玄の憂鬱な休日②
学校があるところには、必ず七不思議が存在する。
日本の学校には昔から言い伝えられている七不思議があり、地域や学校ごとに少しずつ内容が異なるものの、必ず七つの不思議が存在するとされている。
たとえば、飾られた肖像画の目が動いたり、階段が一段多くなったり、勝手にピアノが鳴ったり、人体模型が動いたり……。
これらの現象は、現代の技術を活用すれば簡単に再現できる。しかし、それでも多くの人々が七不思議の魅力に惹きつけられている。
オカルトやスピリチュアルは、科学が発展した現代でもなお高い人気を誇っている。むしろ、科学が進歩した現代だからこそ、こうしたオカルトに逆に惹かれる人が増えているのかもしれない。
当然、色神学園もその例外ではない。国内屈指の教育機関である色神学園にも学園七不思議というものが存在し、それを専門的に調査するオカルト研究会というサークルもある。
オカルト研究会の目的は、学園設立当初から伝わる七不思議の調査と解明だ。所属メンバーは色神学園の生徒という立場を巧みに活かし、さまざまな設備や機材を用いて本気で調査活動に取り組んでいる。ただの悪ふざけで活動しているサークルではない。
最近、色神学園で特に話題になっているのは、学園七不思議の中でも定番の『トイレの花子さん』だった。
ある日の夜、女子生徒が学園敷地内の中心にある、まるで現代アートのようなドーム型の綺麗なトイレに足を踏み入れた。彼女が手洗い場で手を洗っていると、奥から三番目の個室から少女の笑い声が聞こえたらしい。不思議に思った彼女は、その個室の前まで歩み寄り、ドアをノックしたが返事がなかった。鍵が開いていたので、ドアをそっと開けて中を覗くと、そこには誰の姿もなかった。足音もまったく聞こえず、人の気配もなかったという。
その出来事が発端となり、あっという間に噂が学園中に広がると、それを聞いたオカルト研究会が、さっそく調査を開始した。
彼らはまず、最先端の高感度エネルギー検出器を使って空間に残留するエネルギーを測定した。だが、何も検出されなかった。
次に、幽霊が残すとされるエクトプラズム(霊的な物質)を検出し、『エクトプラズム分析器』で微量な痕跡を採取し、その組成を解析して幽霊の性質を調べた。それでも何もわからなかった。
三度目の調査では、原点に立ち返り、超アナログ手法である『ダウジング』を試みた。が、当然何もわからなかった。何度も失敗を繰り返しても、オカルト研究会は諦めずに調査を続けているが、まだ成果を上げられていない。
その後もトイレの花子さんに関する新たな情報が出続けた。
少女の笑い声の他に、「ギャー!」「キィィィィ!」「クゥー!」といった奇妙な声が聞こえることもあったという。
そんな中、噂を耳にした一色こがねが現状を変えるため、〈フリーデン〉のエージェント――フィーアとゼクスに調査を依頼した。
フィーアは〈フリーデン〉でもトップクラスの科学オタクであり、ゼクスはコンピューター操作において右に出る者はいない。この二人なら、何か新しい手がかりを掴めるかもしれないと考えてのことだった。
そして、その調査に急遽、玄とイリスが加わることとなった。
当初、フィーアとゼクスは調査にあまり乗り気ではなかった。だが、玄の参加が決まった途端、フィーアは急に張り切り始めた。一方、ゼクスの態度には特に変化は見られなかった。
玄たちは色神学園に到着し、早速件のトイレへと向かった。噂通り、トイレはまるで現代アートのようなドーム型のデザインで、とても清潔だった。その美しさは、まさに世界に誇るべき日本のトイレと言えるだろう。
トイレの周りには長机と数台の警備ロボットが見張り、一時的に立ち入り禁止にしていた。すでに調査するための準備がある程度整っていた。
ゼクスは背負っていたバックパックを長机に置き、準備を始めた。問題の場所が女子トイレなので、ゼクスは中に入らず、外からサポートに徹する。バックパックの中から取り出したポータブルAIデバイスをフィーアに渡した。
玄、イリス、フィーアの三人は、女子トイレに足を踏み入れた。先頭はフィーア、後に玄とイリスが続いた。
玄はフィーアの腰のあたりを軽く掴み、低い姿勢で周囲を警戒しながら後をついて行った。
トイレは細かいところまでしっかりと掃除が行き届き、とても綺麗な状態を保っていた。微かに柑橘系の匂いがする。
フィーアはポータブルAIデバイスを起動し、まずは空間分析モードに切り替えた。デバイスから浮かび上がるホログラムには、トイレの構造や温度、振動の微細な変化がリアルタイムで映し出されていく。
注意深くデバイスを壁や床にかざし、異常な電磁波やエネルギーの痕跡を探った。
「温度に異常なし。電磁波も通常レベル……よし、次は光学迷彩検出モードっと……」
デバイスを操作して、目に見えない物体を検出するための光学迷彩モードを起動した。だが、デバイスをかざしても画面には何の変化も見られない。壁や天井、トイレの個室まで、すべてが無機質な空間として映し出された。
「念のため、エクトプラズム検出器も使ってみようかな」
フィーアはそう呟くと、霊的な存在が残す可能性のある物質やエネルギーを検出するための装置をポケットから取り出し、トイレ全体をスキャンした。
結果はやはり反応なし。フィーアは眉をひそめた。
これだけの最新技術を駆使しているにもかかわらず、異常は一切検出されなかった。外にいるゼクスとも情報共有して調べてもらっているが、彼の方も何も検出されなかった。
イリスも目を光らせ、独自にスキャンしながら調べていたが、何の異常も見つけられなかった。
次の調査を行う前に、フィーアは一度、花子さんとの接触を試みた。奥から三番目の個室を三回ノックし、「花子さん、いらっしゃいますか?」と呼びかける、よく知られた“儀式”である。当然のように、返事もなければ、気配もない。異常も検出されなかった。
その後もフィーアたちは、あらゆるデバイスを駆使して調査を続けた。一度始めると、とことんやるのが科学者の性。だが、花子さんの痕跡は何一つ発見できなかった。イリスも同様に肩をすくめた。
やがて、夕日が空を朱に染め始め、辺りは徐々に静寂に包まれていく。トイレの周囲では、使用済みのデバイスたちが音もなく沈黙を保っていた。
「何も見つからなかったな……」とゼクスは少し残念そうに呟いた。
「そうね……」と玄はホッとしながら答えた。
「仕方ない……調査はこれで終わりに……」
ゼクスが調査を打ち切ろうとしたそのとき、フィーアが何かを思いついたように声を上げた。
「あっ! もしかして、夜じゃないから出てこないのかも。ほら、噂も夜じゃなかった?」
「いや、朝や昼の時間帯にも少女の奇声を聞いたという情報がある」ゼクスは冷静にそう返した。
「あっ……そうなんだ……」フィーアは肩を落とした。
「……とはいえ、一応、夜間の調査もしてみよう。幽霊と言えば、やはり夜が定番だからな」
ゼクスの提案に玄は思わず目を見開き、「え……」と声を漏らした。
こうして、夜に再調査することが決まった。
時刻は午後五時を少し過ぎたばかりで、空はまだ夕日で明るかった。そのため、暗くなるまで待つことになった。
玄とイリスは、フィーアと一緒に食堂へ向かった。楽しそうに話すフィーアの向かいで、玄はぽかんとした表情のまま無心で料理を口に運んでいた。美味しいはずの料理の味は、ほとんど感じられなかった。
一方、ゼクスは一人静かな教室へ移動し、別の仕事に集中していた。
午後七時に四人はトイレ前に再集合した。空はすっかり暗くなったものの、周囲は電灯や校舎から漏れる光で穏やかに照らされ、薄明るさを保っていた。
四人はすぐに調査を再開し、先ほどと同様の手順で作業を始めた。さらに、新たな手法も試した。
玄は震える体を抑えようと、フィーアに体を寄せ、両手で彼女の肩をしっかり掴んでいた。心拍数が速まる中、冷静を装うのに必死だった。
一方のフィーアは、寄り添われた体勢にやや窮屈そうではあったが、目を輝かせ、やる気に満ちた表情を浮かべていた。
そのままの体勢で、二人は一時間ほど綿密な調査を続けたが、結局、花子さんの痕跡は一切見つからなかった。
調査報告書には、『今回の調査では花子さんの存在を確認することはできなかった』と記された。
午後八時を過ぎ、玄たちは使用したデバイスを片付け始めた。
玄はホッと胸を撫でおろし、フィーアは幸せそうな表情を浮かべ、ゼクスは残念そうに肩を落としていた。
片付けを終えて、帰ろうとしたその瞬間、玄の耳に「アハハハ……!」という少女の笑い声が微かに届いた。
玄は反射的に振り返り、暗がりに沈むトイレを凝視した。だが、特に変わった様子はなく、人の気配も微塵も感じられなかった。
「ん……? シュバちゃん、どうしたの?」とフィーアが尋ねた。
「……なんでもないわ」
玄は向き直り、足を一歩踏み出したその瞬間、ほんの微かな少女の笑い声が響いた。瞬時に振り返り、大きく目を見開いてトイレを見据えた。
「フィーア……今、女の子の笑い声、聞こえなかった?」玄は声を震わせながら尋ねた。
「え!?」フィーアはトイレに耳を傾けた。
ゼクスも歩みを止め、耳を澄ませた。しかし、二人の耳に少女の笑い声は届かなかった。
イリスも人並み外れた聴覚を駆使して耳を傾けたが、やはり少女の笑い声は聞こえていなかった。
ゼクスは背負っていたバックパックを下ろし、素早くデバイスを取り出した。
そのとき、トイレの向こう側から二人の女子生徒が笑い声をあげながら現れた。
「アハハ、それマジ!?」
「うん、マジマジ!」
その二人の笑い声が、少女の声を掻き消した。
その光景を見た瞬間、ゼクスは手を止めた。玄が聞いた笑い声の正体を、彼女たちだと判断したようだ。フィーアとイリスも同様の判断を下した。
二人が通り過ぎると、静寂が訪れた。すでに少女の笑い声は止み、玄も聞き間違いだと思い込んでその場を後にした。
玄は内心、聞こえた少女の笑い声と、二人組の声質がまったく違うことに気づいていた。だが、その違和感を口にすることなく、ただ黙ってそこから立ち去った。決定的な証拠もなく、玄はただ早くこの場を離れたかった。
家に帰り着くと、玄は日常の雑事を素早く片付けた。だが、心の中のモヤモヤが晴れなかった。
(もし、あの声が“天使”のものだとしたら……多くの人が危険にさらされるかもしれない。それを防ぐためにも、まず桜ちゃんに相談しないと!)
玄は胸に溜まったモヤモヤを振り払おうと、ソファに横たわった。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。そして目を開けると、玄の視界いっぱいに『アルカンシエル』の広大な草原が広がっていた。
到着してすぐ、玄は桜に念を送った。
(桜ちゃん、相談したいことがあるの。今から少し話せるかしら?)
そう念じてから、少し待っていると、桜が上空に現れ、ゆっくりと降下し、玄の目の前に静かに降り立った。
「ごめんね、急に呼び出して」と玄は言った。
「気にしないで。ちょうど暇だったし……」と桜は答えた。
二人は近くのベンチに並んで腰を下ろした。
「相談したいことって、なに?」と桜は尋ねた。
「……最近、色神学園で“七不思議”が話題になってるの」
「七不思議?」
「知ってる? トイレの花子さんとか、動く人体模型とか」
「あー、うん。知ってるよ」
「今日、その調査に同行したんだけど、少し気になることがあって……」
「気になること……?」
「……それに“天使”が関わっているんじゃないかと思って……」
その言葉を聞き、桜の目つきが急に鋭くなった。
「……どうしてそう思ったの?」
「……誰もいないはずのトイレの奥から、少女の笑い声が聞こえたの。いろんなデバイスを使って調査したけど、誰もいなかったし、人の気配も感じなかった。でも、笑い声が聞こえてきたの……!」
「そっか……その声が、“天使”だと思ったんだね」
玄は黙って頷いた。
少しの沈黙のあと、桜はゆっくりと口を開いた。
「……一つ、確認していい?」
「……なに?」
「その笑い声、本当にトイレの奥から聞こえたの?」
「え、ええ、たしかに聞こえたわ」
「そっか……」桜はふっと表情を和らげた。「それなら、心配しなくても大丈夫だよ」
「え……?」
「それ、“天使”じゃないから」
「ほんと!? よかった……」
玄は胸に手を当て、ほっと撫でおろした。だが、すぐにハッと目を見開き、声を震わせながら言った。
「じゃ、じゃあ……わたしが聞いたあの笑い声って、一体……!?」
玄の顔は青ざめていた。
「あっ、その声の正体……わたしの友達だから、心配しないで」
「友……達……?」玄はぽかんとした表情を浮かべた。
「ごめんね、迷惑かけて……明日、その子にちゃんと話しておくから安心して」
「き、気にしないで。わたしが勝手に勘違いしただけだから……ごめんなさい」
「玄は悪くないよ」と桜はやさしくかえし、話題を変えた。
「――それにしても、よく調査に行ったね。幽霊、苦手じゃなかった?」
「それは……」
玄は視線を逸らし、少し恥ずかしそうに続けた。
「もし、七不思議の正体が“天使”だったら、仲間に危険が及ぶかもしれないって思って……」
玄の答えを聞いた瞬間、桜は小さく微笑んだ。
「玄のそういうところ、わたしは好きだよ」
「なっ!? い、いきなり何を言ってるの!?」玄は一気に顔を赤く染めた。
「ふふ……」と桜は柔らかく笑い、そっと立ち上がった。数歩歩いたところで「そうだ」と思い出したように振り返った。
「ちなみにね――玄が聞いた少女の声、本物の幽霊だよ」
桜は、まるで冗談のように軽やかに言うと、そのまま空へ飛び去った。
「えっ……?」
玄は目を見開き、ベンチに座ったまま硬直した。冷たい風が吹き抜け、玄の髪と心に静かなざわめきを残していった。
しばらくして、はっと我に返った玄の視界に、リビングの白い天井が広がった。横に視線を向けると、イリスがふわりと浮かんでいた。
「おかえり、玄ちゃん」とイリスはやさしい声で微笑んだ。
玄は上体を起こし、イリスと目を合わせず、落ち着かない様子で周囲を見渡した。
イリスは玄の挙動不審な様子を見て、水の入ったグラスを渡した。玄がそれを受け取り、水を含んで落ち着きを取り戻すと、静かに声をかけた。
「ねえ、玄ちゃん。どうだった?」
その問いかけに、玄は一瞬目を見開いて硬直した。桜の最後の言葉が脳裏に浮かびそうだったが、それを強引に抑え込み、笑顔で答えた。
「何も問題はなかったわ」
「……そっか」イリスはホッと息をついた。
玄は幽霊調査のことを頭の隅に追いやり、無理やり気持ちを切り替えた。思い出すまいと心を閉ざしたその瞬間、安堵と疲労が一気に押し寄せ、ふらふらとした足取りで寝室へ向かった。ベッドに倒れ込むように横たわると、数秒もしないうちに深い寝息を立て始めた。
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