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玄の憂鬱な休日①

 アルカンシエルの広大な草原の中にある東屋の椅子に、玄は腰を下ろしていた。優雅にコーヒーを一口含み、本を片手に読書しながら、ある人を待っていた。

 近くでは茜と桜がほうきにまたがり、飛行の練習をしていた。茜が桜に乗り方を教わっているようだった。

 山の麓にある湖の桟橋では、天が湖越しにそびえる山を見据え、風景画を描いていた。

 翠は自室にこもり、お菓子作りに没頭していた。

 カップをそっと丸テーブルに置いた瞬間、玄は微かな気配を感じ取り、素早く視線を動かした。

 草原の中央に突如、異空間ゲートが開き、柴乃が姿を現した。眠そうな顔でゆっくりと歩を進めていた。

 玄はすぐに立ち上がり、柴乃へ歩み寄った。

「お疲れ様、柴乃ちゃん。今日はいつもより早いわね」と玄は声をかけた。

「ん~」と柴乃は目を擦りながら答えた。

「何か引き継ぐことはあるかしら?」

「うーん……特に……なし……」

「そう、了解!」

 引継ぎが終わると、柴乃は草原の中に佇む紫色のドアに向かって、歩みを進めた。ドアの前で足を止め、静かに開けると、ゆっくりと足を踏み入れた。そのままベッドに直行し、倒れ込むように横たわると、すぐに眠りについた。

 玄は東屋に戻り、椅子に腰を下ろした。読みかけの本を手に取るとページを捲り、時間が来るまで静かに待った。


 四月二十三日、土曜日の深夜。

和室に敷かれたふかふかの布団で眠っていた玄は、静かに目を覚ました。上体を起こし、目に掛かった髪を左手でそっとかきあげて耳にかけた。掛け時計に視線を向けると、時計の長針と短針が、ちょうど午前0時を指していた。

布団から起き上がると、綺麗に畳んで押し入れに収納し、リビングへ向かった。

リビングのソファには、イリスがいた。

イリスは輝く瞳で、宙に浮かぶ膨大な情報を素早く追っていた。真剣な表情で集中し、玄が起きたことに気づいていなかった。玄がそばに立つと、気配を感じ取り、調査の手を止め、視線を向けた。

「もうそんな時間に……! ごめん、気づかなかった」

イリスは慌てて玄の顔の高さまで浮上した。

「気にしないで、何か調べてたんでしょ?」と玄は冷静に返した。

「うん……ちょっと気になることがあって……」

「まだ終わっていないなら、続けて構わないわ。今日はオフだから」

イリスは一瞬考え込んでから口を開いた。

「ありがとう……じゃあ、健康状態だけ確認するね」

「ええ、お願い」

 イリスは目を光らせ、玄の全身をスキャンして健康状態を確認した。結果はすべて正常だった。確認を終えると、ふわりとソファに腰を下ろし、大量の情報を宙に投影して、調べものを再開した。

 洗顔・歯磨き・着替えを済ませた玄は、地下室へ向かった。

 地下室への階段を下りると、広間には立派なグランドピアノが置かれていた。部屋の一角にレコーディング機材の揃ったスペースもある。

防音が施されているため、周りを一切気にしなくていいが、玄は滅多に弾かない。このピアノを弾くのは、ほとんどが天だ。

白雪家の地下室には、それだけでは留まらない秘密が隠されている。

コンクリートの壁の奥には、玄の仕事道具一式が隠されており、広間の隅にも桜が魔法で作り出した広大な空間広がっていた。ただし、その空間に足を踏み入れられるのは桜だけだ。玄が触れても、そこはただの冷たいコンクリートの壁に過ぎない。

そしてもう一つ、一人分サイズの射撃場があった。

このように、白雪家の地下室は、まるで秘密基地のようだった。

玄がコンクリート壁にそっと触れると、壁が機械仕掛けのように開き、奥から武器の一式が入ったケースが現れた。玄はケースを手に取ると、その中からレーザー銃を取り出し、射撃場へ向かった。

オフの日、玄は〈フリーデン〉の仕事を基本的に行わない。休むことも大切だと考えていた。ただし、訓練は決して欠かさない。国を守る重要な任務を果たすためには、必要不可欠なことだ。

射撃場でおよそ一時間レーザー銃を試し撃ちし、玄は一階のリビングへ戻った。

リビングでは、イリスが難しい表情で腕を組み、宙を浮漂いながら目の前の情報とにらめっこしていた。話しかけられる雰囲気ではなかったため、玄は声をかけず、静かにソファに腰を下ろした。

玄はイヤホン型量子デバイスを装着し、目を閉じて「コネクト・オン」と囁いた。次の瞬間、脳とデバイスが量子で繋がり、玄はネット世界へと飛び込んだ。

玄は真っ白な空間に立っていた。その空間には、無数のゲームパッケージが浮かび、整然と並んでいた。それらはすべて、柴乃が購入したゲームだった。

玄は数あるゲームソフトの中から『Realm of Bullets』、――通称〈ROB〉のパッケージにそっと触れた。次の瞬間、彼女の体は光に包まれ、パッケージの中へと吸い込まれていった。

ROBは、仮想現実空間を舞台にしたVRMMOガンシューティングゲームであり、プレイヤーの主な武器は銃である。ハンドガン、ライフル銃、スナイパーライフル、ショットガン、マシンガンなど様々な種類の銃を駆使して戦う。常に弾丸が飛び交う荒廃した世界で、毎日激しい銃撃戦が繰り広げられていた。近接戦闘もできなくはないが、近接用の武器といえば、刀身の短いサバイバルナイフしかない。つまり、ROBは、銃が絶対的な力を持つ世界を描いたゲームだった。

アバターは人間に限られ、三対三や六対六のチーム戦、百人全員が敵となるバトルロイヤルなど、複数のルールが用意されている。

玄は休日になると『ROB』をプレイするのが習慣だった。トッププレイヤーの中には、玄でも簡単には倒せないほどの実力者がいて、その戦いが良い訓練になる。彼らの正体は不明だが、噂では、本物の軍人や特殊部隊と囁かれている。

玄のプレイヤーネームは“ノワール”。フランス語で「黒」を意味し、この名前は柴乃が命名した。

アバターの特徴はほとんど生身の玄と同じだが、髪型が黒髪ロングストレートから黒髪ショートボブに変わっていた。

ロビーに到着すると、玄は受付へ向かい、参加人数が百人に設定されたバトルロイヤルにエントリーした。全員が敵となる過酷な戦場で、最後まで生き延びた者だけが勝者となる。

玄はいつもバトルロイヤルに参加していた。ソロプレイの方が気楽だというのが理由で、決して“友達がいないから”ではない。

 設定されていた百人が集まると、全員が巨大な航空機に一斉に乗り込んだ。

航空機が離陸し、全員をバトルフィールドまで運ぶ。

 参加プレイヤーはまさに十人十色だった。顔に傷が刻まれた厳つい男、余裕の笑みを浮かべる若い男、緊張で体を震わせる若い女、派手な髪色の老婆などがいた。男女比は七対三だが、中身まで一緒とは限らないため、実質わからない。

 航空機内は異様な空気に包まれていた。厳つい男が他のプレイヤーを睨みつけて威圧する一方、緊張した若い女は怯えた様子で全身を震わせ、派手な髪色の老婆は周りの目を一切気にせず化粧を直していた。その他のプレイヤーたちも各々作戦を練っていた。

 玄は静かに目を閉じ、意識を集中させながら精神を研ぎ澄ませていった。

 しばらくして、航空機がバトルフィールドの上空に到着した。下に荒れ果てたバトルフィールドが広がる。

 玄はゆっくりと目を開いた。

 航空機の後部が開くと、プレイヤーたちは頃合いを見計らい、次々とパラシュートで降下していった。玄も自らのタイミングを見極めて航空機から飛び出した。その冷ややかな眼差しは、すでに地上に広がる戦場を鋭く射抜いていた。

着地と同時に、銃撃戦が火蓋を切った。

プレイヤーたちは一斉に隠れ場所を探し、武器を求め、有利なポジションを確保しようと動き始めた。

着地するや否や、玄は最寄りの家に飛び込み、素早く物色を始めた。引き出しを開けると、ハンドガンを見つけ、即座にそれを装備した。その瞬間、近くで銃声が鳴り響き、誰かが倒れた気配が伝わってきた。

「近いわね……」と玄は低く呟き、ハンドガンを手に行動を開始した。

慎重に歩みを進めていると、玄の耳に微かな音が届いた。背後の茂みで微かに動く影を捉えるや否や、玄は即座に銃口を向け、躊躇なく引き金を引いた。銃弾は正確に草むらに隠れていた男の頭を撃ち抜き、彼は音もなく地に崩れた。ヘッドショットは即リタイア。

その後も玄は、次々と現れる敵を倒し続けた。

玄の動きは閃光のように速く、射撃は冷徹なまでに正確だった。何人もの敵が玄に襲いかかるが、そのすべてが失敗に終わる。敵が玄の姿を捉えた瞬間、一発の銃声が鳴り響くと、すでに頭を貫かれ、地面に倒れていた。

遠くで響く銃声すら、玄には貴重な情報だった。敵と出会う前から、その位置を正確に読み取っていた。百人いたプレイヤーは次々と倒れ、残りは数人となっていた。

広場に足を踏み入れた瞬間、数人の敵が四方から姿を現した。彼らは一斉に攻撃を仕掛けたが、玄はまるでその動きを予測していたかのように冷静だった。玄が引き金を引き、銃声が響くたびに、一人、また一人と地面に倒れていく。玄の動きは極めて正確だった。

最後の一人が銃を構えた瞬間、すでに玄の銃口はその頭部を狙っていた。

「――これで、終わり」

低く呟いた玄は、迷いなく引き金を引いた。最後の敵も音もなく崩れ落ちた。

静寂が戻り、バトルフィールドにはただ一人、玄だけが立っていた。

「……もう少し、続けてみようかしら」

 勝利の余韻に浸ることもなく、玄はフィールドを後にした。心には、すでに次の戦場が見据えられていた。

 ロビーに戻ると、周囲は異様な熱気に包まれていた。モニター越しに玄のプレイを目撃した者たちが、興奮気味にヒソヒソと会話を交わしていた。

「おい、さっきのプレイ見たか?」

「ああ、すごかったな。まさに異次元……!」

「あれが“黒い閃光”か……初めて見た!」

 という会話が聞こえた。

 周囲のざわめきに一切反応を見せることなく、玄は静かに受付へ向かい、今度は参加人数二百人のバトルロイヤルにエントリーした。

 次の試合が始まるまで、玄はロビーの端の階段に腰を下ろし、静かに待っていた。自然と漂う近寄りがたい空気に、人々は距離を取っていた。だが、そんな中、一人の少女が明るい声で「やっほー、ノワールちゃん!」と話しかけてきた。

 玄が顔を上げると、プレイヤーネーム『スイ』が立っていた。

「スイ……」と玄は静かに返した。

「六週間ぶりだね!」

「そうね」

 スイはこのゲームで、玄に話しかけてくる数少ないプレイヤーだった。端正な顔立ちに、透き通るような美しい声が印象的な少女だ。

「よかった。ノワールちゃんはいてくれて……」スイは胸に手を当てホッと息をついた。

「……どうかしたの?」と玄は問いかけた。

「ううん、なんでもない。気にしないで……」

スイは笑顔で答えたが、その笑みから落ち込みが漏れていた。それを悟られないように、話題を逸らした。

「さっきの試合、すごかったね!」

「見てたの?」

「うん。ノワールちゃんの試合を見て、いつも勉強させてもらってるんだ」

「そう……参考になるかしら?」

「うーん……正直、ノワールちゃんの動きは異次元過ぎるけど、頑張ればなんとか……」

スイは明らかに空元気だった。

「あっ、この前ね――」とスイが話し始めた瞬間、玄が鋭い声で「スイ!」と遮った。

「……な、なに?」スイは声を震わせた。

「何かあったんでしょ? わたしでよければ、話を聞くわ」と玄はやさしい声で促した。

 スイの目に一瞬涙が浮かび、唇を強く噛みしめた。静かに玄の隣に腰を下ろすと、ゆっくりと口を開いた。

「実はね……少し前に仲の良かった友達と離れることになって、その悲しさがまだ消えないの……。きっと何か事情があったんだと思うけど、急にいなくなっちゃって……。あのとき、わたしにできることがあったんじゃないかって、ずっと考えちゃうんだ……」

「……大切な友達だったのね」

「うん……やさしくてかわいくて、一緒にいるだけで楽しかったんだ……」

「そう……」

「……ヴィオレちゃんっていう子なんだけど……」

「へぇー、ヴィオレ……って……えっ、ヴィオレ!?」

「ノワールちゃんも知ってるの?」

「え、ええ……名前だけは聞いたことあるわ」

「そうなんだ。結構有名人だもんね」

「……スイは、その……ヴィオレと仲が良かったの?」

「……うん」

「そ、そう……スイが、あのヴィオレと……」

玄は驚きとともに、妙な興味が胸の奥に湧き上がるのを感じた。そして、続けて尋ねた。

「どうやって仲良くなったの?」

「……最初はね――」

 スイが柴乃との出会いを語り出すと、玄はこんなことを思っていた。

 まさか、柴乃ちゃんが定例会議で何度も話題にしていた「スイちゃん」と、目の前の“スイ”が同一人物だなんて……! こんな偶然があるのかしら……? いや、本当に偶然? この広い世界で、同じ人と出会って仲良くなることなんて……。もしかしてスイは、わたしたちの秘密を暴こうとしている凄腕のエージェント!?

 玄は目を見開き、スイをまじまじと見つめた。

 いや、さすがにそれは考えすぎね……。でも、一応あとでイリスに確認しておこうかしら。

 スイの正体については後回しにし、玄は話に耳を傾けた。

 話が終わると、スイはスッキリとした表情を浮かべていた。溜まっていたものをすべて吐き出し、満足げな様子だった。

「ありがと、ノワールちゃん。話を聞いてくれて」とスイは言った。

「これくらい、いつでも聞いてあげるわ。ただし、次に会うのは六週間後だけどね」と玄は冗談っぽく返した。

「ふふ、そうだね」

 玄がこのゲームをプレイするのは休日のみ。

白雪の休日はローテーション制で、六週間に一度、順番が回ってくる。つまり、玄とスイと会えるのも六週間に一度だけだった。

 スイとの会話がひと段落したところで、次の試合に二百人が集まったというシステムメッセージが届いた。玄はそれを見て、静かに立ち上がる。

「頑張ってね!」とスイは笑顔で声をかけた。

「ええ」

 玄はロビーを抜け、外へ出た。目の前の広場には、バトルロイヤルに参加する二百人のプレイヤーがすでに集まっていた。今回も猛者揃いだったが、特に目を引いたのは、屈強な体格の男『スワット』、洗練された端正な顔立ちの『SAS』、そして冷静さを漂わせる少女『メイ』の三名だった。

しばらくして、航空機の後部ドアが開き、プレイヤーたちが次々と乗り込んでいった。玄もその流れに続く。全員が乗り込むと、後部ドアが閉まり、航空機は離陸した。

 数分後、航空機はバトルフィールドの上空に到達した。下には、朽ち果てた住宅街や錆びついた廃工場、そして長い間放置された廃校が広がっていた。

二百人のプレイヤーが次々とパラシュートで降下していく。玄も中盤辺りで降下した。

近くに数人のプレイヤーが降下し、玄は着地と同時に崩れた住宅へと駆け込んだ。銃を手に入れなければ圧倒的に不利になる。このゲームでは、初動の動きが生死を分けるのだ。

玄は無事にハンドガンを手に入れた。瓦礫が散乱する道路、崩れ落ちた壁、そして無数の影が交錯する中、静かに動き出した。

崩れた住宅の窓から、廃墟を見渡した。玄の目には、潜んでいる敵の動きが細かく映し出されていた。荒れた庭を駆け抜ける足音に反応し、玄は素早く身を屈めた。直後、銃声が轟いた。弾丸は玄の頭上をかすめ、崩れた壁に激突した。

敵の声が近づく中、玄は迷わず反撃に転じた。屋根を伝って上方から敵の背後を狙い、まるで影のように滑らかに動いた。敵が気づいたときには、すでに銃声が一発響き、彼は地面に崩れ落ちていた。

玄はすぐさま次のターゲットを探した。少し離れた場所に崩れた廃工場が見える。廃工場の敷地内で銃声が響き渡り、複数人が激しい撃ち合いをしていた。

周囲を警戒しながら、玄は廃工場へと向かった。途中で現れた敵を一発のヘッドショットで仕留めると、物陰に身を潜めながら慎重に進み、廃工場の敷地内へと足を踏み入れた。

姿勢を低く保ったまま進んでいると、廃工場の巨大なコンテナの陰から、二人の敵が慎重に接近してくるのが見えた。玄は息を潜め、瓦礫の山を一気に駆け上がって高所を確保した。次の瞬間、玄の姿は再び影に溶け込み、見失った敵は不安げに周囲を見回した。

「どこだ……?」

その問いに応じるように、玄は素早く急降下し、正確な一撃で最初の敵を仕留めた。残ったもう一人が反撃を試みるが、彼の反応は遅かった。廃工場の薄暗い空間に響く銃声の中、もう一人もまた倒れた。

玄は次に廃校へと向かった。そこは静寂に包まれ、瓦礫と埃に覆われていた。廊下を進むたびに床が軋み、天井から漏れる光が玄の影を長く引きずっていた。

 朽ち果てた廃校の中庭には、鋭い緊張感が漂っていた。玄は崩れた窓枠に身を潜め、周囲を警戒する。静寂の中、無数の気配が息を潜め、互いの動きを探っていた。廊下に響く重い足音が、じわじわと距離を詰めてくる。

玄は呼吸を整え、心を落ち着けた。壁に身を寄せた瞬間、弾丸が横をかすめ、壁に大きな穴を開けた。スワットが玄を狙っていた。

「見つけたぞ……!」

スワットの低い声が響くや否や、玄はすばやく体を反転させ、射撃を開始した。玄の弾丸は正確にスワットの肩を捉えたが、スワットは耐え、さらに一歩前進する。玄は後退しつつ、背後の廊下へと飛び出す。

その瞬間、別方向から銃声が響き、SASが参戦してきた。狙いはスワットだった。

廃校の中庭で、三つ巴の戦いが始まろうとしていた。

玄は、スワットとSASが撃ち合う隙を狙い、素早く横へと身を滑らせた。瓦礫の陰に身を潜め、次の動きを考える。敵同士の戦いを利用して、最も有利な位置を取ることが玄の狙いだった。

しかし、戦場にいるのは三人だけではない。突然、別の方向から複数の敵が現れ、三人を一気に仕留めようと襲いかかってきた。

玄は即座に反応し、群がる敵を一掃するべく動き出した。

「こいつらもまとめて片付けてやる!」

スワットが叫びながら、手榴弾を投げた。轟音とともに爆発が起こり、複数の敵が吹き飛ばされた。その隙に玄は素早く動き、残った敵をヘッドショットで次々と仕留めていく。瓦礫の中で巻き上がる埃の中、玄の影は敵に恐怖を刻み込むように動き続けた。

一方、SASもまた鋭い動きで次々と敵を仕留めていく。精密な射撃と鍛え抜かれた技術で、彼もまた、生き残りをかけて戦っていた。

さらに、この乱戦の中、遠く離れた場所からプレイヤーを狙う敵の銃声が響いた。スナイパーライフルで遠距離から次々とプレイヤーを撃ち抜いていく。まるで針の穴を通すかのような正確な狙撃が、その場にいる全員に襲いかかった。あまりの正確さに、一瞬玄の背筋に凍るような感覚が走った。精密すぎる狙撃に、命の主導権を奪われたような錯覚を覚えた。スワットとSASも同じ反応をしていた。

三人はスナイパーを最も警戒すべき敵と判断し、撃ち抜かれないように動き続けた。その対策を怠った他のプレイヤーたちは、次々と撃ち抜かれていった。

やがて、廃校の中庭には玄、スワット、SASの三名だけが残った。玄が冷静に二人を見据えると、彼らも鋭い視線を返した。

三人は壁に身を寄せてスナイパーを警戒していたが、銃声は別の方向から響き、スナイパーが標的を変えたことを告げていた。

「ここで決着をつける!」

スワットが鋭い叫び声を上げながら、猛然と突進してきた。その動きは鋭く、まるで獣のようだった。

玄は素早く応戦し、スワットの拳を躱しつつ、反撃の機会をうかがっていた。しかし、スワットの力は並外れており、一撃ごとに重みと鋭さが込められていた。

その隙をつき、SASが横から狙撃を仕掛けた。玄は二方向からの攻撃にさらされる中、紙一重で躱しながら、彼らの動きを観察していた。

(今だ!)

玄は心の中でそう叫ぶと、地面に散らばる瓦礫を蹴り上げて敵の視界を遮った。一瞬の隙を作り出すと、スワットに向かって突進した。拳が交差するたび、わずかな隙を突いて致命打を狙い合う。

玄は冷静な判断と巧みな身のこなしで、スワットの拳を受け流した。スワットが拳を突き出した勢いで一瞬体勢を崩したその隙をつき、玄は彼の頭を正確に撃ち抜いた。

スワットは力尽き、地面に崩れ落ちた。

SASはその瞬間を見逃さず、玄の頭を狙って銃弾を放った。しかし、玄はそれを見越していた。素早く体を捻じって弾丸を躱すと、地面を強く蹴り、低い姿勢でSASとの間合いを一気に詰めた。至近距離での激しい格闘戦が始まった。

SASの動きは冷静で精密、その技術は並外れていた。だが、玄の反応速度と状況判断は、それを凌駕していた。

玄はSASの拳と蹴りを寸前で躱し続けた。やがて、SASの動きが鈍る。その一瞬の隙を見逃さず、玄は瞬く間に数発の正確な掌打を叩き込んだ。その衝撃でSASの動きが一瞬止まると、すかさず頭を撃ち抜いた。最後の銃声が中庭に響いた。視界がぼやけゆく中、SASの目に映ったのは、静かに立つ玄の姿だった。

バトルロイヤルはついに最終局面を迎えた。フィールドのあちこちで響いていた銃声がやみ、静寂が辺りを包む。残った生存者は、玄と凄腕のスナイパー『メイ』のみだった。

 廃校の中庭を静寂が包む中、玄の耳に微かな風の音が届いた。その中に漂う不穏な気配が、彼女の感覚を一層鋭敏にしていく。

「いる……」

 遠く離れたビルの屋上で、微かな光の反射を捉えた。メイがそこで待ち構えている。玄の立っている場所から約三キロ離れていた。

玄は即座にその位置を把握すると、慎重に動き出した。玄が動くたびに、周囲の瓦礫や崩れかけた壁がわずかに音を立てる。その微かな音でも、メイに気づかれる可能性があるため、玄は注意深く進んだ。三キロも離れているが、念には念を入れてゆっくりと歩を進めた。メイの狙撃技術は、トッププレイヤーの中でも群を抜いており、わずかな動きすら見逃さない。

玄の予想は的中していた。いや、それ以上だった。

廃校の外に一歩踏み出したその瞬間、玄は背筋を駆ける鋭い気配を感じ、咄嗟に身を屈めた。同時に、玄の頭上を閃光が走り、かすめた。わずかな隙間を通り抜けたその弾丸は、玄の頭を正確に撃ち抜けるほどの精度を備えていた。

玄はすぐさま後退し、崩れた壁の陰に身を潜めた。今の一撃でメイの位置を特定したが、彼女はすでに移動を開始していた。メイは玄との距離を保ちながら、得意の狙撃で撃ち抜くつもりだった。正面から挑めば、さすがの玄でも確実に仕留められる。

 玄は一旦、その場から撤退し、廃校の建物内に潜り込んだ。さらに奥へと進み、壁に身を寄せながらメイに接近するための最適なルートを模索し始めた。瓦礫を踏みしめる音を抑えながら、無言で進んでいく。高所からメイが圧倒的に有利な位置を確保している以上、玄に残された選択肢は、死角に潜り込むことだけだった。

一方、メイもまた、自分の弱点を熟知していた。高所にいることで視界を広く保てるが、近距離に持ち込まれると狙撃の優位性が失われる。そのリスクを避けるため、早急に仕留めようと、何度も玄の動きを読み取ろうとしていた。

スナイパーにとって、狙撃とは単なる技術ではなく、精密な計算と鋭敏な感覚の絶妙な融合である。メイはまず、風の向きと強さを慎重に確認した。廃墟の中では、わずかな風の揺らぎすら弾道を狂わせかねない。頬に感じる微かな風圧と、廃墟の隙間を抜ける風音から、風の方向と強さを正確に読み取る。距離と弾道を計算し、標的が動くタイミングと自分の発砲タイミングを合わせるためのわずかな時間差を頭に叩き込んだ。光の具合にも注意を払った。太陽の位置、廃墟の影、そして光の反射。これらが弾丸の軌道や狙撃位置を敵に気づかせるリスクを増大させる可能性があるからだ。

メイはそれらすべてを考慮し、最も有利な狙撃位置を確保するため、ビルの屋上でわずかに体をずらしながら照準を合わせていた。

玄は決死の覚悟で、瓦礫と崩れた壁の位置を脳裏に刻み、風を裂いて廃校を飛び出した。その瞬間、一銃声と同時に、正確無比な弾丸が玄を襲う。だが玄の動きがわずかに勝り、弾丸は肩をかすめた。鮮やかな赤が布地に滲む。

玄は今の一発でメイの位置を特定し、鋭い視線で正面のビルの屋上を捉えた。そのまま視線を下げ、そこに至るまでの障害物とルートを瞬時に計算すると、ためらうことなく飛び出した。

玄は壁の影を縫って素早く移動し、確実にメイとの距離を詰めていった。メイの正確無比な狙撃が次々と襲いかかるが、玄はそのすべてを素早い身のこなしと冷静な判断で、紙一重の差で躱し続けた。

玄がビルに近づくと、狙撃が止み、突然の静寂が辺りを包んだ。わずかな金属音や瓦礫の軋み、玄の足音までも耳を刺すように響いた。それらはすべてメイに接近を知らせるかもしれないが、玄はそれを恐れず、慎重にかつ大胆に進んだ。

一瞬の気の緩みも許されない状況が続き、玄の表情に疲労が浮かんだ。しかしそれは、メイも同じだった。

メイのいるビルまであと一キロに迫ったその瞬間、玄は異様な気配を感じ取り、思わず足を止め、石壁に身を寄せた。背中を冷や汗が伝う。それは、次の一発で玄を確実に仕留めるという、メイの殺気だった。

不気味な静寂の中、玄は意を決し、勢いよく飛び出した。道の中央に出ると、正面を鋭く見据え、一直線にメイのいるビルへと突進した。周囲の瓦礫に目もくれず、身をさらしたまま風のような速さで突き進んだ。

メイは意表を突かれて一瞬戸惑ったが、一呼吸おいてすぐに冷静さを取り戻し、静かにスコープを覗き込んだ。玄の頭に照準が合わさると、「フゥー」と息をつき、迷いなく引き金を引いた。

銃声と同時に、玄は腰のサバイバルナイフを引き抜き、迫る弾丸に向けて刃を閃かせた。次の瞬間、鋭い金属音が響き、弾丸は刃に弾かれて軌道が逸れ、壁に命中した。

「なっ!?」とメイは驚きの声を漏らした。

メイの腕前が超一流であることを見越した上での、玄の緻密な作戦勝ちだった。玄は、メイが一発で仕留めようとするなら頭を狙うと読んでいた。その予測が的中し、結果として防げたのだった。

メイは一発で仕留めるつもりだったため、次の弾を装填するのに一瞬の遅れが生じた。

 その隙に玄はビルの一階に飛び込んだ。足音や瓦礫を踏む音など気にする余裕もなく、散乱した瓦礫を蹴り飛ばしながら階段を一気に駆け上がる。屋上へ通じるドアのまで辿り着くと足を止めた。

ドアを開けたその瞬間に狙撃される可能性は極めて高い。

玄は冷静に周囲を見渡した。床には割れた窓ガラスの破片が散らばり、足を踏み入れると音を立てそうだった。窓から外に出て壁をよじ登り、屋上を目指す選択肢も浮かんだが、その際に生じる音で気づかれる危険性が高い。壁を登る間に狙われた場合、どれだけの反射神経を持つ玄でも回避は難しい。

 玄は腕を組み、数秒間その場で考え込んだ。そして、何かを思いついた表情で素早く周囲を見回す。床に転がる石を手に取ると、狙いを定め、窓ガラスへ向かって力強く投げつけた。石が割れた窓ガラスを突き破り、鋭い破裂音が空間に響き渡る。その音を聞いたメイが、外側を警戒すると、玄は考えた。

玄は全力の突き蹴りでドアを破壊し、そのまま屋上に飛び込んだ。そこには背中を見せたメイの姿があると想定していたが、視界に入ったのは無造作に置かれたスナイパーライフルのみだった。次の瞬間、玄は背後に気配を感じ取った。

メイは屋上入り口のすぐ上に潜み、音もなくリボルバーを構え、玄に照準を合わせていた。玄の動きを完全に読み切った、計算された罠だった。玄の後頭部に照準をピタリと合わせたメイは、迷いのない動作で引き金を引いた。

 銃声とほぼ同時に、玄は素早くしゃがみ込んだ。弾丸は舞い上がった彼の髪をかすめて通り過ぎた。

玄は振り返ると同時にハンドガンを放った。

メイは体を捻り紙一重で躱した。

その一瞬の隙に、玄は地面を強く蹴り、間合いを詰めた。メイも反射的に身構え応戦した。

二人の激しい攻防が始まった。玄は鋭い掌打を突き出すが、メイに巧みに受け流される。すかさずメイも拳を繰り出すが、玄が正確にいなす。互いに隙あらば銃口を突きつけるが、その瞬間に手を弾かれ、銃声が響くだけだった。

一歩も譲らない攻防が続く中、玄はあえて一瞬の隙を見せた。その隙をメイは見逃さず、玄に銃口が向け、引き金を引いた。

玄はその弾道を見極め、わずかに体をひねって紙一重で躱した。メイがすかさず銃を構えたその瞬間、玄は素早く掌打を放ち、銃を弾き飛ばした。そして、メイの額に銃口を突きつけた。

「あなた、もしかして……」

玄がそう呟いた瞬間、メイは鋭い拳を放ち、玄のハンドガンを弾き飛ばした。

玄は続けて繰り出されたメイの蹴りを躱し、ハンドガンを取りに向かった。同時にメイもリボルバーを取りに向かった。

二人は同時に銃を拾い上げ、一瞬の迷いもなく振り返り、引き金を引いた。

弾丸は空中で交差し、寸分違わず互いの心臓を貫いた。わずかな沈黙ののち、二人はゆっくりと崩れ落ちた――ゲームオーバー。

玄がロビーに強制転移されると、正面の巨大スクリーンにバトルロイヤルの結果が映し出された。画面中央には、『DRAW』の四文字が鮮やかに浮かび上がっている。それは、玄とメイの戦いが引き分けで終わったことを示していた。二人が放った弾丸は、コンマ一秒の差もなく心臓を貫き合っていた。

卓越した狙撃能力、間合いを詰められても揺るがぬ冷静さ、そして狙われているときに漂う圧倒的なプレッシャー。そして何より、プレイヤーネーム――『メイ』。これらの要素を結びつけ、玄は『メイ』の正体が〈フリーデン〉のエージェント――フュンフである可能性に思い至った。

まさか、フュンフもROBで訓練をしていることを知らなかったため、玄は驚きと嬉しさの混じった表情を浮かべた。

(おそらく、フュンフもわたしの正体に気づいているはず……)

玄はロビーを見渡し、メイを探したが、彼女はすでにログアウトをしていた。玄は残念なため息をついたが、すぐに気持ちを切り替えて、次のバトルロイヤルのエントリーに向かった。

その後、玄はバトルロイヤルに参加し続け、勝利を重ねていった。時折、ノワールに挑戦したいというプレイヤーが現れ、参加者も増えていった。

玄の動きにかろうじて喰らいつけたのは、『リリーフ』という名のスナイパー少女だけだった。だが、彼女でさえ玄には遠く及ばず、真の接戦を繰り広げたのは、メイ(フュンフ)だけだった。


 玄がログアウトしたときには、時計の針がすでに午前七時を指していた。バトルロイヤルに熱中し、いつも以上に時間を忘れてしまっていた。イヤホン型量子デバイスを外してテーブルに置いたタイミングで、イリスがブラックコーヒーの入ったマグカップを手にふわりと現れた。

「お疲れ様、玄ちゃん」とイリスは柔らかい声をかけ、マグカップを玄に渡した。

「ありがとう、イリス」と玄は返し、コーヒーを受け取った。

「今日の相手はどうだった?」

「結構手強かったわ」玄は一口コーヒーを含み、続けて言った。「一度だけ、フュンフとマッチしたわ」

「えっ、フュンフと戦ったの!?」

「ええ……勝負は引き分けだったけど、あの強さは間違いないと思う」

「玄ちゃんと引き分け……じゃあ、本物だね」

 玄はコーヒーをもうひと口含み、あることを思い出した。

「あ、そうだ。イリス、ちょっとお願いがあるんだけど」

「なに?」

玄はROBのプレイヤー名簿に登録された『スイ』のプロフィールを宙に投影した。

「この子を少し調べてほしいの。別のゲームで柴乃ちゃんと接点があるみたいで……」

「スイ……」

イリスは画面を真剣な目で見つめ、頷いた。

「了解。少し待っててね」

イリスは瞬時にネットワークへアクセスし、膨大なデータの中から『スイ』に関連する情報を精査し始めた。関連性の高いデータを繋ぎ合わせ、必要とあらば最低限のハッキングも厭わない。その分析速度は、一般的なAIの性能をはるかに凌駕しており、彼女にとってはそれすらも簡単な作業にすぎなかった。

一分も経たないうちに、イリスは調査を終え、調べ上げたスイの情報を宙に投影した。

「玄ちゃんの言った通り、この『スイ』って子……『怪獣狩り』で柴乃ちゃんと親しくしてたようだよ。プレイヤーネームも同じ『スイ』だったから、すぐに突き止められた」

 イリスの報告を聞き、玄は「やっぱり……」と呟いた。

「それと……最近、天ちゃんとも仲良くなってるみたい」

「えっ、天ちゃんと!? どういうこと? 天ちゃんはゲームをやらないはずだけど……一体どこで……?」

「色神学園だよ」

「色神学園……!?」

 玄はスイの情報に目を走らせた。スイが色神学園高等部の音楽科に通う生徒であり、さらに覆面アーティスト『ヒルシカ』のボーカルとして人気を集めていることを知った。

玄は思わず驚きで目を見開いた。

「多分、これからもっと関わっていくと思う」とイリスは言い添えた。

「そう……」

玄は静かに息を整え、心を落ち着かせると、イリスに尋ねた。

「……わたしたちの正体がバレる可能性はあるかしら?」

「ないと思う」とイリスは断言した。

「……特に心配しなくてもいいってこと?」

「うん」

「……わかった。ありがとう、イリス」

「どういたしまして」

 モヤモヤが晴れて気分が軽くなった玄は、コーヒーを一気に飲み干し、黒いジャージに着替えて外へ出た。川沿いを片道十キロ、往復で二十キロのランニングに出かけた。


ランニングを終えた玄は、家に戻るとシャワーで汗を流し、すっきりした気分で朝食をとった。その後、リビングの窓際にある椅子に腰を下ろし、手に取った本を開いた。

本の内容は最新の科学研究に基づく知識だった。「知識は力なり」という格言の通り、任務を遂行する上で知識は最大の武器になる。玄はその価値を理解しており、常に最新の正確な情報を吸収することを心がけていた。

近年、知識はAIに任せれば良いという風潮が広がっている。だが、イリスに頼りきりでは、いざというときに自分で何も判断できなくなる危険性がある。そのリスクを理解している玄は、日々自らの能力を磨き続けることを怠らない。

 一時間ほど経過し、玄は読み終えた本をそっと閉じて、掛け時計を見上げた。午前九時を示す針を見て、玄は思いついたように呟いた。

「気分転換に散歩でも行こうかしら……」

 ふと近くを飛んでいたイリスを見つめ、声をかけた。

「イリスも一緒に行く?」

「うん、行く」とイリスは応じた。

 玄はイリスを肩に乗せ、出発した。

急遽思いついた散歩だったため、玄はあてもなく適当に歩き回った。ふと周囲を見渡すと、天が頻繁に通う色神公園が目に留まり、足を踏み入れた。

玄はこれまで何度もこの公園を訪れたことがあったが、それはすべて〈フリーデン〉の任務中で、ただ通り抜けるだけだった。

今あらためて景色に意識を向けてみると、自然が多く、心地の良い雰囲気に包まれていることに気づいた。

以前、アルカンシエルで天と話したときに、彼女がこの公園をオススメしていた理由が、このときわかった。時折、見覚えのある景色を目にすることがあったが、それは、天が描いた風景画で見たものだった。

公園をゆっくりと歩いていると、黒猫がふいに玄の前を横切った。その姿を見た瞬間、玄の目が輝いた。黒猫のあとを、玄は足音を忍ばせながら追った。たとえ相手が猫であっても、玄は全力で尾行をする。

黒猫は玄の気配にまったく気づいていなかった。時折、黒猫が見せるかわいい仕草が、玄の心を癒した。

しばらく尾行を続けていると、玄は住宅街にたどり着いた。

黒猫は家々の間をすり抜け、一軒の古民家へと姿を消した。その古民家のペットドアから家の中に入っていった。

玄は古民家の前で立ち止まり、看板に目を向けた。

看板には、猫カフェ“にゃあ”と丸いフォントで書かれていた。

「こんなところに猫カフェがあったなんて……」

玄が小さく呟いた瞬間、腹の虫が鳴いた。ちょうど小腹が空いたため、“にゃあ”で満たそうと思い、足を踏み入れた。

ドアを開けて店内に入ると、「いらっしゃいませー」という女性の明るい声が響いた。

木の温もりに包まれた店内は、心を落ち着かせる柔らかな空気に満ちていた。柱や壁には猫が遊べる台が取り付けられ、天井にはキャットウォークが巡らされている。広間にはキャットタワーも置かれ、その周りでは数十匹の猫たちが思い思いにくつろいでいた。横たわって寝ている猫、壁を登っている猫、キャットウォークを渡っている猫など。

玄が尾行していた黒猫も、柔らかいクッションの上で丸くなっていた。

猫好きの玄にとって、ここはまさに天国だった。天も、きっと同じ気持ちだろう。

玄は入り口で立ち尽くし、目を輝かせながら店内の光景に見入っていた。

しばらくすると、女性店員が近づき、「お客様」と穏やかな声をかけた。その声で玄はハッと我に返った。女性店員の胸元には、猫の肉球の形をした名札があり、『猫宮』と記されていた。その名字は、まるでこの猫カフェのためにあるかのようだった。猫宮は、玄より少し年上に見えた。

「何名様でいらっしゃいますか?」と猫宮が丁寧に尋ねた。だが、不思議なことに、彼女の口元は一切動いていなかった。

「あ、えーっと……」玄は肩に座るイリスを一瞥し、視線を戻して答えた。

「二人です」

「二名様ですね。どうぞ、こちらへご案内いたします」

店内には、玄たち以外にも数人の客がいた。皆、猫と戯れたり、満足そうに猫を見つめたりと、それぞれ思い思いに楽しんでいた。

玄は猫宮に案内され、二人掛けのテーブル席に腰を下ろした。

「ご注文はタブレットで受け付けておりますが、何かあれば、いつでもお声掛けください」と猫宮は笑顔で告げた。「――では、失礼いたします」

 猫宮は丁寧にお辞儀をしてからカウンターへと戻った。接客がとても丁寧で、笑顔も素晴らしい。猫宮の第一印象は完璧だった。

猫宮が離れると、グレーの猫がゆっくりと玄のもとへ近づき、ためらうことなく膝の上に乗った。その人懐っこい仕草に、玄は自然と微笑んだ。

他人が体に触れてきた場合、玄は反射的に受け流し、決して触れさせない。だが、猫は例外だった。

玄は膝の上に乗った猫の頭を指でそっと撫でた。その柔らかな毛並みと穏やかな温もりに、玄の心は自然と癒されていった。

 しばらく撫でていると、猫宮がお冷とおしぼりを運んできた。イリス用のお冷は、小さなコップに注がれていた。

玄はまだ何も注文していないことに気づくと、慌ててタブレットに手を伸ばした。

「すみません。今すぐ注文します」と玄は言った。

「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」と猫宮はやさしい笑顔で返した。

 玄は指先でタブレットを操作し、オリジナルブレンドを注文した。

「ご注文承りました」猫宮は笑顔で答え、カウンターへと戻った。

 玄が膝上の猫を撫でていると、今度は茶色の猫がそっと現れ、甘えるように玄の足元へすり寄り、その頭を軽く擦りつけてきた。その仕草があまりにも愛らしく、玄は目を輝かせながら存分に撫でて甘やかした。

二匹の猫に囲まれ幸せな時間を過ごしていると、猫宮がオリジナルブレンドを運んできた。

「お待たせしました、オリジナルブレンドでございます」

「ありがとうございます」玄は緩んだ表情を一瞬で引き締めて返した。

「それと、こちらはサービスのクッキーです」

猫宮は、五枚のクッキーが美しく並べられた小皿をテーブルに置いた。

「いいんですか?」

「はい、どうぞごゆっくりお召し上がりください」

「ありがとうございます」

 玄はクッキーを一枚手に取り、一口かじった。クッキーはサクッとした音を立てて割れた。口に含んだ瞬間、甘い香りが口いっぱいに広がった。オリジナルブレンドと相性抜群の甘さだった。

「とても美味しいです」と玄は素直な感想を伝えた。

「フフ、ありがとうございます」猫宮は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 玄はイリスにクッキーを分けた。

イリスはクッキーを一口食べると、「うん……甘さがちょうどよくて、美味しい」と微笑みながら小さく頷いた。その一方で、頭の中では成分を分析し、材料を特定しようとしていた。イリスがふと視線を上げると、猫宮と目が合った。

「お客様……クッキーの材料を調べるのは構いませんが、ネットで公開するのだけはご遠慮くださいね」と猫宮がやさしく声をかけた。

イリスは一瞬驚いて、慌てて口に手を当てた。

「ごめんなさい。つい、癖で……」

「フフ、冗談です」猫宮は笑顔を向けた。

「では、ごゆっくりお過ごしください」と柔らかい声をかけると、丁寧なお辞儀をして、カウンターの奥へ戻っていった。

 猫宮との一連のやり取りの中で、玄は彼女の首元に掛けられたネックレスがスピーカーであることに気づいた。猫宮の声は、そのスピーカーから発せられていた。

 かつて猫宮は喉の病気を患い、手術で病気自体は克服したものの、声を失ってしまった。その後、彼女は脳に極小の端末チップを埋め込み、量子通信によってネックレススピーカーと接続することで、頭で考えた言葉を話す技術を手に入れた。そのため、口を動かさなくても喋れたのだ。

 猫宮のように、脳に端末チップを埋め込んだ人は、近年では意外と多い。

この技術は、病気や事故で失われた身体機能を回復するために役立てられている。声以外にも、麻痺した手足を動かしたり、目の見えない人を見えるようにしたりしている。しかし、リスクも存在する。

玄は二時間ほど猫カフェ“にゃあ”で過ごし、店内にいるすべての猫たちと存分に触れ合った。その愛らしい仕草と温もりにすっかり癒され、心から満足してカフェを後にした。

「またのご来店をお待ちしております」

猫宮は笑顔で見送り、最後まで丁寧な接客で玄の心を和ませてくれた。

「帰ったら、天ちゃんにも教えてあげよう」と玄は呟いた。


街中を歩いていると、「シューバーちゃーん!」という玄のコードネームを叫ぶ少女の声が、背後から急速に近づいてきた。振り返って声のする方に目を向けると、ものすごいスピードで迫るフィーアを捉えた。

フィーアは地面を蹴り、最後の五メートルで一気に加速し、両手を広げて玄に飛びかかった。

玄は冷静にフィーアの動きを見極め、すばやく横に身を躱した。

フィーアは玄の横を通過すると、地面に両手をついて素早く回転し、体勢を立て直すと同時に再び背後から飛びついた。

フィーアの二段構えの攻撃を予測していた玄は、軽やかなバク転で彼女を飛び越えた。その瞬間、空中でポケットから巻尺タイプのワイヤーを取り出し、一瞬でフィーアを縛り上げた。拘束されたフィーアは、なすすべなく地面に崩れ落ちた。

 少し遅れて、ゼクスが小走りで駆け寄ってきた。大きめのバックパックを背負っていた。

「やっと追いついたと思ったら、どうしてこんな状況になっている?」とゼクスは尋ねた。

「フィーアがいきなり飛びかかってきたから、軽く対処しただけだよ」と玄は冷静に言った。

「……そうか」ゼクスはすぐに状況を把握し、続けて言った。

「シュバルツ、悪いがフィーアを解放してやってくれ。このままだと周りの目が痛い」

ゼクスの言葉に促され、玄は周囲を見回した。フィーアの突拍子もない行動のせいで、行き交う人々の視線が集中していた。“近寄らないほうがいい”といった空気が漂い、幸いなことに誰も声をかけてくる者はいなかった。

玄が拘束を解くと、フィーアはサッと立ち上がり、身なりを整えた。

「ごめんなさい、シュバちゃん」フィーアは慌てて頭を下げた。

「土曜に会えるなんて思ってなかったから、つい舞い上がっちゃって……」と、しょんぼりした声で言った。

「大丈夫よ、気にしないで。ほら、顔を上げて」

玄がやさしい声で促すと、フィーアはゆっくりと顔を上げた。申し訳なさそうな表情を浮かべていたため、玄は話題を変えた。

「それより、二人は何をしているの? 任務中?」

「一応、任務といえば任務だな」とゼクスが軽い口調で答えた。

「……どういうこと?」

「一色こがねから、直接ぼくらに任務が来たんだ」

「一色さんが? どんな任務?」

「……色神学園七不思議の調査だ」

「色神学園七不思議……?」

「ああ……。最近、色神学園で妙な噂が流行ってるらしいんだ。白い服の長髪の女性が夜な夜な校内を歩いてるとか、トイレから少女の笑い声が聞こえてくるとか……人体模型や石像が動いたなんて話もあったな」

ゼクスは少し呆れた様子で説明した。

「へぇー……」

「だから、ぼくたちに調査して欲しいって……」ゼクスは肩をすくめた。

「そう……あなたたちも大変ね」と玄は同情するように言った。

(七不思議なんて、全部作り話なのに、意外と信じてる人がいるのね。まさか、一色さんも信じてるとは思わなかったけど……ほんとバカみたい。わたしは絶対に関わらないわ!)

 玄が心の中でそう思っていたとき、不意にフィーアが口を開いた。

「シュバちゃんも一緒にどう?」

「いかない!」と玄は即答した。

「そ、そっか……そうだよね……」フィーアは肩を落とし、視線を逸らして俯いた。

 そのとき、イリスが玄の耳元にふわりと浮かび、「ねぇ、玄ちゃん」と囁いた。

「なに?」玄も小さな声で返した。

「七不思議のこと、気にならない? 一色こがねがわざわざ依頼するなんて、ただの噂だけじゃ済まない気がするよ」

「何かって、なに?」

「本当に幽霊がいる、とか?」

「いや、そんなはず……」

玄は否定しかけたが、途中で言葉を止め、考え込んだ。

(幽霊なんてこの世にいるはずがない。だけど……もし、七不思議の原因が“天使”だとしたら……フィーアとゼクスが危ない。いや、二人だけじゃない。学園の生徒や先生にまで被害が及ぶかもしれない。でも……)

 玄はイリスを一瞥した。

イリスは玄と同じ考えで、調査に同行する気満々の表情で静かに頷いた。

しばらく視線を交わしたあと、玄は小さくため息をつき、観念したように口を開いた。

「ねえ……やっぱりその調査、わたしも一緒に行っていいかしら?」

 玄の言葉を聞いた途端、フィーアの顔がパッと明るくなり、目を輝かせながら答えた。

「うん、もちろん! 一緒に行こ!」

 玄はゼクスに視線を向けた。

「ぼくも別に構わないが、一応、一色に聞いて――」

ゼクスが答え終わる前に、イリスが「いいみたいだよ」と答えた。

イリスは数秒前に一色にメッセージを送り、すぐに返信を受け取った。その内容を玄たちの目の前に投影した。そこには、『ぜひお願いします! シュバルツ様が加わってくれたら百人力です!』と書かれていた。

 こうして、玄とイリスはフィーア・ゼクスとともに、色神学園の七不思議の調査に乗り出すことになった。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想、お待ちしています。

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