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柴乃の変わらない日常①

四月二十二日、金曜日の午後八時過ぎ(日本時間)。

色神の街にある廃施設『ネイチャーラバーズ』で、コンピューターウイルス“ルシファー”は密かに成長を続けていた。自身の更なる成長のため、とあるゲームに目をつけた。そのゲームの名は『龍球オメガ』。全世界で大ヒットしている対戦アクションゲームだ。

この日、フランスでは『龍球オメガ』の最強プレイヤーを決める大会――『世界一武術大会』が開催されていた。世界屈指のゲームプレイヤーたちが集う大会で、フランス時間の午前九時、日本時間の午後四時に始まった。

大会中にもかかわらず、ルシファーは『龍球オメガ』のゲームシステム内にコンピューターウイルスを送り込んだ。その名も――ジャシンパ。ぽっちゃりとした桃色のゆるキャラのような見た目のコンピュータ―ウイルスだった。

ジャシンパの役割は、一流プレイヤーの戦闘データを集めること。

ジャシンパは、侵入と同時に行動を開始した。


 金曜日の午前0時5分。

真っ暗な寝室で、柴乃は静かに目を覚ました。掛け布団が擦れる音すら立たないような、細心の注意を払った動きでゆっくりと上体を起こした。掛け布団からそっと足を抜いて横を向き、ベッドからゆっくり足を下ろす。そして静かに立ち上がった。

暗闇の中、柴乃はそっとパジャマを脱ぎ、翠が用意してくれた紫色のジャージに静かに腕を通した。このときも、音を出さないようにゆっくりと着替えた。

着替えを終えると、柴乃は一歩ずつ慎重に歩き始めた。つま先からついて、ゆっくりと踵を下ろし、床に足裏が完全についてから次の一歩を出す。抜き足差し足で少しずつ前に進み、寝室のドアをそっと開けた。

寝室を出たあとも、暗い家の中を抜き足差し足で歩き続け、イリスに気づかれないようにリビングまで辿り着いた。そこでホッと一息ついたその瞬間、リビングの電気が突然パッとついた。

「くっ、目が!」柴乃は目を眩ませ、両手で覆った。

 しばらくして、視界が徐々に戻ると、宙に浮くイリスが目に入った。

「柴乃様、随分お早い起床ですね」とイリスは淡々と言った。

「わ、我は……じゃなくて、わ、わたしは柴乃じゃない、です……翠だ、です!」

「そうですか。では、翠様。こんな時間に何をされているのですか?」

「そ、それは……」柴乃は目を泳がせた。そのとき、キッチンの冷蔵庫が視界に入った。「み、水を飲みに来たんだ……です。喉が渇いていたから!」

「そうですか。では、わたしが用意しますので、翠様はソファに座ってお待ちください」

「う、うむ」

柴乃はイリスの言うことに従い、ソファに腰を下ろした。

イリスはキッチンへ向かい、水の準備を始めた。少しして、イリスが二つのマグカップを乗せたトレーを運んできた。

「お待たせしました」

「イリスも飲むのか?」と柴乃は問いかけた。

「はい、せっかくなので」とイリスは笑顔で答え、トレーをテーブルに置いた。

マグカップの中身は、それぞれグレープジュースと緑茶だった。

イリスは緑茶入りのマグカップを柴乃の前にそっと差し出し、グレープジュースのマグカップを自分の前に置いた。

「ん? 逆じゃないか?」と柴乃はすかさず尋ねた。

「いえ、これで合ってます。翠様は緑茶がお好きなので……」とイリスは即答した。

「なっ!?」

「どうされましたか、翠様? 喉が渇いていたのではありませんか?」とイリスがわざとらしく促した。

柴乃は困惑した表情を浮かべながら、緑茶をじっと見つめた。

 イリスは、グレープジュースのマグカップを手に取り、香りを嗅ぐふりをしながら、柴乃に見せつけるようにして飲もうとはしなかった。チラチラと柴乃の反応をうかがい、追い打ちをかけていた。その見せつけは、柴乃に大ダメージを与えていた。

咄嗟についた嘘のせいで、大好きなグレープジュースが目の前にあるのに飲めず、柴乃は悶々としていた。イリスの精神攻撃はしばらく続いた。

柴乃は目を逸らしたり、小声でブツブツと呪文を唱えたりして気を紛らわせようとしたが、ついに我慢できずに観念した。

「クックック、さすがイリスだ。我の演技を見破るとは……そう、我は翠ではない。混沌とした世界を平和に導く、最強の――」

「柴乃様、わたしに嘘をつきましたね」イリスは柴乃の台詞を遮り、冷静な口調で言った。

「えっ!? い、いや、あれは嘘などではない――」

柴乃は目を泳がせた。次の瞬間、ピカっと閃き、口を開いた。

「そ、そうだ! イリスが、我らを判別できるかどうか、抜き打ちでテストしていたのだ!」

「テスト、ですか……」イリスは疑念の目を向けたまま呟いた。「結果はどうでした?」

「うむ、合格だ!」

「そうですか。ありがとうございます」イリスは丁寧に一礼した。「ホッとしたら、喉が渇きました」と安心したように呟き、マグカップにストローを挿した。

柴乃が「あっ!」と声を出した瞬間、イリスはグレープジュースを一口飲んだ。そのままグレープジュースを一気に飲み干したイリスは、最後に一言。

「これは、わたしに嘘をついた代償です」

「くぅっ……!」

柴乃は肩を落とし、悔しそうに目元を拭った。結局、緑茶を飲むことになったが、涙を浮かべながら飲む緑茶は、なぜかやけに美味しく感じられた。同時に、敗北の味も感じた。

 二人がそれぞれ飲み終えると、イリスがふと思いついたように話題を変えた。

「柴乃様、今からゲームをなさるつもりですね?」

「えっ!? あっ、そ、そうだな……」柴乃は言葉を詰まらせながら答えた。

「翠様は三十分前に寝たばかりなので、もう少し睡眠を取った方が……」

「我は起きたばかりだ!」

「心は元気でも、身体の疲れが溜まっているはずです」

「体も絶好調だ! 問題ない!」

柴乃はその場で軽快にステップを踏みながら、シャドーボクシングで元気さをアピールした。

イリスは目を光らせ、柴乃の全身を上から下へスキャンして健康状態を確認した。

「たしかに、現在の健康状態に異常は見られません。しかし、睡眠を怠ると、後々健康に支障をきたす可能性があります」と淡々と説明した。

「むー!」

柴乃は頬をふくらませ、幼子どものように全身で不満を表した。

「イリスよ、またしても我にゲームをさせないつもりだな。その手には乗らんぞ!」

「いえ、そういうつもりはまったくありません。わたしは柴乃様の健康を案じて――」

「なら、我にゲームをさせるのだ! 我はゲームをすればするほど健康になる!」

「そんな屁理屈が通じるとお思いですか?」

「屁理屈も理屈のうちだ! 我は絶対に譲らんぞ!」と柴乃は意地を張った。

「だいたいイリスはいつもそうだ! ゲームはダメ、漫画もダメ、アニメもダメ……全部ダメ、ダメ、ダメばかりではないか! それでは何もできなくなる!」

柴乃はイリスの反応をうかがいながらさらに続けた。

「――前から思っていたが、イリスは我にだけ妙に厳しくないか……? はっ! まさか、我がか弱いのをいいことに、嫌がらせをしているのか!? イリスって、そんな嫌な性格だったのか……!?」

 そのとき、イリスのこめかみに怒りマークが浮かび、堪忍袋の緒がプツンと切れる音がした。

「わかりました。では、勝負をしましょう、柴乃様……」とイリスは落ち着いた態度で言った。だが、その声には怒りが滲み出ていた。

(よし、きた!) 

柴乃は心の中でガッツポーズを決めた。

「勝負……?」とわざとらしく首を傾げた。

「はい……わたしとゲームで勝負をして、柴乃様が勝ったら、お好きになさって構いません」

「ふむふむ……」

「ただし、わたしが勝ったら、今日は一日ゲームを控えていただきます」

「……いいだろう……その勝負、乗った!」

「交渉成立ですね」

(クックック……まんまと我の作戦にかかったな、イリスよ。超AIといえど、挑発すればすぐに熱くなる……クフフ、ちょろい!)

柴乃は心の中でイリスを手玉に取ったと思っていた。

「さて、今回はどのゲームで勝負する?」と柴乃は挑発するように問いかけた。

「柴乃様がお決めになってください」とイリスは冷静に答えた。

「わかった」

 ふっ、作戦通りだ。イリスは勝負になると、必ず相手に選ばせる癖がある。超スペックAIだからこそ、自分が絶対に勝てると油断しているのだ。クフフ、昔の我ならまだしも、今の我はそう簡単にはいかんぞ!

「どれにしようかな~」

柴乃は空中投影したホログラム画面をタップしながら、数あるゲームの中から選び始めた。レースゲーム、シューティングゲーム、スポーツゲーム、格闘ゲーム、ボードゲームなど様々な対戦ゲームが並んでいた。やがて、その中の一つに柴乃は目を留めた。

「よし、これに決めた!」

 柴乃が選んだのは、『龍球オメガ』。世界中で愛される大人気の対戦アクションゲームだ。

このゲームは、原作漫画が世界的に大ヒットし、その後のアニメ化でも大成功を収め、ゲームとしても世界的な人気を誇る、まさにレジェンド的な存在だ。

遊び方は至ってシンプル。殴る、蹴る、エネルギー弾を放つなどして、相手を先に倒せば勝利だ。スピード感あふれる戦いと、原作でおなじみの技を自分の手で繰り出せる点が、このゲームの最大の魅力だ。まるで自分が作品のキャラクターになったかのような没入感を味わえる。技を決めたときの爽快感は格別で、多くのプレイヤーに愛されている。

このゲームで勝つための秘訣は、『気』を巧みにコントロールすることと、技のカスタマイズにある。大技ばかりカスタマイズすると、『気』の消費が激しくなり、隙が生まれやすくなる。逆に小技ばかりだと、攻撃力が足りない。如何にバランスよくカスタマイズし、それらを上手く使いこなすかが重要だ。

柴乃はこのゲームを散々やり込んでおり、ほぼすべての技を熟知している。先週久しぶりにイリスと対戦したときには、一方的にやられてしまったが、今は感覚を取り戻し、負ける気などまったくなかった。さらにこの一週間、『アルカンシエル』で何度もイメージトレーニングを繰り返したため、準備は万全だった。

柴乃はリビングの隣にある和室へ向かい、布団を敷いてその上に横たわった。イヤホン型の量子デバイスを耳に装着した。

イリスは柴乃の顔の横にある小さな椅子にそっと腰を下ろした。

二人は目を瞑り、「コネクト・オン」と声を揃えた。次の瞬間、柴乃の脳とイヤホン型量子デバイスが量子で繋がり、柴乃は瞬時にネット世界へ飛び込んだ。

二人は、たくさんのゲームソフトが並ぶ白い空間に現れた。そこで、『龍球オメガ』のパッケージに触れると、ゲームの中へと吸い込まれるように姿を消した。

ゲームのロビーに到着したが、二人以外に誰の姿もない。今回は二人だけのプライベートな戦いのため、周囲には非公開に設定していた。

柴乃のプレイヤーネームは『グレープ』、イリスはそのまま『イリス』だった。

柴乃のアバターは、左目に眼帯をしたドラゴンの着ぐるみを身に纏う少女。直接殴る感触が苦手なので、着ぐるみでその不快感を和らげていた。

イリスのアバターは、ほぼ変わらないままだが、等身が柴乃と同じくらいに大きくなっている。

二人はロビー到着後、すぐに対戦前のカスタマイズを始めた。

イリスは即決して余裕な様子で待っていた。

一方、柴乃は一つひとつ慎重に技を選んだ。相手がイリスである以上、油断は禁物。技の特徴を確認しながら、使う場面を想定し、上手くいきそうなイメージが浮かんだときに、それを選択した。合理的に技を選んでいるように見えるが、実際には柴乃の好みが大きく反映されていた。その結果、柴乃が選んだ技は以下の通りだ。

必殺技一は両手から強力なエネルギー波を放つ技で、必殺技二は連続で強力なエネルギー弾を放つ技。特殊技一が瞬間移動、特殊技二が強力な光で相手の目を眩ませる技。さらに、もしものときのために、切り札も用意した。

アバターカスタマイズの次は、バトルステージの選択だ。こバトルステージは、荒野、武術大会会場、他惑星、地獄などバリエーション豊富だ。

イリスから選択権を与えられた柴乃は、地球の岩場を選択した。

こうして、対戦の準備が整った。

二人はロビー端にあるドアを開けて中に入ると、一瞬でバトルステージの岩場にワープした。本物のように乾いた空気が漂い、ゴツゴツとした岩山がいくつも隆起していた。

柴乃は軽く跳び、前方にある岩山の上に軽やかに着地した。

続いてイリスも数歩進んでから軽く跳び、柴乃の奥の岩山の上に着地した。柴乃の立っている岩山よりもさらに高い位置だった。

二人は向かい合った。イリスは腕を組んで見下ろし、柴乃は見上げた。

冷たい風が吹き、二人の髪を横に揺らしていた。

「イリスよ! 今日こそ汝に勝って、我のほうが上だと証明してみせる!」と柴乃は宣言した。

「柴乃様が超AIのわたしに勝てると、本気で思っているのですか?」とイリスは挑発的に問いかけた。

「人間でも必死に努力すれば、超AIにだって勝てることがあるかもよ?」

「ウフフ、面白い冗談ですね。では、努力だけではどうやっても越えられない壁を、お見せしましょう」

 イリスがゆっくり構えると、柴乃も同じく構えを取った。

 静寂が訪れ、柴乃たちの周辺に緊張が漂う。

二人がお互い相手の出方を探り合っていると、岩山から一欠片の岩がパキッと割れた。その欠片が地面に落ちて砕け散った瞬間、柴乃が動いた。

 柴乃は足に力を込め、勢いよく足場を蹴り、一気にイリスのもとへ飛び込んだ。その衝撃で、柴乃が立っていた岩山は粉々に崩れ落ちた。

柴乃は拳を握り、肘を引き、イリスの顔めがけて右拳を突き出した。

 

数分後……。

柴乃は地面に大の字で倒れていた。目の前の宙に『LOSE』という大きな文字が浮かんでいる。

 イリスは柴乃のそばに立って見下ろしていた。

「クッソーッ! 負けた! あとちょっとだったのに!」柴乃は寝転んだまま拳を地面に叩きつけた。

「どこがあとちょっとなのでしょうか? わたしの体力は、まだ八割も残っていますよ……」とイリスが淡々と現実を突きつけた。

「久しぶりだから、身体が鈍っていただけだ!」

「先週も戦った覚えがありますが……?」

柴乃は一瞬言葉を詰まらせたが、勢いよく上体を起こし、「もう一回だ!」と言った。

「何度やっても、結果は変わりませんよ」

「いや、今ので感覚は完全に戻った。次は必ず勝てる!」

イリスは深いため息をつき、「……わかりました」とやむなく受け入れた。

 そして、二回戦目が行われた。

 数分後……。

柴乃は地面に大の字で倒れていた。目の前の宙に『LOSE』という大きな文字が浮かんでいる。

 イリスは柴乃のそばに立って見下ろしていた。

 結果はほとんど同じだったが、一つだけ違いがあった。イリスの残り体力が、八割から七割に減っていたのだ。

「クッソー! また負けた!」と柴乃は悔しそうに言った。

「この光景を見るのは何度目でしょうか?」とイリスは呆れたようにため息をついた。

「これでおわかりになられましたか? 柴乃様では、わたしには絶対に勝てないということが……」

柴乃はイリスの言葉を聞き終わる前に素早く立ち上がり、「もう一回だ!」と遮った。

「はぁ~」イリスは深いため息をついた。

 その後も二人は対戦を繰り返し、柴乃は負け続けた。だが、再戦のたびにイリスの残り体力は徐々に減っていった。連続で数十回対戦し、柴乃が完全に感覚を取り戻すと、イリスの残り体力を一割まで減らせるようになっていた。柴乃は、まるでイリスに鍛えられているようだった。

しかし、それ以上の進展は見られなかった。柴乃が完全に感覚を取り戻しても、イリスには勝てなかった。超AIに勝つのはそう簡単ではないということだ。

二十戦目を越えた頃から、柴乃の動きが次第に鈍っていった。連続して対戦したため、明らかに疲れが溜まっていた。疲労が限界に達し、二人は一度ログアウトして現実世界に戻った。

柴乃はキッチンで水を飲み、しばらくソファで何もせずに休んだあと、再びログインしようとした。

「柴乃様、まだ勝負をするおつもりですか?」とイリスは尋ねた。

「当たり前だ、勝つまでやる!」と柴乃は答えた。

「散々負けているのに、よく諦めないでいられますね」

「こんなの、へっちゃらだ!」

「そうですか……」イリスは小さく微笑んだが、すぐに真剣な顔つきに戻った。「柴乃様……一つ、ご提案があるのですが……」

「ん? なんだ?」

「……本日午後四時から、フランスで『龍球オメガ』の“世界一武術大会”が開催されます。これに出場しませんか?」

「はっ!?」

「わたしとばかり戦っていても、これ以上の成長は見込めません。更なる高みを目指すのであれば、以前のように、世界中のいろんな猛者たちと戦う必要があります」

「そうかもしれないが、これは我の個人的な戦いだぞ。それに、いきなり世界大会なんて無理じゃないか? 今の我では……」

「柴乃様なら大丈夫です。以前の感覚を完全に取り戻したので、十分優勝を狙えます」

柴乃は腕を組んでしばらく考え込んだ。

「……そこまで言うなら、出てやってもいい」と答えたが、すぐに思い直したように言った。「……でも、いいのか? オンラインゲームはしばらく禁止のはずだろ?」

「大丈夫です。このゲームは久しぶりですし、プレイヤーネームも違いますから、見つかる心配はありません」

「そうか……わかった」柴乃は頷きながら、「……でも、急にエントリーなんてできるのか?」と疑問を口にした。

「もう、済ませてあります」

「なっ!?」

 イリスは、柴乃の目の前に大会エントリーのデータを映し出した。そこには、『グレープ』の名でエントリーが済まされていた。柴乃が知らないうちに、イリスが勝手にエントリーしていたのだった。

「この大会で優勝できたら、オンラインゲームも解禁しましょう」とイリスが言った。

「なぬ!? 本当か!?」柴乃は身を乗り出す勢いで言った。

「はい、お約束します」

「よし!」柴乃は俄然やる気になった。

 こうして、柴乃は急遽『龍球オメガ』の世界大会、『世界一武術大会』に出場することとなった。

「では、特訓を再開しましょう。今度は、さっきよりずっと厳しくします」

「上等だ!」と柴乃は気合いを込めて返した。

二人は再びゲームの世界へと飛び込み、特訓を開始した。


 日本時間の午後三時、二人は『龍球オメガ』にログインし、ロビーへ転移した。

ロビー内は、多くのプレイヤーで溢れかえり、賑やかな喧騒に包まれていた。『怪獣狩り』のときとはまったく違う雰囲気で、様々なアバターのプレイヤーがいる。人間はもちろん、獣人、悪魔、怪獣、宇宙人など派手な見た目のプレイヤーも多かった。談笑する者、精神統一に集中する者、ギリギリまでカスタマイズに熱中する者など、多種多様なプレイヤーたちが集まっていた。

世界一武術大会は、プロ・アマ問わずエントリーすることができるが、誰でもいいというわけではない。ある程度の実力や実績が必要だ。たとえば、国ごとに行われている大会で優勝経験がある、数ある大会でベスト8になるなどだ。

世界一武術大会にエントリーできるかどうかは、運営がプレイヤーを評価し、判断している。

柴乃は、半年ほど前まで『龍球オメガ』の大会に何度も出場し、優勝経験もあるため、運営によってすぐにエントリーが許可されたのだった。

ゲーム界隈ではそこそこ有名で、“グレープドラゴン”の異名で知られていた。柴乃はこの異名を密かに気に入っていた。

大会の規模により優勝賞金は様々だが、今回行われる世界一武術大会の優勝賞金は、日本円で約1億円。二位には1000万円、三位には500万円、四位には200万円、五位には100万円の賞金が与えられる。

たまに、出場者の中には、勝つために手段を選ばないプレイヤーもいる。だが、そんなプレイヤーは途中で必ず負ける。それが世の常なのだろう。

この世界大会は人間のみ参加可能だが、AIプレイヤーが、データ分析などでプレイヤーに協力することは許されている。試合前の時間に対戦相手を徹底的に分析してから臨むプレイヤーも多い。

柴乃とイリスは、特訓のときと同じアバターとカスタマイズで参加した。

柴乃がロビー内を歩いていると、近くにいたプレイヤーが気づき、「おい、あれって『グレープドラゴン』じゃないか?」と声を上げた。その声を皮切りに、周りにいた他プレイヤーも次々と柴乃の存在に気づき始めた。

 柴乃はしばしの優越感に浸った。だが、周りのプレイヤーたちのヒソヒソ声が聞こえると、優越感が違和感に変わった。

「まだ生きてたのか!」

「病気、治ったのか?」

「また偽物なんじゃないのか?」

彼らは勝手な憶測を呟いていた。

イリスに事情を尋ねると、柴乃はようやく彼らの発言の意味を知った。

柴乃がしばらく『龍球オメガ』を離れている間に、彼女に関する様々な憶測がプレイヤーたちの間で飛び交っていたらしい。重い病気を患った、鬱になった、死んだ、戦いに張り合いを感じなくなって飽きた、など散々な言われようだったようだ。

さらに、柴乃が不在の間に『グレープ』の名を語る偽物が何人も現れたらしい。全員があまりに弱かったため、すぐに正体が露見したという。

当の本人である柴乃は、今までこれらの憶測や偽物のことなどまったく知らなかった。イリスが知らせるまでもないと判断したようだ。

柴乃が『龍球オメガ』を離れた理由は、単純に飽き始めたこと、少し有名になりすぎてプレイ時間を減らそうと考えたこと、そして別のゲームに夢中になったことだ。

知らぬ間に広まった噂が事実とはかけ離れていたことに、柴乃は改めて情報の正確さの大切さを思い知った。

予選の試合開始時間は日本時間の午後四時、現地フランスでは午前九時。現時刻はまだ午後三時を過ぎたばかりだ。

受付は試合開始の一時間前、午後三時に締め切られた。それから運営がランダムに対戦表を決める。

今大会の参加者は延べ五千人。世界中から実力者たちが集結しており、その規模は圧倒的だった。

柴乃は試合開始時間まで、対戦表が決定していく様子を眺めながら、静かに時間を過ごしていた。ロビー端の階段に腰を下ろし、正面の大画面に目をやると、突然目の前に大きな壁が現れた。

顔を上げると、身長三メートルを超える大きな人型アバターが厳つい顔で立っていた。突然現れた「壁」の正体は、筋骨隆々の体にスキンヘッドという、見るからに強そうなプレイヤーだった。

柴乃が立ち上がっても、相手の胸元に届くかどうかだった。相手を見上げながら「なんだ? 我に何か用か?」と問いかけた。

「お前が、あのグレープか?」と男は問い返した。

「人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗るのが――」

「フン、おれはラッキーだぜ。こんなちっぽけで弱そうなやつが、最初の相手なんてな」

男は柴乃の言葉を遮り、余裕な態度で言った。

「ほう、汝が我が初戦の相手か?」

柴乃は改めて相手の全身を見回した。

「ふむ、なかなか強そうだ。お互い全力を出して、良い試合にしよう」

柴乃は手を差し出したが、男は見下したまま無視した。

「お前ごときに、おれが全力を出すはずないだろ。今のうちに荷物をまとめて、帰る準備でもしておくんだな。アーッハッハッハ……!」

男は高笑いを響かせながら、地響きのような足音を立てて立ち去った。

「イリス、あいつのデータを――」

柴乃が冷静に指示を出そうとしたが、イリスは食い気味に答えた。

「調べるまでもありません」

「そうか、わかった」

柴乃はイリスの言葉を信じ、深く追及することなく納得した。

騒がしい男が去り、柴乃が腰を下ろそうとしたその瞬間、少女が現れ、「グレープちゃん!」と明るい声で言った。

柴乃が声のした方に目をやると、『龍球オメガ』で仲良くなったプレイヤーネーム『マスカット』――シャインマスカットカラーのドラゴンの着ぐるみを着た少女の姿があった。

 柴乃とマスカットは、『龍球オメガ』とブドウ好きという共通点に加え、他の趣味も似ていたため、すぐに意気投合して親しくなった。

二人は『龍球オメガ』を始めた時期が近く、互いに最初に仲良くなったプレイヤー同士だった。様々な大会に出場し、互いに応援し合ったり、戦ったりする友達兼良きライバルだ。

「マスカット!」柴乃は笑顔で返した。

 二人は手を握り合った。

「戻って来てたんだ! えっ、いつから!?」マスカットは目を輝かせて尋ねた。

「今日からだ」

「そっか……じゃあ、また一緒にゲームできるの?」

「ああ……」

「やったー!」

マスカットは自分のことのように心から喜んだ。その様子から、柴乃への深い親しみと信頼が伝わってきた。

柴乃はマスカットにだけ『龍球オメガ』の世界からしばらく離れることを伝えていた。そのため、マスカットだけがネット上で飛び交う事実無根の噂に惑わされなかった。

「あっ! もしかして、今日の大会に出場するの?」とマスカットは興奮気味に尋ねた。

「ああ」

「ほんと! やったぁ!」マスカットは手を挙げて喜びを表現した。「はっ! じゃあ、わたしたち、当たる可能性があるね!」

「どうだろうな? 我は久しぶりだから、どこまで行けるかわからんぞ」

「グレープちゃんならきっと大丈夫!」

マスカットはロビー正面の大画面に映る対戦表に目を向け、自分と柴乃の名前を探し始めた。

「あー、結構離れてるね。……当たるとしたら、本戦だ」

マスカットは柴乃に視線を戻し、手を力強く握り直した。

「グレープちゃん! 決勝で会おう!」

「ああ」柴乃も力強く握り返した。

 二人が感動の再会をしているところへ、新たな少女が現れた。

「チッ……とっくにくたばったと思っていたが、戻って来たんだな、グレープ」

 二人は声のした方に目をやった。そこには、二人のライバル兼友達『フルツ』が腕を組んで立っていた。

 彼女のアバターは戦闘服をまとった可憐な少女の姿。だが、その見た目とは裏腹に、プライドが高く、『龍球オメガ』への愛と負けたくないという執念が誰よりも強かった。トッププレイヤーの中でも、とりわけ柴乃には強い対抗心を抱いていた。

フルツは鋭い目つきで柴乃を睨んでいた。

「おお、フルツ! 久しぶりだな。元気にしてたか?」と柴乃は柔らかい笑顔で声をかけた。

「フン、馴れ馴れしくするな!」フルツは不愛想に返した。

 柴乃はフルツをじっと見据え、小さく呟いた。

「……前より強くなったようだな」

「当たり前だ! あたしはお前がいない間も修行を続けていた。前のあたしと同じだと思うなよ」

「そうか……もし、試合で当たることがあったら、いい勝負をしよう」

柴乃は手を差し出し、握手を求めた。

フルツは、柴乃が差し出した手を一瞥し、「フン、お前なんか眼中にない!」と言って拒んだ。

「それに、あたしとお前が当たることはない」と言い放ち、鋭い目つきで柴乃を睨みながら続けた。

「今のお前が本戦まで勝ち残ると、思ってないからな」

「ムッ!」

柴乃はわずかに眉間にシワを寄せ、不満げな表情を浮かべた。

「あたしは予選を突破して、本戦まで勝ち進む。そして、優勝する。それだけの実力があるからな」とフルツは宣言し、さらに続けた。

「……だが、お前はどうだ? 半年も修行をサボって勝てると思ってるのか? 『龍球オメガ』はそんなに甘くない。予選すら突破できないんじゃないか?」

「……その通りかもしれないな」柴乃は静かに頷いた。

「なっ!?」

フルツは思わず目を見開いた。柴乃があっさり認めたことが意外だったようだ。

柴乃はフルツの言葉を正論だと受け止めた。だが、それは諦めではない。むしろ、長く沈んでいた闘志が、静かに、だが確かに燃え始めていた。柴乃の燃え上がる闘志を呼び覚ますのは、一体誰になるのだろうか?

少し気まずい空気が流れた。

「フルツちゃん……グレープちゃんのこと、ちゃんと調べてるんだね!」とマスカットがからかうように微笑んだ。

「なっ!? べっ、別にこいつを調べたわけじゃない! お前のことを調べていたら、偶然目に入っただけだ!」フルツは顔を赤らめた。

「へぇ〜、そっかぁ」マスカットはニヤニヤとフルツを見つめた。

「とっ、とにかく! ダサい負け方だけはしないようにするんだな」

フルツは捨て台詞を残すと、早足でその場を立ち去った。去り際、フルツはほんの一瞬だけ口角を上げ、誰にも気づかれないような微笑みを浮かべた。

フルツを背中を見送りながら、マスカットが口を開いた。

「フルツちゃん、あんな態度だけど、グレープちゃんが戻って来てくれて、嬉しいんだと思うよ」

「そうか? 嫌われてる気がするが……」と柴乃は返した。

「それは絶対にないよ!」とマスカットは力強く否定した。「むしろ、フルツちゃんはグレープちゃんのこと、大好きなんだと思う!」

「いや、そんなわけないだろ!」

 柴乃はこれまでのフルツとのやり取りから、そう判断していた。

これまで何度も会話してきたが、そのほとんどは今と同じような険のあるやり取りだった。毎回声をかけてくるのはフルツの方だが、話し方はツンツンしていて常に敵意をむき出していた。

(この態度が好きなわけがない。嫌われているに決まってる!)

柴乃はそう確信していた。

「フルツちゃんは、ツンデレだから……」マスカットはいたずらっぽく笑って、そう断言した。

 予選開始まで残り十分を切ると、大会出場者たちはそれぞれ運営AIアバターの指示に従って行動を始めた。

 柴乃はマスカットに別れを告げ、案内に従ってロビー前の複数のドアの前へと向かった。ドアの横に立つ運営AIアバターに名前を告げると、アバターの目が光り、全身をスキャンして本人確認を行った。完了すると、アバターはオーケーサインを出した。

柴乃は深呼吸しながらドアの取っ手に手をかけた。そのとき、柴乃の横に立つイリスが「頑張ってね」と声をかけた。

「ああ!」

柴乃は胸の高鳴りと期待が入り混じった表情を浮かべながら、ドアを力強く開けた。

「――行ってくる!」

イリスに見送られながら白い光の中に足を踏み入れた。次の瞬間、一瞬で試合会場に転送された。

柴乃が転送された場所は、広大な四角い武舞台の中央だった。周りには武舞台を取り囲むように観客席が設置されている。武舞台と観客席の間には芝生があった。その会場は、原作漫画の『龍球オメガ』に登場するステージとまったく同じ作りだった。ルールも同じで、芝生や観客席に身体の一部が少しでも触れたら、場外負けになる。

一斉に行われる予選第一試合の一つなので、観客はまばらで、歓声もない。柴乃は落ち着いた気持ちで試合に臨めそうだった。

静かな会場で試合を行うのは最初の数試合だけだ。通常、試合が進む度に観客は徐々に増えていく。本戦のベスト8まで上り詰めると、一試合ずつ順番に行うようになるため、多くの観客の中で対戦することになる。

柴乃の正面には、対戦相手の巨漢の男が立っていた。

「へっ、さっさと終わらせるか」と巨漢の男は余裕の笑みを浮かべながら言った。

AI審判のアナウンスが流れ始めた。

「ただいまより、グレープ選手対ムキムッキー選手の対戦を開始します!」

 柴乃は構えた。

一方、男は構えもせず、腕を組んで堂々と胸を張っていた。

 試合開始のゴングが鳴り響いた。

 ゴングの音と同時に、柴乃は地面を力強く蹴り、風のような速さで男に迫り、鋭く拳を構えた。男が柴乃の速さに反応できていない隙に、一瞬で間合いを詰めた。

柴乃は鋭いパンチを彼の腹部に叩き込んだ。拳は男の腹に深くめり込み、鈍い衝撃音が響いた。拳を引くと、男は腹を両手で押さえ、目が飛び出しそうなほど悶え苦しんだ。

その隙に柴乃は、男の鍛え上げられた上半身に渾身の突き蹴りを叩き込み、圧倒的な勢いで吹き飛ばした。

男は観客席の壁に激突し、そのまま気を失って芝生に倒れ込んだ。

こうして、柴乃は一方的な試合展開で予選第一回戦を圧勝した。

続く予選第二回戦。

次の対戦相手は、魚人アバターのプレイヤーだった。全身は薄い青色で覆われ、頭から背中にかけて鋭いヒレが力強く伸びている。

試合開始前、柴乃は魚人の一回戦の映像を見て戦法を分析し、そのデータを頭に叩き込んでいた。しかし、魚人は一回戦とはまったく違う戦法で、柴乃の不意を突いた。

試合開始直後、魚人は大きく跳び上がり、鋭い目で武舞台を睨みつけた。彼の目が妖しく輝いた次の瞬間、武舞台全体が巨大な水の塊へと変化した。

柴乃は水中に閉じ込められ、身動きが取りづらくなった。まるで深海に閉じ込められたような水圧に包まれ、柴乃の動きは著しく鈍くなった。

一方、水中では魚人のパワーとスピードが劇的に向上し、その圧倒的な能力差で柴乃を追い詰めていった。

柴乃のスピードははるかに鈍く、パンチを放っても当たらない。魚人の攻撃を避けるだけで精一杯だった。だが、頭は冷静で、魚人の一瞬の隙を見逃さなかった。

魚人が一撃を狙って距離を取った瞬間、柴乃は冷静にその隙を見極め、額に手を添えた。

「サンフラッシュ!」

柴乃が叫ぶと同時に、水中全体が、まばゆい閃光に包まれた。

魚人は強烈な光に目を眩ませ、堪らず両手で顔を覆った。

その隙に、柴乃はバタ足で水面を目指し、一気に水の塊から抜け出した。そのまま空高く舞い上がると、水の塊を見下ろした。

柴乃は腰のあたりで両手を構え、集中力を研ぎ澄ませた。瞬く間に手のひらに眩い光のエネルギーが集まり始め、激しく震えながら形を成していった。

視界を取り戻した魚人が、警戒するように周囲を見渡す。しかしその瞬間、柴乃が「はっ!」と魚人に向かって両手を突き出し、強力なエネルギー波を放った。

気配に気づいた魚人が咄嗟に顔を上げたが、避ける暇もなくエネルギー波に貫かれた。轟音が響き渡り、水の塊は爆発的に弾け飛んだ。瞬く間に白い蒸気が辺り一面を覆い、視界を遮った。

やがて蒸気が晴れると、もとの武舞台が姿を現した。武舞台の中央で、魚人が気を失い、仰向けに倒れていた。

こうして、柴乃は予選第二回戦も困難を乗り越え、見事な勝利を収めた。

続く予選第三回戦。

相手は、蝶の幼虫アバターのプレイヤーだった。

 幼虫は尻の二本の短い脚で直立しつつ、驚くほど素早く動いた。肩から腹にかけて生えた七対十四本の短い手は、小刻みに指を動かしていた。

「あの手は厄介だな。一度捕まれば、逃げるのは難しい……」

試合前、柴乃は冷静にそう分析していた。その考えに、イリスも頷いて同意した。

三回戦開始のゴングが鳴り響くと同時に、幼虫は武舞台を強く蹴って突撃し、全身で柴乃に包み込むように掴みかかった。

柴乃は素早く後方へ跳び、間一髪で攻撃を躱した。だが、それが裏目に出た。

跳んだ直後、幼虫の最上部の二本の手が鋭く伸び、柴乃の両足を「ガシッ」と掴んだ。そのまま武舞台に激しく叩きつけ、幼虫は伸びていた手を素早くもとの長さに戻し、一四本の手で柴乃の全身をガッシリと掴んだ。柴乃が最も警戒していた最悪の状況が、現実のものとなってしまった。

柴乃は力ずくで抜け出そうと試みるが、ビクともしなかった。

苦戦する中、幼虫はすべての手を駆使し、まさかの「くすぐり攻撃」を仕掛けてきた。

柴乃は堪らず「アハハハ……」と笑い声を上げた。

「さあ、どうする? このままでは、笑い死ぬぞ!」と幼虫は言った。

「アハハハ……」

「降参するなら今のうちだ」

「アハハハ……こ、降参なんて……ハハ……、するはず、ないだろ! アハハハ……」

「フン、ならこのまま笑い死ね。くすぐりでも少しずつ体力を削ることができる。お前が負けるのは時間の問題だ!」

 幼虫の言う通り、くすぐりは基本的にダメージを与えない。だが、長時間続けば微弱ながら体力を削っていく。しかしそれは、あまりにも微々たるダメージなので、プレイヤーたちは誰も使わない。

幼虫は、あえて誰も使わないこの奇策を用い、柴乃を見事に出し抜いて、有利な状況を作り出した。さすがトッププレイヤーまで上り詰めると、様々な戦略を考えるようだ。一度きりの奇策でも、勝てばそれが正解となる。

しばらくの間、柴乃は幼虫のくすぐり攻撃から抜け出せず、ついに体力が微かに、しかし確実に減り始めた。このまま状況が変わらなければ、AI審判が試合を止めに入る。一応世界大会なので、運営は地味な戦いが長時間続かないように気を配っている。観客を退屈させないためだ。そうなると、体力の差で柴乃が負けになる。その前に何とかしなければならなかった。

柴乃は必死に考えを巡らせ、ついに一筋の妙案を閃いた。そして、迷わずその作戦に打って出た。くすぐり攻撃を受けていた柴乃は、笑いを我慢して気を溜め始めた。

「はぁぁぁぁ!」と力を込めると、柴乃の身体を包み込むように紫色のオーラが溢れ出し、それは次第に膨張して武舞台全体を揺るがすほどの勢いで広がっていった。

幼虫は柴乃の思惑に気づいた瞬間、くすぐりの手を速めた。

柴乃は一瞬笑いかけたが、ギリギリ堪え、気を溜め続けた。両手を強く握りしめ、最高潮まで気を高めると、オーラが一気に爆発した。その衝撃で幼虫を吹き飛ばし、柴乃はようやく解放された。

 柴乃は両手を膝につき、「はあ、はあ……」とゆっくり呼吸を整えた。「ふぅー」と深く息をつき、鋭い眼差しで幼虫を見据えた。

 幼虫は武舞台に倒れていたが、すぐに跳び起き、再び構えを整えて柴乃を睨みつけた。

 静寂が訪れ、緊張感が武舞台全体を包み込む。柴乃の頬を伝った一滴の汗が、顎先から地面へと落ちる。その瞬間、柴乃が閃光のようなスピードで突撃した。同時に、幼虫も鋭い動きで応じた。

二人は目にも留まらぬ速さで武舞台上を駆け巡り、激しく拳をぶつけ合う。拳と拳の衝突音が重く響き、その振動が観客席の床を微かに震わせた。衝撃波が武舞台の端から端へと広がり、観客たちの緊張をさらに煽った。

柴乃は、幼虫の十四の拳をすべて巧みに捌いていた。

激闘は凄まじいスピードで約三十秒続き、最後には「ドンッ!」という轟音が場内に響き渡った。それは、幼虫が観客席の壁に激突する音だった。衝撃で崩れ落ちた幼虫は、そのまま芝生に沈黙した。

次の瞬間、審判が声を上げた。

「勝者は、グレープ選手!」

 こうして、柴乃は無事に予選三回戦も突破した。

その後も柴乃は順調に勝ち進み、見事本戦まで残ることができたのだった。

マスカットとフルツも、当然のように予選を突破し、本戦まで残っていた。

本戦に突破したベスト8のプレイヤーは、グレープ(柴乃)、マスカット、フルツ、アップル、オレンジ、パイン、メロン、ゴールデンキウイの八人。その名は、すでに多くの観客たちに知られるトッププレイヤーたちだった。

グレープ、マスカット、フルツ、ゴールデンキウイの四人は“カジツ人”の少女――『龍球オメガ』に登場する、地球人に似た外見を持つ異星人だ。アップルは尻尾の生えた異星人、オレンジは端正な顔立ちの異星人、パインはロボット、メロンは緑色の異星人だった。

八人のうち七人は、様々な大会で活躍する常連だった。ただ一人、ゴールデンキウイだけは謎に包まれていた。エントリーシートによれば、今大会が初参加だという。にもかかわらず本戦進出を果たしたその実力は計り知れない。もしかすると、この中で最も警戒すべき相手かもしれない。


日本時間の午後七時三十分、勝ち残ったプレイヤー八人は、運営AIに呼び出されて特別室に集まった。ほとんどが顔なじみであるため、部屋の中は意外と和やかな雰囲気だった。

柴乃と久しぶりに再会して喜ぶプレイヤーが多い中、フルツだけは部屋の隅っこで腕を組み、気難しい表情を浮かべていた。慣れ合うつもりも気を緩めるつもりも一切ないようだった。

柴乃はフルツに気づくと静かに歩み寄り、声をかけた。

「本戦まで残ったぞ、フルツ」と真っ直ぐな目でフルツを見つめた。

フルツは鋭い目つきで柴乃を見返した。数秒間、視線がぶつかり合ったあと、彼女はふいと背を向けた。

「フン……運だけはいいようだな」

ぶっきらぼうな口調の奥に、かすかに和らいだ色が混じっていた。

運営AIが口を開いた。

「お待たせしました。只今から、決勝トーナメントの抽選を行います」

 その場にいる全員の視線が運営AIに集まった。

今から特別室で抽選を行い、トーナメントの組み合わせを決めていく。その様子は、会場にも映し出され、多くの観客が見ていた。

柴乃たちは運営AIアバターの指示に従い、一人ずつ前に出て、箱の中から抽選ボールを取り出した。ボールには1~8の数字が記されており、その数字で試合の順番と相手が決まる。

最初に引き抜いた柴乃のボールには『1』と書かれていた。つまり、第一試合ということだ。その後、他のプレイヤーたちが順にクジを引き、全員が引き終わると、トーナメント表が八人と観客席の前に映し出された。

第一試合はグレープ対アップル。第二試合はマスカット対メロン。第三試合はフルツ対オレンジ、第四試合はゴールデンキウイ対パイン。この組み合わせに、観客たちは歓声とどよめきを上げた。

抽選が終わると、八人のプレイヤーは自分の試合時間まで自由に過ごせる。仲間や友達と過ごしてもいいし、一人静かな場所で精神統一をしてもいいし、待合室でライバルたちと談笑してもいい。

第一試合を控えた柴乃は、会場から近い待合室に移動し、イリスとともにアップルの予選映像を慎重に分析していた。画面越しに見えるアップルの動きは、半年前に戦ったときとは明らかに異なり、確実に進化していた。

「ここからは、ほんの一瞬の隙も命取りだな……」と柴乃は呟き、自らを奮い立たせるように静かに拳を握りしめた。

第一試合開始三分前、スピーカーから「グレープ選手とアップル選手は、武舞台にお越しください」というアナウンスが響き渡った。

柴乃は勢いよく立ち上がり、「よし、行くか!」と気合を入れた。

「いってらっしゃい!」イリスの声には、期待と信頼が込められていた。

待合室を出るとき、マスカットが「頑張ってね。グレープちゃん!」と声をかけた。

「ああ!」と柴乃は応じ、待合室を出た。

 武舞台に一歩足を踏み出すと、予選のときとは次元の違う熱気が会場を包み込んでいた。観客席は隙間なく埋まり、作品やゲーム、そしてプレイヤーたちを応援する歓声が、渦を巻くように会場を包み込んでいた。指笛や太鼓の音も加わり、熱狂の渦はさらに膨れ上がっていく。柴乃とアップルが武舞台に姿を現すと、さらに大きな歓声に包まれた。

 そんな中、柴乃は集中力を切らさずに武舞台に上がった。アップルも同様、落ち着いた様子だった。

 柴乃とアップルは、武舞台の中心までゆっくりと歩き、そして向かい合った。

 柴乃の心臓はドクン、ドクンと激しく鼓動し、胸の奥で何かが「パチパチ」と弾けるような感覚を覚えた。その感覚を楽しむように、柴乃は左手を胸にそっと当て、ニヤリと笑みを浮かべた。

 クフフ……我が心臓、喜びの拍動か。いい兆候だ。これなら、全力を出せる!

 柴乃は高鳴る鼓動を決して抑えようとしない。むしろ、それを歓迎していた。緊張で心拍数が上がっているのではなく、ワクワクしているからだと解釈し、その鼓動を力に変えていた。

「ホッホッホ、こうしてまたあなたと戦えるなんて、嬉しいですよ、グレープさん」と、アップルが余裕たっぷりの笑みを浮かべながら言った。

「我もだ」と、柴乃は低く、静かな声で応じた。その目には冷静な闘志が宿っていた。

「予選を見たところ、腕はなまっていないようですね」

「ああ……」

「手加減はしませんよ。最初から全力で行きます」

「我もそのつもりだ!」

 試合開始まで残り十秒。場外の運営AIアバターが「ドン・ドン・ドン!」と大太鼓を力強く叩き始める。その重低音が会場中に響き渡り、緊張感がピークに達する。

 柴乃とアップルは、音に呼応するように静かに構えた。互いに一瞬の隙も見逃さない鋭い視線を交わし、場の空気がさらに張り詰める。

 カウントダウンが『0』になった瞬間、AI審判が「はじめ!」と叫びながら、ゴングを叩いた。

「ゴーン!」という大きなゴングの音が波紋のように会場全体を揺らした瞬間、柴乃は地面を強く蹴り、閃光のようなスピードでアップルに向かって突撃した。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしています。

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