つ目は炎のように燃え上がっていた。怒りで歪んだ顔が阿修羅を捉えると、地響きを伴う足音を立てながら、静かに歩を進めた。

 阿修羅は鋭い眼差しで一つ目天使を見据えた。ゆっくりと踏み出すたび、空気が圧し潰されるように重く沈み、周囲の景色さえ歪んで感じられるほどだった。その鬼迫は、圧倒的な存在感を持つ鬼のようだった。

「メーッメッメッメ……おいまさか、一人で戦うつもりか?」と一つ目天使は挑発的に言った。

「……お前なんか、一人で十分だ」阿修羅は静かだが揺るぎない声で言い放った。

一つ目天使は怒りを爆発させ、「バカにするなよ!」と叫び、地面を砕くように蹴って、疾風のごとく阿修羅に迫った。右拳に力を込め、全力の拳を突き出した。

次の瞬間、轟音とともに衝撃波が広がった。

 ケイは少年に身を寄せ、ガラハッドは二人の前に立ち、盾を構えて衝撃を防いだ。衝撃波が止むと、二人は阿修羅に視線を向け、目を見開いた。

 阿修羅は片手で一つ目天使の渾身の一撃を軽く受け止めていた。彼の足元は衝撃により、地割れのようなひびが入っていた。

 一つ目天使の額からは冷や汗が滴り落ち、顔は恐怖で歪んでいた。巨大な目はまるで命の危機を感じ取ったかのように見開かれ、信じられないものを目の当たりにしたかのように、阿修羅を呆然と凝視していた。

「バカな……! こんなことが、ありえるはずが……!」

その声は震えていた。

 阿修羅は天使を睨みつけ、そのまま彼の右拳を鷲掴みした。恐怖に怯える表情を浮かべ、必死に自身の腕を引いて逃げようとする一つ目天使の拳を決して離さなかった。

阿修羅は静かに鬼丸を引き抜いた。

 一つ目天使は全身からおびただしい量の汗を流し、呼吸が荒くなった。死の恐怖が一気に押し寄せ、かつての余裕はどこにもなくなっていた。思考は混乱し、徐々に冷静さを失っていく。

「くそ……! このままじゃ……!」

必死に腕を引っ張るが、阿修羅の圧倒的な力の前では、逃げ場など存在しないことが頭をよぎった。だが、咄嗟の思いつきで、自分で左腕を切り落とすと、素早く後ろに跳び、距離を取った。

 阿修羅は一瞬で間合いを詰め、全力を込めた鬼丸を横一閃に振り抜いた。空間を切り裂くように、鬼丸が一つ目天使の身体を容赦なく切り裂いた。肉片が空中に飛び散り、砕け散った末に、霧のように消えていった。

完全に天使の気配が消え去ると、阿修羅の険しい表情がわずかに緩んだ。だが、その目は依然として鋭く、戦いの余韻を残していた。

 阿修羅は振り返り、すぐに少年のもとへ駆け寄った。少年が無事であることを確認すると、ようやく表情を緩め、ホッと胸を撫でおろした。

 ケイとガラハッドは、目を見開いたまま硬直し、息をのんで阿修羅を見つめていた。二人は初めて阿修羅の戦いを目撃し、その圧倒的な力と冷静さに完全に圧倒されていた。

阿修羅はケイとガラハッドに視線を向け、静かに言った。

「ありがとう。この子を守ってくれて……」

阿修羅が感謝を伝えると、ケイとガラハッドはようやくはっと我に返った。

「当然のことをしたまでだ」とガラハッドは胸を張りつつ、少し照れたように言った。

「そうね……」とケイも微笑みながら、頬をほんのり赤く染めた。

どちらも感謝の言葉に、心からの嬉しさが滲み出ていた。

 その後、阿修羅は二人と別れ、少年を家まで送り届けた。親には「公園で遊んでいたら眠ってしまった」とだけ告げた。

 

一仕事終えた阿修羅は険しい表情を浮かべ、無言で山へと足を踏み入れた。山奥に入ると、荒涼たる景色が広がっていた。鋭く尖った岩が刃のように大地から突き出し、無数に林立している。まるで異世界のような、現実離れした空気が辺りを包んでいた。

その岩の一つに百鬼夜行の姿があった。

夜行は、わずか数センチ幅の岩の先端に木の板を渡し、その上に重力を無視するかのように胡坐をかいていた。瞑目し、背筋をまっすぐに伸ばしながら、深い呼吸を続けている。その静かな佇まいは、まるで一体化しているかのようで、小鳥が夜行の肩で一息つくほどに穏やかだった。

 阿修羅は視線を上げ、「じじい!」と呼びかけた。

その声に夜行は微かに反応し、その動きで小鳥が飛び立った。

「阿修羅か……何の用じゃ……?」と夜行は呟いた。

「手合わせしろ!」

 夜行は静かに目を開け、鋭い視線で阿修羅を見下ろした。二人の視線が交わると、夜行はまるで何かを感じ取ったかのように、微かに眉を動かし、木の板の上でバランスを崩すことなく軽やかに立ち上がった。そして、熟練した動きで飛び降り、地面に軽やかに足をつけた。その一連の動作には、長年の修行が滲み出ていた。

「ついて来い」

夜行は静かに言い放ち、歩き出した。

 阿修羅は夜行の後を黙ってついて行った。

 しばらくして、開けた場所に出た。そこで夜行が足を止めると、阿修羅も止めた。

夜行は振り返り、険しい表情で阿修羅を見据えた。

阿修羅は静かに構えを取る。その眼差しには、揺るぎない決意が宿っていた。

一方、夜行は手を後ろで組んだまま、背筋をピンと伸ばしていた。

「全力で来い!」夜行は鋭い眼差しで言い放った。

「ああ!」

 阿修羅は全身に力を込め、地面を蹴って閃光のような速さで夜行に突進し、全力の拳を突き出した。その拳を夜行がわずかな動きで躱し、阿修羅は空を切り裂いた。衝撃で大地が震え、戦場全体に緊張感を走らせた。

阿修羅は真剣な眼差しを向け、夜行は余裕の表情を浮かべていた。


 三十分後、阿修羅は全身傷だらけで大量の汗を流しながら、力尽きたように地面に大の字で倒れていた。息が荒く、胸は激しく上下している。口から漏れる呼吸音は、まるで体の中の空気をすべて吐き出すかのように切迫していた。

阿修羅の横に立つ夜行は涼しい顔をしていた。傷一つなく、息遣いも乱れることなく、まるで戦ったことすら忘れたかのように穏やかだ。その余裕たっぷりの表情からは、戦いの疲れが微塵も感じられなかった。

二人の周辺は、激しい戦いの痕跡が大きく残っていた。岩山は崩れ落ち、地面には大小様々な窪みができていた。

「ほっほっほ、お前もまだまだじゃのう、阿修羅」夜行は長い顎髭を触りながら言った。

「うるせー!」

「そんなんじゃ、いつまで経っても桜ちゃんは守れんぞ」

「なっ!? なんでいきなり桜が出てくるんだ!」

「さーて、何でかのう……?」

「ちっ、くそじじいが……!」

阿修羅は悔しさを押し殺すように拳を握りしめた。だが、その力も戦いの疲労に奪われ、やがて指は緩み、無力感だけが残った。

「そんなことより、これでわしは九九九勝、〇敗。あと一勝で一〇〇〇勝じゃ!」

夜行は嬉しそうに言いながら、満足げに笑った。阿修羅が無言で受け流すと、さらに続けた。

「――そうじゃ! 一〇〇〇勝した暁には、みんなを呼んで盛大な宴でも開こうかのう」

「ぜってぇ行かねぇ!」

阿修羅は食い気味に言い、力を振り絞って立ち上がった。背を向けて歩き出すと、背後から夜行のからかうような声が聞こえた。

「桜ちゃんも誘おうかのう~」

阿修羅は一瞬、夜行の言葉に心を揺さぶられ、足を止めた。桜とともに食卓を囲む自分の姿が頭に浮かび、思わず頬が緩みそうになった。だが、すぐに頭を左右に振って誘惑を消し飛ばした。

「ちっ!」と阿修羅は舌打ちし、再び歩みを進め、その場を後にした。

「修行のあとはしっかり休むんじゃぞー」

夜行は最後にそう助言し、阿修羅を見送った。

阿修羅の姿が見えなくなると、右手に視線を移し、強く拳を握った。だが、握力が残っていないため、握り続けることができなかった。阿修羅の前では余裕ぶっていたが、結構体力を消耗していた。

「わしもそろそろ、追い抜かれそうじゃのう……」

夜行は小さく呟きながら、嬉しさを滲ませた。

一方、阿修羅は悔しさを噛み締めながら、険しい顔で山を下り始めた。足元の土を蹴りながら、一歩一歩を重く感じる自分にさらに苛立ちが募った。

「このままじゃ……ダメだ……! もっと力をつけねぇと、仲間を守れねぇ!」

 阿修羅が足を踏み出すたび、夜行の「修行のあとはしっかり休むんじゃぞー」という軽い声が脳裏に蘇る。それが今の自分を否定するようで、心にずしりと重くのしかかり、思わず拳を握りしめた。頭を激しく横に振り、言葉を振り払おうとするが、なかなか消え去らなかった。

阿修羅はこみ上げる苛立ちを振り払うように、両頬を力いっぱい叩いた。

その痛みで気持ちを切り替えた阿修羅は、頭を冷やすため、呉橋神社へ向かった。

 呉橋神社は、代々色神の街を護り続けてきた巫女の家系に由来し、その歴史は非常に古い。百鬼家との縁も深く、阿修羅にとっては特別な場所だった。幼馴染の呉橋神楽とは、幼少の頃からともに戦い、時に励まし合い、時に競い合ってきた大切な仲間だ。

 阿修羅たちのように、アルカナ・オースには天使と因縁のある者が多い。桜、アリス、ヴラド、風魔たちも過去に大切な人を天使に殺されている。そのため、アルカナ・オースは結束力が強く、極悪非道な天使たちを決して許さない。

 呉橋神社に向かっている道中、阿修羅はオレンジ色の髪が特徴的な一つ上の少女――天ノ川織姫あまのがわおりひめを見かけた。

織姫は、慌てた様子で辺りをキョロキョロと見渡し、誰かを探しているようだった。

「天ノ川!」

阿修羅が声をかけると、織姫は振り返り、「百鬼くん……」と小さく呟いた。

「誰か探してんのか?」と阿修羅は尋ねた。

「い、いえ……別に誰も探していませんよ」

視線を逸らし、目を泳がせながら口ごもる織姫。その様子は、誰が見ても嘘とわかるほど不自然だった。

 阿修羅は織姫の顔をじっと見つめ、すぐに彼女が嘘をついているのを見破った。だが、(触れられたくないのかもしれないな)と心の中で呟き、「そっか……」と短く返した。

織姫は安堵のため息をつき、「百鬼くんは、何してたの? 全身傷だらけだけど……」と話題を変えた。

「これは……修行で少し力を入れすぎて……」

「そうなんだ……ちょっと待ってて」

そう言うと、織姫は両手をそっと阿修羅にかざした。手のひらが淡いオレンジ色に光り、癒しのエネルギーを阿修羅に注ぎ込んだ。阿修羅の傷がみるみるうちに治り、やがて完全に消え去った。

「ありがとう」と阿修羅は言った。

織姫は腕を下げ、顔にかかった髪を耳にかけた。

「じゃあ、わたし、行くね!」と織姫はどこか焦ったように、話を切り上げようとした。

 阿修羅もそれを敏感に察し、「ああ、またな」と返した。

「じゃ!」

織姫は軽く手を振って、足早にその場を後にした。

 阿修羅も呉橋神社に向けて、再び歩き出した。


呉橋神社に到着すると、阿修羅は入り口の石階段を見上げた。一段ずつしっかり足を着いて上ると、赤色の鳥居が構えていた。

鳥居をくぐると、参道に神楽の姿があった。

神楽は、参道に散った落ち葉をほうきで掃いていた。時折目を擦りながら、眠たそうな様子を見せた。

「よっ、神楽。眠そうだな!」と阿修羅は気さくに声をかけた。

「んー、なんだ、阿修羅か……」神楽は欠伸をしながら返した。

「昨日、寝られなかったのか?」

「うん、夜中に突然呼び出されたから、ちょっと寝不足なの……」

「呼び出された? 誰に?」

「桜に」

「桜に!?」阿修羅は思わず身を乗り出し、声を少し上げて尋ねた。「何かあったのか!?」

「たいしたことじゃないよ。トイレの結界を張り直しただけ……」

「トイレの結界……? ああ、花子の家か」

「うん……あと、一緒にゲームした」

「ゲーム……? 桜と!?」

「うん」

「何のゲームをしたんだ!? 怪獣狩り? それとも龍球オメガか?」

「……昔の対戦ゲームだよ」

「対戦ゲーム……そっか……」

桜のプライベートな一面を垣間見られたことで、阿修羅はどこか得をしたような気分になり、自然と口元が緩んだ。

「他に何かしたか?」と阿修羅は続けて尋ねた。

「うーん、ちょっと話したくらいかな……」神楽はウトウトしながら答えた。

「……さ、桜はおれのこと、何か言ってなかったか? たとえば、今度一緒に何かする……とか?」

「何も」

その冷たい一言に、阿修羅は一瞬固まった。

「……そうか」とがっかりとした声を漏らし、肩を落とした。その目には、微かに寂しさが滲んでいた。

 神楽は眠そうな目で、阿修羅をじっと見つめた。

「ところで、あんたは何の用でここに来たの?」

「……ちょっと気晴らしに来ただけだ」

「そう……それじゃあ、掃除を手伝ってくれない。いい気晴らしになると思うよ」

「ああ……」

 阿修羅は深く考えず、反射的に返事をした。

神楽は背を向け、彼に見えないように静かに拳を握りしめた。すぐに向き直り、微笑みながら阿修羅に歩み寄ると、「はい、これを使って!」と、笑顔でほうきを差し出た。その目には、どこか楽しげな悪戯っぽい光が宿っていた。

阿修羅がほうきを受け取ろうとした、その瞬間――二人の間を冷たい風が吹き抜けた。ゾワッと背筋を這う不気味な気配。空気が一変し、二人は同時に顔を上げた。

「この気配……天使だな」と阿修羅は低く呟き、その目に鋭い光が宿った。

「結構な数がいきなり現れたね。この前のカンガルーと同じ類か……?」と神楽は冷静に分析した。

「それなら、今度こそおれがボスをぶっ飛ばす!」

「ふふ、期待してるわ」

 二人は、ほぼ同じ力を持つ天使たちが小集団を組み、街のあちこちに散っていく気配を感じ取った。その統率された動きから、無差別に人を襲う従来の天使とは異なる、何らかの目的を持った行動だと判断した。

 阿修羅と神楽は、呉橋神社を後にし、急いで天使の気配を感じる場所へと向かった。二人の他に、桜、アリス、ヴラド、風魔たちの気配も同時に察知した。

彼らも阿修羅たちと同じく、すでに天使たちのもとへ動き出していた。お互いどこへ向かっているのかを気配で確認しながら、被らないように向かい、阿修羅と神楽も途中で進行方向を変えた。

「無理はすんなよ!」と阿修羅が別れ際に声をかけると、「それはこっちのセリフ!」と神楽が小さく笑いながら返し、二人は別れた。

 阿修羅が色神公園に到着すると、着物を着た兎の天使六人がそれぞれ散らばり、人々に何かを尋ねていた。

全員同じ見た目で、頭上に天使の輪が浮かび、羽が生えていた。

神楽の推測通り、量産型の天使のようだが、一人ひとりが中級天使以上の力を持っていた。

兎天使に声をかけられた人々は、驚愕の表情を浮かべ、怯えながら尻餅をつき、硬直したように動けなかった。その様子をまるで楽しむかのように、兎天使たちは無表情でゆっくりと近づき、何かを低い声で問いかけていた。

阿修羅は無言で背負っていた鬼丸を引き抜くと、空気を裂くような音を立てながら兎天使に向かって突撃した。

「地獄の王、壱の裁き――」

静かに呟いた声が、空気を重く震わせた。

「秦広一閃!」と叫び、鬼丸を横一線に振り抜いた。

兎天使は抵抗する間もなく、強烈な一撃を叩き込まれ、勢いよく吹き飛んだ。

阿修羅は即座に振り返り、怯えて縮こまっている人に手をかざし、周りに結界を張った。

怯えていた人は、結界に包まれた瞬間、静かに目を閉じて、眠りについた。

 吹き飛んだ兎天使は、両手を地面につき、立ち上がろうとしたが、全身が震え、やがて崩れ落ちて塵となり、消え去った。

直後、散っていた五人の兎天使が、仲間の消失に気づき、阿修羅のもとへ集まった。赤く鋭い瞳が、自然と阿修羅に向けられた。

中心に立つ兎天使が一歩前に出て、ゆっくりと口を開いた。

「やはり来たか、アルカナ・オース……」

仲間が一人消滅したことなど、一切気にしていない様子だった。その冷たい目には、まったく感情の色が感じられなかった。

阿修羅は鋭く睨み返した。

兎天使は続けて言った。

「――貴様に聞きたいことがある」

「お前らと話すつもりはねぇ」と阿修羅は即答した。

「大魔法使い、“白雪桜”はどこにいる?」

 その問いかけに、阿修羅は目を見開いた。

「なに!? 桜……だと……!?」

「知っているようだな。なら話が早い。今すぐ居場所を――」

 中央の兎天使が言っている途中、突然、右端に立っていた兎天使が後ろに吹き飛んだ。阿修羅が鬼丸を目にも留まらぬ速さで振り抜き、その衝撃波で吹き飛ばしたのだった。

吹き飛ばされた兎天使は、地面に倒れ、塵になって消え去った。

残りの兎天使たちは、阿修羅の攻撃にまったく反応できていなかったが、次の攻撃に備えて身構えた。

阿修羅は鋭い目つきで兎天使を睨みつけ、低く問いかけた。

「お前ら、桜を探してどうするつもりだ?」

「質問をしているのはこっちだ。まずは貴様が答え――」

 その瞬間、阿修羅は激しい怒りを隠すことなく、鬼丸を地面に突き刺した。重量感のある音が鳴り響き、地面がひび割れた。兎天使の言葉は、その鬼迫と衝撃にかき消された。

「もういい……お前ら全員、ぶっ飛ばす!」と阿修羅は言い放つと、その怒りを全身で解放した。

 阿修羅は怒気をそのまま力に変え、鬼丸を肩に担ぎ、兎天使たちへ突進した。

四人の兎天使は迎撃態勢を取ったが――間に合わなかった。

阿修羅の一撃が、雷のように振り下ろされ、全員をまとめて吹き飛ばす。

地面に叩きつけられた兎天使たちは、ひと呼吸のあと、塵となって消えていった。

 全員の消失を確認した阿修羅は、すぐに色神公園を後にし、桜のいる場所へと急いで向かった。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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